色眼鏡2012年09月07日

 大昔から、フィクションや娯楽が人間の精神に与える影響について(主に堕落という側面から)ああだこうだとやかましく言われている訳で、今に始まったことではありません。それでも、何かの形でその話題をしばしば見るのは、やはりあの非実在なんちゃらの件が尾を引いているのでしょうか。

 この話題については何回か、色々なところで長文も短文も書きましたけど、対立する層の隔絶があまりに絶望的で、双方が互いに対して理解がなさすぎて、鏡像に生卵を投げ続ける有り様になっていますから、何だか自分が何を書いても無意味だなぁという気分になります。
 それでもたまに思い出したように書くのは、単純に、自分の考えをまとめようという圧力なのですが。


「ポルノや猟奇殺人ものを観賞する人間が、実際に犯罪を起こす訳ではない」
という主張や、心理学上の実験結果は繰り返し立ち現れますし、まぁ実際そうなのだろうとも思います。
 それでも最近、私はこの手の発言に微妙に懐疑的になってきました。
 というよりも、むしろこの主張は正しい、だからこそその正しさの陰で皆が都合よく忘れ去っている何かがあるような気がする、という感覚でしょうか。

 ポルノや大量殺人の物語を読んだ人が、それに影響されて連続暴行や殺人に走ったのだとしたら、むしろ扱いやすくて楽だったと思うのです。そういう物語の扱いに気をつければいいだけの話なのですから。
 かつてベトナム戦争時のアメリカ軍が発砲率を上げるために、兵士に大量の殺人映像を見せ、キャベツをくりぬいて中にトマトソースを詰めたものを頭にした人形を撃ち抜くゲームを競わせることで、「人間を殺す」ことへの抵抗値を大幅に下げることに成功したのは、そこそこ有名なエピソードのようです。
(副作用として、帰還兵の中に日常生活に適応できない者が無視できない比率で現れた訳ですが)
 これなどは「フィクション」が現実の人間の精神にちゃんと影響を与えられる証左であって、そして同時にわかりやすい方法でもあります。

 ところが大抵の場合、人間の精神というのは、Aを入れたらAになるというような、素直で単純な応答をしません。
 調べものなどで、ある一定の傾向を持つコンテンツに大量に接した後、しばらくの間その特有の「癖」が、微妙に思考に覆いかぶさるのがわかります。
 それはまるで色のついたレンズのようです。青いフィルター越しに見る紫が違う色になり、そして青が見えなくなるように、思考はしばらくの間、普段と違う軸になります。
 けれど別に、モノの形が変わる訳でも、視力が落ちる訳でもありません。そんなわかりやすい変化ではありません。
 その体験を鑑みると、長い間、あるいはそれが繰り返されれば、思考の位相が微妙な形でずれていくのは、自然な現象に思えます。
 人間の精神というのは、Aを入れたらA'どころか、Bになるような厄介な形で、「影響」を受けるのではないか。そして誰も、その影響を自覚すらできないのではないか。

 恐らく、ポルノや猟奇殺人小説を消費した者が、犯罪を犯すようなことはないでしょう。そんな単純な、子供みたいにわかりやすい因果関係は、それこそ「物語」の中でしか起こらないでしょう。
 そうではなく、そういう物語の影響は、見えないところで静かにその人を浸していくでしょう。別に悪い影響とは限りません。ストレスが発散されるようないい影響だって十分ありえます。けれど、「何も起こらない」ことだけは、ないような気がします。

 結局のところ、できることは、その視界にかかる色ガラスに自覚的になることしかないのかも知れません。
 そして何事にも、作用があれば反作用があるように、「良い影響」「悪い影響」だけが単独で起こることはありえないのだと、自覚し自律して受容していくしか、方法はないのだと思います。

スライムはどんな目でこっちを見ていたのか2012年06月05日

 私は自分が活字中毒者なので、活字というものの効用に対して皮肉っぽく考える傾向がある。
 本というものが様々な恩恵をもたらし、読書という体験がかけがえのないものになりうることを認めるにはやぶさかではないけれど、それが人間性を高める唯一あるいは最善の方法だと思ったことは一度もない。

 読書、あるいは文章を読むという行為が意識のある部分を鍛えてくれる一方で、逆にある種の能力をスポイルするという面は確実に存在する。
 奇異に聞こえるかも知れないけれど、読書というのは、想像力をはぐくむというより、むしろカットしていく側面があるのだ。

 読書は想像力を豊かにする、文字から様々なものをイメージする訓練になるとよく言うけれど、あれはずいぶん理想論というか、最大効用のみを都合よく引っ張ってきている話だと思う。
 言葉から状況や表情を想像する、というのは、読書によって自動的に生まれる力ではない。実際には、言葉というのはとても説明的で、想像力を介在させる必要がないくらい、楽な伝達手段だ。
「うれしそうな顔をした」「複雑な表情をした」といった言語表現の、何と曖昧で簡単なことか。「うれしそうな顔」とはどんな顔なのか。「複雑な表情」とはどんな表情なのか。実際にこれを視覚化できる人は、読書好きの中に果たしてどれくらいいるだろうか。
 言葉は抽象的な概念を扱うのに都合のいい道具なので、具体的な想像というものを適当に迂回させることができる。それは、細かい枝葉にとらわれる罠を回避してくれるけれど、同時に人を、「理解したつもりにさせる」という心地よい別の罠に引っ張っていく。

 実際には、本をよく読む人ほど、他人の表情を感受していなかったり、声のニュアンスを聞き落としていたりする。
 絵画や彫刻のような視覚的芸術で、どう感受したものか途方に暮れている人が、タイトルや解説という「文字」を見た途端に、急に安堵してあれこれ解釈を始めるのも、よくあることだ。あるいは、映画の映像的表現を全部すっとばして、「○○が描けていない」などとしたり顔でこき下ろす人とか。

 言葉は本当に簡単だ。逆に人間の説明されていない表情や映像から、感情や心、真実、徴候、言語化しにくい何かを捉えることができる「読書で想像力を鍛えた人」は、どれくらいいるだろう。
 私は時々、「読書によって想像力が育まれた人」というよりも、「読書"にも関わらず"想像力が育まれた人」という表現の方が正しいのではないかと思うことすらある。
 ドラクエシリーズのあの「スライムは仲間にしてほしそうな目でこっちを見ている」という名台詞に笑いが生まれるのは、言葉というもののスポイル性を上手にすくいとって、ある種の皮肉にまでしてしまったからと思う。

