改善2014年10月29日

 とあるビルの案内表示板がわかりにくいという話が、以前Twitterで盛り上がったことがあったそうで。

新宿案内図問題:新宿エルタワーのサインのデザインがわかりにくい
http://togetter.com/li/185014

 Twitterでは、色々な人がよってたかってああだこうだとデザインを改良して、こうすればよかったのね、前よりずっとよくなったね、ああネットの集合知って素晴らしいとなっていたみたいです。

 この成果自体はまことに結構なこととして、これを読んで私が思ったのは、"すでにあるものを「改善」することにいきいきとなる場"というのがあるのだなぁということでした。
「ここにいる人たちがサインを作ってくれればよかったのに」とか感極まった書き込みもありましたけど、あの場にいた人たちが一から案内板を作っていたら、案外いいものはできなかったのではないのかな。
 無から有を産みだすのではなく、すでにあるものをつつきまわす時に、ネットの集合知というのは一番輝くような気がします。悪く言えばケチをつける時。
 それが集合知の特性なのか日本人の特性なのか人間の特性なのかは定かではありませんけど。

 問題があるとしたら、「すでにあるものをつつきまわす」時というのは、己の力量や成果を高く見積もりやすいことなのでしょう。
「ゼロから作り出す」よりも「すでにあるものをつつきまわす」方が、いわば後出しじゃんけんなのでずっと簡単なのですが、自分の優位性が証明されているような錯覚に陥りやすいという罠があるような気がします。
 批判が上手な人はいっぱいいるけれど、創造ができるひとはそんなにいません。

 しかしひょっとしたら、これは高い低いといった絶対値ではなく、能力として根本から異なっていたり方向性が全く違っていたりするのではとも思います。
 そうだとすると、「すでにあるものをつつきまわす」能力のある人が、「ゼロから作り出す」人になろうとすると、無惨な辛いことになります。
 ネットの集合知とやらが、時々あんなにも毒を含んだものになるのは、もしかしたら「無から有を産みだす」人になりたかったのに「すでにあるものをつつきまわす」能力だけが花開いてしまった人たちの、叶わなかった怨嗟が昇華されずに土壌に残っているからなのでしょうか。

 この文章とて、「すでにあるものをつつきまわす」典型なので、土壌の中に怨嗟がこもっていて毒を放つ可能性は大いにあるのです。
 ひとり静かに、誰も読まないものをただ書いている時の私の方が、社会に迷惑がないぶん、よいのでしょうか。

ボトルレターではなく電話2014年07月27日

 小説にしろ漫画にしろ、物語を読むことに対する意欲がものすごく落ちている。
 そういう状態が年単位で続いているので、自分が活字中毒であることを忘れそうになるのだけれど、かといって充足している感覚もないし、未だにゲームを遊ぶモチベーションの大半は物語の感受なので、物語への欲望自体が低下している訳でもなさそうだ。
 物語への飢餓感はあるけれど、読む気にはなれない。空腹感はあるのに食欲がない、みたいな変な感じ。

 感想やレビューや解釈についての書き物をすれば、少しは意欲が高まるかなぁと一時期割と真面目に書いてみたけれど、どうもそういうテーマの書き物は、反響がないと手応えが感じられないようだ。
 レビュー以外のテーマの書き物は、書くこと自体で十分手応えになるというか、そこで満足感があるのだけど、本やゲームのレビューというのは何故か「読まれた先」が見えないとすごく虚しくなる。
 当たり前だが、そんなに大したものを書いている訳ではない以上反響は皆無に近いので、段々とやる気が下がっていって、今はあまり書いていない。書こうかな、と思う作品はいくつもあるのだけれど。普段、あまり読み手の反応が行動原理に影響しないタイプの書き手なので、ちょっと珍しい。

