古琉球2011年04月22日

古琉球,井波普猷著,外間守善校訂,2000.12.15.初版,青N102-1

「沖縄学」の父と言われる井波の、古琉球にまつわる様々な方面の論文を集めたもの。全くの門外漢の私でも知っている、古代日本のハ行の発音がP音であったという定説となった「P音考」も収録されている。ハ行発音の変遷が、琉球語から導き出されたというのは知らなかった。
 もっとも、そういう学術的な話に興味があるのは専門家や、アマチュア研究者であって、そうではない読者にとっては、「おもろそうし」などの琉球語の詩や、神話などを素直に楽しめばいいのだと思う。琉球語の民謡などには、結構びっくりするようなどぎつい内容のエロスがあったりして、けれど風土ゆえか、陰にこもらない明るいすがすがしい印象になっている。
 この、「明るくすがすがしいけれど、ただ開けっ広げではない濃密なエロス」や、「圧倒的に雄大な自然と交歓しそれを称える感情」というのは、確かに古事記や万葉集、あるいは平安以降の京都・東京の文化にはあまりない、鮮やかで強烈なエネルギーだ。
 一方で、井波は沖縄の歩んできた、苦難というもおろかな政治的経緯も掬い上げる。井波は沖縄の啓蒙運動に身を投じ、それに挫折した人であり、ここにある苦渋がインクとなって書かれたような文章は、明るい詩とは対照的だ
 そんな中でも、古い民謡の採集のために懇意にしていた老人が、実は神懸かりと信じて自分の幻覚を「歴史的・民俗的事実」として話していたことがわかった顛末など、笑ってしまうような話も出てくる。いや実は、井波自身にとっては笑い事ではなかったろうと思うが、これをユーモアとして一編の文章にするあたりが、井波の精神の強靭さを表しているように思う。

ムガル帝国誌(一)(二)2011年02月09日

ムガル帝国誌(一),ベルニエ著,関美奈子訳,2001.11.16.第1刷,青482-1
ムガル帝国誌(二),ベルニエ著,倉田信子訳,2001.12.14.第1刷,青482-2


 17世紀半ば、己の好奇心に従って、フランスからはるか遠くインドのムガル帝国へ旅に出た哲学者ベルニエによる、ムガル帝国についての見聞録。この頃のムガル帝国は、かのタージ・マハルを建造したシャー・ジャハーンから、息子へ権力が移譲する、ムガル帝国最盛期(そして滅びを前にした)時代だった。
 見聞録は、シャー・ジャハーンの息子四人が、帝位をめぐって陰謀と戦争を繰り広げ、ついに三男アウラングゼーブが完全に帝位を手中に収めるまでの政変の記録から始まり、ムガル帝国の政治経済や文化、カシミール王国への行幸とかの地の描写、インド独特の風習の紹介など、バリエーション豊かで飽きない。
 特に(一)の「ムガル帝国の大政変」は、四人の兄弟による駆け引きと争い、権謀術策の連続で、よくできた歴史物語という趣である。
 象を繰り出しての戦い、王が国家の全てを所有し、王とともに都市まるごとが移動していく壮大な行幸、夫とともに寡婦が焼かれる悲惨な風習、さわやかなライム水や甘い砂糖漬け、息をさわやかにするビンロウや敗れた王族を始末する罌粟の麻薬ポーストなど、ザッツ・ファンタジーとも言うべき数々の風景を楽しむためだけでも、この本を読む価値はある。
 この見聞録で描写される、王が国家の土地財産を全て私有する政治形態の欠点と国土の荒廃は、注釈にもあるがベルニエの政治的イデオロギーによるものだろう。モンテスキューやマルクスに引用されて、この本はインドの正確な描写として権威化されていったようだが、そういうところはあまり気にせずに、ひとりの人間の目に映った異国の情景を素直に味わい、それ以上の教訓を無理矢理引き出さないことが、この本の味わいのような気がする。