 本を読む力というのは、打ち出の小槌ではなく、つまらない基礎的な能力のひとつに過ぎない。それはあるベクトルの理解力を、一定程度、保証してくれる。それ以上でもそれ以下でもない。
 本をたくさん読める人が、他人の心を理解できるとか、想像力が豊かだとか、高い倫理観を持つとか、人間性が優れるなんてことは一切ない。足が速い人や視力が2.0ある人が人間性に優れる訳でもないのと同じように、そういうひとつの「能力」に過ぎない。

 恐らく、本に過剰な期待をする人というのは、むしろ読書をあまりしない人――あるいは、本を読んでもそれこそ「想像力が育まれていない人」なのではないかと思う。
 たぶん、人は自分が本当には理解していない活動を、過大に評価しがちなのだ。子供に読書をさせれば人間性が高まる、といった話は、私には、子供を東大に入学させれば人生安泰、といったレベルの話にしか聞こえないのである。

滑稽2012年05月02日

 NHKの、英語のプレゼンテーションを紹介する番組か何かで、面白いものがあるよと奨められて観たのですが、残念ながら私にはあまり面白くないものでして。
 その内容は、アメリカの芸術家というか、パフォーマーの活動についてで、その人は公共の場で「面白いこと」をやって、その反応を隠しカメラで撮影した動画をYouTubeなどにアップロードして、人が笑いを共有する場面を作ろうという活動をなさっているそうです。
 紹介されていた動画は、「ニューヨークの地下鉄で、さもうっかり忘れてきたという風で、ズボンを履かずに下がパンツ姿の男性が何人も乗ってきて、最後はズボンを履いてない売り子からズボンを買う」というものでした。たまたま乗り合わせていた無関係の女性が見せる反応が動画のメインな訳ですが。
 プレゼンテーションされた会場は大爆笑だったのですが、私は、、もし自分がその場に居合わせたらと想像すると、全く笑えませんでした。もし私があの女性だったら、ただの露出狂、痴漢と思うのではなかろうか。だって下はパンツしか履いてない男性が、地下鉄のシートに座っている自分の周りをこれ見よがしにうろうろするんですよ……。怖いですよ……。いつパンツを下ろして何か始めるかわからないじゃないですか……。
 実際、ズボンどころかパンツも履かない露出狂に遭遇したこともあるので、仕込みがわかってる動画だと知っていても、笑うどころか恐怖しか感じなかったです。隠しカメラも、意図がわかっていても、嫌がらせの道具にしか見えなくなってくるという。

 しかし、もしこれが、普通の公共の場での活動ではなく、純粋に誰かが劇場でやってるコントだとしたら、そこそこ笑ったのではないかと思うのです。だって、普通に考えたら滑稽な光景ですものね。
 コントは絶対に現実とは切り離されていて、少なくとも今のところ私が観るであろう種類のコントにおいては、ズボンを履き忘れて電車に乗る人は、本当にズボンを履き忘れて電車に乗る滑稽な人以外のものではなく、他人に危害を加えることはないという強力な暗黙の了解が働いています。
 その上でなら、滑稽な光景は、純粋に滑稽な光景でありそれ以上でも以下でもなく、私は普通にそれを笑うことができます。

 もしかしたら、現実の悲惨な状況であっても、それを笑ってしまえば、恐怖も嫌がらせすらも力を失う、ということもあるのかも知れません。笑いは心の余裕であり、精神の優位性の証明でもあります。
 けれどやっぱり私には、それはできそうにありません。
 私にとって現実は、常に、自分が想像するよりはるかに残酷で悪意に満ちています。
(逆に、自分が想像するよりも常に、美しく素晴らしいものだともわかっていますけれど)
 私がズボンを履き忘れて電車に乗ってくる「現実の男性」を笑えないのは、その行為を悪意と人間の尊厳への攻撃として用いる人が、想像の次元ではなく現実に当たり前に存在しているものだからです。しかもその悪意自体は、特別な異常なものではなく、「普通の人」と自称している人の中にそれこそ普通に存在する悪意であったりします。
 私には、それを動かすことができません。その絶望感が、私を笑いから遠ざけるのだと思います。

 こうして考えてみると、私は現実の社会や人間存在に対する、普通の人ならば持っている安心感を、あまり持ってないのかも知れません。
 逆に考えれば、そういう無根拠な安心感がないので、異常と言われる犯罪や、許しがたい事故と言われるものが起こっても、「それは普通に存在するもの」と思っているので、特別非難する気にもならないのですけど。
 でもズボンを履き忘れた男性を、本当にズボンを履き忘れた滑稽な男性、とだけ思える人間だったら、色々なことが、もっと楽にやり過ごせるのかなぁ……と思ったりもします。

批判輪廻2012年04月27日

 少し前から、ソーシャルゲームについて、ガチャを始めとする課金システムなどに対して、色々と批判が出てきているようです。批判自体は、あってかまわないですし、また一定あるべきでしょう。
 私が感じるのは、その批判に対する既視感です。
 何だか最近のネットをはじめ色々なところで出される言説に、既視感ばっかり覚えている気がしますけれど。これが年を取ったということなのでしょうね、きっと。

 つまり、ソーシャルゲームを批判する言説というのを聞いていると、その大半は、過去に「テレビゲームはよくない」「ネットゲームはよくない」と言っていた言説の繰り返しなのです。
 人の心の弱いところに漬け込んで中毒化する、歯止めが効かないようなシステムになっていて心を壊す、たくさんのリソース(金銭、時間)を無駄にさせる、そして何より、「コンテンツとしてつまらない、何が面白いのかわからない」。
 面白いのは、こういうことを言っている人々の多くが、はなからゲーム全体を否定する立場の人ではなく、結構な頻度で「昔ゲームをやっていた、あるいは今もゲームをやっている」と認める人であることです。

 かつて、テレビゲームもネットゲームも、いえテーブルトークRPGすらも、さんざん否定され非難され批判されました。
 ところが、今そんなゲームを遊んだ層の一部が、率先して、ソーシャルゲームを否定します。

「 このような、暇つぶしで遊んでいる主婦や子どもなどの姿から見えてくるのは、「刺激慣れしていない」ユーザー属性である。
 筆者らの周りの家庭用ゲーム業界関係者は異口同音に「ソーシャルゲームは儲かるのは分かるが、正直何がおもしろいのか分からない」と言う。筆者も同感で、遊んだ5つのソーシャルゲームのどれも2日以上続かなかった。」
――「親のカードで400万円使った子ども、ヘソクリ全額150万円をつぎ込んだ主婦……過消費する“フツー”の人々――ソーシャルゲームの何が問題か【中編】」