 思うに、私にとってはレビューや感想は、会話の延長というか、自分の解釈を増幅させてくれるラリーとして書かれているのだと思う。普段の文章が、呼気のように、ただ流れるように、あるいは降ってくるように書いているものなのに対して、こちらは明確に返事を必要としている。それも、ただの返事ではなく、相性のよい返事を、である。
 相性がいいというのは、単純な「そうそう、そうだよね」という肯定ではなくて、肯定を含みつつも違った視点や違った解釈、時には否定をもはらむ「そうかそういう読みがあったのか」と思えるものである。かといって、「なるほどその解釈はすごい」と思えるものでも、あまりに素晴らしすぎたり偉かったりする人の解釈だと、今度はこっちの解釈の存在意義がないのでただの上書きになってしまい、これはこれで無意味になる。
 なので「たまたま同じ本を読んだ人と共有するソーシャルリーディング」では、この欲求は全然満たされない。というかむしろそういう場は相性の悪いノイズが多すぎて邪魔になることの方が多い。ソーシャルリーディングの場に、結局なじめなかったのも、そういう「互いに相性のよい会話」を構築できない、理論上は構築のために開かれているのだが実際上それを実現するための手間が巨大すぎたからだと思う。

 何となく、今の私は、読書体験というものがひどく一方通行になっている印象が強いようだ。
 もしかしたらこの感覚は、もっと根深いところに絡んでいるのかも知れないが、追究したところであんまりいい結果にならない気がするので、深追いしないことにする。

 とりあえず、この読書や物語への欲求自体を放置して極限の空腹になって贅沢を言わない状態にまで落とし込むか、相性のよい返事が来ないものしか書けない自業自得状態の無意味感に耐え忍びつつそれでもレビューや感想を書くか、どちらかになるのだろう。
 同じ作品を読んでいる、というただその一点だけで友達になれた、そういう時代に戻りたいとは思わないけれど、そういう環境にあった頃は楽だったのだなぁ……という気持ちはある。人間は、今ある恵みには大抵気づかないで、後になってようやく気づくものなので、たぶん今も何かすごい恵みがあるのだろうけれど。

摩尼車2013年12月09日

 マニ車というものがありまして、これはチベット仏教の道具なのですが、クルクル回る円筒のガラガラみたいな外見で、クルクルの中に経文が入っており、このクルクル円筒を1回まわすと、お経を1回唱えたのと同じ功徳を得られるというものです。チベットだけでなく、日本のお寺にも、この大きめのものが備え付けてある場合があります。
 風や水力、太陽電池などを利用して、自動的にクルクル回る屋外型もあると聞きます。

 で、この「回すだけで功徳が得られたことにする」というところを捉えて、宗教的なものを揶揄するために引き合いに出されるマニ車なのですが、最近私は、これは手抜きとかそういうものとも違うように感じられてきました。
 チベット仏教には全く疎いので、以下の話は完全に私の想像というか感覚のもので、専門の方からしたら見当外れもいいとこのような気がしますが、あしからず。


 マニ車を揶揄したり、否定的に見たりする感覚の根底には、「心をこめず、苦労もせずに、功徳が得られる訳がない。自分自身で心をこめ、体力精神力を消耗しつつ読経してこそ功徳が得られるはずだ」という考えがあります。
 つまり読経は、読まれる経文や読んでいる声自体は基本的に単なる器に過ぎず、一定のエネルギーを消耗することで真心を証し立てする行為という訳です。
 そうであるなら、読経の声が嗄れていても、音痴でも、すごい小声でも迷惑な大声であっても、あるいは読みが間違いだらけであっても、真心がこもっておりエネルギーを消耗しているならばよしということになります。
 可愛いあの子が作ってくれた手作りチョコレートが砂糖が固まり切らずジャリジャリでも、編んでくれたマフラーが編み目がガタガタでスカスカで悲惨な見た目であっても。あるいは中学生の彼がギターやバイオリンをギィギィ鳴らしつつ自作の愛の歌を捧げてくれるようなことがあっても。そこに愛情があるのならば、彼氏くん彼女くんは感謝感激するはずです。チョコレートの味やマフラーの外見機能性や歌の善し悪しは、この際二の次であり、それらは愛情の「器」に過ぎません。

