わたしを離さないで ― 2010年12月03日
カズオ・イシグロの作品は、ある種の扱いにくさ、捉えどころのなさ、表現のしにくさ……があると思う。
「日の名残り」が単なる執事の目から見た歴史小説ではなく、「私たちが孤児だったころ」がスパイ的ミステリ小説ではないように。けれど紹介される時は、執事の小説やミステリととりあえずはくくっておかないと理解しがたい、と感じさせるように。
そして「わたしを離さないで」は、「スタンド・バイ・ミー」のような青春小説か、それともSF小説か。そうとりあえずはくくって何とか理解しようとすると、あてが外れる。事実、これをSF小説として読もうとして、かなり期待が外れて憤懣やる方ない人も、レビューを見ているといる……ようだ。
逆に言えば、そのどちらでもない、そういう分類の約束を基底に読む物語ではない、とも言える。
物語全体を貫く謎や秘密、結末がかなりの重みを持ち、感想を書くとそこには触れずにはいられない構造の物語なので、「なるべく事前情報は排して読みましょう」と言われているのはもっともだ。けれど、あえてここではもう、それは隠さないでいく。まだ未読で、結末を知りたくない方はどうぞ他のところへ。
この物語を「SF」たらしめている要素は実はひとつしかなく、それは、主人公達「施設の生徒」と呼ばれる存在が、実は他人の不治の病を治すための臓器提供ドナー専用人間として、クローンで作られて育てられている存在である、ということだ。
この物語の年代設定は曖昧だが、どうも現代ということになっているらしい。なので、「臓器提供ドナー人間を養殖するのが社会の当然の一部となっているパラレルワールド」を描く、デストピアSFとしてジャンリングされるのだろう。
だが物語は、デストピア小説のお約束たる、社会と人間の強欲さ残酷さ利己主義を真正面から深く描こうとはしない。もっと言えば、問題提起さえ、特にはしない。その辺りの突っ込んだ描写を求めて読むと、肩透かしどころではなく、「何を言いたいんだこの小説は」ということになってしまう。
かといって、物語全体を貫く「子供時代から続く仲良し三人組の関係性と心理のたゆたい」の描写に着目して、そういう心理小説だとしてしまうには、もうひとつのテーマである「誰かのエゴのために作られ、将来を強制される人間の持つ物語性」を無視することになってしまう。
あり得るかも知れないけれど非現実的な設定の上に展開される心理と関係性を描いた小説に、果たしてどんな意味があるのか、という問いが提出されるかも知れない。
だがこの物語は、そういう極端な設定を比喩に使って教訓を引き出すことを目的にはしていない。
この小説の表現するものは、臓器移植にまつわる医療倫理、人間や社会が自分の幸福のために犠牲になる存在を踏みつける残酷さの告発、そういった単純な代物ではない。
むしろここにあるのは、わかりやすく単純な主張、画一的な「意味」を越えた、ひとのこころ、そのものである。
カズオ・イシグロが描くのは常に、そういうものであったように思う。彼の代表作品が一人称で語られ続けていることは、偶然や単なるスタイルではないだろう。ひとのこころ、世界を映し表現し、そして世界自身をはらみ世界を変容させる、自他が分かちがたく入り混じった、この不可思議なものそのものこそが、ここに描かれているのである。
だから、教訓や意味、社会への洞察、お約束やテーマを求めると、裏切られることになるだろう。
単純明快に、約束の連続として、物語を受け入れ消化していく人にとって、この作品は全く意味不明な不条理の連続、焦点をどこにも合わせられないものである。
けれど、「(約束の連続としての)物語」ではなくて、「ひとのこころ」を目の当たりにしたい、と思うのなら、この作品は確実な見返りを与えてくれるはずだ。
ひとのこころを目の当たりにしたい、というのは、感情や恋愛を疑似体験するのとは違う。それならば、むしろ物語文法に忠実にのっとった作品の方が向いている。物語文法は、そういった感動を純粋に咀嚼しやすいように抽出できる道具として洗練され尽くしている。
