色眼鏡2012年09月07日

 大昔から、フィクションや娯楽が人間の精神に与える影響について(主に堕落という側面から)ああだこうだとやかましく言われている訳で、今に始まったことではありません。それでも、何かの形でその話題をしばしば見るのは、やはりあの非実在なんちゃらの件が尾を引いているのでしょうか。

 この話題については何回か、色々なところで長文も短文も書きましたけど、対立する層の隔絶があまりに絶望的で、双方が互いに対して理解がなさすぎて、鏡像に生卵を投げ続ける有り様になっていますから、何だか自分が何を書いても無意味だなぁという気分になります。
 それでもたまに思い出したように書くのは、単純に、自分の考えをまとめようという圧力なのですが。


「ポルノや猟奇殺人ものを観賞する人間が、実際に犯罪を起こす訳ではない」
という主張や、心理学上の実験結果は繰り返し立ち現れますし、まぁ実際そうなのだろうとも思います。
 それでも最近、私はこの手の発言に微妙に懐疑的になってきました。
 というよりも、むしろこの主張は正しい、だからこそその正しさの陰で皆が都合よく忘れ去っている何かがあるような気がする、という感覚でしょうか。

 ポルノや大量殺人の物語を読んだ人が、それに影響されて連続暴行や殺人に走ったのだとしたら、むしろ扱いやすくて楽だったと思うのです。そういう物語の扱いに気をつければいいだけの話なのですから。
 かつてベトナム戦争時のアメリカ軍が発砲率を上げるために、兵士に大量の殺人映像を見せ、キャベツをくりぬいて中にトマトソースを詰めたものを頭にした人形を撃ち抜くゲームを競わせることで、「人間を殺す」ことへの抵抗値を大幅に下げることに成功したのは、そこそこ有名なエピソードのようです。
(副作用として、帰還兵の中に日常生活に適応できない者が無視できない比率で現れた訳ですが)
 これなどは「フィクション」が現実の人間の精神にちゃんと影響を与えられる証左であって、そして同時にわかりやすい方法でもあります。

 ところが大抵の場合、人間の精神というのは、Aを入れたらAになるというような、素直で単純な応答をしません。
 調べものなどで、ある一定の傾向を持つコンテンツに大量に接した後、しばらくの間その特有の「癖」が、微妙に思考に覆いかぶさるのがわかります。
 それはまるで色のついたレンズのようです。青いフィルター越しに見る紫が違う色になり、そして青が見えなくなるように、思考はしばらくの間、普段と違う軸になります。
 けれど別に、モノの形が変わる訳でも、視力が落ちる訳でもありません。そんなわかりやすい変化ではありません。
 その体験を鑑みると、長い間、あるいはそれが繰り返されれば、思考の位相が微妙な形でずれていくのは、自然な現象に思えます。
 人間の精神というのは、Aを入れたらA'どころか、Bになるような厄介な形で、「影響」を受けるのではないか。そして誰も、その影響を自覚すらできないのではないか。

 恐らく、ポルノや猟奇殺人小説を消費した者が、犯罪を犯すようなことはないでしょう。そんな単純な、子供みたいにわかりやすい因果関係は、それこそ「物語」の中でしか起こらないでしょう。
 そうではなく、そういう物語の影響は、見えないところで静かにその人を浸していくでしょう。別に悪い影響とは限りません。ストレスが発散されるようないい影響だって十分ありえます。けれど、「何も起こらない」ことだけは、ないような気がします。

 結局のところ、できることは、その視界にかかる色ガラスに自覚的になることしかないのかも知れません。
 そして何事にも、作用があれば反作用があるように、「良い影響」「悪い影響」だけが単独で起こることはありえないのだと、自覚し自律して受容していくしか、方法はないのだと思います。