 しかし。経文、あるいは読経という行為を、違う形で解釈することもできます。
 それは、「力ある聖なる何かで、時間と空間を満たす行為」という考え方です。経文は単なる器ではなく、聖なる力を持つことができる尊い存在であり、それが何かの形で空間と時間を満たしてゆくことこそが重要である。
 卑近な形で喩えるなら、それは、花瓶に買ってきた美しい花を生けるような。素晴らしい音楽の録音を流すような。そういった行為に近い、ただしはるかに真剣で重みのあるもの、かも知れないのです。
(むしろ花瓶に花を飾ることの方が、読経のはるかに薄まった行為、なのかも)
 もしそうであるなら、真心をこめてエネルギーを注いだとしても、捧げられるできあがったものが聖なる力を帯びるに足る完成度に達していないなら、あんまり意味がないということになります。

 レストランで食事をしようとしたら、そこではピアノの生演奏をやっていて、おっそろしく演奏がへたくそで聞くに耐えず、しかし本人が真剣に心をこめて弾いているのはよくわかる……という場面に陥ったら。まあ気弱な人は面と向かって「あのピアニスト、チェンジ」とは言えないでしょうが、「心がこもってるから素晴らしい」と言う人はまずいないはずです。
 手編みのセーターは、もらってうれしい贈り物と言われると同時に、もらって迷惑な贈り物ともよく言われます。心がこもっていさえすれば、何でも喜ばれる訳ではない……かも知れません。


「心がこもってるけど下手くそで聞くに耐えない読経をえんえん捧げられるより、心は後からついてくると判断してとにかく聖なるものにふさわしい形を備えた経文で時空を満たす仕掛けを使った方が、仏様もありがたいんじゃなかろうか」
 そんな風に判断する人がたくさんいたとしても、不思議ではありません。
 現にマニ車は、作るのに非常に厳格な手順があり、高僧が聖別してようやく認められるものなのだそうです。つまり、適当に素人が経文らしきものを書いてぐるんぐるん回すようないい加減なものではないのです。
 いーや心がこもってないのは無意味だ!と怒るのであれば、「今まで録音の音楽を一度も聞いたことがなく、心がこもってない大量生産の食品を食べたことがない者のみが石を投げなさい」とイエスに言われるかも知れませんね!(それ宗教違う)


 そんな訳で、マニ車というのは「聖歌の録音再生」みたいなものなのかなぁと感じるようになってから、私はマニ車を回している光景がとても美しいものに見えるようになりました。あれを変だと揶揄するのは、喫茶店で「心のこもってないGBMを流すな!」と怒るのと同じくらい無粋な行為なのかと。
 そして、われわれが録音の音楽に心がこもっていると感じることがあるように、マニ車の回転にも、仏や宇宙の真理は聖なる尊いものを感じ、功徳はやはり世界を満たしているのかも知れません。それを感じられないわれわれの方が、不完全であるというだけで。

趣味が同じ人2013年12月04日

 昔は、趣味が同じ人とだったら、ずっと楽しく話ができるだろうなぁと思っていました。

 ここ二三年ほど、いわゆるSNSと呼ばれるものにあまりメリットを感じられなくなっているのですが、結局のところ私が「趣味が同じ人とのコミュニケーション」に魅力を感じない人間になってしまった、ということに尽きるようです。
 私の数少ない話題は、読書とかゲームとか占いとかアロマテラピーとか、そういうものなのでしょうけれど、SNSでそういう話題が集まる場に参加しても、楽しく感じられないのです。大好きなものの話をしているのに。交わされるファンや同じ趣味の人の書き込みを読んでいても、正直なところ鬱陶しいばかりなのです。何故なんだろう。大好きなものの話のはずなのに。

 大好きなものについての、浅い解釈や新鮮味のない一般論や好悪論争やファンの妄想を聞くよりも、全然興味もゆかりもないものについての、考え抜かれた解釈や新しい視点や素っ気ない事実に接している方が面白い。
 そして大好きなものについての考え抜かれた解釈や新しい視点にめぐりあうための人徳が、どうやら今の私には備わっていない。
「自分では読まない・観ない」媒体(映画とか)のレビューを読んだりしているのは、そういう傾向のせいかも知れません。
 なので近頃は、「ファイナルファンタジーは好きだけどファイナルファンタジーのファンは好きじゃない」みたいなおかしな状態になっており、これでは趣味や属性の共通項をよすがとするSNSでは盛り上がるはずがなく、かくてネットステルス状態は進行するばかりなのです。


