わたしを離さないで ― 2010年12月03日
カズオ・イシグロの作品は、ある種の扱いにくさ、捉えどころのなさ、表現のしにくさ……があると思う。
「日の名残り」が単なる執事の目から見た歴史小説ではなく、「私たちが孤児だったころ」がスパイ的ミステリ小説ではないように。けれど紹介される時は、執事の小説やミステリととりあえずはくくっておかないと理解しがたい、と感じさせるように。
そして「わたしを離さないで」は、「スタンド・バイ・ミー」のような青春小説か、それともSF小説か。そうとりあえずはくくって何とか理解しようとすると、あてが外れる。事実、これをSF小説として読もうとして、かなり期待が外れて憤懣やる方ない人も、レビューを見ているといる……ようだ。
逆に言えば、そのどちらでもない、そういう分類の約束を基底に読む物語ではない、とも言える。
物語全体を貫く謎や秘密、結末がかなりの重みを持ち、感想を書くとそこには触れずにはいられない構造の物語なので、「なるべく事前情報は排して読みましょう」と言われているのはもっともだ。けれど、あえてここではもう、それは隠さないでいく。まだ未読で、結末を知りたくない方はどうぞ他のところへ。
この物語を「SF」たらしめている要素は実はひとつしかなく、それは、主人公達「施設の生徒」と呼ばれる存在が、実は他人の不治の病を治すための臓器提供ドナー専用人間として、クローンで作られて育てられている存在である、ということだ。
この物語の年代設定は曖昧だが、どうも現代ということになっているらしい。なので、「臓器提供ドナー人間を養殖するのが社会の当然の一部となっているパラレルワールド」を描く、デストピアSFとしてジャンリングされるのだろう。
だが物語は、デストピア小説のお約束たる、社会と人間の強欲さ残酷さ利己主義を真正面から深く描こうとはしない。もっと言えば、問題提起さえ、特にはしない。その辺りの突っ込んだ描写を求めて読むと、肩透かしどころではなく、「何を言いたいんだこの小説は」ということになってしまう。
かといって、物語全体を貫く「子供時代から続く仲良し三人組の関係性と心理のたゆたい」の描写に着目して、そういう心理小説だとしてしまうには、もうひとつのテーマである「誰かのエゴのために作られ、将来を強制される人間の持つ物語性」を無視することになってしまう。
あり得るかも知れないけれど非現実的な設定の上に展開される心理と関係性を描いた小説に、果たしてどんな意味があるのか、という問いが提出されるかも知れない。
だがこの物語は、そういう極端な設定を比喩に使って教訓を引き出すことを目的にはしていない。
この小説の表現するものは、臓器移植にまつわる医療倫理、人間や社会が自分の幸福のために犠牲になる存在を踏みつける残酷さの告発、そういった単純な代物ではない。
むしろここにあるのは、わかりやすく単純な主張、画一的な「意味」を越えた、ひとのこころ、そのものである。
カズオ・イシグロが描くのは常に、そういうものであったように思う。彼の代表作品が一人称で語られ続けていることは、偶然や単なるスタイルではないだろう。ひとのこころ、世界を映し表現し、そして世界自身をはらみ世界を変容させる、自他が分かちがたく入り混じった、この不可思議なものそのものこそが、ここに描かれているのである。
だから、教訓や意味、社会への洞察、お約束やテーマを求めると、裏切られることになるだろう。
単純明快に、約束の連続として、物語を受け入れ消化していく人にとって、この作品は全く意味不明な不条理の連続、焦点をどこにも合わせられないものである。
けれど、「(約束の連続としての)物語」ではなくて、「ひとのこころ」を目の当たりにしたい、と思うのなら、この作品は確実な見返りを与えてくれるはずだ。
ひとのこころを目の当たりにしたい、というのは、感情や恋愛を疑似体験するのとは違う。それならば、むしろ物語文法に忠実にのっとった作品の方が向いている。物語文法は、そういった感動を純粋に咀嚼しやすいように抽出できる道具として洗練され尽くしている。
そして私たちは、毎日の現実の生活でも実は、それほど「ひとのこころ」を深く観察などしていない。単純なレッテルの分類で、毎日を乗り切っているし、またそうすることで立ちすくまずに済んでいるとも言える。
だがそれでは済まされない、と感じる人、あるいは感じる時は確かにある。そういう時にこの物語を手に取った時、わかりやすいお約束に邪魔されない、なまの、「ひとのこころ」を見据えることができるだろう。
そして何よりもこの作品が凄まじいのは、何一つ声高に叫ばない、単純な約束事にのっとらない表現に貫かれているにも関わらず、それでもやはり、医療倫理の業の深さや社会の残酷さ、友情の苦しさと美しさ、愛情の難しさと優しさ、死を迎える生の孤独と愛しさ、全てが在り全てが心に迫ってくるということなのだろう。
作家の佐藤亜紀は「あまりにエモーショナルな情動を追いすぎている」とこの作品を真っ向から否定したそうだが(その批判の原文を読んでいないので前後の文脈はわからないけれど)、そう感じる人がいるだろうな、というのは非常によくわかる。
だが、主人公たるキャシー、トミー、ルースの心のみをひたすらに追い続け、それ以外の要素を一見背景に見えるほどに後ろに押しとどめることで、実際にはこの作品には情動以上の世界が浮かび上がっている。
問題提起をテーマにした作品は、そのテーマ性ゆえに、物語として死ぬことがあるが、この作品は問題提起を目的にしないことで物語として完成し、同時に問題提起をも可能にしているのだ。
そして実際には、カズオ・イシグロは、問題提起などどうでもよかったのでは?と思う。
彼は「この物語を書く」ことが目的であったのではないかと感じる。読んだ人間の分析や批評など、全て後手に回った遠吠えのようなものではなかろうか。
そういう意味では、この物語は、心そのものであると同時に、現実そのものでもあるのかも、知れない。
「日の名残り」が単なる執事の目から見た歴史小説ではなく、「私たちが孤児だったころ」がスパイ的ミステリ小説ではないように。けれど紹介される時は、執事の小説やミステリととりあえずはくくっておかないと理解しがたい、と感じさせるように。
そして「わたしを離さないで」は、「スタンド・バイ・ミー」のような青春小説か、それともSF小説か。そうとりあえずはくくって何とか理解しようとすると、あてが外れる。事実、これをSF小説として読もうとして、かなり期待が外れて憤懣やる方ない人も、レビューを見ているといる……ようだ。
逆に言えば、そのどちらでもない、そういう分類の約束を基底に読む物語ではない、とも言える。
物語全体を貫く謎や秘密、結末がかなりの重みを持ち、感想を書くとそこには触れずにはいられない構造の物語なので、「なるべく事前情報は排して読みましょう」と言われているのはもっともだ。けれど、あえてここではもう、それは隠さないでいく。まだ未読で、結末を知りたくない方はどうぞ他のところへ。
この物語を「SF」たらしめている要素は実はひとつしかなく、それは、主人公達「施設の生徒」と呼ばれる存在が、実は他人の不治の病を治すための臓器提供ドナー専用人間として、クローンで作られて育てられている存在である、ということだ。
この物語の年代設定は曖昧だが、どうも現代ということになっているらしい。なので、「臓器提供ドナー人間を養殖するのが社会の当然の一部となっているパラレルワールド」を描く、デストピアSFとしてジャンリングされるのだろう。
だが物語は、デストピア小説のお約束たる、社会と人間の強欲さ残酷さ利己主義を真正面から深く描こうとはしない。もっと言えば、問題提起さえ、特にはしない。その辺りの突っ込んだ描写を求めて読むと、肩透かしどころではなく、「何を言いたいんだこの小説は」ということになってしまう。
かといって、物語全体を貫く「子供時代から続く仲良し三人組の関係性と心理のたゆたい」の描写に着目して、そういう心理小説だとしてしまうには、もうひとつのテーマである「誰かのエゴのために作られ、将来を強制される人間の持つ物語性」を無視することになってしまう。
あり得るかも知れないけれど非現実的な設定の上に展開される心理と関係性を描いた小説に、果たしてどんな意味があるのか、という問いが提出されるかも知れない。
だがこの物語は、そういう極端な設定を比喩に使って教訓を引き出すことを目的にはしていない。
この小説の表現するものは、臓器移植にまつわる医療倫理、人間や社会が自分の幸福のために犠牲になる存在を踏みつける残酷さの告発、そういった単純な代物ではない。
むしろここにあるのは、わかりやすく単純な主張、画一的な「意味」を越えた、ひとのこころ、そのものである。
カズオ・イシグロが描くのは常に、そういうものであったように思う。彼の代表作品が一人称で語られ続けていることは、偶然や単なるスタイルではないだろう。ひとのこころ、世界を映し表現し、そして世界自身をはらみ世界を変容させる、自他が分かちがたく入り混じった、この不可思議なものそのものこそが、ここに描かれているのである。
だから、教訓や意味、社会への洞察、お約束やテーマを求めると、裏切られることになるだろう。
単純明快に、約束の連続として、物語を受け入れ消化していく人にとって、この作品は全く意味不明な不条理の連続、焦点をどこにも合わせられないものである。
けれど、「(約束の連続としての)物語」ではなくて、「ひとのこころ」を目の当たりにしたい、と思うのなら、この作品は確実な見返りを与えてくれるはずだ。
ひとのこころを目の当たりにしたい、というのは、感情や恋愛を疑似体験するのとは違う。それならば、むしろ物語文法に忠実にのっとった作品の方が向いている。物語文法は、そういった感動を純粋に咀嚼しやすいように抽出できる道具として洗練され尽くしている。
そして私たちは、毎日の現実の生活でも実は、それほど「ひとのこころ」を深く観察などしていない。単純なレッテルの分類で、毎日を乗り切っているし、またそうすることで立ちすくまずに済んでいるとも言える。
だがそれでは済まされない、と感じる人、あるいは感じる時は確かにある。そういう時にこの物語を手に取った時、わかりやすいお約束に邪魔されない、なまの、「ひとのこころ」を見据えることができるだろう。
そして何よりもこの作品が凄まじいのは、何一つ声高に叫ばない、単純な約束事にのっとらない表現に貫かれているにも関わらず、それでもやはり、医療倫理の業の深さや社会の残酷さ、友情の苦しさと美しさ、愛情の難しさと優しさ、死を迎える生の孤独と愛しさ、全てが在り全てが心に迫ってくるということなのだろう。
作家の佐藤亜紀は「あまりにエモーショナルな情動を追いすぎている」とこの作品を真っ向から否定したそうだが(その批判の原文を読んでいないので前後の文脈はわからないけれど)、そう感じる人がいるだろうな、というのは非常によくわかる。
だが、主人公たるキャシー、トミー、ルースの心のみをひたすらに追い続け、それ以外の要素を一見背景に見えるほどに後ろに押しとどめることで、実際にはこの作品には情動以上の世界が浮かび上がっている。
問題提起をテーマにした作品は、そのテーマ性ゆえに、物語として死ぬことがあるが、この作品は問題提起を目的にしないことで物語として完成し、同時に問題提起をも可能にしているのだ。
そして実際には、カズオ・イシグロは、問題提起などどうでもよかったのでは?と思う。
彼は「この物語を書く」ことが目的であったのではないかと感じる。読んだ人間の分析や批評など、全て後手に回った遠吠えのようなものではなかろうか。
そういう意味では、この物語は、心そのものであると同時に、現実そのものでもあるのかも、知れない。
子供 ― 2009年03月21日
豊下楢彦氏の「集団的自衛権とは何か」を読了。非常に良書でした。
http://www.amazon.co.jp/dp/4004310814/
この著書は、「集団的自衛権は自然権」「日本安保理体制の片務性を是正すべき」「日本は北朝鮮の脅威があるのだから武装しなくてはならない」等々と語られる情緒的な俗論を、極めて丁寧かつ精緻な論理で整理した上で反論をしていて、その点の見事さについては、アマゾンのカスタマーレビューで5つ星というところからもうかがえるかと思います。
なので、そこについて今更私が語ることは何もないのですが。
ただ、この本を読んでいて、脈々と流れるこれらの「俗論」というものを見ていて、ふと思ったことがあるのです。
それは、まるで大好きな親か先生か兄貴分に認めてもらいたくて必死な、小さな子供を見ているかのような光景だな、と。
日本の国家としての成熟性を認めてもらいたい、世界に貢献していると認めてもらいたい、湾岸戦争で多額の出費をしたのに評価されなかったのが巨大なトラウマ、等々の光景は、誰か自分が大好きなえらい人に「よくやったね、えらいねぇ」と言ってもらわなければ安心することも喜ぶこともできない、幼い子供が泣いているところのように見えるのです。