 で、まぁ、こういう時に私が思い出すのは、江川紹子がNHKのテレビ番組で、テーブルトークRPGのサークルに押しかけて、色々暴言を吐いた光景です。
 昔あったネットゲームへの批判でも、「試しに私はネットゲームをプレイしてみたが、殺戮の連続で何が面白いのか全くわからなかった……こんな繰り返しが人の心を……」みたいな話に繋がって、これはツッコミ待ちなんだろうかと思ったものですが。
「観察しよう」とか「正体を見極めよう」とか、そういう気分でゲームをプレイしはじめたら、大抵のゲームは実につまらないものです。「何が面白いのかわからない」という人の大抵は、面白くプレイしようと思っていないのでまぁ当たり前です。
 そしてまた、人は自分になじんだ、自分が過去に面白いと思ったもののインデックスから「面白さの基準」を作り出すので、コンシューマゲームの関係者という、コンシューマゲームに最適化された「面白さの基準」を持つ人がソーシャルゲームの面白さに反応できないというのは、実に自然な気がします。

 そしてさらに彼らは、自分たちが過去に非難された言説を、そのまま自分が繰り返していることには、あまり自覚的ではないようです。自覚していても、「過去に非難され乗り越えた自分たちだからこそ、今の問題がわかる」というスタンスにすり替わってしまいます。
 過去にゲーム脳騒ぎが花盛りの時、こういう騒ぎは必ず時代の移り変わりに伴って起こることだから、きっと未来にゲームが認められれば、今度はゲームを遊んだ人たちがその時代の若者を「我々はゲームで鍛えられたが、今の若者にはそれがないから軟弱だ」としたり顔で言うようになるのだなぁと、私も思いましたし、そう発言していた識者もいたように記憶しています。
 なので、本当にそんな発言を見た時にはちょっと笑ってしまいました。

「それは、家庭用ゲームの刺激がすでに免疫としてできていることも大きいだろうし、また、ソーシャルゲームユーザーが好むとされる、「他人より強い自分」を確認したいという欲が全くないこともある。 」
引用元は前述と同じ

 でたでた、自分はテレビゲームで鍛えられたからソーシャルゲームなんてものには釣られないよ、という発言。

 ちなみに私個人の経験と考えを言えば、ソーシャルゲームは結構面白いものもありますし、全然面白くないものもありました。露骨にお金を使わせようとするゲームはつまらなかったですし、お金を使わなくても楽しく遊べるタイトルもありました。要するに、「色々」でしかなかったです。「ソーシャルゲームはつまらない(面白い)」というほどひとくくりではありませんでした。
 たぶん、ひとくくりに「つまらない」「面白い」という人は、そもそもあまり(ソーシャルゲームに限らず)その対象を理解できてないのではないでしょうか。
 ソーシャルゲームを結構よく遊んでいた人が、「お金をかけて数値ばっかり上げても、ただ便利に使われるだけのプレイヤーもいるし、お金なんて全然かけなくても、立ち回りがうまくてみんなに信頼される名プレイヤーもいる。結局人だよ」と言っていました。
 レアカードが高額で取引されることもある、トレーディングカードゲームに詳しい友人も、「うまくなるほど、資金力が勝敗に関わる割合は下がる。むしろその人とゲームしたいと思われる魅力ある人物であることが大事、プレイ経験をたくさん積んでうまくなれるから」と語っていたことがあります。
 たぶんソーシャルゲームでも、「金さえかければ強くなれる」というのは、思い込みか幻想なのです。


 で、まぁ、色々考えると。
 実際ネットゲームで「廃人」と呼ばれるような、社会生活に適応できなくなるほどハマる人は、極く少数ですがいました。引きこもってテレビゲームにハマる人も、極く少数ですがいました。猟奇的なフィクションを過剰に消費して、そのせいかどうかはさておき犯罪を起こした人も過去にはいました。
 そしてパチンコが出るよりはるか昔から、それこそ何百年の昔から、ひょっとしたら何千年も前から、賭博で身を持ち崩して破滅する人は、極く少数どころではなく、たくさんたくさんいました。
 それらのジャンルの多くは、社会の中でうさんくさいものとして扱われつつ、しかし社会の多くの人が実際には「健全に」関わってきました。適度に消費するたくさんのサイレントマイノリティと、過剰に依存して身を滅ぼすマイノリティと、そこにスター性を発揮して「英雄」になっていくもっともっと少ないマイノリティとが、常に存在しました。
 そう考えてみた時、さて、ソーシャルゲームはどうだろう。果たしてどれほどの「身を滅ぼすマイノリティ」がいるのだろう。
 その割合は、過去の娯楽と比べて、特別に多いだろうか。少ないだろうか。
 ソーシャルゲームの課金率は、最近の調査では17.1%だということですが。そのうち、生活に支障をきたすほど課金をしてしまうひとは、さてどれくらいなのでしょうか。実際の人数は何人なのでしょうか。

 引用した記事にも出てきたような、月に150万も使ってしまって、目が覚めて「ゲームは二度としない」と誓った誰かさんは、ゲームに関係なく社会には常に一定数いたし、たぶんこれから出るでしょう。
「ソーシャルゲームがなければ彼らはそんなことにはならなかった」というのは全くその通りです。でも「家庭用ゲーム機がなければそんなことにはならなかった」人も過去には一定数いたし、「競馬ばなければそんなことにはならなかった」人もいました。「○○がなければ」の○○は、しょせん常に移り変わるもので、特定の何かがその時にいわば「憑依」されているに過ぎない、という見方もできるでしょう。

 ソーシャルゲームの、射幸心をあおるやり方を批判するのは重要でしょうし、生活が壊れないように警告を出すのも重要です。
 けれど、どんな娯楽にも必ず身を持ち崩す人はいるし、その一番煮詰まってしまった層だけを大々的にとりあげてわーわー言うのは、宮崎勤のみで全てのオタクを非難するようなやり方と大差ないように見えてなりません。そして不思議なのは、過去にそういう扱われ方をして、ひどい目にあった立場の人たちが、今それを他の人に、全く無自覚にやっているということです。


 こうして見てみると、冷静さや過去の経験というものが、果たして自分の客観性というものをどれほど保証してくれるのだろうと、ちょっと悲しい気分になったりもします。
 他のこと全てには、理性的に客観的に冷静に判断ができる人も、ある特定の事柄については、それを共感できない人には首をかしげるしかないような状態に陥るということは、よくあることです。
 なので、テレビゲームは人の心を壊したりしないと叫んでいたその同じ人が、ソーシャルゲームは最低だ人の心を壊すと、論法も論拠も似たり寄ったりの状態で叫ぶということは、何もおかしくはないのでしょう。むしろ、近しいからこそ憎しみも強いのかも知れません。