 かつての私にも「つきあう人や結婚する人は、絶対趣味が同じ人!」という感覚があって、「家族と趣味が違うオタクの悲劇」みたいな話にうんうんとうなずいていたのですが、いつの頃からかそういう感覚はすっかり消えてしまいました。
 そして結局、私のつれあいは、ゲームはしない訳じゃないけどさほど興味は持っていないし、私と読む本の種類は全然違うし、私は彼の鉄道とか音楽とかの趣味についてはさっぱりとんちんかんな訳です。
 それでも何故か会話は成立し、一緒にいられてよかったなぁと思える(少なくとも私はね、向こうの真意は知りません)。
 これは恋愛や伴侶の選択だけの話ではなくて、私にとって居心地のよさとか接したいと思うもの全般にあるべきものは、趣味の共通性などではなくて、もう少し違う感覚のようです。

 それを言葉にすると、「違うものへの理解と尊重」とか、「誠実さ」とか、曖昧模糊とした陳腐なものになってしまいそうですけれど。

欲望に憑依する2013年07月25日

 私は、恐ろしいのだと思う。
「私は欲望をコントロールできています」と断言する、という光景が。

 交流関係の都合上、メディア規制や青少年健全育成条例に関連する話は、自分で求めなくても何かと耳に入ってくる。ネットで触れるのは、これも当然といえば当然なのだけれど、規制や条例に反対する立場の発言が多い。
 賛成か反対なのか!?と詰め寄られたとしたら(詰め寄られるなどというのは相当に病的な事態だと思うけど)反対と答えるだろうけれど、ネットにあふれる反対の言説には、私は距離を置いている。あれらと一緒に見られるのはキツい、というのが本音だ。

 そこにある、「自分の欲望の対象がなくなるのは嫌なので、表現の自由という都合のいい錦の御旗で立ち向かう」というエゴについては、もう色々な人が述べていることだから繰り返さない。そもそも、エゴをもとに主張するのもひとつの立場なのだろうから。
 万一、訴えている側が己のエゴが見透かされてないと思っているとしたら、よほどのお気楽さだとは思うけれど、それは私が心配する筋合いのものではない。

 むしろ、私が薄気味悪くなるのは、
「オタクは空想と現実をちゃんと区別して、空想の世界で欲望を満たしてコントロールしているのだ」
といった言説の方である。

 欲望をコントロールしている。なぜ、そう断言できるのだろう。
 私は、あなたは、本当に自分の欲望を把握しているのか。それをコントロールしているというのは本当なのか。
 理性や知性は、大いなる情動と無意識の海に浮かぶ小舟に過ぎないのに?

 欲望とはそんな、なまやさしくて人間に都合のいい代物ではない。欲望をコントロールしている、などという言説は、「私は自分の欲望を本当には把握していません」という宣言に過ぎないと思う。子どもと交流できていない親の「うちの子はいい子で手がかかりません」と、何が違うというのか。
 もし本当に、自分の欲望と正面から向き合い、それを少しでもコントロールしようとしたのなら、そんな思い上がった発言は出ないだろう。欲望は深淵だ。飼いならすことは不可能で、にもかかわらず、放任してはならないものだ。
 オタクは空想と現実を区別して、欲望をコントロールしています。と澄まし顔で言うその行為自体が、何も区別できていないし、コントロールできてもいない、というよりそもそもそんなことを試しすらしなかったという証明のように、私には見える。
 その発言には、欲望という恐ろしくも偉大な存在に対する、敬意も理解も感じられない。


 私は以前、オタクというのは、ある対象に注ぐ欲望の質と量だけが突出しているのであって、それ以外は「普通の人」でしかないのだ、と書いた。
 けれど最近は、もう少し違った風に考えることがある。

 オタクというのは、自分の叶えられない欲望を、「オタクっぽい欲望」でマスキングし昇華し、その欲望に憑依している存在なのではないか。
 本当は、彼らの底に深く沈みこむ欲望とは、美少女や美青年をどうこうしたり、軍事や鉄道をあれこれ研究したりすることでは、全然ないのではないか。それらは実は、「表向きのラベル」に過ぎないのではないか。
 他人から見ても微笑ましい「愛好家」と、距離を取られる「オタク」を分けるのは、その違いなのでは?