国家としての日本のメンタリティのどこかに、「自分は、一人前の立派な存在ではなくて、そんな小さくてつまらない自分を誰か立派な国が認めてくれたらアイデンティティが成立できる」という部分があるのでしょうか。
そして今の日本にとって、そんなアイデンティティを担保してくれる「大好きな立派な親」はアメリカということのようです。
けれど、アメリカはたぶん、日本に対して「成長を認めてあげなくてはならない子供」のような感覚は全くなく。
アメリカにとって日本は、アジアに影響力を及ぼすために重要な軍事拠点であり、常にアメリカの政治的判断にイエスと言い続けてくれる裕福な犬であり、それは子分をかわいがる親分ですらない、恐らく「非常に重要な道具」でしかないのでしょう。
日本は、そんな風にしか自分を見ていないアメリカが、それでも「認めて」くれることをひたすらに乞い願っているように思えます。
アメリカが、日本を「一人前の国家」だと認めてさえくれるのなら、どんな犠牲も惜しくはないと。あるいは、アメリカが日本を認めてさえくれれば、犠牲を払う必要もなくなるのだと。
安保理の片務性や、国家の成熟の証としての核武装、押しつけ憲法からの脱却等々の(およそ正確な歴史・政治・軍事状況の認識があるとは思えないエモーショナルな)発言のあれこれは、お父さんに認めてもらいたくて必死にお父さんのご機嫌をとる子供の叫びなのだと思った瞬間に、私にとっては、何となく腑に落ちたのです。
そしてそうであれば、日本がアメリカの冷徹な日本認識を、どこか他人事に思っているというか、理解していない、考えてもいないように見えるのも当然かも知れません。
認めてもらえないと思い込んでいる子供が、お父さんの真意も、大人の世界のあれこれの思惑も、目的も、本当の意味では理解していない、というよりもほとんど思考の埒外であって考えもしていないように。
そしてたぶん、そんな子供は、「お前は親の言うことなら何でもきくのか」と問われたら、顔を真っ赤にさせて反論するのに違いないのです。
「そうじゃない、お父さんと対等に話すために自分は大人にならなくてはならないのだ」と。
けれどその「大人」の定義が結局は、「お父さんが自分を対等に扱ってくれる(ように思える)」ことであるのですから、求めるものはどこかトートロジーにならざるをえず、そしてそもそも「大人に認められるのが大人」という発想自体が子供の発想なのだ、ということに気づいていないのです。
「えらい大国に認めてもらわないと自分の国がアイデンティティがあると思えない」
「えらい大国が認めてさえくれれば、その大国が大間違いをしようと、自分を踏みつけにしようと、自分を忘れ去っていようと、関係なく自分のアイデンティティが認められたと信じられる」
という感覚が。
もしも本当に日本の主立った政治家や、日本国民の精神的基調にあるのだとしたら、そしてそこから脱却できないのだとしたら、日本が成熟も国家的アイデンティティもへったくれも獲得できないのは火を見るよりも明らかのように思えるのですが……。
でもまぁそれはきっと、私の考え過ぎなのだと、私は思いたいのですけれど。
http://www.amazon.co.jp/dp/4004310814/
この著書は、「集団的自衛権は自然権」「日本安保理体制の片務性を是正すべき」「日本は北朝鮮の脅威があるのだから武装しなくてはならない」等々と語られる情緒的な俗論を、極めて丁寧かつ精緻な論理で整理した上で反論をしていて、その点の見事さについては、アマゾンのカスタマーレビューで5つ星というところからもうかがえるかと思います。
なので、そこについて今更私が語ることは何もないのですが。
ただ、この本を読んでいて、脈々と流れるこれらの「俗論」というものを見ていて、ふと思ったことがあるのです。
それは、まるで大好きな親か先生か兄貴分に認めてもらいたくて必死な、小さな子供を見ているかのような光景だな、と。
日本の国家としての成熟性を認めてもらいたい、世界に貢献していると認めてもらいたい、湾岸戦争で多額の出費をしたのに評価されなかったのが巨大なトラウマ、等々の光景は、誰か自分が大好きなえらい人に「よくやったね、えらいねぇ」と言ってもらわなければ安心することも喜ぶこともできない、幼い子供が泣いているところのように見えるのです。
国家としての日本のメンタリティのどこかに、「自分は、一人前の立派な存在ではなくて、そんな小さくてつまらない自分を誰か立派な国が認めてくれたらアイデンティティが成立できる」という部分があるのでしょうか。
そして今の日本にとって、そんなアイデンティティを担保してくれる「大好きな立派な親」はアメリカということのようです。
けれど、アメリカはたぶん、日本に対して「成長を認めてあげなくてはならない子供」のような感覚は全くなく。
アメリカにとって日本は、アジアに影響力を及ぼすために重要な軍事拠点であり、常にアメリカの政治的判断にイエスと言い続けてくれる裕福な犬であり、それは子分をかわいがる親分ですらない、恐らく「非常に重要な道具」でしかないのでしょう。
日本は、そんな風にしか自分を見ていないアメリカが、それでも「認めて」くれることをひたすらに乞い願っているように思えます。
アメリカが、日本を「一人前の国家」だと認めてさえくれるのなら、どんな犠牲も惜しくはないと。あるいは、アメリカが日本を認めてさえくれれば、犠牲を払う必要もなくなるのだと。
安保理の片務性や、国家の成熟の証としての核武装、押しつけ憲法からの脱却等々の(およそ正確な歴史・政治・軍事状況の認識があるとは思えないエモーショナルな)発言のあれこれは、お父さんに認めてもらいたくて必死にお父さんのご機嫌をとる子供の叫びなのだと思った瞬間に、私にとっては、何となく腑に落ちたのです。
そしてそうであれば、日本がアメリカの冷徹な日本認識を、どこか他人事に思っているというか、理解していない、考えてもいないように見えるのも当然かも知れません。
認めてもらえないと思い込んでいる子供が、お父さんの真意も、大人の世界のあれこれの思惑も、目的も、本当の意味では理解していない、というよりもほとんど思考の埒外であって考えもしていないように。
そしてたぶん、そんな子供は、「お前は親の言うことなら何でもきくのか」と問われたら、顔を真っ赤にさせて反論するのに違いないのです。
「そうじゃない、お父さんと対等に話すために自分は大人にならなくてはならないのだ」と。
けれどその「大人」の定義が結局は、「お父さんが自分を対等に扱ってくれる(ように思える)」ことであるのですから、求めるものはどこかトートロジーにならざるをえず、そしてそもそも「大人に認められるのが大人」という発想自体が子供の発想なのだ、ということに気づいていないのです。
「えらい大国に認めてもらわないと自分の国がアイデンティティがあると思えない」
「えらい大国が認めてさえくれれば、その大国が大間違いをしようと、自分を踏みつけにしようと、自分を忘れ去っていようと、関係なく自分のアイデンティティが認められたと信じられる」
という感覚が。
もしも本当に日本の主立った政治家や、日本国民の精神的基調にあるのだとしたら、そしてそこから脱却できないのだとしたら、日本が成熟も国家的アイデンティティもへったくれも獲得できないのは火を見るよりも明らかのように思えるのですが……。
でもまぁそれはきっと、私の考え過ぎなのだと、私は思いたいのですけれど。
きみが住む星 ― 2007年09月20日
愛していると百万回言われるよりも、心満たされる言葉というものは恐らくあって、私はその言葉のひとつを、もうずいぶん昔にこの本で見つけた。
池澤夏樹著、エルンスト・ハース写真の「きみが住む星」。
http://www.amazon.co.jp/dp/4579303407
この本の成立過程を私は知らないが、恐らく、エルンスト・ハースが撮影した写真が先にあり、そこからインスピレーションをふくらませる形で池澤夏樹が文章をつけていったのだろうと思う。だがそんな「作り手の事情」は、あまり関係がない。
これは書簡集、というか絵はがき集という形をとっている。ある男性が、何かの仕事で世界の色々なところをめぐる旅に出る。彼には相思相愛の女性がいて、彼女は彼の帰りを待っている。そういう中で、男性は旅先で見つけた絵はがきに、短い手紙を書いて彼女に送り続ける。内容は、異郷の不思議な習慣や出来事や思い出話や、見た夢の話やとりとめもない考え事や、様々だ。
彼はとても率直に、絵はがきの中で愛する彼女に向けて自分の愛情や気持ちを語るので、それを「甘さ」と捉えて、あまり感情移入できない人もいると思う。そういう人は、無理に読まない方がいいかも知れない。
その絵はがきの中の文章も、透き通った雰囲気でとても綺麗だが、実は、「最初の手紙」が一番美しいのではないかと思う。
彼は「ぼくはこの星が好きだと思った」と語る。そしてその理由を考えて、「そうして、ここがきみの住む星だから、それで好きなんだって気づいた。他の星にはきみがいない」と続ける。
そして手紙の締めくくりで、「きみはぼくの目を経由した自画像をたくさん受け取るだろう。旅をしているのが自分であり、見られている風景が自分であり、この星全体が自分なのだと知るだろう」と予言する。
私がこの物語に出会ったのは、高校生くらいの時で、それなりに恋愛をして、その恋愛感情というものの扱いに四苦八苦していた頃だった。その頃の私は人を愛するということがどういうことかわからなかったし、湧きあがってくる感情が何を求めているのかもわからなかったし、それが行き着く先が何なのかもわからなかった。ひょっとすると今でも。
そのわからないづくしの五里霧中の中で、その一連の言葉はまるで空から降って来る月の光のように、すとんと腑に落ちた。
それまで、「好きなひと」と「自分」と「その他の世界」は断絶した別々のものとして存在していたのが、ゆっくりと溶けるようにつながっていくような光景だった。
人を愛するということは世界に意味を与えることであり、愛する人の中に世界の全てを、全世界の中に愛する人を、見ることなのだと、私はその時に初めて明確に意識したように思う。
そしてそれは今でも、私の中で、愛というものの定義のひとつになっている。
きみを愛しているよ。この星を愛するように。この星のひとつひとつのかけらに、私はきみを見て、きみを思う。きみの幸せと笑顔を祈る。
そんな私の声になることのない言葉は、ただ空気の中を溶けていって、別に誰かの耳に届く訳でもなく、誰かを振り向かせる訳でもなく、誰にもわからず消えていくのだが、それでも私はそう繰り返して来た。
今もそう祈っている。語りかけられる「きみ」とは、自分のことだと思ってもいないかもしれないきみのために。これからも、こう祈り続けるのだろう。きっと。
池澤夏樹著、エルンスト・ハース写真の「きみが住む星」。
http://www.amazon.co.jp/dp/4579303407
この本の成立過程を私は知らないが、恐らく、エルンスト・ハースが撮影した写真が先にあり、そこからインスピレーションをふくらませる形で池澤夏樹が文章をつけていったのだろうと思う。だがそんな「作り手の事情」は、あまり関係がない。
これは書簡集、というか絵はがき集という形をとっている。ある男性が、何かの仕事で世界の色々なところをめぐる旅に出る。彼には相思相愛の女性がいて、彼女は彼の帰りを待っている。そういう中で、男性は旅先で見つけた絵はがきに、短い手紙を書いて彼女に送り続ける。内容は、異郷の不思議な習慣や出来事や思い出話や、見た夢の話やとりとめもない考え事や、様々だ。
彼はとても率直に、絵はがきの中で愛する彼女に向けて自分の愛情や気持ちを語るので、それを「甘さ」と捉えて、あまり感情移入できない人もいると思う。そういう人は、無理に読まない方がいいかも知れない。
その絵はがきの中の文章も、透き通った雰囲気でとても綺麗だが、実は、「最初の手紙」が一番美しいのではないかと思う。
彼は「ぼくはこの星が好きだと思った」と語る。そしてその理由を考えて、「そうして、ここがきみの住む星だから、それで好きなんだって気づいた。他の星にはきみがいない」と続ける。
そして手紙の締めくくりで、「きみはぼくの目を経由した自画像をたくさん受け取るだろう。旅をしているのが自分であり、見られている風景が自分であり、この星全体が自分なのだと知るだろう」と予言する。
私がこの物語に出会ったのは、高校生くらいの時で、それなりに恋愛をして、その恋愛感情というものの扱いに四苦八苦していた頃だった。その頃の私は人を愛するということがどういうことかわからなかったし、湧きあがってくる感情が何を求めているのかもわからなかったし、それが行き着く先が何なのかもわからなかった。ひょっとすると今でも。