 ではお前はソーシャルゲームの問題を認めないのか、擁護するのか。と問われれば、別にそれはソーシャルゲームに限った話では全然ないので、「何かに依存し耽溺する人」は社会に一定数必ず存在するという事実を認めたうえで、そういう人をどうやったら救済し、社会でリカバーしていけるのかということを考えるのみだと思います。
 そうではなく、テレビゲームはみないいゲームで、ソーシャルゲームは邪悪なゲームだ、というのなら、ずいぶんばかばかしい言説だな、としか思えません。

 とはいえ、私がそう気付いたのは、友達の誘いでソーシャルゲームを始めてみた時、ずいぶんと斜に構えている自分に気付いた時でした。つまり私もそういうひとりだったのです。今でも私は、正直に言えば、ソーシャルゲームのどのタイトルよりもFF11やFF14を遊んでる時の方が楽しいです。
 けれど、ソーシャルゲームが「つまらない」かと言われれば、そうでもないと思います。トランプのソリティアを遊ぶように、こういうのをこつこつやりたい時もあるのです。ソリティアは課金されないかも知れませんが、時間という有限かつ取り返しのない資源を浪費する訳で、さてソーシャルゲームの課金よりも害が少ないのか、私には判断はできないのでした。

2012年04月23日

 ネットにはAmazonをはじめとしてレビューサイトが花盛りというか、ありすぎるほどある訳だけれど、たまにレビューを読んでいると違和感というか、「星の付け方」に対する感覚が、どうも自分と今の主流とではずいぶん離れているんだろうかと思うことがあります。

 よく「???」になるのが、満点が星5つのルールで、星3つや4つをつけていて、「いいゲームだと思いますが○○という理由で星をマイナス1しました」といった発言がついていたりするパターン。
 それからAmazonの中古市場での出品者評価などが典型ですが、ほぼ全ての出品者評価が星5つかたまに4つで、「普通に取引をして問題がなければ星5つ」というパターン。
 何にそんなに首をひねるのかと問われそうですが、要するに「星5つがデフォルトで、そこから欠点として引いていく」という採点の方法論を感じて、不思議になるのです。

 私にとっては、星5つとはまず滅多につけない、自分でこれまで読んだ本は何千冊か数えていませんか、そのうちに星5つをつけられる本はどんなに多く見積もってもせいぜい数十、百は絶対越えないだろうというくらいです。だってそれ以上の評価はないのですから。
 星5つ(最高)という評価は、「過不足なくまとまったひとつの作品の完成」ではなく、自分にとって魂の一部となる――というと大げさですが、まぁそれくらいの威力を持つものにしかつけられない、というのが私の感覚です。
 で、そういう作品においては、「○○さえなければ満点なのに」といったある種わかりやすい算数のような点数配分は意味を成さないことすらあります。

 そもそも、星を引く、という感覚が私にはあまりなじみがないのかも知れません。
 私の星の付け方を言語化するならば、まずその作品が存在している、書かれて作品として完成して今私の目の前に存在しているのならその事実に対してまず星1つ。そこから始まります。どんなものであれ、ひとつの作品を完成させることはものすごい労力と才能の結晶であり、その事実がすでに私を敬服させるのです。
 そこから始まって星を足していって、大抵のものは星3つに落ち着きます。星4つをつけるのは、自分の好みを越えてこれはすごいと感じられるものがある作品で、「これがマイナス材料なので星は5つじゃなくて4つだな」という付け方がどうも馴染みません。

 加算法か減点法かなど、大した違いではないという考え方もあるのですけれど、ここには結構なスタンスの差と、「作品」というものに対する感覚の違いが現れるような気がします。
 減点していくレビューの方法論では、「面白い作品であれば星5つ」であるように見受けられます。変な表現ですが「普通に面白ければ星5つ」な訳です。私のやり方では星5つなどまず滅多に出ないので、意外にも減点法の方が全体的な星は多くなる傾向があるのではないでしょうか。
 けれど、普通に面白ければ星5つ、気になる欠点がある分だけ星を引いていく、という基準を採るということは、それはつまり、「最高が普通で当たり前、あとは減点されていくだけ」でもある訳です。

 普通に生活して当たり前にお金を払えば、まず間違いなく自分が満足できる品質とサービスを備えたものが手に入る。というのが、現代日本ですが、これは結構特異な環境ではないかと思います。
「普通にいいものがあって当たり前」「最高が普通、欠点がある分だけマイナス」というのは、すごいことではありますが、色々なものをスポイルもします。
 普通にがんばれば最高の評価というのは、すごく甘い評価のように見えて、とても優れたものを評価できないものであり、そして逆に「最高で当たり前、最高でないものを提供できないのは悪」という感覚でもあるのです。

 けれど、普通の値段で誰もが最高のものを得られるというのは、システムがよほど狂っているか、誰かがひどい目にあってるか、どこかに嘘があるかです。
 最高とは、そのものの平均値でも「普通」でも決してなく、多くの努力とコストと、そしていくばくかの縁と運がなければ巡り合えないものです。それは差別とか格差ではなく、「最高」が限られておりまた何を以て最高と見なすのかが人によって異なってくる以上、ほとんど法則に近いものですらあります。
 「普通にいいもの」に最高の星をつけるというのは、普通を高く評価するという側面よりも、最高を低く評価し、作り手に機械のように最高のものを生み出し続けろ、さもなくば滅べと暗示する側面の方が強い……というのはまぁ、考えすぎでしょうか。考えすぎなのでしょうね、たぶん。

 まぁもっとも、昔からこういう「評価インフレ」というのは存在するもので、日本に限らず欧米の古書業界などでも書籍の状態を示す表現は一番したがFineで、だんだんと表現がインフレしていきます。「状態良好(Fine)」は、要は状態ランクの一番下、ぶっちゃけ最低限読めますよということで、「FineはFineではない」というのが稀覯書業界で最初に学ぶお約束です。
 なので、私の星を加算していく方法論の方が世界の中ではむしろ異端で、「最高が普通、最高が当たり前」という考え方の方がそれこそ「普通」なのかも知れません。
 そして食べログなどを見ていると大抵のお店は星3つという平均値に収まるようなので、みんなのそういう「普通」のやり方で、おおむね問題なく正しい評価は下せているのでしょうね。

 という訳で、私は評価を混乱させないよう、滅多にレビューサイトに書き込んだり星をつけたりはしません。批評家とかレビュアーには、根本的に向いてない人なのでしょうね、きっと。

背負本2012年04月19日

 去年から部屋の片づけをずっとやっていて、本もだいぶ減らしました。なので、妙に読書家という誤解を受ける私ですが、今の手持ちの本の量は少ない方だと思います。電子化した分は、まだ1000冊を越えてない……かな。
 本の電子化は、私が本というものに抱いていた幻想というか、必要以上のセンチメンタルバリューを打ち砕くのによい役割を果たしてくれたと思います。
 いつも読みたい本が手元にない、と思ってしまう飢餓感が常にあるので、必要以上に本を買ってしまって積ん読本棚に積んでしまうという癖があって、そのくせ時間がある時には「もったいない」などと感じて読まないという繰り返しでしたが、電子化してみると自分にとっての本の必要性というのがシビアに見えてくる気がします。