 そして昇華というのは、心理的な安全感はあるけれど、本当の満足を与えない。おなかが減っている時に本を読んでその空腹感を忘れようとするようなもので、実際にはおなかは満たされないし、欲望は消えない。しかも、本人はこのすりかえを意識できない(意識すると昇華が成立しない)。
 なので無限の欲望の追求になり、しかもそれを自覚できないという状況が起こる。

 オタクの人々が、自分の欲望を常に全肯定し、「妄想の中だから」というエクスキューズであらゆるものを欲望の道具とし、しかもそれが終わることがなく徐々にエスカレーションしていく(満足に達すれば本来欲望の追求は終わるはずである)のは、結局のところそれが、本当の目的ではないからなのだろう。
 欲望は、私たちオタクの最後の鎧であり盾なのだ。そして私たちは、その鎧を脱ぐことが、もはやできない。にもかかわらず、その鎧は結局のところ自分の本質ではない。幽霊が憑依する相手のようなもの、本当に危なくなればいつでもひょいひょいと取り換えられるものなのだ。それを認めない人は多いだろうけれど(認めれば昇華を自覚することになる=昇華が不成立になるので仕方ないのだが)。


 もしこの考えにひとかけらでも的を得たものがあるとして、しかし昇華を自覚することはできないのだから、何の意味があるのだろうと思う。
 結局のところ、われわれは、奢りをつつしむという、使い古された心の在り方に立ち戻るしかないのだろう。
 自らの欲望を、道具のように扱わないこと。自分自身を、自分の所有物のように扱わないこと。自分の中に、意識が把握もコントロールもできない荒れた海があるということに対して、謙虚に頭を垂れること。
 その先に、自らがあらゆるものを――他人の尊厳・肉体・精神、そして自分自身さえも――「利用」しているのだという恐ろしい事実にどう対峙していくのかという、もっと大きな問いに突き当たるのだろう。

臭気2013年07月01日

 日曜日の日経新聞朝刊に、哲学者のコラムがあった。
 それは、哲学者と学者の問答形式をとったシリーズらしく、シリーズなので全体はわからないのだけれど、たまたま私が読んだこの回は、「なぜ宗教ではなく哲学でなければならないのか」という話題についてだった。
 この問答が、傍目にも解る出来レースというか、一応「哲学者に対して学者が鋭く質問する」体をよそおっているのだけれど、学者が明らかに「説得されるためにいます」という感じなのが笑いどころである。いや、書いている人にとっては笑いどころじゃないんだろうけれど。

 一番の突っ込みどころは、「人間がどのように生きるべきかという重要な問いに、宗教は残念ながら嘘(根拠なき独断)で答えるけど、哲学は論理で答える」という話で、はっきりとは書いてないけれど、文章の裏からは「だから哲学って宗教よりスバラシイデスネー」という臭いがぷんぷんとただよってくる。
(申し訳程度に最後に、「いや宗教を否定しているわけでなくて、哲学は祈りを拒否する祈りなのだ」と書いているけれど、この一文で「この人は宗教も尊重してるんですね」と思うのはよっぽどのお人よしだと思う)

 いや、嘘って(笑)。

 宗教の出す答えを、「嘘」という表現ではなく、「虚構」や「創作」と言い換えてみたらどうなるだろうか。なんか話が急に、「ボクは小説は作り物だから感動しませんがね、ドキュメンタリーは真実ですから認めますよ」みたいなノリになってくるような気がしないか。
 そもそも、嘘=not真 というのが成立するのは、論理学の世界だけで、現実も人間の心も、嘘=真だったり、嘘にして真だったり、根拠なき独断だけど真だったりすることはよくある。ついでに言えば、根拠ある共通善が嘘だったり、無意味だったりすることもたまにある。