絵のない絵本2011年01月14日

絵のない絵本,アンデルセン作,大畑末吉訳,2009年12.25.第71刷(1953.10.5.初版,1975.11.17.改版),赤741-3

 貧しい絵描きが、月が語る物語をそのまま言葉にした、という枠組みの中で繰り広げられる物語集。ひとつひとつは数ページの、ごく短いもので、しかも「物語」として見た時には、決しておさまりのいいものばかりではない。説明が全くなかったり、いきなり断ち切られていたり、一瞬の情景描写のみであったり。物語や小説というよりも、まさに一枚絵に近い。けれど「語らないことで全てを語る」ということに成功しているのも、確かである。
 深く痛烈な悲劇、甘やかなエロス、愛らしい日常、ジョークのようなオチ、ありとあらゆる種類の人間の断片があり、そしてそれらは全て、「月」というはるかな高みから見下ろす一瞬の出来事に過ぎないという(ある意味では冷ややかな)いかにも芸術家らしい作品だ。

 私個人は、第五夜と第十六夜、そして第十九夜が印象に深いけれど、この物語たちは、普通の小説のように深く書き込まれていたら、とても読めないと思う悲劇である。だから、私はもしこの作品の中で一番を選ぶとしたら、微笑ましい第三十三夜を選ぶと思う。

海神丸ー付・「海神丸」後日物語ー2010年07月08日

海神丸ー付・「海神丸」後日物語ー,野上弥生子著,緑49-1

 漁船が漁に出て遭難し、そこに乗った三人の男のうちひとりが、飢えに負けて最も若い青年を殺害し、食らおうとした――という実話を基にした物語である。あくまでこの小説自体はフィクションで、実際に起こった出来事と内実は異なっていたようなので、これは実録やルポルタージュではなく、心理劇として捉えるべきだろう。
 ただ、心理劇とはいっても、たとえば「蝿の王」のような、ある種の極限状態で人間倫理が打ち砕かれる異常心理をカーニバルのように描くものではなくて、ずるずると重く陰鬱に、そしてあまりすっきりとしない形で描いていく。そのため、「異常心理」というラベルがもたらす、狂騒的なカタルシスはない。
 物語は、誰の心にも寄り添わず、かといって突き放すのではなく、重苦しく船にのしかかる太陽の光のように事実と心理を描写する。結局、殺人は行われるが、殺人者はそこで我に返って食人には至らない。物語の軸は、食人という異常事態ではなくて、むしろ殺人自体に置かれているように思える。
 だから、極限状態の異常心理をサイコミステリーのように味わおうと期待すると、恐らくこの物語では肩透かしをくらう。ここにあるのは、もっとありきたりな、けれど大きな心理的ハードルを”越えて”しまった人物たちの物語である。

 何かの教訓のようなものを、無理矢理引き出すとするならば、遭難のような異常な事態に耐えうるためには、心を支えて事態の責任を自らに「引き受ける」ことが必要なのだろう。
 殺人を犯すやや老いた漁師は、本来その船に乗りたいとは全く思っておらず、むしろ年末をゆっくりと自宅で過ごすつもりだったところを、船長に半ば無理矢理漁に連れていかれ、そして遭難事故に遭う。彼は船長を恨み、運命を呪う。船長が非常な飢餓に耐え、己を持ち堪えたのに対し、漁師がそれに挫折するのは、恐らく事態を己のものとして引き受けず、「自分以外の誰かのせい」として外部に放出してしまったからであろう。つまり苦痛は、己のものとして甘受することでしか耐え切ることはできないのだ、というのが、この物語のかろうじて表現する結論であろう。

 先にも述べたように、この物語は極限状態の異常心理を持ち出して、「人間はこんな恐ろしい心理を隠し持っている」と叫ぶタイプのものではない。いわゆる異常殺人鬼のルポなどを読んだ後の、血と暴力と奈落のもたらす興奮状態(そう、地獄は興奮をもたらすのだ)は、この物語には無縁である。
 ここに描かれるのは、暗鬱で重苦しいリアルな殺人である。ファンタジーの中の暴力、そしてファンタジーを強いる殺人鬼の暴力と違って、現実の暴力は常にそういう、やりきれなくて重くて何も解決してくれない代物である。この物語の殺人は、そういう種類の殺人だ。答えはなく、カタルシスもない。
 だから、この物語は読後感が割り切れない、曖昧なものである。面白いかと問われると、答えにくい。好きとも言えないし、面白いとも言えない。だが何かはあるとは言える。

