統一と分散2012年09月14日

 ネット上での匿名性(実名性)と責任については、ここでも少しだけ書いたことがありますが、この件については最近、根本的なものの捉え方の違いによるのではないかという気がしてきています。
 私は常々、「まず自分があってその解釈として世界がある」人と、「まず世界があってその析出として自分がある」人の二種類がいるのではないかと勝手に思っているのですが、似たような分類といいますか、世界観(人間観)の差異がもたらすことなのではないかと。

 アメリカの偉大な精神科医サリヴァンは「人格は対人関係の数だけある」という説を晩年提示して、人々を驚嘆させたそうです。でもこの考えは、日本では、少なくとも私の周囲では、違和感なく普通に受け入れられそうな気がします。
 一人の人間が、あるひとつのまとまってあまりぶれのない統一した人格を所有しているというよりは、色々な顔色々な要素を併せ持ってその時々に違う顔が出る、という人間観は、日本では結構すんなり了解されていることではないでしょうか。

 私はFacebookのアカウントを作成したまま、すっかり放置していますけれど、あの家族も親戚も友人も恋人も仕事も趣味も、ありとあらゆる自分の要素を全てひとつのアカウントにまとめずにはおられない、と言いたげなシステムには、大袈裟ですが凄絶な「統一への熱意」を感じます。
 アメリカ人のことなど浅薄な知識でしか知らないのですけれど、アメリカという世界は、もしかしたらそういう統一というか、どんな場でもぶれない同じ顔を見せるということが称揚されるのだろうかと、考えたりするのです。だからこそ、対人関係の数だけ人格がある、という説が驚愕されたのかと。
 私のような、割とあっちこっちで受け取られ方の違う人間は、あの家族も友人も仕事も趣味も全部一緒くたに扱われている場に放り出されると、非常に混乱します。私がFacebookであまり活発に動けないのは、そのせいかも知れません。
(実際にはそもそも他人のアカウントとあまり関連付けすらしていないので、混乱も何もないはずなのですけど)

 ネットの議論における匿名性についての話では、匿名を擁護する側からよく、「ペンネームの効用」というものが出てきます。つまり、ネット上での自分はそれ以外の場の自分とは違う「人格」によってまとまっていて、それは実名ではなくペンネームや匿名によって保持されるのであり、実名のみでの運用はそういう要素を否定してしまう、というものです。
 たぶん、こういう意見を言う人は、私のように自分の色々な要素が並立している場に放り込まれるのが、非常に苦手なのでしょう。あるいはもっとわかりやすく、拒絶しているのかも知れません。


 ただまぁ、実はこういう「対人関係の数だけ違う人格を構築する」方法も、「どんな場でも基本的に統一されたひとつの人格で相対する」方法も、単なる方法に過ぎなくて、人格の成熟とはあんまり関係がないのだと思います。
 いくつもの人格を並立させる人から見ると同じ人格で対応する人はいかにも平面的に感じられ、逆に同じ人格で対応する人からすると人格を複数並立させる人はその場しのぎに葛藤から逃げ回る人に感じられる――という部分がありますけれど、確かにそういう要素もあるのですけれど、実際にはどちらかの戦術が洗練されているとか、人格の感性に近いとかいうことはないのでしょう。あるのはただ単純な、方法の違いという意味だけで。それぞれの方法に由来する陥りがちな罠や弱点は存在する訳ですけれど。

 なので本当は、実名匿名の是非についてのディスカッションで、そういう「名前で象徴される人格の存在」を持ち出すのは、あまり実りがないというか、本当は問題ではないことを問題にしているような気がします。
 まあ実名匿名の是非が問われる場が本当に問うているのは、名前なんかではない、ということを皆が忘れてしまいがちなのは、しょうがないのでしょうね。


 というわけで、長々書いた末に何を考えたかというと、Facebookは自分の様々な要素を統一して扱うことに抵抗のない人には、すごく便利なシステムなのだろうなあという、あまり役に立たない思考なのでした。