 宗教では救われない人はたくさんいると思う。「宗教が言っていることを私は真実とは感じられないので救われない」という人だ。それはそれで、何も人間として問題ではない。
 そういう人が、哲学や論理学によって救われることもあるだろうし、そしてそのこと自体もまことに結構なことだ。
 だが別に、その間に優劣はない。
 私は宗教で救われませんでしたけど哲学で救われました、なので哲学は素晴らしいです。という話なら、私は哲学で救われませんでしたけど宗教で救われました、という話の対に過ぎない。だったら金子みすずの「みんな違ってみんないい」の詩を読めよ、というオチになってしまう。
 哲学=真、宗教=嘘という理由付けは、単に「我が仏尊し」というやつで、身もふたもない言い方をすれば、宗教を否定する者が最も強固な宗教と化す陥穽ではないかと思う。


 どうも、哲学者にはこの手の「私は宗教とは違います宗教」の臭気をただよわせる人が多い、という偏見が私にはある。
 この臭気は哲学に特有のものではなくて、科学者にもある。
(広い意味で科学は哲学ではないか、あるいは哲学は科学ではないかという議論はいったん置く)
 カール・セーガンやアイザック・アシモフあたりを読むとよくただよってくる臭いである。もっともあれを「臭い」と感じない人も多いと思う。
 科学は素晴らしい、科学は反証可能性に開かれていて根拠があって、人間が持っている最もすぐれた知的道具である、というあの素朴ですらある「信仰」だ。
 言っておくけれど、私はセーガンもアシモフも大好きである。彼らのエッセイを繰り返し読み、そこから色々なものを得た。ただし私にとってそれは、真理というよりも、自分の知らない民族の神話のようなものだった。
 そして神話とは、真理や倫理を固定するためのものではなく、人間の心を自分の限界では思いも寄らないところへ運ぶためにあるものである。


 私がこの臭いを感じなかった哲学者は、今のところヴィトゲンシュタインとマイケル・サンデルだけで、恐らくそれは二人とも、己の哲学を真理とするのではなく、いわば「思考の梯子」として用いる者で、己の限界を知り抜いている(いた)からだと思う。


 そしてまたこの臭気は、もちろん哲学や科学の専売特許ではない。
 マイケル・サンデルを「たとえ話を都合よく引き合いに出して人を言いくるめている」と批判する仏教関係の宗教家(自称?)のブログがあったが、的外れな批判をしつつ「哲学なんかだめだ、宗教でなければ人は救えない」という話を繰り返していた。文字通りの我が仏尊しである。


 何にせよ、己の仏(神)を絶対視すると危ない。

 それでは信仰が成立しないではないかと問われるだろうが、神という絶対者を感じそれと交流する(あるいは跪く)ことと、神を絶対視しないことは、実は言葉の上では矛盾しているだけで、問題なく共存する。
 それは人間が、自分を「かけがえのないひとり」としても「すぐに取り換えの効く大勢のうちのひとり」としても同時に認識できるのと似ている。あるいは、この世で最も愛する人が、世界の中では別にどうということのない普通の人であることを矛盾なく受け入れていることにも似ている。

 現実には、そういうことを受け入れられない人はいて、色々大変な思いをする。なので、己の信仰を高く保ちなおかつ「我が仏尊し」にならない、というのは誰でもできることではない。

 それでも、多くの人がこの臭気を免れ、逆に哲学者や宗教者がこの臭気をまとうようになってしまうのは、やはりひとりの人間を越えた存在を扱おうとする道の、メジャーな落とし穴だからなのだろう。

どちらにしてもそれは自分の責任2013年05月15日

 昨日の記事では、芸術と鑑賞者の関係を土と農夫に例えて、だいぶ鑑賞者側の責任を重くした話を書いたのだけれど、実のところあの比喩は、逆転させても成り立つものだったりする。
 要するに、芸術の方が農夫で鑑賞者が土壌であり、芸術やそれを作る側の方に大きな責任があるという考えも、十分成立するのだ。
 プロパガンダ芸術を例に出したので、「兵士を鼓舞するラッパを吹いていた者には戦争責任はない」みたいな話に転化できなくもないだろうけれど、そう単純なものではもちろんない。あえてその例えを継続して説明するならば、兵士を鼓舞するラッパが芸術的価値を持ち得る可能性はあり、それはそのラッパが負う戦争責任と併存しうる、という話だ。