そのわからないづくしの五里霧中の中で、その一連の言葉はまるで空から降って来る月の光のように、すとんと腑に落ちた。
それまで、「好きなひと」と「自分」と「その他の世界」は断絶した別々のものとして存在していたのが、ゆっくりと溶けるようにつながっていくような光景だった。
人を愛するということは世界に意味を与えることであり、愛する人の中に世界の全てを、全世界の中に愛する人を、見ることなのだと、私はその時に初めて明確に意識したように思う。
そしてそれは今でも、私の中で、愛というものの定義のひとつになっている。
きみを愛しているよ。この星を愛するように。この星のひとつひとつのかけらに、私はきみを見て、きみを思う。きみの幸せと笑顔を祈る。
そんな私の声になることのない言葉は、ただ空気の中を溶けていって、別に誰かの耳に届く訳でもなく、誰かを振り向かせる訳でもなく、誰にもわからず消えていくのだが、それでも私はそう繰り返して来た。
今もそう祈っている。語りかけられる「きみ」とは、自分のことだと思ってもいないかもしれないきみのために。これからも、こう祈り続けるのだろう。きっと。
こっこさん、遠い道、さんさん録 ― 2007年08月31日
お借りしていたこうの史代の作品を全て読了。
これでもう、いつ死んでもいい。
これでもう、いつ死んでもいい。
驕りのない医者 ― 2007年05月25日
中井久夫氏の新刊「こんなとき私はどうしてきたか」を読み始めた。が、1章読んで、読み切ってしまうのがあまりにもったいなくて、本を閉じてしまった。
この方の文章は、私にとって、本当にこの世の宝とも呼びたくなるものだ。端整で、穏やかで、控えめでありながら、読むごとに頭と心の中に新しい光が点っていく。それは星が瞬きながら星座を形作っていくような、心躍る、そして幸福なひとときだ。
この本は、精神科医であった(今は定年退職している)氏が、現役時代に治療者として患者に相対した時、どのような言動を心がけていたかを看護士に講演した内容をまとめたものである。一見、医療関係者には役立たないように思えるこの本はしかし、恐らくそれ以外の人にとってもかけがえのないものをもたらしてくれるに違いない。
中井久夫氏の著書全てに共通することだが、この方の言葉には、高慢さや驕りといったものが全く感じられない。それは実は、「本を書く精神科医」の中では極めて稀有な資質と呼ばねばならない。
これは世に数多いる「本を書く精神科医」を貶めるつもりで言うのではない。だが精神医学というものは、人間の最もなまなましく、不可思議な部分と向かい合う学問であり、そこに従事する以上、どこかに「不可思議な人の心を理解する」という行為への誇りが存在する。そしてその誇りは、常に「私には人がわからないものがわかる、わからないものを説明できる」という驕りと隣り合わせなのである。
優れた医師であっても(いやむしろ優れた医師であるからこそ)ここから逃れるのは容易ではない。斎藤環にしろ、香山リカにしろ、あるいは他の著名な精神科医にしろ、この万能感とも言うべき臭みからは残念ながら自由にはなっていないと思う。私がこの臭いを感じないのは、神谷美恵子と中井久夫、この二人だけだ。
中井久夫氏の、精神科医としての姿には、常に「病者の尊厳に対する敬意」があるように思う。彼は病者と精神病を、存在してはならないものとは扱わないし、また崇高なものとして崇め奉りもしない。そしてもちろん、「普通のもの」を扱うような無神経な扱いもしない。さらには、精神医学による「レッテル貼り」に逃げ込むことも、ない。
このスタンスは、もしかしたら、病者と医者に限らず、人間同士のコミュニケーションにおいて最も重要なものなのではないか。と同時に、最も難しいスタンスとも言える。「あいづちや合いの手は20-30個は持っておくべき」とさらりと書かれた文章ひとつでも、彼の稀有な能力は感じ取れる。
中井久夫氏の著作は、私の心を常に潤してくれるが、同時にある種の絶望感を抱かせる。
この世にこれほどの文章がすでにある以上、私が何を書く必要があるのだろうか?
しかもこの文章はまさに彼自身の深い教養と叡智、積み重ねてきた精神科医としての経験、独特の個性によるものなのだ。「よし、こんな文章を目指そう」と真似したからとて、目指したからとて、たどりつけるものではない。それは努力目標という言葉さえかすむ遠さである。
努力や才能の問題というよりも、文字のひとつひとつが彼の中から生まれた、彼以外からは生まれようのなかった色を帯びており、たとえ私が同レベルの知性や経験を身につけたからとて、この文章を紡ぎ出すことはできないと確信してしまう。
(以前、ある人に「君のリスペクトする、目標となる文筆家について話してみなさい」と言われてひどくうんざりしてしまったのは、このためでもある)
それでも、絶望感を魂の底まで味わうとしても、私は中井久夫の文章に出会えたことを計り知れない恵みだと思う。
この方の文章は、私にとって、本当にこの世の宝とも呼びたくなるものだ。端整で、穏やかで、控えめでありながら、読むごとに頭と心の中に新しい光が点っていく。それは星が瞬きながら星座を形作っていくような、心躍る、そして幸福なひとときだ。
この本は、精神科医であった(今は定年退職している)氏が、現役時代に治療者として患者に相対した時、どのような言動を心がけていたかを看護士に講演した内容をまとめたものである。一見、医療関係者には役立たないように思えるこの本はしかし、恐らくそれ以外の人にとってもかけがえのないものをもたらしてくれるに違いない。
中井久夫氏の著書全てに共通することだが、この方の言葉には、高慢さや驕りといったものが全く感じられない。それは実は、「本を書く精神科医」の中では極めて稀有な資質と呼ばねばならない。
これは世に数多いる「本を書く精神科医」を貶めるつもりで言うのではない。だが精神医学というものは、人間の最もなまなましく、不可思議な部分と向かい合う学問であり、そこに従事する以上、どこかに「不可思議な人の心を理解する」という行為への誇りが存在する。そしてその誇りは、常に「私には人がわからないものがわかる、わからないものを説明できる」という驕りと隣り合わせなのである。
優れた医師であっても(いやむしろ優れた医師であるからこそ)ここから逃れるのは容易ではない。斎藤環にしろ、香山リカにしろ、あるいは他の著名な精神科医にしろ、この万能感とも言うべき臭みからは残念ながら自由にはなっていないと思う。私がこの臭いを感じないのは、神谷美恵子と中井久夫、この二人だけだ。
中井久夫氏の、精神科医としての姿には、常に「病者の尊厳に対する敬意」があるように思う。彼は病者と精神病を、存在してはならないものとは扱わないし、また崇高なものとして崇め奉りもしない。そしてもちろん、「普通のもの」を扱うような無神経な扱いもしない。さらには、精神医学による「レッテル貼り」に逃げ込むことも、ない。
このスタンスは、もしかしたら、病者と医者に限らず、人間同士のコミュニケーションにおいて最も重要なものなのではないか。と同時に、最も難しいスタンスとも言える。「あいづちや合いの手は20-30個は持っておくべき」とさらりと書かれた文章ひとつでも、彼の稀有な能力は感じ取れる。
中井久夫氏の著作は、私の心を常に潤してくれるが、同時にある種の絶望感を抱かせる。
この世にこれほどの文章がすでにある以上、私が何を書く必要があるのだろうか?
しかもこの文章はまさに彼自身の深い教養と叡智、積み重ねてきた精神科医としての経験、独特の個性によるものなのだ。「よし、こんな文章を目指そう」と真似したからとて、目指したからとて、たどりつけるものではない。それは努力目標という言葉さえかすむ遠さである。
努力や才能の問題というよりも、文字のひとつひとつが彼の中から生まれた、彼以外からは生まれようのなかった色を帯びており、たとえ私が同レベルの知性や経験を身につけたからとて、この文章を紡ぎ出すことはできないと確信してしまう。
(以前、ある人に「君のリスペクトする、目標となる文筆家について話してみなさい」と言われてひどくうんざりしてしまったのは、このためでもある)
それでも、絶望感を魂の底まで味わうとしても、私は中井久夫の文章に出会えたことを計り知れない恵みだと思う。
「DEATH NOTE」にまつわること 5 ― 2007年01月24日
「DEATH NOTE」という物語世界は、月とデスノートを完膚無きまでに排除して、「なかったこと」にして終わる。
キラがいなくなって、世界の秩序は元に戻り、無数の悪が生き延び、それと闘う善がいたちごっこを繰り返す。デスノートは単なる「凶悪な殺人兵器」であり、月は単なる「大量殺人者」であり、Lは「過去の有能な探偵」で今はすでに後継者がいる。全ては無意味な遠回りだったかのように、あるいはデスノートを手放して全ての記憶を抹消されたかのように、世界は凄惨な事件から何かを学ぶことなく、「元に戻る」のだ。
月は、弱い人間の心のよすがとしての「神」になる。Lが死んで善と完成の象徴となったように、月もまた死んで弱者救済の象徴となる。物語の嗜虐対象となったことを償うかのように与えられたこの称号は、もう決して傷つくことはない。そして恐らくこの「神の存在」は、神など信じられていなかったであろう「DEATH NOTE」世界で、キラによって生まれた唯一の確実な変化だ。
しかしはっきりと「人の死後は無である」と決められた物語世界のもとで、全ては限りなく空虚である。
松田の、月への友情はもはや報われることなく、複雑な気持ちを抱きつつもニアの部下とならざるを得ない。これでよかったんだと言い聞かせ、笑いからかい肩を組む日常に戻っていく捜査本部の面々。生き残ったニアはLの後継者となるが、彼がLを超えるための分身メロはもはやいない。そしてミサの行方は全く語られず物語から無視され、虚空の月に祈る人々が残される。
天才は死んで無となり、死神はこの世を去り、大切なものを失った凡人だけが残され、それでも彼らは生きていかねばならない。That's Life.——というのが、この物語の結論らしい。
それまで現実性をかるがると飛び越え、スリリングな興奮を紡いできた「DEATH NOTE」は、極めて現実的な無常感という地に着陸する。リアルだけれどリアリティのない、説得力に満ちた納得できない終わり方だ。
数多くの「読者製作最終回」を作り出すほどのエネルギーを発散するという意味では、この不全感は「傑作」と呼ぶに値するものなのかも知れない。だが同時に、物語自身が自分の始末をつけることを放棄してしまった結果——とも言える。
もちろん、「死者は生き返らない」「死後は無である」からと言って「DEATH NOTE」世界の死が虚無になる訳ではない、という考えもあるだろう。
レイ・ペンバーの死後ナオミが残ったように、Lは死んでもニアとメロという後継者が残り、月が死んでも彼を崇拝する人々は残ったように、個人は死んでもその思いや業績は残る。生者がいる限り、死は虚無ではない。そういう考え方もできるはずであるし、また恐らく物語が伝えようとしたメッセージにも(それが存在するとすればだが)近いに違いない。
だが私がそう素直に思えないのは、やはり、「DEATH NOTE」世界が数々の屍を乗り越えて後「何も変わらなかった」ことによるのだろう。
たとえ死者の後を生者が継いでいったとしても、それが単なる再生産に過ぎないのであれば、死は無為である。少なくとも、生き残った人間は何かを得なくては意味があるまい。だが生き残ったニアは、捜査本部のメンバーは、ミサは、そして死神や世界そのものは、何を得たのだろうか? 物語はそれを示唆していない……というのは、私の読みが浅いせいだと、思いたいのだが。
私個人は、この物語の結末に対して感動はしない。ただ、虚しささを覚えるのみだ。一体あれは何だったんだろう?という徒労感。
物語が空虚であることは、イコール無意味さではない。たとえば神話や民話、おとぎ話は、そこから無限の意味や教訓や思想を引き出すことが可能であるという意味で空虚である。そこには「物語のお約束」があり、逆に言えばそれしか存在しない。その一見貧弱な物語はしかし、固定的な解釈しかないように見えて、時代や読み手の変化とともに自在に形を変えて生き延びていく。
だが「DEATH NOTE」は、作り手が受け手の想像や物語構造の定番というものを何とか否定しようとあがき、「少年漫画的な落ち着きのよさ」を否定し続けた結果、そういった無限の解釈を可能にする領域も排除してしまったようだ。「何かを語ろうとすることによって、語り得たかも知れないものが失われてしまう」罠とでも表現すればいいのだろうか。
「DEATH NOTE」は、善悪や死を問うことを手放し、純粋な知恵比べや勝負事を中心に据える姿勢を最後まで貫いていたら、かえってそこに死や善に対する思考を育む豊かな土壌を培えていたのかも知れない。この物語にはそれだけの力は備わっていたと思う。