 本の物理的実体にはそれなりの意味があって、本の背表紙や表紙が目の前にあると、本を開かなくても内容がすらすらと思い出せるのに、背表紙が見えなくなるとそれがなくなり、ロボトミーをしたように内容が思い出せなくなるという人の話を読んだことがあります。
 そこまではいかなくても、私も最近は書店に行くとひどく「うるさい」と感じるようになり(もちろん音の問題ではなく、本の物理的実体から自分が感じる精神的なものです)、書店に行く回数がめっきり減りました。
 情報というのは、理論的には媒体には影響されないはずですが、実際には物理的な実体から受ける影響は確かにあるというのが感覚的な事実で、モノとしての本に代替のない重きを置く人が多いのもむべなるかなと思います。

 ただ逆に言えば、その物理的な実体によって、その本の持つ情報や価値が、いわば「嵩上げ」されていることもあるのかも知れないと、最近は考えるようになりました。
 本を電子化してみると、その本を自分がどれくらい必要としていたのかが、よくわかります。読み返す本は電子化すると頻繁に読むようになりますし、たまにだけ必要になるけれど必要性が確かにあるという種類の本もその時にちゃんと思い出します。

 そして、人間が物理的に扱える本の量には、確かに限度があります。
 本好きな人は、本棚にぎっしり二段重ねに本を置いて、なおかつタワーのように積み重ねたりしていくものですが、それらのうち、確かに扱いこなせる量というのは、恐らくその十分の一にも満たないでしょう。せいぜい、一面の壁を埋めるくらいの量が限度ではないでしょうか。それ以上の本は、結局のところ「コレクション」か、「インテリア」以上のものではないだろうと思います。

 背負い水という、人間が一生に使える水の量は決まっていて人はそれを背負って生まれてくる、という表現がありますが、同じように背負い本というのもあって、ひとが一生の間に確かに有意義な意味を掴み取れる本の量というのは、決まっていてしかも人によってそれほど差がないのかも知れません。
 私にも、人生でこれしか読めないとしても悔いはないというほどに大切な本が何冊かありますが、逆に言えばそれは、もう背負い本の大半をすでに消費しきっていて、あとは私にとっては、限定的な意味かもしくは日々を過ごす娯楽と言うこともできそうです。


 もしも人が、一生に有意義な意味を持てる本の量に限りがあるとしたら、お金の続く限り消費者に買い続けてもらうという大量生産大量消費システムは、本という存在にはあまりふさわしくないという気がします。
 けれど少なくとも日本の出版という業界は、その道を選び、その道の行き着く先まで走ろうとしている訳で、その先に楽しいことがあるようには私にはあまり思えないのですが、けれどそれは余計なおせっかいというものでしょうから、せめてそのシステムが私の邪魔だけはしないでくれるといいなぁと思います。
 まぁ本の電子化そのものが、出版業界には嫌われているようなので、私の先行きはそれこそあまり明るくないのですけれど。

満足と安全保障感2012年03月01日

 人には自己実現欲求と承認欲求があるのだと言われる、この後者の、「承認欲求」という感覚が私にはよくわからない。
 と言うのも、「欲求」というのは充足されて満足感に至るものだけれど、私にとって承認とは、満足とはあまり(もしかしたら全然)関係のないものだからだ。
 それではあなたには承認欲求(と呼ばれるもの)が全然ないのですかと尋ねられそうだが、さすがにそういう訳ではない。そうではなく、それは私にとって「欲求」ではない、ということである。
 H.S.サリヴァンは人間の追求するものを、欲求が満たされる「満足」と、安全に庇護されている感覚が脅かされる恐怖をなるべく遠ざけようとする「安全保障感」に分類した。イギリスの哲学者ウォーコップの提唱した、「生命行動」と「死回避行動」とほぼ重なる概念だとも指摘されている。
 この分類に重ねてみると、私にとって承認とは、全くと言っていいほど、「安全保障感追求行動」「死回避行動」であろうと思う。なので、そこに欲求も、満足もない。

 私はしばしば、生きるために、死なないために書いていると表現し、それは言葉としては死回避行動のように見えるけれど、基本的には「満足の追求」であり「生命行動」である。書くことが生きること。書くことが生きる理由。それは他者の評価も、存在さえも、究極的にはあまり関係がない。あくまで究極的には、だけれど。
 しかし逆に、私にとって「人に評価してもらうために文章を書く」行為は、安全保障感の追求が多くを占める。もちろん書くこと自体に楽しみや喜びはあるから、全てがそれに占められることはないけれど、安全保障感のウェイトは徐々に重くなっていく。

 それは、呼吸という行動が、新鮮な空気を意識的に胸いっぱい深呼吸する時と、意識すらされないで自律神経にせかされるまま浅く繰り返される時とで、全然違うものになりうるのと似ている。

 私が、およそ誰も見ていないような、滅多にコメントもつかないようなブログや日記を断続的に書き、発表する予定は全くない物語を書き続けていられるのは、それ自体が生命の活動であって、結果は二の次でしかないからだ。ひどい文章、失敗としか言えない無惨な結果でも、私は書く。と言うよりも、そういう時に書いているものにおいて、失敗は存在しないのだ。私は常に何かを得ている。ただ己一人の幸福感であっても。
 ただ、それは全然承認とは関係がない。私が生きている理由は、私一人にしか関係がない。人間が社会によって生きる生物であり、社会に承認された、社会に必要とされることによってのみ生きられる存在なのだとするなら、私が承認されることとは無関係の活動をしている限り、私には生きていてよい理由は存在しないということになる。
 それでは素直に、死回避行動によって、安全保障の追求を目的として、文章を書けばよいではないかという指摘は当然あるだろう。承認を得るために書くべきであると。だがそれは短時間しか続かないことはわかっている。充足が次の行動のエネルギーとなる生命行動と違って、死回避行動の動機付けはそれ自体がエネルギーを生み出さないにも関わらず「充足」がないために終わりがない。それはインプットのない永遠のアウトプットを要求する。いわば血管を切って吹き出た血によって書く文字のようなものだ。短期間ならできる。だが他のところから輸血がない限り継続はできない。そして恐らく、そもそも他者が期待するほどのアウトプットはそもそも生まれない。