オー・ヘンリー傑作選2010年01月06日

オー・ヘンリー傑作選,大津栄一郎訳,2008.2.25.第50刷(1979.11.10.初版),赤330-1

 こうして読み返してみると、ベダだけれどやっぱり、「最後の一葉」「賢者の贈り物」「改心」といった短編のもたらす感情は強い。その他には「千ドル」も好きだ。少しほろ苦いけれど、幸福がある。
 オー・ヘンリーの短編は、偉ぶった解釈や解説を全く必要としないほどに、わかりやすい。名作と讃えられながら、それ以上に持ち上げられることがないのは、そのわかりやすさゆえではないかと思う。人は、特に文学者や批評家といった生き物は、わかりにくいものを分解していくのが好きなのだ。オー・ヘンリーの短編には、小難しさはどこにもない。そこが美しい。
 プロットの巧みさは言うまでもないけれど、言葉の使い方の見事さも改めて感じ入ってしまう。「最後の一葉」の老画家の口癖である「傑作」、「賢者の贈り物」の主人公夫婦を東方の賢者と称賛する比喩、「改心」の「君がつけているそのばらをぼくにくれないか」という象徴的な(しかも象徴性に寄り掛かっていない)一言。どの言葉も、読めばその意味をすぐに感じとることができ、そしてなお深い。

失楽園2007年08月05日

失楽園(上),ミルトン作,平井正穂訳,2007.5.15.第45刷(1981.1.16.初版),赤206-2
失楽園(下),ミルトン作,平井正穂訳,2007.3.5.第42刷(1981.1.16.初版),赤206-2

「一敗地に塗れたからと言ってそれがどうだというのだ? すべてが失われたわけではない」−−勇壮かつ悲痛なサタンの言葉はある種のエネルギーを持って輝くものの、この話はキリスト教的「神」というものを受け入れない限り、始めから終わりまで理不尽の連続である。
 自由意志による奉仕こそ神の喜びと言いながら、その引き換えとして幸福と不幸を選ばせるどこか脅迫的な選択肢は、何やら世間を席巻した自己責任論に近いいかがわしさがある。さらに神への服従の証として「決して食べてはならない木の実」をまさに楽園の中心に置くという、ほとんどパラノイアのような試練(しかも別にアダムとイーヴはその試練を与えて己を試してほしいと神に望んだ訳でもないのだ)は一体何なのか。
 全能の神はもちろんサタンの誘惑にアダムとイーヴが屈服することを予見している。全知全能の神による、失敗に終わることが見越されている試練と、その失敗に対する罰、そしてその罰に対して神から恩寵として与えられる救済−−という矛盾だらけの状況を受容するのに、どれほどの説明が必要とされるか。この長大な叙情詩を読むとめまいがしてくる。
 もちろん、キリスト教の神に限らず、神的な存在が与えてくる試練というものは時として意味不明なものではあるし、また救済というものや、善なるものから遠ざかることによって善なるものが自らの苦痛となってしまう苦悩、「自らが悪であると自認する苦痛」といったものは、興味深いテーマではある。しかし、この物語に限って言うと、中心にある「神」というものの本質が、愛や笑いや喜びというよりも、全くもって観念的なものであり、かすかに人が共感できる心らしきものが垣間見えるときには、やたらと自己中心的に見えるので、描き出される楽園は美しく豊であるはずなのに、どうにもこうにも幸せそうに見えないのである。それに楽園が結局、ひどく物質主義的(美味なる食べ物、働かなくていい生活、罪のない性の三点セット)なのも、本質的ではあるのだろうけど、何やらむなしさを感じてしまうのは何故なのだろう。
 神、というものを、己の本質として捉えるのなら、なるほどそれに背くことは限りない苦痛となる。だがこの物語においては、結局神は人ではない。人の本質は神ではなく、人の本質に従うことというのはサタンが罵られたように「己自身の奴隷となる」こと、そしてそれが悪である−−というのなら、そこにはやはり広大なパラノイアが広がるようにも思えてしまう。
 結局、神への服従というテーマについては、私の心には全く響かなかった。けれど、罪からの救済ということに関しては、感じるものがある。
 最後のアダムが決意する、生を呪いとして受け入れるのではなく、しかし同時に罪を忘れることもなく生き続けていくという姿勢。それは、人生の中で「とりかえしがつかないことをしてしまった」という気持ちを抱えて生きる人ーーそれは決して多数ではないだろうが、しかしそれほど少数ではないーーにとっては、ひとつの指針となるものかも知れない。