そして私たちは、毎日の現実の生活でも実は、それほど「ひとのこころ」を深く観察などしていない。単純なレッテルの分類で、毎日を乗り切っているし、またそうすることで立ちすくまずに済んでいるとも言える。
だがそれでは済まされない、と感じる人、あるいは感じる時は確かにある。そういう時にこの物語を手に取った時、わかりやすいお約束に邪魔されない、なまの、「ひとのこころ」を見据えることができるだろう。
そして何よりもこの作品が凄まじいのは、何一つ声高に叫ばない、単純な約束事にのっとらない表現に貫かれているにも関わらず、それでもやはり、医療倫理の業の深さや社会の残酷さ、友情の苦しさと美しさ、愛情の難しさと優しさ、死を迎える生の孤独と愛しさ、全てが在り全てが心に迫ってくるということなのだろう。
作家の佐藤亜紀は「あまりにエモーショナルな情動を追いすぎている」とこの作品を真っ向から否定したそうだが(その批判の原文を読んでいないので前後の文脈はわからないけれど)、そう感じる人がいるだろうな、というのは非常によくわかる。
だが、主人公たるキャシー、トミー、ルースの心のみをひたすらに追い続け、それ以外の要素を一見背景に見えるほどに後ろに押しとどめることで、実際にはこの作品には情動以上の世界が浮かび上がっている。
問題提起をテーマにした作品は、そのテーマ性ゆえに、物語として死ぬことがあるが、この作品は問題提起を目的にしないことで物語として完成し、同時に問題提起をも可能にしているのだ。
そして実際には、カズオ・イシグロは、問題提起などどうでもよかったのでは?と思う。
彼は「この物語を書く」ことが目的であったのではないかと感じる。読んだ人間の分析や批評など、全て後手に回った遠吠えのようなものではなかろうか。
そういう意味では、この物語は、心そのものであると同時に、現実そのものでもあるのかも、知れない。
「日の名残り」が単なる執事の目から見た歴史小説ではなく、「私たちが孤児だったころ」がスパイ的ミステリ小説ではないように。けれど紹介される時は、執事の小説やミステリととりあえずはくくっておかないと理解しがたい、と感じさせるように。
そして「わたしを離さないで」は、「スタンド・バイ・ミー」のような青春小説か、それともSF小説か。そうとりあえずはくくって何とか理解しようとすると、あてが外れる。事実、これをSF小説として読もうとして、かなり期待が外れて憤懣やる方ない人も、レビューを見ているといる……ようだ。
逆に言えば、そのどちらでもない、そういう分類の約束を基底に読む物語ではない、とも言える。
物語全体を貫く謎や秘密、結末がかなりの重みを持ち、感想を書くとそこには触れずにはいられない構造の物語なので、「なるべく事前情報は排して読みましょう」と言われているのはもっともだ。けれど、あえてここではもう、それは隠さないでいく。まだ未読で、結末を知りたくない方はどうぞ他のところへ。
この物語を「SF」たらしめている要素は実はひとつしかなく、それは、主人公達「施設の生徒」と呼ばれる存在が、実は他人の不治の病を治すための臓器提供ドナー専用人間として、クローンで作られて育てられている存在である、ということだ。
この物語の年代設定は曖昧だが、どうも現代ということになっているらしい。なので、「臓器提供ドナー人間を養殖するのが社会の当然の一部となっているパラレルワールド」を描く、デストピアSFとしてジャンリングされるのだろう。
だが物語は、デストピア小説のお約束たる、社会と人間の強欲さ残酷さ利己主義を真正面から深く描こうとはしない。もっと言えば、問題提起さえ、特にはしない。その辺りの突っ込んだ描写を求めて読むと、肩透かしどころではなく、「何を言いたいんだこの小説は」ということになってしまう。