生死を口先で語る哲学にではなく、思想など無縁に懸命に生ききり死んでいく姿にこそ、人は何かを感じ何かを得る。二人の天才の死闘をただひたすら描くことで、そこに影絵のように豊かな解釈と思想が映し出されたのではないだろうか。
そう思うと、とても悔しい思いにかられる。
だがある意味では、「DEATH NOTE」とは、徹頭徹尾「無常」を描く物語だったのかも知れない。もともとそこには、本当の意味で、何もなかったのかも知れない。
そもそも何かを期待するという姿勢自体が、この物語を読む姿勢としてあまりふさわしくなかったのかも知れず——必要なのは、「そして誰もいなくなった」という空虚な感覚を、ただ味わって、そして忘れてゆくこと、なのだろう。
(「DEATH NOTE」の項おわり)
キラがいなくなって、世界の秩序は元に戻り、無数の悪が生き延び、それと闘う善がいたちごっこを繰り返す。デスノートは単なる「凶悪な殺人兵器」であり、月は単なる「大量殺人者」であり、Lは「過去の有能な探偵」で今はすでに後継者がいる。全ては無意味な遠回りだったかのように、あるいはデスノートを手放して全ての記憶を抹消されたかのように、世界は凄惨な事件から何かを学ぶことなく、「元に戻る」のだ。
月は、弱い人間の心のよすがとしての「神」になる。Lが死んで善と完成の象徴となったように、月もまた死んで弱者救済の象徴となる。物語の嗜虐対象となったことを償うかのように与えられたこの称号は、もう決して傷つくことはない。そして恐らくこの「神の存在」は、神など信じられていなかったであろう「DEATH NOTE」世界で、キラによって生まれた唯一の確実な変化だ。
しかしはっきりと「人の死後は無である」と決められた物語世界のもとで、全ては限りなく空虚である。
松田の、月への友情はもはや報われることなく、複雑な気持ちを抱きつつもニアの部下とならざるを得ない。これでよかったんだと言い聞かせ、笑いからかい肩を組む日常に戻っていく捜査本部の面々。生き残ったニアはLの後継者となるが、彼がLを超えるための分身メロはもはやいない。そしてミサの行方は全く語られず物語から無視され、虚空の月に祈る人々が残される。
天才は死んで無となり、死神はこの世を去り、大切なものを失った凡人だけが残され、それでも彼らは生きていかねばならない。That's Life.——というのが、この物語の結論らしい。
それまで現実性をかるがると飛び越え、スリリングな興奮を紡いできた「DEATH NOTE」は、極めて現実的な無常感という地に着陸する。リアルだけれどリアリティのない、説得力に満ちた納得できない終わり方だ。
数多くの「読者製作最終回」を作り出すほどのエネルギーを発散するという意味では、この不全感は「傑作」と呼ぶに値するものなのかも知れない。だが同時に、物語自身が自分の始末をつけることを放棄してしまった結果——とも言える。
もちろん、「死者は生き返らない」「死後は無である」からと言って「DEATH NOTE」世界の死が虚無になる訳ではない、という考えもあるだろう。
レイ・ペンバーの死後ナオミが残ったように、Lは死んでもニアとメロという後継者が残り、月が死んでも彼を崇拝する人々は残ったように、個人は死んでもその思いや業績は残る。生者がいる限り、死は虚無ではない。そういう考え方もできるはずであるし、また恐らく物語が伝えようとしたメッセージにも(それが存在するとすればだが)近いに違いない。
だが私がそう素直に思えないのは、やはり、「DEATH NOTE」世界が数々の屍を乗り越えて後「何も変わらなかった」ことによるのだろう。
たとえ死者の後を生者が継いでいったとしても、それが単なる再生産に過ぎないのであれば、死は無為である。少なくとも、生き残った人間は何かを得なくては意味があるまい。だが生き残ったニアは、捜査本部のメンバーは、ミサは、そして死神や世界そのものは、何を得たのだろうか? 物語はそれを示唆していない……というのは、私の読みが浅いせいだと、思いたいのだが。
私個人は、この物語の結末に対して感動はしない。ただ、虚しささを覚えるのみだ。一体あれは何だったんだろう?という徒労感。
物語が空虚であることは、イコール無意味さではない。たとえば神話や民話、おとぎ話は、そこから無限の意味や教訓や思想を引き出すことが可能であるという意味で空虚である。そこには「物語のお約束」があり、逆に言えばそれしか存在しない。その一見貧弱な物語はしかし、固定的な解釈しかないように見えて、時代や読み手の変化とともに自在に形を変えて生き延びていく。
だが「DEATH NOTE」は、作り手が受け手の想像や物語構造の定番というものを何とか否定しようとあがき、「少年漫画的な落ち着きのよさ」を否定し続けた結果、そういった無限の解釈を可能にする領域も排除してしまったようだ。「何かを語ろうとすることによって、語り得たかも知れないものが失われてしまう」罠とでも表現すればいいのだろうか。
「DEATH NOTE」は、善悪や死を問うことを手放し、純粋な知恵比べや勝負事を中心に据える姿勢を最後まで貫いていたら、かえってそこに死や善に対する思考を育む豊かな土壌を培えていたのかも知れない。この物語にはそれだけの力は備わっていたと思う。
生死を口先で語る哲学にではなく、思想など無縁に懸命に生ききり死んでいく姿にこそ、人は何かを感じ何かを得る。二人の天才の死闘をただひたすら描くことで、そこに影絵のように豊かな解釈と思想が映し出されたのではないだろうか。
そう思うと、とても悔しい思いにかられる。
だがある意味では、「DEATH NOTE」とは、徹頭徹尾「無常」を描く物語だったのかも知れない。もともとそこには、本当の意味で、何もなかったのかも知れない。
そもそも何かを期待するという姿勢自体が、この物語を読む姿勢としてあまりふさわしくなかったのかも知れず——必要なのは、「そして誰もいなくなった」という空虚な感覚を、ただ味わって、そして忘れてゆくこと、なのだろう。
(「DEATH NOTE」の項おわり)
「DEATH NOTE」にまつわること 4 ― 2007年01月17日
デスノートという存在は、大抵の人間(そしてキャラクター)を簡単に呑みこみ翻弄し破壊する。一話完結型のストーリーだったら、心弱い人間がデスノートによって束の間欲望を叶え、そしてデスノートによって滅ぼされるという、寓話的な(そしてとても典型的な)物語として成立しただろう。
だがデスノートに支配されるはなく、あくまで道具として使いこなしながら、自分の目的を達していける稀有なキャラクターとして月は存在する。
デスノートを使った直後、月は恐怖で不眠に苦しみ数キロ痩せ、その後死神という超常的な存在に出会うが、なお持ち堪える。それからの彼は、自分に対する迷いや苦悩を一切表さない。そしてリュークに「お前は立派な死神だ」「もしかしてすごく前向きな奴」「最高の奴にノートを拾われた」とまで言わしめた訳だ。
それ自体が人の運命を狂わせる超越的な存在であったデスノートは、ここで「月の道具」に変わる。卓越した知性と精神力と体力と美貌が月の武器であるように、デスノートもひとつの武器に過ぎなくなる。「DEATH NOTE」がデスノートの物語ではなく月の物語になった瞬間だ。
……と、ここで恐らく多くの人が反論するだろう。
「いや、月もデスノートに支配されていたのではないか。記憶を失った彼は、キラのようになるなんて考えられないと自認していた。月はデスノートによってキラになり、そして段々と歯止めが効かなくなって、最後はデスノートと死神に殺されたのだ」
いや全くその通り。デスノートにあのような形で出会わなかったら、月があのような思想に至りあのような行為に走ったかは、はなはだ疑問だ。恐らく、月は父親と同じ、ひどく頭がいいがちょっと融通が効かない高潔な警察官僚として一生を終えただろう。
(そして「DEATH NOTE」は「笑ウせいるすまん」みたいな一話完結型連載になったことだろう)
「もし月がデスノートに出会わなかったら」というifの世界は、物語内で実現する。デスノートと記憶を失った月はLと共に、ヨツバ・キラを追いつめる。このエピソードは、完全に善である月と奇矯な善人であるLが、議論の余地なく悪人であるヨツバ・キラに相対するという、とても安心して応援できる設定もあって、わくわくするような興奮に満ちている。
と同時に、「月なしのデスノート」がどれほど脆い存在であるかも露呈される。ヨツバ・キラの終わりは実にあっけない。ある意味ではデスノートに翻弄される心弱い人間のストーリーそのものだ。
やがて月とデスノートは再会し、死を大量生産していくキラに立ち戻り、そして月の死後、デスノートは燃やされて消える。殉死する臣下のように。
デスノートと月は、どちらかがどちらかを支配していたというより、絡まりあうウロボロスの蛇となって一体化していたらしい。
デスノートは物語中何人かの手に広がっていくが、キラ(つまり月)の縮小再生産を繰り返すのみである。唯一デスノートを持っても持たなくても全くと言っていいほど変わらなかったキャラクターは、ミサだ。デスノートをあれほど長く所有し、また何人と人を殺したにもかかわらず、デスノートを所有しても手放しても、彼女には記憶以外何の変化もない。ひょっとしてキラがいなかったら、彼女はデスノートを使用することさえなかったのではないかとさえ思わされる。
他にデスノートを(恐らく)使用して生き延びたのはニアだけだが、彼はLの後継者であり、デスノートを使わずとも悪人を裁ける(そして同時に他人を合法的に使い捨て殺すことができる)権力者である。彼がデスノートに捕まらなかったのは、すでにそれに代わるものを持っていたからとも言えるだろう。
だからこそ、デスノートでしかできない「善」があった時、ニアはそれを実行してのけたのだ。つまりニアもまた、純粋な善にはなり得なかったのである。まぁ彼はLになりたかったのであって善になどあまり興味はなかったようにも見えるが。
†
第二部は、月が墜落していく物語であると同時に、ニアとメロの和解と、瞬間的な救済の物語である。
ニアとメロは、Lの後継ゲームの道具としてキラを選ぶ。Lにとってキラは正面から向き合う生涯を賭けた闘いの相手だったが、ニアとメロにとってはそうではない。主人公を根本的には無視している人間達が物語の根幹に入ってくることで、第二部の軸はかなり狂ってしまった。
もしも、月という存在を完全に除外するか、あるいは月の視点を排除してニアとメロに視点を固定していたら、第二部はもっと完成度の高いものになっていたように思う。
ニアとメロの葛藤と愛憎は、月とLの間に交わされたものに似ているが、さらに濃密で圧迫感に満ちている。彼らはシャム双生児のごとき不可分の存在だ。ニアとメロは反発を繰り返しながらようやく無意識の共闘を成し遂げ、月を(そしてLを)超える。だがそのためにはメロが死なねばならなかった。
片割れを失ったニアは、メロのチョコレートを貪る癖を引き継いでLとなる。——しかし、死が虚無を意味するこの世界で、その姿を「ニアとメロがひとつになってLとなった」と考えるのは、やや単純で感傷的に過ぎる気がする。私の目にはそれは、メロの命を代償に一度だけLになり得たけれど、それを永続させる可能性を失ってしまったニアの、空虚さを埋めようとあがく行為のように映るのだが……それについては、異論も多いことだろう。
何度か述べたように、ニアとメロの意識は常に互いに、そしてLに向けられている。
そのため、彼らにとって月は単なる通過点に過ぎず、月の帯びるある種の悲劇性や苦悩には全く興味がない。そもそも彼らと月が出会うのはひとときであり、最初から最後までニアとメロにとってキラはほとんど概念でしかなかったろう。
(その頃の月が、度重なる聖域の喪失によってすでに人間性とキャラクター性を失いつつあったこともそれを加速する)
ニアは月をただの大量殺人者と切って捨てるが、それは恐らくLが月に抱いていた感情とは微妙に異なっている。また同じようにデスノートを使って「一番の存在になろうとした」メロがキラとして彼に対峙したとしたら、ニアは全く違った感情を抱いたことだろう。月・L、ニア・メロは、(レベルや質とは全く別の意味で)次元を異にする存在だ。両者の間には、恐らく理解や共感は一瞬たりとも存在しなかったし、その可能性すらなかっただろう。
月とニア(メロ)の闘いは、どこかちぐはぐで、緊張感というよりは不協和音に近い落ち着かなさをただよわせている。それは本来なら交わることのなかった運命が、ほとんど手違いのようにして交錯するストーリーだ。そして少なくとも月という主人公には、その結果は死であるのみならず、何の実りももたらさない。