嵐が丘2007年07月24日

嵐が丘(上),エミリー・ブロンテ作,河島弘美訳,2006.5.25第4刷(2004.2.17.初版),赤233-1
嵐が丘(下),エミリー・ブロンテ作,河島弘美訳,2006.5.25第4刷(2004.3.16.初版),赤233-2
 かつて(岩波文庫ではなかったけど)「戦争と平和」を読んだ時も思ったのだけれど、世で名作と誉め称えられる物語の、この上なく魅力的とされる主人公が、どうにも私の中では魅力的に映らないのはどうしてなのだろう——と思ってしまった。
 確かに先が気になる、という意味では「読むのを止められない」作品ではある。イギリスから帰る飛行機の中で一気に読み通したくらいには。しかし読み終えた後、残念ながら私の中にはあまり大した感慨は浮かばなかった。キャサリンの激しい情熱も、悪魔的な引力を持つとされるヒースクリフさえ、魅力的には感じられなかったのだ。唯一、物語の狂言回しであるネリーの存在が面白かったが。
 ヒースクリフが最後、「この世はすべて、かつてキャサリンが生きていたことと、おれがあいつを失ったことを記したメモの、膨大な集積だ!」と血を吐くように語るシーンは印象的だった。それはたぶん、私が溺れるように相手に情熱を注ぐタイプの男性に魅力を感じるからだろうとは思うのだが、逆に言えばヒースクリフに感情移入したシーンはそこしかなくて、後は徹頭徹尾、「何でこの男は自分の感情のことしか考えなくて、それを愛情だの何だのと錯覚しているのだろう?」という苛立ちばかりが浮かんでしまったのだ。
 ヒースクリフとキャサリンは、初めて会った時から強く惹かれあい、キャサリンをして「ヒースクリフの魂はわたしの魂とおなじ」と言わしめる。だが、その姿は、私にとっては運命的な恋というよりも、単なる自己愛の延長のようにさえ見えた。その後も、二人の相手への言動は、何だかんだと言いつつ、相手への愛というよりも自分の情熱にただただ振り回されているだけに思える。それが自分ではどうにもならない情熱や恋ということなのかも知れないが、結局彼らが互いの中に見ていたのは「相手に映る自分の姿」であって、そうであるなら二人が幸せにならなかったのはむしろ必然だろう。
 だから、私にとってはこの長い物語は、悲劇というより単なる自業自得で不幸になった人々に、周囲が巻き込まれる迷惑な話に感じられてしまったのである。

ヴェニスに死す2007年07月20日

ヴェニスに死す,トオマス・マン著,実吉捷郎訳,2000.5.16.改版第1刷(1939.1.10.初版),赤434-1

 あまりにも有名で、映画にすらなった作品だ。筋はとても単純で、極めて厳しく倫理的に自律した初老の小説家が、ふと気分を変えたくなって訪れたヴェニスで、彼の理想を具現化した完璧な美少年を見つけ、勝手に恋に落ち、そのままヴェニスに蔓延する伝染病にかかって死ぬ。
 極端に道徳を尊び己の欲望を無視してきた男が欲望自身に復讐される物語とも読めるだろうし、芸術と美の追求が倒錯に堕落する過程とも読めるだろうし、現実には存在しえない神話的な同性愛によって詩的な魂が現実から追い落とされる悲劇とも読める。そして、私個人はそのどのテーマにもあまり興味がないために、この物語は徹頭徹尾他人事だった。
 しかし、きっと現実にはこういうことは無数に起こっているのに違いない。真面目なだけが取り柄の中年男性がキャバクラ嬢にはまって一財産失うといった光景は、きっとこの物語と同じ構造なのだろうと思う。恐ろしいのは、キャバクラ嬢は男性を客として扱って誘うのだろうが、この美少年は別に主人公を誘った訳でも何でもなく、主人公が勝手に見つけて勝手に恋いこがれる(何しろ彼と少年は一言会話することさえない)ということである。思いこみとは恐ろしい。まあ美少年に襲いかかったりしなかっただけましなんだろうが……。
 物語の前半に、自分の老け顔を隠すため化粧をしている老人を、嫌悪をこめて主人公が見つめる場面がある。しかし物語の最後、少年に恋いこがれる主人公は自分の老いた体から逃れるためにその化粧に足を踏みこむことになるのだ。その場面が、私には最も残酷に見えた。