かといって、物語全体を貫く「子供時代から続く仲良し三人組の関係性と心理のたゆたい」の描写に着目して、そういう心理小説だとしてしまうには、もうひとつのテーマである「誰かのエゴのために作られ、将来を強制される人間の持つ物語性」を無視することになってしまう。
あり得るかも知れないけれど非現実的な設定の上に展開される心理と関係性を描いた小説に、果たしてどんな意味があるのか、という問いが提出されるかも知れない。
だがこの物語は、そういう極端な設定を比喩に使って教訓を引き出すことを目的にはしていない。
この小説の表現するものは、臓器移植にまつわる医療倫理、人間や社会が自分の幸福のために犠牲になる存在を踏みつける残酷さの告発、そういった単純な代物ではない。
むしろここにあるのは、わかりやすく単純な主張、画一的な「意味」を越えた、ひとのこころ、そのものである。
カズオ・イシグロが描くのは常に、そういうものであったように思う。彼の代表作品が一人称で語られ続けていることは、偶然や単なるスタイルではないだろう。ひとのこころ、世界を映し表現し、そして世界自身をはらみ世界を変容させる、自他が分かちがたく入り混じった、この不可思議なものそのものこそが、ここに描かれているのである。
だから、教訓や意味、社会への洞察、お約束やテーマを求めると、裏切られることになるだろう。
単純明快に、約束の連続として、物語を受け入れ消化していく人にとって、この作品は全く意味不明な不条理の連続、焦点をどこにも合わせられないものである。
けれど、「(約束の連続としての)物語」ではなくて、「ひとのこころ」を目の当たりにしたい、と思うのなら、この作品は確実な見返りを与えてくれるはずだ。
ひとのこころを目の当たりにしたい、というのは、感情や恋愛を疑似体験するのとは違う。それならば、むしろ物語文法に忠実にのっとった作品の方が向いている。物語文法は、そういった感動を純粋に咀嚼しやすいように抽出できる道具として洗練され尽くしている。
そして私たちは、毎日の現実の生活でも実は、それほど「ひとのこころ」を深く観察などしていない。単純なレッテルの分類で、毎日を乗り切っているし、またそうすることで立ちすくまずに済んでいるとも言える。
だがそれでは済まされない、と感じる人、あるいは感じる時は確かにある。そういう時にこの物語を手に取った時、わかりやすいお約束に邪魔されない、なまの、「ひとのこころ」を見据えることができるだろう。
そして何よりもこの作品が凄まじいのは、何一つ声高に叫ばない、単純な約束事にのっとらない表現に貫かれているにも関わらず、それでもやはり、医療倫理の業の深さや社会の残酷さ、友情の苦しさと美しさ、愛情の難しさと優しさ、死を迎える生の孤独と愛しさ、全てが在り全てが心に迫ってくるということなのだろう。
作家の佐藤亜紀は「あまりにエモーショナルな情動を追いすぎている」とこの作品を真っ向から否定したそうだが(その批判の原文を読んでいないので前後の文脈はわからないけれど)、そう感じる人がいるだろうな、というのは非常によくわかる。
だが、主人公たるキャシー、トミー、ルースの心のみをひたすらに追い続け、それ以外の要素を一見背景に見えるほどに後ろに押しとどめることで、実際にはこの作品には情動以上の世界が浮かび上がっている。
問題提起をテーマにした作品は、そのテーマ性ゆえに、物語として死ぬことがあるが、この作品は問題提起を目的にしないことで物語として完成し、同時に問題提起をも可能にしているのだ。
そして実際には、カズオ・イシグロは、問題提起などどうでもよかったのでは?と思う。
彼は「この物語を書く」ことが目的であったのではないかと感じる。読んだ人間の分析や批評など、全て後手に回った遠吠えのようなものではなかろうか。
そういう意味では、この物語は、心そのものであると同時に、現実そのものでもあるのかも、知れない。
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