ニアの断罪は月の心に届くことなく、月は己の偽善性や過ちや罪悪や狂気を自覚しないまま、ただのたうちまわって死ぬ。その光景は、月を貶めると同時に、ニアの限界を——他者に対する共感性や悪に転落する者の苦悩への理解を持たず、自己の正当性に疑いを抱くことのない、平板な人間性を示してしまう。
ニアとメロが手を取り合ってLを超える和解の物語は、ここでもまた空中分解を起こし、ニアはただ知恵比べに優れる「人間性の欠如したL」ではないだろうか、という不安が生まれる。
もしニアが正面から闘う相手が月ではなく、本来闘うべき相手であれば——彼が正面から向き合い、本当の意味で存在を賭けて闘い、その過程で理解が生じる可能性のある相手であったなら。ニアは頭脳という意味だけでなく精神性や人間性という側面においても、Lに比肩する、あるいはLを超える存在として読者の心に響いたかも知れない。だがその可能性は残念ながら失われている。この無念さもまた、私が第二部を決して評価できない理由のひとつである。
†
ついでながら、Lなき後月の「本当の相手」として対峙できる可能性があったのは、意外だけれど松田であったかも知れない。
彼は唯一、キラという存在に対して否定一辺倒ではない複雑な感情を持つ人間として描かれ、またキラとは無関係に月という人間自身に、単なる仲間意識を越えた友情を感じていたキャラクターである。彼が見ていた月が、多くの仮面によって構成されている代物であったことを割り引いても。
結局物語は、松田を月に近づけることはあっても、それ以上の共感は許さない。松田が最後に月に与える言葉は、月の父親に関することである。松田と月の関係性は、総一郎を共有したという仲間意識に後退する。
月の死後、松田は彼への哀惜を表すが、それすらも他の人間に指摘されるまでは気付かない。松田の月への感情は、物語の奥深く、二重三重に屈折して封印されていく。
(5に続く)
だがデスノートに支配されるはなく、あくまで道具として使いこなしながら、自分の目的を達していける稀有なキャラクターとして月は存在する。
デスノートを使った直後、月は恐怖で不眠に苦しみ数キロ痩せ、その後死神という超常的な存在に出会うが、なお持ち堪える。それからの彼は、自分に対する迷いや苦悩を一切表さない。そしてリュークに「お前は立派な死神だ」「もしかしてすごく前向きな奴」「最高の奴にノートを拾われた」とまで言わしめた訳だ。
それ自体が人の運命を狂わせる超越的な存在であったデスノートは、ここで「月の道具」に変わる。卓越した知性と精神力と体力と美貌が月の武器であるように、デスノートもひとつの武器に過ぎなくなる。「DEATH NOTE」がデスノートの物語ではなく月の物語になった瞬間だ。
……と、ここで恐らく多くの人が反論するだろう。
「いや、月もデスノートに支配されていたのではないか。記憶を失った彼は、キラのようになるなんて考えられないと自認していた。月はデスノートによってキラになり、そして段々と歯止めが効かなくなって、最後はデスノートと死神に殺されたのだ」
いや全くその通り。デスノートにあのような形で出会わなかったら、月があのような思想に至りあのような行為に走ったかは、はなはだ疑問だ。恐らく、月は父親と同じ、ひどく頭がいいがちょっと融通が効かない高潔な警察官僚として一生を終えただろう。
(そして「DEATH NOTE」は「笑ウせいるすまん」みたいな一話完結型連載になったことだろう)
「もし月がデスノートに出会わなかったら」というifの世界は、物語内で実現する。デスノートと記憶を失った月はLと共に、ヨツバ・キラを追いつめる。このエピソードは、完全に善である月と奇矯な善人であるLが、議論の余地なく悪人であるヨツバ・キラに相対するという、とても安心して応援できる設定もあって、わくわくするような興奮に満ちている。
と同時に、「月なしのデスノート」がどれほど脆い存在であるかも露呈される。ヨツバ・キラの終わりは実にあっけない。ある意味ではデスノートに翻弄される心弱い人間のストーリーそのものだ。
やがて月とデスノートは再会し、死を大量生産していくキラに立ち戻り、そして月の死後、デスノートは燃やされて消える。殉死する臣下のように。
デスノートと月は、どちらかがどちらかを支配していたというより、絡まりあうウロボロスの蛇となって一体化していたらしい。
デスノートは物語中何人かの手に広がっていくが、キラ(つまり月)の縮小再生産を繰り返すのみである。唯一デスノートを持っても持たなくても全くと言っていいほど変わらなかったキャラクターは、ミサだ。デスノートをあれほど長く所有し、また何人と人を殺したにもかかわらず、デスノートを所有しても手放しても、彼女には記憶以外何の変化もない。ひょっとしてキラがいなかったら、彼女はデスノートを使用することさえなかったのではないかとさえ思わされる。
他にデスノートを(恐らく)使用して生き延びたのはニアだけだが、彼はLの後継者であり、デスノートを使わずとも悪人を裁ける(そして同時に他人を合法的に使い捨て殺すことができる)権力者である。彼がデスノートに捕まらなかったのは、すでにそれに代わるものを持っていたからとも言えるだろう。
だからこそ、デスノートでしかできない「善」があった時、ニアはそれを実行してのけたのだ。つまりニアもまた、純粋な善にはなり得なかったのである。まぁ彼はLになりたかったのであって善になどあまり興味はなかったようにも見えるが。
†
第二部は、月が墜落していく物語であると同時に、ニアとメロの和解と、瞬間的な救済の物語である。
ニアとメロは、Lの後継ゲームの道具としてキラを選ぶ。Lにとってキラは正面から向き合う生涯を賭けた闘いの相手だったが、ニアとメロにとってはそうではない。主人公を根本的には無視している人間達が物語の根幹に入ってくることで、第二部の軸はかなり狂ってしまった。
もしも、月という存在を完全に除外するか、あるいは月の視点を排除してニアとメロに視点を固定していたら、第二部はもっと完成度の高いものになっていたように思う。
ニアとメロの葛藤と愛憎は、月とLの間に交わされたものに似ているが、さらに濃密で圧迫感に満ちている。彼らはシャム双生児のごとき不可分の存在だ。ニアとメロは反発を繰り返しながらようやく無意識の共闘を成し遂げ、月を(そしてLを)超える。だがそのためにはメロが死なねばならなかった。
片割れを失ったニアは、メロのチョコレートを貪る癖を引き継いでLとなる。——しかし、死が虚無を意味するこの世界で、その姿を「ニアとメロがひとつになってLとなった」と考えるのは、やや単純で感傷的に過ぎる気がする。私の目にはそれは、メロの命を代償に一度だけLになり得たけれど、それを永続させる可能性を失ってしまったニアの、空虚さを埋めようとあがく行為のように映るのだが……それについては、異論も多いことだろう。
何度か述べたように、ニアとメロの意識は常に互いに、そしてLに向けられている。
そのため、彼らにとって月は単なる通過点に過ぎず、月の帯びるある種の悲劇性や苦悩には全く興味がない。そもそも彼らと月が出会うのはひとときであり、最初から最後までニアとメロにとってキラはほとんど概念でしかなかったろう。
(その頃の月が、度重なる聖域の喪失によってすでに人間性とキャラクター性を失いつつあったこともそれを加速する)
ニアは月をただの大量殺人者と切って捨てるが、それは恐らくLが月に抱いていた感情とは微妙に異なっている。また同じようにデスノートを使って「一番の存在になろうとした」メロがキラとして彼に対峙したとしたら、ニアは全く違った感情を抱いたことだろう。月・L、ニア・メロは、(レベルや質とは全く別の意味で)次元を異にする存在だ。両者の間には、恐らく理解や共感は一瞬たりとも存在しなかったし、その可能性すらなかっただろう。
月とニア(メロ)の闘いは、どこかちぐはぐで、緊張感というよりは不協和音に近い落ち着かなさをただよわせている。それは本来なら交わることのなかった運命が、ほとんど手違いのようにして交錯するストーリーだ。そして少なくとも月という主人公には、その結果は死であるのみならず、何の実りももたらさない。
ニアの断罪は月の心に届くことなく、月は己の偽善性や過ちや罪悪や狂気を自覚しないまま、ただのたうちまわって死ぬ。その光景は、月を貶めると同時に、ニアの限界を——他者に対する共感性や悪に転落する者の苦悩への理解を持たず、自己の正当性に疑いを抱くことのない、平板な人間性を示してしまう。
ニアとメロが手を取り合ってLを超える和解の物語は、ここでもまた空中分解を起こし、ニアはただ知恵比べに優れる「人間性の欠如したL」ではないだろうか、という不安が生まれる。
もしニアが正面から闘う相手が月ではなく、本来闘うべき相手であれば——彼が正面から向き合い、本当の意味で存在を賭けて闘い、その過程で理解が生じる可能性のある相手であったなら。ニアは頭脳という意味だけでなく精神性や人間性という側面においても、Lに比肩する、あるいはLを超える存在として読者の心に響いたかも知れない。だがその可能性は残念ながら失われている。この無念さもまた、私が第二部を決して評価できない理由のひとつである。
†
ついでながら、Lなき後月の「本当の相手」として対峙できる可能性があったのは、意外だけれど松田であったかも知れない。
彼は唯一、キラという存在に対して否定一辺倒ではない複雑な感情を持つ人間として描かれ、またキラとは無関係に月という人間自身に、単なる仲間意識を越えた友情を感じていたキャラクターである。彼が見ていた月が、多くの仮面によって構成されている代物であったことを割り引いても。
結局物語は、松田を月に近づけることはあっても、それ以上の共感は許さない。松田が最後に月に与える言葉は、月の父親に関することである。松田と月の関係性は、総一郎を共有したという仲間意識に後退する。
月の死後、松田は彼への哀惜を表すが、それすらも他の人間に指摘されるまでは気付かない。松田の月への感情は、物語の奥深く、二重三重に屈折して封印されていく。
(5に続く)
「DEATH NOTE」にまつわること 3 ― 2007年01月15日
夜神月、というキャラクターについて語る時、私はとても奇妙な気持ちになる。
通常なら、私は彼のような人間を全く好まない——というより、傍にいたらはっきりと嫌悪するだろう。
そもそも私は、意図が純粋であっても結果が正しくても、倫理を他者に強制する人間を認めない。月という人間は、始末に負えないほど独善的で、他者に対する共感能力に乏しい。善意を惜しげもなく燃料として投じながら人を殺していく彼の姿は、恐怖政治を敷く独裁者の類型に極めて近いだろう。
だが不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語の中で私が最も感情移入した(そして恐らく最も好んだ)キャラクターは夜神月であって、Lやミサや松田ではないのである。
まあ「やっぱり美形はいいよね」といった笑い話に軟着陸させてしまえば、一番わかりやすいし納得しやすいところなのだが、そう簡単な理屈ではないらしい。
(そう思いたいだけなのかも知れないが)
「DEATH NOTE」がもともと短篇として作られ、その後設定を生かしてこの連載に至った、という事情を私は全く知らなくて、連載終了後に友人から聞いた。その友人が言うには「『笑ウせいるすまん』みたいなテイストの一話完結型の連載になると思ってた」そうだ。
だがそうはならず、「DEATH NOTE」はあのような長編となった。それが成立したのは、月というキャラクターに因るところが大きい。
考えてみると、たとえばLは、単独で別の物語の登場人物になり得る(実際外伝はLが事件を解決していく探偵ものだ)。だが月はどうだろうか。不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語から切り離された月は極めてキャラクター性に乏しいのだ。
常軌を逸したと言ってもいいような知能と、強靱極まりない精神力、優れた運動神経と体力、端整な美貌、他人を簡単に籠絡できる魅力、そういった「何もかも神様から与えられた」人間——だがただそれだけのキャラクター、になってしまう。
月は「DEATH NOTE」でこそ生かされるキャラクターであり、そして同時に彼なしでは「DEATH NOTE」という物語は成立しない。
他人を焼きつくす白光のごとき陰翳のない、月というキャラクターは、「DEATH NOTE」という物語でそれこそ光そのもののように直進する。
彼は終始迷いがなく、妥協せず、限りなく純粋で、決してあきらめず、同時に己の過ちを認めることも、そもそも己を振り返ることもほとんどない。
「僕は日本一と言ってもいいくらい真面目な優等生だよ」と何の衒いもなく言ってしまうような彼の自己中心性は、あまりにまっすぐで、独善を通り越してほとんど神(悪魔)の領域に入っているような気さえする。