 満足を得るために安全保障感を放棄するか、安全保障感を保持するために満足を棚上げするか。たぶん、過去の私の心的世界でその二者択一を迫られた(と少なくとも自分では感じた)瞬間があって、私は前者を選択した。それによって丸裸で放り投げ出された、私の安全保障感は、行き場を失い途方に暮れて、しばしば私に死のイメージを見せるのだろう。
 いずれ何かの幸運があって、この選択をし直す、むしろもっと違う選択肢が揃った選択をすることができる瞬間が来るのかも知れない。来ないのかも知れない。少なくとも、私は今のところ、淡々と自分が死ぬ場面を見ながら、それはそれとして日々、神様と自分以外誰も読まない文章を書き続けるのである。

予言2012年02月08日

 ポスト3.11という表現がすっかり一般化して、全てがあの日から変わってしまった、という言説があちこちで囁かれるようになりました。
 震災以降、ネットには原発や地震に関する情報が、それもどちらかといえばあまりよくない「情報」や「知識」が、出回るようになったと人々は言い、それを嘆き、うんざりした顔で吐き捨てています。

 私は、ずっと、あの日から何かが大きく変わったという感情を持てないでいて、むしろ既視感を抱いていて、日本が全く変わってしまったとか、そういう気持ちは全然ありませんでした。それは、私自身に直接あの災害は大きな被害をもたらさなかったという側面も、ないではありません。けれどそれよりも、私にあるのは強い既視感です。
 その感覚の由来は、中学高校時代の心象風景です。
 あの頃の私は、色々な書き物をしながら、学校でてんやわんやの非日常的な日常を繰り広げていたのですけれど、定期的に取り組んでいたテーマのひとつが、環境問題でした。何度かこのブログでも書きましたけれど、それは学校の文化祭での、図書委員の研究発表として取り組んでいたもので、今の大人の視点で精査するならば脇の甘い代物ではありました。ただ、あの時目の当たりにした様々なものが、私の心の根っこに深く刻まれているのだと、実感します。

 当時からすでに、原子力発電の危険性も問題も指摘されていて、実際ある年の研究発表はまるまる原子力発電の危険性に関するものでした。その他にも、オゾン層も、温暖化現象も、酸性雨も、森林の伐採も、食品添加物のカクテルも、先進国による途上国の自然資源の収奪も、食料生産の狂った構造も、その時に私は調べ、知り、どうするべきなのか、自分は何をするべきなのかという問いと向き合いました。
 ひとりでやった研究発表ではなかったので、同じテーマに取り組んだ同級生や先輩後輩がおり、その中での皆の反応も色々でした。

 ヒステリックな悪者を見つけろという悲鳴も、利益至上主義の臭気に嘔吐するのも、自分の欲望を嫌悪し絶望するのも、どうせ何をしても変わらないと諦観するのも、そして「環境保護という偽善」に留まることに耐えきれなくなって「環境問題なんて存在しない」とせせら笑うことも。
 全て、私は我が事として経験し、また他人からの声として浴びせられもしました。
 あの頃に、今人々が「ポスト3.11」と言う現象の全てはすでにありました。その頃環境保護運動に多少でも関わり、どうすれば少しでもこの悪循環をなくせるのかとあがいていた人は、皆、知っているはずです。
 企業が全部悪いと叫ぶ声も、○○がなくなれば経済が成り立たなくなるから日本はおしまいだという「現実主義」も、それは今突然に地震によって露になった感情などではありません。何十年も前にすでにありありと、はっきりと目に見えていました。ただ、見なかった人も見ないで済んだ人も見ずに避けた人も、たくさんいただけのことで。
 何とあの頃から、結局日本は何一つ進歩していなかったのかと、時々私はめまいを覚えます。既視感も無理はありません。「このままでは危ない」というのはすでにあの頃から私にあった実感でした。皆は何故今になって、こんなに怖がっているのだろうと思うことすらあります。ダモクレスの剣を吊るす縄は、とっくの昔に亀裂が入って裂け始めていたのに。

 環境保護運動の偽善性やファナティックな部分に反発する人も、当時からたくさんいて、私は当時からその手の質問を浴びせられました。私には、「環境保護運動に反論する人」も、同程度に偽善的でファナティックだとすでにわかっていましたが、それ言っても何にもならないことも、さすがに学びました。
 私は結局、「嫌ならば何もしなければいいよ。あるいは自分で対案を出すか、自分が応援できる活動をしている団体なりを見つければいいだけだと思うよ。世界にはいろんな環境保護団体があるんだから」とだけ答えることに落ち着いたような気がします。
 もっとも「対案を出す」人は滅多にいませんでしたし、自分で他の環境保護団体の活動を調査してみる人に至っては皆無でした。そういうものなのでしょう。自分の経験を飛び出して積極的にアンテナを広げ、自分で調べて答えを自分で探すのは、面倒を通り越して苦痛なものです。時間も体力も使う上に、その結果に自分で責任を負わなければならないのですから。
 出てくるのは「人類の悪行」、どう言い訳しても自分自身が犯しているとありありとわかってしまっている悪行です。それに耐えるのは嫌なものです。自分の見聞きする範囲で触れられる、他人の調査や経験を、外から否定して終わりにする方が、ずっと効率的な「正解」です。
 人は自分の経験の範囲内なら、自分の見たいものを見ることができるので、「偽善的で非科学的でヒステリックな環境論者」を無意識に選択して「バカ」の箱にまるめて捨てて終わりにすることさえできます。

 あの頃の、そういうもろもろの体験と感情に、耐え切った人もいれば、そうでなかった人もいます。
 その後環境保護運動に関わるようになった人もいれば、特に関わらないにせよ人格的な安定を得て人間的に成長した人もおり、冷笑と批判に陥った人もいます。おまえ自身はどうなのかと問われそうですが、私には本当のところはわかりません。そもそも自分で下す人間的な成長の評価など、そんなにあてになるものではないでしょう。
 ただ、私自身が袋小路に入り込んだと実感した時はありました。それは、正解を求めた時、「この人の言うことなら大丈夫」という人を求めた時、様々な意味での「醜さ」に――自分の醜さにも、そして他人の醜さにも――耐えることを拒否した時、でした。
 あまりにも多くのことを期待しすぎたからなのかも知れません。その時にはささやかな期待に思えたのですけれど。私のささやかな願いとは、納得できること、方向性が見えること(それもすぐに!)、そして裏切られたり不愉快な気分にならないことでした。けれどその先には、他人を冷笑するか、自分の信じたいことを信じてお茶を濁すか、その二つしかゴールはありませんでした。そのどちらも、私にとっては全然安住できるところではなかったのです。