江戸芸術論2007年03月23日

江戸芸術論,永井荷風著、2001.1.14.第1刷、緑42-7

 永井荷風の時代、すでに「江戸」は滅びゆくノスタルジーの対象だった。これは、新しい時代とやらがやってきた時に押し流されていく「旧時代」への賛歌であり、挽歌なのだろう。
 永井は自分が味わい尽くしている浮世絵や狂歌や江戸演劇を、まさに舌なめずりするような濃密さで描写していく。彼がいかにそれらの江戸文化を愛玩しているかは、浮世絵のことなど全く興味のない私にも伝わってくる。そしてそれらの文化は、ブルドーザーのごとき富国強兵の明治文化に、野の花のように踏みしだかれていくのがほとんど決定的であった。文章に満ちているのは、素晴らしい芸術を前にした興奮ではなく、諦念と哀惜である。
 江戸芸術は、時代や文化を越えた普遍性を持つタイプの芸術ではなかったようだ。浮世絵も狂歌も滅びた。歌舞伎は生き延びたが、今の歌舞伎は永井が望んだものでは恐らくない。江戸に殉じて当時進行形で滅びつつあったそれらの文化に対する彼の痛切な思い(と、到来しつつある新時代への嫌悪)は、読んでいて気の毒にさえなるほどだ。
 だが同情は抱いても、私自身は残念ながらその「新時代」さえ「旧時代」になってしまった時代の人間であり、同情以上の感情は持てそうにない。現代日本にも浮世絵の愛好家はたくさんいて、彼らにとってはこの文章は極めて価値あるものに違いないが、逆に言えば江戸文化はそういう「マニア」のものになってしまった訳だ。そのことを、永井はどう思うだろうかと、ちょっと皮肉とも言えないことを考えてしまった。

にんじん2007年02月26日

にんじん,ルナアル作,岸田国士訳,1990.5.25.第56刷(1776.2.16.改版発行),赤553-1

 田園風景というところでは、人も動物もみな命と名の付くものは羽根の如く軽々しく、何の重みも持たない。この物語の中では、鳥も猫も子供も、そして大人も、ユーモラスに軽妙に、虐待され殺される。
 今ならカウンセラーを気取る人に性格障害を診断されそうな明らかに常軌を逸した母親、悪意はないが基本的に無関心で無力な父親、自分より弱い存在に苦痛と責任を転嫁して自分は楽しく日常を過ごす兄姉、そして感受性鋭く家族の病巣を背負っているが別に善意だけを抱いている訳ではない主人公「にんじん」。憎悪と虐待が日常になり、それがもっと悪しき何かを防いでいるのではとさえ思わされるような、奇妙にほのぼのとさえ錯覚する家庭の風景である。
 描かれる光景は、からかいや悪戯などという言葉では到底ごまかせない虐待の積み重ねで、何やら家族精神医学のテキストかと思うほどだ。読んでいて楽しくも気持ちよくもなく、最後に若干のカタルシスのようなものはあるが、別に何かが解決される訳ではない。
 にんじんがルナアル自身の戯画であり、彼の少年時代をモデルに淡々と描かれたスケッチだという解釈を素直に受け入れた時、この作品を「無惨な少年時代を経てもそれでも人は自分を護って成長できる」と前向きに捉えることもできるだろうし、また感傷を一切遠ざけた文章からどこか美しい牧歌的な人間性を見ることもできるだろう。だが、私には到底それはできそうにない。
 安易な感傷や同情を寄せ付けない厳然たる魂をルナアルは持っており、そしてそれを生み出したこの環境を彼が恨んでいたとも思えないけれど、だからと言ってこの家族環境を「ほろ苦いヒューマニズム」などと表現するのは嫌だ。この物語は陰惨で残酷で、底知れない冷たさを抱いている。サイコミステリーよりはるかに恐ろしい一冊だ。