物語は、彼のそんな様子を突き放すのではなく、微妙な距離感を保ちつつも常に寄り添いながら展開していく。
月はどうしようもなくエゴイスティックで選民意識に凝り固まっている人間なのだが、どこかに透明感と哀しみを帯びる。その哀切さは月自身が抱くものではなく、極めて優れた資質を持ちながら滅亡へ突き進んでいく予感から読者が抱くものだが。
(逆にそこに哀切さではなく嫌悪を感じ、彼が崩壊していく様をむしろ歓迎し喜ぶ読者も多かっただろうけれど)
†
月を単なる独裁者という描写から救い出しているのは、恐らく彼の家族——中でも総一郎の存在だろう。
月が父親に抱いている感情は、実はとても奇妙な描写のされ方をしていて、物語の中ではっきりと結論が出せないように、つまり無限の解釈が可能なようになっている。
単純に頼りにできる手駒であり、月がキラではないことを装うための重要な道具として考えているようにも見えるし、純粋な敬愛の対象であり、大切な心の温もりであるようにも見える。
恐らくその全てが入り混じっているというのが一番間違いの少ない考えで、また実際人間が親に抱く感情というのはそういった複雑怪奇なものだろう。
過労で総一郎が心臓発作を起こした時、月はLとともに「まさかキラが」と叫ぶ。そうではないことは彼自身が誰よりも知っているはずで、キラではないことを隠すためにLに見せたポーズと考えるのが自然だ。だがその表情は、Lに相対していた時に描かれる「作った表情」とは異なったものにも見える。その瞬間だけ、月はキラであることを忘れ、愛する人を失う無防備な少年になったかのようだ。
その後の、入院した父と交わす「僕がキラを死刑にする」といった言動は、Lに「演技だとしたらクサすぎる」とまで思わせ、総一郎に「月がLであるはずがない」と確信させる。月の演技力を見せるエピソードとも、月が「純粋な善」として存在できるのは実は家族の愛の中だけだというニュアンスを示しているともとれる。
他の誰をも(自分を命がけで愛しているミサさえも)道具として使い捨てることをためらわない月が、唯一守ろうとあがくのが、総一郎を含めた家族の存在である。繰り返しになるが、もちろんそれは、「キラではないというポーズ」のためともとれる。
月の心に設定されたこの一種の聖域は、月に残された数少ないキャラクター性である。単なる制約と見るか、月の最後の良心と見るかで、月というキャラクターに対する印象と評価は全く変わってくるだろう。
そしていよいよ第二部で、聖域が破壊される時が来る。粧裕は命をとりとめるものの心を失い、さらに月は、父親をデスノートの所有者に設定して殺すか否かを迫られる。
結局月は、父親を助けることを選ばなかった(選べなかった)。
総一郎は、月の寿命が見えるために月がキラではないのだという確信を持ったまま、幸福に死ぬ。月が泣きながら「悔しくないのか、せめてメロの名前をデスノートに書いてくれ」と頼む声も間に合わない。その懇願はメロを殺す的確な手段であるけれど、同時に父を失おうとしている月が怒りを転嫁した先であるメロへの復讐をも意味している。
彼の涙が空涙なのか、最初で最後の本当の涙なのか、物語は結論を示すことはない。どちらにせよ、自分の手で自分の良心の象徴を破壊した月は、それから先は議論の余地のない悪に——「ただの大量殺人者」に転落していく。
そういう意味では、夜神月というキャラクターは、実は夜神総一郎というキャラクターがあって成立していたのかも知れない。Lしかり、総一郎しかり、月は他のキャラクターとの関係性において初めて「キャラクター」として光り輝く。発光体であるけれど、自ら輝く太陽ではなく反射体である月という天文が彼の名前になっているのは、偶然なのだろうけれど。
†
余談だが、これにとても近いキャラクターとして私が思い出すのは、吉田秋生の「吉祥天女」の主人公、叶小夜子である。彼女は新世界の神を目指すほど傲慢ではなかったけれど、家と家族と自らの女性性を守ろうという懸命で純粋な気持ちのまま、次々と殺人を実行し、最後には本当に自分を想ってくれていた(そして彼女自身も恐らく最も大切に想っていたと感じられる)少年を死に追いやることになる。
だが「吉祥天女」は「DEATH NOTE」とは全く異なる結末を迎える。それが何故なのかは、この双方の作品を読んでいただくととても明快にわかるだろう。
†
月という人間が崩壊していくのは、第二部で顕著にはなるけれど、恐らく物語のテーマのひとつとして最初から念頭に置かれていただろう。その証拠に、デスノートを持ってからの月の顔や表情は、明確に変化する。いわゆる漫画家のペンタッチの変化とは明らかに異なる、作為的なものだ。その意味では、純粋な善であった月が、殺人を重ねるにつれて次第にただの殺人者に堕落していき、最後は無惨に死ぬというのは想定されていた結末だったのに違いない。
だが、人間性の変化とは別に、キャラクター性の変化というものが恐らくあって、こちらは想定していたというよりもやや暴走していったような雰囲気がある。
第二部以降、次第に不利になっていき、しかも凶悪で狂気に満ちた存在になっていく月を、物語はサディスティックな興奮を交えて描く。それまで月に寄り添っていた物語が、彼を裏切り、彼を嬉々として苛み始める。
まるまる見開きで描かれるあの「僕がキラだよ」という告白、「単なる大量殺人者」という烙印、そして全ての味方から背を向けられ醜悪極まりない形で迎える死。それらはただ惨めというだけではなく、月という人間にもキャラクターにもまるで似つかわしくない。醜悪だからではなく、その醜悪さの方向性が彼らしくない、と言うべきだろうか。私は呆然と「今まで保たれてきた月という人間の統一性はどこへ行ってしまったんだろう?」と思ったのを覚えている。
さらに言えば、あの場面には「彼が犯してきた罪への罰」といった言葉では説明のつかない、暗い感覚に満ちている。あそこで描かれるのは全てを失った犯罪者に対して民衆が石を投げるリンチの情念だ。
ここでカタルシスを覚え溜飲を下げた読者もいるはずで、それは月というキャラクター(および人間)から離陸し彼を突き放すことに成功した読者だろう。
同時に、月に対して否定的な感情を抱きつつも、どこかで共感を続けていたタイプの読者の感情はここで放り出され、物語は空中分解する。物語の終わりで「月くんはキラだったが、彼のことが好きだったろう?」と問われる松田のように、虚脱感にも似たやりきれなさを抱えていくことを余儀なくされる。
(4に続く)
通常なら、私は彼のような人間を全く好まない——というより、傍にいたらはっきりと嫌悪するだろう。
そもそも私は、意図が純粋であっても結果が正しくても、倫理を他者に強制する人間を認めない。月という人間は、始末に負えないほど独善的で、他者に対する共感能力に乏しい。善意を惜しげもなく燃料として投じながら人を殺していく彼の姿は、恐怖政治を敷く独裁者の類型に極めて近いだろう。
だが不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語の中で私が最も感情移入した(そして恐らく最も好んだ)キャラクターは夜神月であって、Lやミサや松田ではないのである。
まあ「やっぱり美形はいいよね」といった笑い話に軟着陸させてしまえば、一番わかりやすいし納得しやすいところなのだが、そう簡単な理屈ではないらしい。
(そう思いたいだけなのかも知れないが)
「DEATH NOTE」がもともと短篇として作られ、その後設定を生かしてこの連載に至った、という事情を私は全く知らなくて、連載終了後に友人から聞いた。その友人が言うには「『笑ウせいるすまん』みたいなテイストの一話完結型の連載になると思ってた」そうだ。
だがそうはならず、「DEATH NOTE」はあのような長編となった。それが成立したのは、月というキャラクターに因るところが大きい。
考えてみると、たとえばLは、単独で別の物語の登場人物になり得る(実際外伝はLが事件を解決していく探偵ものだ)。だが月はどうだろうか。不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語から切り離された月は極めてキャラクター性に乏しいのだ。
常軌を逸したと言ってもいいような知能と、強靱極まりない精神力、優れた運動神経と体力、端整な美貌、他人を簡単に籠絡できる魅力、そういった「何もかも神様から与えられた」人間——だがただそれだけのキャラクター、になってしまう。
月は「DEATH NOTE」でこそ生かされるキャラクターであり、そして同時に彼なしでは「DEATH NOTE」という物語は成立しない。
他人を焼きつくす白光のごとき陰翳のない、月というキャラクターは、「DEATH NOTE」という物語でそれこそ光そのもののように直進する。
彼は終始迷いがなく、妥協せず、限りなく純粋で、決してあきらめず、同時に己の過ちを認めることも、そもそも己を振り返ることもほとんどない。
「僕は日本一と言ってもいいくらい真面目な優等生だよ」と何の衒いもなく言ってしまうような彼の自己中心性は、あまりにまっすぐで、独善を通り越してほとんど神(悪魔)の領域に入っているような気さえする。
物語は、彼のそんな様子を突き放すのではなく、微妙な距離感を保ちつつも常に寄り添いながら展開していく。
月はどうしようもなくエゴイスティックで選民意識に凝り固まっている人間なのだが、どこかに透明感と哀しみを帯びる。その哀切さは月自身が抱くものではなく、極めて優れた資質を持ちながら滅亡へ突き進んでいく予感から読者が抱くものだが。
(逆にそこに哀切さではなく嫌悪を感じ、彼が崩壊していく様をむしろ歓迎し喜ぶ読者も多かっただろうけれど)
†
月を単なる独裁者という描写から救い出しているのは、恐らく彼の家族——中でも総一郎の存在だろう。
月が父親に抱いている感情は、実はとても奇妙な描写のされ方をしていて、物語の中ではっきりと結論が出せないように、つまり無限の解釈が可能なようになっている。
単純に頼りにできる手駒であり、月がキラではないことを装うための重要な道具として考えているようにも見えるし、純粋な敬愛の対象であり、大切な心の温もりであるようにも見える。
恐らくその全てが入り混じっているというのが一番間違いの少ない考えで、また実際人間が親に抱く感情というのはそういった複雑怪奇なものだろう。
過労で総一郎が心臓発作を起こした時、月はLとともに「まさかキラが」と叫ぶ。そうではないことは彼自身が誰よりも知っているはずで、キラではないことを隠すためにLに見せたポーズと考えるのが自然だ。だがその表情は、Lに相対していた時に描かれる「作った表情」とは異なったものにも見える。その瞬間だけ、月はキラであることを忘れ、愛する人を失う無防備な少年になったかのようだ。
その後の、入院した父と交わす「僕がキラを死刑にする」といった言動は、Lに「演技だとしたらクサすぎる」とまで思わせ、総一郎に「月がLであるはずがない」と確信させる。月の演技力を見せるエピソードとも、月が「純粋な善」として存在できるのは実は家族の愛の中だけだというニュアンスを示しているともとれる。
他の誰をも(自分を命がけで愛しているミサさえも)道具として使い捨てることをためらわない月が、唯一守ろうとあがくのが、総一郎を含めた家族の存在である。繰り返しになるが、もちろんそれは、「キラではないというポーズ」のためともとれる。
月の心に設定されたこの一種の聖域は、月に残された数少ないキャラクター性である。単なる制約と見るか、月の最後の良心と見るかで、月というキャラクターに対する印象と評価は全く変わってくるだろう。
そしていよいよ第二部で、聖域が破壊される時が来る。粧裕は命をとりとめるものの心を失い、さらに月は、父親をデスノートの所有者に設定して殺すか否かを迫られる。
結局月は、父親を助けることを選ばなかった(選べなかった)。
総一郎は、月の寿命が見えるために月がキラではないのだという確信を持ったまま、幸福に死ぬ。月が泣きながら「悔しくないのか、せめてメロの名前をデスノートに書いてくれ」と頼む声も間に合わない。その懇願はメロを殺す的確な手段であるけれど、同時に父を失おうとしている月が怒りを転嫁した先であるメロへの復讐をも意味している。
彼の涙が空涙なのか、最初で最後の本当の涙なのか、物語は結論を示すことはない。どちらにせよ、自分の手で自分の良心の象徴を破壊した月は、それから先は議論の余地のない悪に——「ただの大量殺人者」に転落していく。
そういう意味では、夜神月というキャラクターは、実は夜神総一郎というキャラクターがあって成立していたのかも知れない。Lしかり、総一郎しかり、月は他のキャラクターとの関係性において初めて「キャラクター」として光り輝く。発光体であるけれど、自ら輝く太陽ではなく反射体である月という天文が彼の名前になっているのは、偶然なのだろうけれど。
†