 答えのない問いを一生抱え続けること、偽善だと罵られること、立派な先生も活動家も失敗し道を誤るかも知れないこと、そういったこと全てを引き受けて、「自分が何をするのか」を常に自己監視しつつも淡々と選択し続けるしか、結局はないのだと。
 安心は永遠に得られないのだと。
 安心の代わりに、信頼を、自分の内にも、そして好きでもない他人にも、「見つけていく」――見つからなければ歯を食いしばってでも「探していく」しかないのだと。
 私自身が、少なくない年月をかけてたどりついたのは、そういう心象風景でした。楽しい場所とは言えません。他人を勧誘できる楽園でもありません。でもそこにしか、自分を許せる場所はないのだと思い知りました。


 ポスト3.11は、私にとっては新しいことはほとんどありませんでした。どちらかといえばそれは、古い地層の思考を改めて呼び起こしたということなのでしょう。この既視感は、結局そういうことです。
 恐らく今もたくさんの人が、ヒステリックな反ナントカ運動にうんざりし、そしてそれを冷笑する態度にもまた失望しているのでしょう。
 私はそうやって悩む彼らに、心安らぐことを何一つ言えません。
 私の予言は陰鬱に響くはずです。それは続きます。正解は見つからないし、あなたが安心して心を任せられる人は現れません。あなたは偽善にまみれるし、何かをすれば腐った卵が四方八方から降り注ぐし、何もしなければ自己嫌悪に苛まれます。手足を縛られたまま水に放り込まれて泳ぎ続けるような状態が、ずっとずっと続きます。
 でも、そういうものを全部呑み込んだ上で、空を仰ぎ見た時にしか見えないものがあります。
 私が地球はきれいだなと思い、人間も何か意味があってここにいるのだなと思ったのは、そういう先にたどりついた場所でのことでした。だからたぶん、今苦しんでいるたくさんの人も、そういうものが見える時が来ると思います。と言うとひどく宗教的でスピリチュアルで胡散臭いでしょうから、別に信じなくても嘲笑っていただいてもかまいませんけれど。
 ただ、その苦しみには、意味はあるのだと、と私は思います。安心や正解に、逃げないでいる限りは。

書店2012年02月06日

 数年前から、私は本屋に行ってもあまり楽しめない状態が続いていて、それは最近になって日に日に増すばかりになっていました。
 本自体に対する欲求や要望も、昔とはだいぶ違っているという側面はもちろんあるにせよ、それだけでは説明できない状態です。端的に言って、私は本屋にいるのが苦痛になってきたのです。そこに立っていると、目に入ってくる何もかもが苦痛で、うんざりで、嫌になってくるのです。なので私はこのところ、書店に行っても足を運ぶのは料理の本のコーナーとかのごく一部になっています。
 先日、買うつもりだった新刊の書籍を、たまにはネット通販ではなく書店で買おうと思って、某大手書店に行きました。
 その本の置き場の関係で、本当に久しぶりに、新刊コーナーや文芸書やコミックや思想書といった、近ごろ敬遠している売り場を見たのですが、目が回ってくるような苦痛は相変わらずでした。

 たとえば不快感は、「今話題の○○を集めたコーナー」の前を通った時に、突然降ってきます。
 先回りされてる、というのが最初に浮かんだ言葉。そんなのはいいよ、必要になったら自分で探すから、いらぬおせっかいだな。反射的に私はそう思考し、そしてその内側にある不快感が、唐突につるりと皮が剥けるように、姿を現すのです。
 「意図」の存在。
 これがおすすめ、話題のこのトピックに関する本はこちら、ベストセラーはここです、メディアに出ているコミックコーナー、書店員も号泣、etc,etc…
 並んでいるのはすでに本ではなく、ものすごい勢いでだくだくと流れる、「意図」の奔流。私の読むべき本も、読んだら面白いだろう本も、そして読み終わったら感じるであろう感想も、すでに他人の手によって御膳立てされて、にっこりと差し出されている状況。
 そして、それらの大半が、「本心ではない」と、一消費者に過ぎない私にさえありありとわかってしまっているという状況。
 
 私にとって、本を探すところはもっとフラットであってほしい、ということなのでしょう。説明不足でさえあっていい。自分で見つけるのが楽しいのだから。というより、「自分で見つける過程」こそが読書であって、人がすでに見つけたものを再確認することに意味はないのだから。
 そういえば、Amazonのレビューコーナーさえ、私は滅多に目を通すことがありません。また、古書店やコンセプト書店のようなものも、あまり足を運ぶことがありません。書店員が心をこめて書いているであろう手書きPOPさえ、鬱陶しい代物です。放っておいてくれ、という気分になります。

 じゃあお前はレビューや書評や、誰かのおすすめを必要としないのか、と言われそうですが、そうでもありません。新聞の書評欄は大体目を通しますし、ブクログに登録もしていますし、自分でレビューのブログを書いてもいます。他人に個人的にすすめてもらった本(おおざっぱに「これ面白かった」という話ではなく、「あなたにこれを読んでほしい」と名指しされたもの、という意味です)は必ず読みます。たぶん、書店員の手書きPOPも、フリーペーパーでも置いてあってそこに書かれているものだったら、素直に面白がるような気がします。
 同じ商業主義でも、雑誌の中吊り広告の麗々しい謳い文句を見ると、ちょっとユーモラスな気分になります。つまり、ことは単純な商業主義の嫌悪というものでもありません。もう少し、私という人間の善いところにも悪いところにも関わっている、複雑な心性の問題が絡んでいるような気がします。
 とはいえ、書店というベースがもっとフラットでプレーンな状態で、そこに自分のその時の希望や状況に合わせて何かを付け加えていき、必要ない時にはすぐにきれいさっぱり取り去ることができる。もしそういう環境ならば、私は本屋にいることをもう少し楽しむのかも知れません。

 もっともこんなことを書けば、本屋の経営の苦しさを知らずに勝手なことを言うな、という反論が即座に返ってくることは、よくわかっています。
 書店は今や、のんびりとお客が足を運んでくるのを待つのではなく、江戸時代の宿場のごとく呼び込み競争をしなければ生きていけない状況にあると、少なくともそう業界は考えています。私が本を買わなくなったから出版不況になったのだ、と断言するほど私はさすがに自意識過剰にはなれません。私一人の足が遠のく代わりに、何百何千の人がたくさん新刊を買ってくれるのだから、彼らの選択した戦術は正しいはずなのです。

 とはいえ、昨日の日曜の日経新聞朝刊の書評欄に掲載されていた、評論家の東浩紀のコラムに、「棚を一瞥しポップを読んだだけで、書店員の考えや立ち位置が想像できるようになってくる。そのような状況が息苦しくて、ぼくはいつしか、あれほど好きだった書店に足を向けなくなってしまった」という一文があって、ああこんな風に感じている人が、私以外にもいるんだなぁと思ったのでした。森の中で、自分の同種の影をちらりと見たような、そんな気持ちです。

