活字嗜癖2012年09月18日

 私のいくつかある、あまり好ましくない中毒のうち、筆頭は活字中毒だ。
 アルコールや麻薬の中毒よりは害が少ないぶん、ましなのだろうけれど、結構な時間を空費させる。気が滅入った時にジャンクフードを食べて、意識を詰まらせるのに似た行動パターンだ。

 私のネット依存の大半は、この活字中毒に由来するものなので、動画投稿サイトなどは全然閲覧しないし、コミュニケーションにもあまり大きなウェイトを置かない。
 私がmixiやTwitterを見るのは、要はそこに、まだ読んだことのない文字があるからだ。
 たぶん、ゲームもそういう部分があるだろう。

 嗜癖については、(たびたび私が言及する)優れた精神科医の中井久夫氏が素晴らしい嗜癖論をいくつか書いているけれど、それを引き合いに出すと、嗜癖の最大の欠点は「同じ結果を得るためにますます多量の嗜癖行為が必要なこと」だそうだ。
「大規模な行為が、かつては些細な行為のもたらしたと同じ効果をかろうじてもたらすかそれとももたらさないかのすれすれに目減りする」   ――「世に棲む患者」より

 私の活字中毒は年季が入っているうえに、読んだものを記憶する能力も無駄にあるので、読んでも満足が得られるものはどんどん少なくなっている。
 覚えている割には、同じものを何度も読む方だとは思う。一度読んだものは、もう私を裏切ることはないという意味で大きな安心感がある。だから、とにかく安心感が欲しい時にはそういうものを読む。
 けれど求めているのが安心ではなくて、頭の中が騒がしくてとにかく何かに意識を向けて頭を黙らせたいというような時には、「まだ読んでない」ものが必要になる。で、そういう頻度は高いので、私は際限なく「まだ読んでないもの」を欲しがる傾向がある。
 そのくせ、読みたいものや読めるもの(能力的な意味でも気力的な意味でも趣味的な意味でも)は、年をとった割には増えていっていない。こうして、クローゼットにやまほど服を突っ込んでいるくせに「今日着るものがない」と嘆くような私が現れる。

 で、何をそんな自分のどうしようもなさを長々書いたのかと言われると、単純にそういう心理をここに書いて、整理したかっただけだったりする。
 ここ数日はまた、読みたい本がないと七転八倒する状態だ。気楽で、新しい発見があって、毒を残さない本を読みたいのだけれど、そういう本が見つからない。こうして私は今日も、料理の本を読むのである。