余談だが、これにとても近いキャラクターとして私が思い出すのは、吉田秋生の「吉祥天女」の主人公、叶小夜子である。彼女は新世界の神を目指すほど傲慢ではなかったけれど、家と家族と自らの女性性を守ろうという懸命で純粋な気持ちのまま、次々と殺人を実行し、最後には本当に自分を想ってくれていた(そして彼女自身も恐らく最も大切に想っていたと感じられる)少年を死に追いやることになる。
だが「吉祥天女」は「DEATH NOTE」とは全く異なる結末を迎える。それが何故なのかは、この双方の作品を読んでいただくととても明快にわかるだろう。
†
月という人間が崩壊していくのは、第二部で顕著にはなるけれど、恐らく物語のテーマのひとつとして最初から念頭に置かれていただろう。その証拠に、デスノートを持ってからの月の顔や表情は、明確に変化する。いわゆる漫画家のペンタッチの変化とは明らかに異なる、作為的なものだ。その意味では、純粋な善であった月が、殺人を重ねるにつれて次第にただの殺人者に堕落していき、最後は無惨に死ぬというのは想定されていた結末だったのに違いない。
だが、人間性の変化とは別に、キャラクター性の変化というものが恐らくあって、こちらは想定していたというよりもやや暴走していったような雰囲気がある。
第二部以降、次第に不利になっていき、しかも凶悪で狂気に満ちた存在になっていく月を、物語はサディスティックな興奮を交えて描く。それまで月に寄り添っていた物語が、彼を裏切り、彼を嬉々として苛み始める。
まるまる見開きで描かれるあの「僕がキラだよ」という告白、「単なる大量殺人者」という烙印、そして全ての味方から背を向けられ醜悪極まりない形で迎える死。それらはただ惨めというだけではなく、月という人間にもキャラクターにもまるで似つかわしくない。醜悪だからではなく、その醜悪さの方向性が彼らしくない、と言うべきだろうか。私は呆然と「今まで保たれてきた月という人間の統一性はどこへ行ってしまったんだろう?」と思ったのを覚えている。
さらに言えば、あの場面には「彼が犯してきた罪への罰」といった言葉では説明のつかない、暗い感覚に満ちている。あそこで描かれるのは全てを失った犯罪者に対して民衆が石を投げるリンチの情念だ。
ここでカタルシスを覚え溜飲を下げた読者もいるはずで、それは月というキャラクター(および人間)から離陸し彼を突き放すことに成功した読者だろう。
同時に、月に対して否定的な感情を抱きつつも、どこかで共感を続けていたタイプの読者の感情はここで放り出され、物語は空中分解する。物語の終わりで「月くんはキラだったが、彼のことが好きだったろう?」と問われる松田のように、虚脱感にも似たやりきれなさを抱えていくことを余儀なくされる。
(4に続く)
「DEATH NOTE」にまつわること 2 ― 2007年01月13日
Lというキャラクターは、回を追うごとに愛嬌を増し、ヒーローとしての地位を獲得していったと思う。
登場した瞬間から明らかに全てを兼ね備えたキャラクターである月と異なり、Lは最初「知性は突出しているが、人格や身体能力や社会性が欠如したキャラ」であるかのように現れ徐々にその予想を裏切っていった。
それが作者の計算なのか、それとも描いていくうちに作者の愛情を獲得していった結果なのかはわからないけれど、Lは次第に「DEATH NOTE」世界における善と人間的完成という象徴性を帯びていく。
だがそれが物語にとってよいことだったのか、私にはわからない。
少なくとも物語が始まった時は、「自らを善と信じる悪」である月の際立った対照者として、つまり「偽悪する善」としてLは存在していた。
月とLはあらゆる点で合わせ鏡のように「異なりつつ同じ」に描かれる。
月の自らの偽善を意識しないところと、Lの自らの偽悪に対する自意識をはじめとして、完璧な美貌と奇怪な外見、デスノートを持つ一個人と国家機関にさえ干渉可能な権力者等々、異なる点はぴたりと正反対なのだが、同じところは不気味なほど一致する。異常な負けず嫌いで、自己の正当性を疑わず、幼稚で、目的のためには他人の生死を使い捨てることも辞さず、そして互いへの親近感や友情はそのままに相手を殺すことができる冷酷さの持ち主。南空ナオミが「あなたにはLと似たものを感じました」と言ったように、月とLは完璧に相対する天秤の両端だったのだろう。
それはつまり、月が善であり得ないのと同じく、Lもまた善ではないことを、意味する。
(少なくとも、あれが善であるのなら、私はごめんこうむりたい。それはLというキャラクターへの愛着とは別の話である)
だが恐らく物語の製作者が、「悪」に寄り添って、しかも悪で在り続けながら物語を製作していくことは、非常に困難なのであろう。
凶悪・異常犯罪者のドキュメンタリーでさえも、対象になった犯罪者はドキュメントする側の共感が追いつかなくなって理解不能な人外の存在に追いやられるか、スティグマを負った聖者や歪んだヒーローになるか、どちらかが多い。いわんや娯楽向けのフィクション作品においては。多くのピカレスク物では、悪は途中である種のヒーローに転換される。
「悪である善」であったLは次第に、「ちょっとヘンなところはあるけど本当はいい人」に傾斜していく。Lは自分の身代わりに死刑囚を利用するような、また「誤認逮捕でなければ問題ない」と言い切って少女を拷問できるような、正常な感覚が欠如した人間であり、単なる「奇矯な善人」ではないはずなのだが、その辺りの負の側面の描写は次第に遠ざかっていったようだ。
そして、Lへのある種好意的な描写が深まるにつれ、物語はどこかバランスを失ったように思える。
最終的にLは死ぬ。それは敗北であったはずだけれど、傷つかない「善と人間的完成の象徴」への昇華を意味するのかも知れず、片割れを失った月がその後人格的にもキャラクター的にも崩壊の一途を辿っていくのとは(またしても)対照的である。
その後登場するニアとメロのキーワードは「Lを超えること」であり、月にとってニアとメロはLの粗悪模造品でしかない。Lのお面をかぶったニアに対して「お前はそれに値しない」と思考したように。
(Lに比べて魅力に乏しいニアとメロに対して、一部の読者が同じような感想を抱いただろうけれど)
Lは死ぬことで純粋なヒーローとして完成し、同時にヒーローが死んだ物語が空転していく様は皮肉だ。そして(アンチやスティグマとしての)ヒーローになる可能性があった月を唯一理解し、友人という対等な関係を築いたLの死によって、月が物語の構造の中で「理解される」機会は失われる。第二部の月には、傍観者と賛美者と敵しか残されない。それにも関わらず物語は心理劇に転じ、あの奇妙な展開を見せるのだけれど……。
†
先に述べた通り、月にとってニアとメロはLの粗悪代替品だったけれど、恐らくニアとメロにとってもキラ(そして月)は直接の対象ではなかったろう。
ニアとメロは、互い同士を、そしてLを相手にコミュニケーションしていたのであって、キラはその道具に過ぎなかった。
このねじれた構造は、実は月とニア・メロに限らなくて、ニア陣営、メロ陣営、月陣営、月と捜査本部メンバーといったほとんど全ての第二部登場人物の関係にあてはまる。
彼らはキラやLといった象徴を挟んで向かい合うけれど、その視線は交差せずに、まるきりすれ違う。彼らのコミュニケーションが、多くの言葉を費やしているのに、どこか空虚なのはそのせいだろう。
第一部の物語構造は、ごくごく単純な知恵比べだったけれど、そこで交わされるコミュニケーションが濃密に感じられるのは、互いに仮面をかぶりつつも正面から取っ組み合い、はらわたをえぐりあうようなものだったからだ。「第一部は接近戦だったけれど、第二部は遠隔攻撃中心」と言った人がいたけれど、これは本当によく本質を言い当ててる気がする。
私が思い出すのは、捜査本部の中で、「キラは本当に悪なんだろうか?」という問いを松田が吐き出して苦しむ場面である。月は松田の姿を見ていない。彼は窓の外を見ている(そして窓には月自身の姿が映っている)。月は、キラを代弁するという形で自分の心情を吐露する。だが月とその他の人間達の視線が合うことはない。
(3につづく)
登場した瞬間から明らかに全てを兼ね備えたキャラクターである月と異なり、Lは最初「知性は突出しているが、人格や身体能力や社会性が欠如したキャラ」であるかのように現れ徐々にその予想を裏切っていった。
それが作者の計算なのか、それとも描いていくうちに作者の愛情を獲得していった結果なのかはわからないけれど、Lは次第に「DEATH NOTE」世界における善と人間的完成という象徴性を帯びていく。
だがそれが物語にとってよいことだったのか、私にはわからない。
少なくとも物語が始まった時は、「自らを善と信じる悪」である月の際立った対照者として、つまり「偽悪する善」としてLは存在していた。
月とLはあらゆる点で合わせ鏡のように「異なりつつ同じ」に描かれる。
月の自らの偽善を意識しないところと、Lの自らの偽悪に対する自意識をはじめとして、完璧な美貌と奇怪な外見、デスノートを持つ一個人と国家機関にさえ干渉可能な権力者等々、異なる点はぴたりと正反対なのだが、同じところは不気味なほど一致する。異常な負けず嫌いで、自己の正当性を疑わず、幼稚で、目的のためには他人の生死を使い捨てることも辞さず、そして互いへの親近感や友情はそのままに相手を殺すことができる冷酷さの持ち主。南空ナオミが「あなたにはLと似たものを感じました」と言ったように、月とLは完璧に相対する天秤の両端だったのだろう。
それはつまり、月が善であり得ないのと同じく、Lもまた善ではないことを、意味する。
(少なくとも、あれが善であるのなら、私はごめんこうむりたい。それはLというキャラクターへの愛着とは別の話である)
だが恐らく物語の製作者が、「悪」に寄り添って、しかも悪で在り続けながら物語を製作していくことは、非常に困難なのであろう。
凶悪・異常犯罪者のドキュメンタリーでさえも、対象になった犯罪者はドキュメントする側の共感が追いつかなくなって理解不能な人外の存在に追いやられるか、スティグマを負った聖者や歪んだヒーローになるか、どちらかが多い。いわんや娯楽向けのフィクション作品においては。多くのピカレスク物では、悪は途中である種のヒーローに転換される。
「悪である善」であったLは次第に、「ちょっとヘンなところはあるけど本当はいい人」に傾斜していく。Lは自分の身代わりに死刑囚を利用するような、また「誤認逮捕でなければ問題ない」と言い切って少女を拷問できるような、正常な感覚が欠如した人間であり、単なる「奇矯な善人」ではないはずなのだが、その辺りの負の側面の描写は次第に遠ざかっていったようだ。
そして、Lへのある種好意的な描写が深まるにつれ、物語はどこかバランスを失ったように思える。
最終的にLは死ぬ。それは敗北であったはずだけれど、傷つかない「善と人間的完成の象徴」への昇華を意味するのかも知れず、片割れを失った月がその後人格的にもキャラクター的にも崩壊の一途を辿っていくのとは(またしても)対照的である。
その後登場するニアとメロのキーワードは「Lを超えること」であり、月にとってニアとメロはLの粗悪模造品でしかない。Lのお面をかぶったニアに対して「お前はそれに値しない」と思考したように。
(Lに比べて魅力に乏しいニアとメロに対して、一部の読者が同じような感想を抱いただろうけれど)
Lは死ぬことで純粋なヒーローとして完成し、同時にヒーローが死んだ物語が空転していく様は皮肉だ。そして(アンチやスティグマとしての)ヒーローになる可能性があった月を唯一理解し、友人という対等な関係を築いたLの死によって、月が物語の構造の中で「理解される」機会は失われる。第二部の月には、傍観者と賛美者と敵しか残されない。それにも関わらず物語は心理劇に転じ、あの奇妙な展開を見せるのだけれど……。
†
先に述べた通り、月にとってニアとメロはLの粗悪代替品だったけれど、恐らくニアとメロにとってもキラ(そして月)は直接の対象ではなかったろう。
ニアとメロは、互い同士を、そしてLを相手にコミュニケーションしていたのであって、キラはその道具に過ぎなかった。
このねじれた構造は、実は月とニア・メロに限らなくて、ニア陣営、メロ陣営、月陣営、月と捜査本部メンバーといったほとんど全ての第二部登場人物の関係にあてはまる。
彼らはキラやLといった象徴を挟んで向かい合うけれど、その視線は交差せずに、まるきりすれ違う。彼らのコミュニケーションが、多くの言葉を費やしているのに、どこか空虚なのはそのせいだろう。
第一部の物語構造は、ごくごく単純な知恵比べだったけれど、そこで交わされるコミュニケーションが濃密に感じられるのは、互いに仮面をかぶりつつも正面から取っ組み合い、はらわたをえぐりあうようなものだったからだ。「第一部は接近戦だったけれど、第二部は遠隔攻撃中心」と言った人がいたけれど、これは本当によく本質を言い当ててる気がする。