料理2012年01月22日

 今日は軽鴨の君に連れられて、久しぶりに映画に行きました。一年ぶりくらいです。
 観た映画は「エル・ブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン」。
http://www.elbulli-movie.jp/

 エル・ブリとは、サブタイトル通り世界一予約の取れないレストランとして料理業界で名を馳せる、スペインにあるレストランです。ミシュランの三つ星を維持し続けているのはもちろんのこと。このレストランはオーナーシェフであるフェラン・アドリアの前衛的・革命的な料理によって、世界中の料理に影響を与えています。最近、欧米でも柚子を取り入れた料理が一般化しているのですが、それはフェラン・アドリアが来日の際柚子に魅せられ、自身のレシピに取り入れたのが理由で、彼の功績として知られているそうです。
 まぁ料理世界における、Appleと昔日のソニーを足して二で掛けたような存在、とでも言えばいいでしょうか。乱暴な表現ですが。
 そのエル・ブリの新メニュー考案、完成に至る様子に密着した、ドキュメンタリー映画。

 エル・ブリ、そしてフェラン・アドリアがどれほど偉大で素晴らしいシェフであり芸術家であり実験家でありプロデューサーであるのかは、ここでは語りません。
 それは、「この映画」そのものが、エル・ブリの料理と同じくらい実験的な、革新的なドキュメンタリーの手法を見せてくれたからなのです。

 この映画がもしかしてそうなのではないかということは、最初の数分ですでに感じられました。
 そして最後のスタッフタイトルが終わった瞬間に、本当にそうであったことに私は感嘆しました。
 私が予感し、そして最後までそうであったこととは何か。
 この映画は、ドキュメンタリーであるにも関わらず、ナレーションが一回も登場しなかったのです。
 説明の字幕は、ほんの数ヶ所にしかありません。それも日付と場所を表すもののみ。一番長い字幕は、映画の最後に完成した新メニューの名前を表示するものだったのではないでしょうか。
 そしてインタビューや質問といった要素は、ドキュメンタリーの手法として存在することすら忘れてしまうくらい、一切登場することはありません。
 これは、完全に「説明」を排除した映画です。
 今映像に登場している人物が誰なのか、どんな背景の人なのか、今何をしているのか、何をしなければならないのか、何を考えているのか。それを親切に説明してくれるものなど全くない映画なのです。エル・ブリがそもそも何なのか。フェラン・アドリアは何者なのか。普通であれば観客に当然のごとく示されるであろうその基本的説明さえ、全く登場することはありません。
 
 あるのは映像。現実に起こっていたことから切り取られた映像。会話。音。
 音楽すらも最低限に絞って、あらゆる「作り手の説明」を空白にして、映画は進んでいきます。

 それではこのドキュメンタリーはわかりにくいのか、理解しにくいのか。そんなことは全くありません。そこで何が起こっているのかを、過不足なく表現する映像と会話と音を、カメラとマイクは的確に切り取り拾い上げます。観ている人は、その場の流れが理解できないというような事態には、まず陥らないでしょう。
 そして映像は、それ以上の余計なものを決して付け加えようとしません。感動も、感情も、思想も、意図も。
 映画は決して、「ほらフェラン・アドリアはすごいでしょう?」などとは言いません。エル・ブリのスタッフがカメラ目線でフェランの才能について語るなどというしらじらしい場面など、全くの皆無です。

 もちろん、ドキュメンタリーが「事実のみをうつす」などということはありえません。監督がほとんど完全に己の存在の痕跡を消し去っているこの映画においても、映像は注意深く取捨選択されているのがうかがえます。スタッフたちの会話は、現実の会話にも関わらず、まるでフィクションの映画の1シーンであるかのように「絵になって」います。
 けれどその解釈について、おせっかいに誰かがしゃしゃりでて、「観る人がわからないといけませんので」と言わんばかりに説明を始めるようなことは決してありません。
 これはものすごいことです。ドキュメントしている対象と、そして映画を観るであろう人々、その双方に対して、とても大きなリスペクトがなければできることではありません。


 ずいぶん昔のことですが、たまたまある聡明な友人と会話をしていて、フランス映画の話題になったことがあります。今も昔も私のフランス映画の知識など乏しいものですが、フランス映画が非常に難解で、ハリウッド映画のようなわかりやすく一般的な感動を与えてくれるものとは対極に位置しているというイメージだけはあって、そんなことを話した記憶があります。
「フランス映画って、何であんなにわかりにくくて難しいんでしょう。フランスの人って、ハリウッドみたいな明るくてわかりやすい映画を観ないんでしょうか」
 そんなようなことを言った私に、聡明な友人はこんな答えを返しました。
「たぶんフランス映画の考え方では、理解して解釈する過程が映画を観るということなのに、すでに解釈されてたら映画を観る意味がないからでしょう。ハリウッドみたいにわかりやすい映画は、他人が噛んで消化した食べ物を皿に載せられて、さあ食べろと出されてるような気がするんじゃないですか」
 この聡明な答えは、感覚的に腑に落ちる感じがして、その時もいたく感心したものですが、最近はこのことが、骨身に染みてわかってきたように思います。
 私は、そんな難解な複雑な映画をたくさん観る良き鑑賞者では全くないのですけれど、「わかりやすい」作品というものに対する欲求が、年々なくなっていくのを実感しているのです。
 それは押しつけがましさへの反発もあるけれど、それ以上に、「愛と感動の名作とわかっているのなら、何故それを私が時間をかけてわざわざ観て、愛と感動の名作という感想を確認する必要があるのだ?」という率直かつ大きな疑問です。
 もちろん、観賞には「共有」という要素がありますから、みんなと同じ感想を抱くことに意味があるのもわかるのですけれど。


 この映画は、完璧なまでに色も味も香りも熟した果実を、しかしそのまま皿に載せて出すのではなく、ほんのわずかな手を加えて完璧な「料理」にして出したかのようです。
 恐らく、この「素材そのままであるかのように見える」映像を作り上げるまでには、エル・ブリのスタッフと同じくらい、映画製作のスタッフたちも試行錯誤し、実験を重ね、試作を生み出しては捨てという果てしの無い作業を繰り返したのではないかと思います。
 そこまでしてなお、全ての理解も解釈も、受け手に惜しみなく委ね、説明すらせずに信頼して引き渡すという潔さ。
 本当に、久しぶりに、私は映画鑑賞において、監督の意図を読むのではなく、「自分がこの映画から何を得るのか」を問われたような気がします。
 それは、私が久しく映画を観なかった理由のひとつであり、そして私がこの映画に惜しみない賛嘆を送る理由でもあるのです。