私が思い出すのは、捜査本部の中で、「キラは本当に悪なんだろうか?」という問いを松田が吐き出して苦しむ場面である。月は松田の姿を見ていない。彼は窓の外を見ている(そして窓には月自身の姿が映っている)。月は、キラを代弁するという形で自分の心情を吐露する。だが月とその他の人間達の視線が合うことはない。
(3につづく)
「DEATH NOTE」にまつわること 1 ― 2007年01月11日
唐突だが、私は「新世紀エヴァンゲリオン」を観ていない。
理由は簡単で、リアルタイムで接触しそこねたからだ。その後、周囲にファンやマニアが山と現れ、彼らの解釈や謎解きや蘊蓄を聞くだけで十分満足してしまったのである。
それが私にとって幸福なことだったのか否かは、未だにわからないし、きっとわからないままでわるだろう。
こんなことを書いたのは、恐らくあの時代の人にとっての「エヴァ」が、私にとっては「DEATH NOTE」だったのではないかと思ったからだ。
独特の設定、虚構的な登場人物、奇妙で異常な緻密さで積み上げられるルールと世界設定、受け手の予想を覆し続け最後には空中分解するストーリー、そして鑑賞した後の行き場のない不全感——そういったもの全てが、とても近しい空気をかもしだしている。
†
トランプで積み上げられたピラミッドの如き危うい緊張感で疾走する第一部と、そのトランプピラミッドが徐々に崩壊して狂っていく泥沼のような重みの第二部を比べた時、私は好みからも物語全体の完成度からも、第一部に軍配を上げる。
第一部は、文句なしに面白い。あのポテトチップスを使った一幕や山手線でひっそりと行われるジェノサイド、月とLが出会い徐々に距離を詰めていく過程、そして記憶を失った月とLの共闘を経て、それでもなおデスノートを手にした瞬間にキラへ立ち戻る月といったエピソードの連続は、本当に久しぶりに「次のページをめくるのがもどかしい」といった感覚で突き進んでいく。
たぶん、これにとても近い作品はフレドリック・ブラウンの「73光年の妖怪」ではないかと思う。はるか73光年隔てた星からやってきたエイリアンと、エイリアンの目的に気付いた一人の科学者のひそやかな闘いを描く物語だ。
エイリアンは肉体が退化して自分で動くことさえできないが、その本体(亀の甲羅のような代物である)に触れた生命体の意識を支配することができ、死ぬとまた本体にエイリアンの意識が戻る。エイリアンは自分を銜えた犬を手始めに支配し、次々と宿主を殺しながら乗り換えて、宇宙船を作りうるような高度な知能を持つ主人公の科学者を支配しようとたくらむのだが……。
この物語がホラーやオカルトとは全く異なるのは、エイリアンが生命体に憑依し支配する行為に、厳然とした限界とルールが定められていることである。何しろこのエイリアン自身とその憑依に関しては、あれはダメこれはムリと制限がてんこ盛りなのだ。デスノートが月自身「全く不便だよデスノートは」とぼやいたのと同じように。そして狡猾なエイリアンはその制限をものともせず乗り越えながら、徐々に目的に近付いていく。月がデスノートの制限を巧みに乗り越えながら、新世界の神へ近付いていくように。
その狡知にわくわくしつつも、彼の目的が達せられた時にはどん底の恐怖が待っているために素直に喜ぶことができず、ねじれた感情を喚起するところも、よく似ているかも知れない。
タイトルに「妖怪」とあろうが、エイリアンや超能力が物語の骨格であろうが、また不気味な存在が徐々に近付いてくる恐怖が存在していようが、「73光年の妖怪」はホラーではなく、恐らくSFでもなく、コンゲームものに近い狡知を描く物語だろう。
私は「DEATH NOTE」もまた、そういう物語だと思っていた。そして恐らく、第一部は純粋にそうだったのではないか。その単純な構造の中では、死神の超常能力もLの奇矯でとがった魅力も、月やLのほとんどあり得ないような知能も、全て要素に過ぎない。そのことは欠点ではなく、むしろ物語にある種のリアリティを与えていたとも言える。
リアルであることがリアリティを意味しないことは、言うまでもない。ひとつの物語世界がリアリティを獲得するためには、現実世界を模するのではなく、その世界自体で一貫したリアリティを持つことが必要なのだ。第一部は、「傑出した知性を持つ二人の天才が命を賭けて狡知を競う」という構造を詳細に記述し、それ以外の全てを排除するか単純化することによって、物語全体のリアリティを強固なものにしているのである。
†
しかし、この完成度の高いリアリティに満ちた物語世界は、Lの死とともに緩慢に崩壊していく。
第一部と第二部の間に一体何が起こったのか、評論家でもなければ部内者でもない(いや雑誌の定期購読者でさえない)私には全くわからないのだけれど、本当に全く突如と言っていいほどに、第二部の幕開けと同時に「DEATH NOTE」は知恵比べ的構造を振り捨てる。
ノートの強奪やメロのアジトの特定、ニアが月をキラと推理する過程など、第一部と同じ推理ゲームは確かに展開するのだが、どこかしら生気がない。物語の焦点はすでにそこにはない、といった風なのだ。
代わりに、軍隊やマフィアの出動、社会情勢、群集心理やマスコミの愚かさ、家族を犠牲にせざるを得なくなる月、ニアとメロの成長と無意識の和解、そして「キラの行為は、そしてキラという存在は果たして善なのか悪なのか」といったある種哲学的な苦悩の描写が現れる。
第二部は、デスノートという超常的な殺人兵器そのものがもたらす広い影響のようなものに物語の焦点を移し、そこを描こうとあがいているかのようだ。死んだLの代わりにニアとメロ、彼らの協力者、さらには魅上や高田といったキラ側の協力者まで新たに登場し、複数の登場人物が入り乱れて作戦は錯綜していく。
だが悲しいかな、純粋な知性競争である物語に、哲学的背景を取り込むのが極めて困難であるように、「DEATH NOTE」もこの試みに失敗したと言わざるを得ないようだ。
第一部では物語を支え続けた「一筋縄ではない強烈さがあるが人間性はないキャラクター」という特徴が、第二部ではむしろマイナスに働く。ニュアンスのない人間達が交わす善悪論や社会論は空転していき、「どこかで聞いたような話」の繰り返しになっていった。
最後ニアは月を「単なる殺人快楽者」と断定するが、これは第二部の厚みの無さを象徴している瞬間かも知れない。物語を前進させ続けた主人公に対して、勝利者が与える称号がこれしかないという事実は、「DEATH NOTE」という物語全体が(哲学的には)それだけの厚みしか持ち得なかったことを証明しているように見えるのである。
(2に続く)
理由は簡単で、リアルタイムで接触しそこねたからだ。その後、周囲にファンやマニアが山と現れ、彼らの解釈や謎解きや蘊蓄を聞くだけで十分満足してしまったのである。
それが私にとって幸福なことだったのか否かは、未だにわからないし、きっとわからないままでわるだろう。
こんなことを書いたのは、恐らくあの時代の人にとっての「エヴァ」が、私にとっては「DEATH NOTE」だったのではないかと思ったからだ。
独特の設定、虚構的な登場人物、奇妙で異常な緻密さで積み上げられるルールと世界設定、受け手の予想を覆し続け最後には空中分解するストーリー、そして鑑賞した後の行き場のない不全感——そういったもの全てが、とても近しい空気をかもしだしている。
†
トランプで積み上げられたピラミッドの如き危うい緊張感で疾走する第一部と、そのトランプピラミッドが徐々に崩壊して狂っていく泥沼のような重みの第二部を比べた時、私は好みからも物語全体の完成度からも、第一部に軍配を上げる。
第一部は、文句なしに面白い。あのポテトチップスを使った一幕や山手線でひっそりと行われるジェノサイド、月とLが出会い徐々に距離を詰めていく過程、そして記憶を失った月とLの共闘を経て、それでもなおデスノートを手にした瞬間にキラへ立ち戻る月といったエピソードの連続は、本当に久しぶりに「次のページをめくるのがもどかしい」といった感覚で突き進んでいく。
たぶん、これにとても近い作品はフレドリック・ブラウンの「73光年の妖怪」ではないかと思う。はるか73光年隔てた星からやってきたエイリアンと、エイリアンの目的に気付いた一人の科学者のひそやかな闘いを描く物語だ。
エイリアンは肉体が退化して自分で動くことさえできないが、その本体(亀の甲羅のような代物である)に触れた生命体の意識を支配することができ、死ぬとまた本体にエイリアンの意識が戻る。エイリアンは自分を銜えた犬を手始めに支配し、次々と宿主を殺しながら乗り換えて、宇宙船を作りうるような高度な知能を持つ主人公の科学者を支配しようとたくらむのだが……。
この物語がホラーやオカルトとは全く異なるのは、エイリアンが生命体に憑依し支配する行為に、厳然とした限界とルールが定められていることである。何しろこのエイリアン自身とその憑依に関しては、あれはダメこれはムリと制限がてんこ盛りなのだ。デスノートが月自身「全く不便だよデスノートは」とぼやいたのと同じように。そして狡猾なエイリアンはその制限をものともせず乗り越えながら、徐々に目的に近付いていく。月がデスノートの制限を巧みに乗り越えながら、新世界の神へ近付いていくように。
その狡知にわくわくしつつも、彼の目的が達せられた時にはどん底の恐怖が待っているために素直に喜ぶことができず、ねじれた感情を喚起するところも、よく似ているかも知れない。
タイトルに「妖怪」とあろうが、エイリアンや超能力が物語の骨格であろうが、また不気味な存在が徐々に近付いてくる恐怖が存在していようが、「73光年の妖怪」はホラーではなく、恐らくSFでもなく、コンゲームものに近い狡知を描く物語だろう。
私は「DEATH NOTE」もまた、そういう物語だと思っていた。そして恐らく、第一部は純粋にそうだったのではないか。その単純な構造の中では、死神の超常能力もLの奇矯でとがった魅力も、月やLのほとんどあり得ないような知能も、全て要素に過ぎない。そのことは欠点ではなく、むしろ物語にある種のリアリティを与えていたとも言える。
リアルであることがリアリティを意味しないことは、言うまでもない。ひとつの物語世界がリアリティを獲得するためには、現実世界を模するのではなく、その世界自体で一貫したリアリティを持つことが必要なのだ。第一部は、「傑出した知性を持つ二人の天才が命を賭けて狡知を競う」という構造を詳細に記述し、それ以外の全てを排除するか単純化することによって、物語全体のリアリティを強固なものにしているのである。
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しかし、この完成度の高いリアリティに満ちた物語世界は、Lの死とともに緩慢に崩壊していく。
第一部と第二部の間に一体何が起こったのか、評論家でもなければ部内者でもない(いや雑誌の定期購読者でさえない)私には全くわからないのだけれど、本当に全く突如と言っていいほどに、第二部の幕開けと同時に「DEATH NOTE」は知恵比べ的構造を振り捨てる。
ノートの強奪やメロのアジトの特定、ニアが月をキラと推理する過程など、第一部と同じ推理ゲームは確かに展開するのだが、どこかしら生気がない。物語の焦点はすでにそこにはない、といった風なのだ。
代わりに、軍隊やマフィアの出動、社会情勢、群集心理やマスコミの愚かさ、家族を犠牲にせざるを得なくなる月、ニアとメロの成長と無意識の和解、そして「キラの行為は、そしてキラという存在は果たして善なのか悪なのか」といったある種哲学的な苦悩の描写が現れる。
第二部は、デスノートという超常的な殺人兵器そのものがもたらす広い影響のようなものに物語の焦点を移し、そこを描こうとあがいているかのようだ。死んだLの代わりにニアとメロ、彼らの協力者、さらには魅上や高田といったキラ側の協力者まで新たに登場し、複数の登場人物が入り乱れて作戦は錯綜していく。
だが悲しいかな、純粋な知性競争である物語に、哲学的背景を取り込むのが極めて困難であるように、「DEATH NOTE」もこの試みに失敗したと言わざるを得ないようだ。
第一部では物語を支え続けた「一筋縄ではない強烈さがあるが人間性はないキャラクター」という特徴が、第二部ではむしろマイナスに働く。ニュアンスのない人間達が交わす善悪論や社会論は空転していき、「どこかで聞いたような話」の繰り返しになっていった。
最後ニアは月を「単なる殺人快楽者」と断定するが、これは第二部の厚みの無さを象徴している瞬間かも知れない。物語を前進させ続けた主人公に対して、勝利者が与える称号がこれしかないという事実は、「DEATH NOTE」という物語全体が(哲学的には)それだけの厚みしか持ち得なかったことを証明しているように見えるのである。
(2に続く)
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