 私が一連の思考で結局何にたどりついたのか。それは突き詰めると、「どんな立場であれ責任を引き受ける」ということなのだと思う。それが観賞する側であれ、あるいは作る側であれ。そして同時にまた、「責任とは他人が負わせるものではない」ということでもあるのだが。

 芸術を作る側は、作った(あるいは生まれた)そのものによって、そのものが引き起こしたものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
 そして観賞する側は、観賞から得られた(あるいは影響された)ものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
 多くの場合、観賞する側は、自分は安全圏にいると思っている。つまらないものをつまらない、わからないものをわからないと言う時、つまらないのは芸術の方であって自分ではないと思う。それは根本から間違っている。
 そして多くはないが結構な数の芸術家もまた、理解されないのは鑑賞者の責任であって自分の芸術の責任ではないと思う。暴力的な芸術に影響されて人殺しをするのは、そいつの責任であって芸術は無垢だ、という理屈だ。まあそうなのだろう。法的にも、また現実的にも、そんなことに物理的責任を負わせることはできない。

 けれど私にとっては、法律的な責任は、「責任」という言葉の本来的に示すものの、ほんの一部のことでしかない。私の「責任」というものの解釈は、英語のresponsibilityに恐らく近い。それは自分以外の、自分の甘えが通じない、あるいは自分を越えた何かからの問いかけに、応じる勇気と能力だ。
 そしてそれは、他人から命令されて強制されるものではない。たぶん、他者から「責任を負え」と言われなければ責任がない、というのなら、すでにその時責任は放棄されているのだ。ないのではなく。

 私の発した言葉は、私の意識しないところで、意図しないところで、世界を変える。それは誇大妄想的な思考だけれど、自分の外に言葉を発するとは、そういう行為だろうと思う。本当に何にも影響を及ぼさずに消える言葉などあるだろうか。私の気分が変わる、というだけでも変化だ。私は世界の一部なのだから。(世界が私の一部である、という発想もあるがここでは深入りしない)
 私はその結果を、好むと好まざるとに関わらず引き受けなければならない。

 こう書くと、なんだ全部自己責任か、と言われそうな気もする。でも私が一番嫌いな言葉のひとつが「自己責任」というやつだったりするのだ。この言葉が、それこそ安全圏から自分の責任を逃れるために他人に投げられる言葉だからだろう。

FFXIIと、虎の尾を踏む男たち2013年01月19日

 えー。今日はゲームについての話です。FF12に関する話です。興味がない人はごめんなさい。FF12がわかんないと、全然何の話なのかわからない文章が続きます。ごめんなさいごめんなさい。

  ★



 これは半年前くらいに不意に思ったことなんだけど、「FF12というのは『虎の尾を踏む男達』なんだ」という。

 なんじゃそらという話だが、「虎の尾を踏む男達」というのは、まあ有名な黒澤明の映画で、内容は歌舞伎の「勧進帳」もしくは能の「安宅」を映画にしたものである。話の筋は原作に忠実で、源義経と弁慶一行が山伏に変装して云々というあれ。主役の弁慶と義経には当時一流の時代劇俳優および歌舞伎役者を当て、彼らは重々しく正統的に、渋くて悲壮な報われない主従を演じる。
 ところがこの映画のヘンなところは、何故かこの一行に、武士でもなんでもない強力(荷物運び)がオリジナルキャラとして加わっており、しかもこの強力のキャスティングが、軽喜劇俳優の榎本健一(エノケンと呼ばれたあのひと)なのである。
 この強力が、エノケンの軽喜劇ノリのままなので、重々しく風格の大河内傳次郎の弁慶、しずしずと高貴に歩いていく十代目岩井半四郎の義経の立ち居振る舞いの傍で、騒々しくはしゃいだり踊ったり跳ねたりする。台詞回しや、語り口も全然違う。それらが全然統合されない状態で、映画は強引に続いていく。
 しかしこの映画の肝はやっぱりこの強力の存在なのだ。彼は義経のような武士ではない一般民衆で、観客の代弁者であり、自然な感情の持ち主でもある。そういう人物の視点が映像に加わることによって、義経や弁慶、あるいは富樫の姿は、ある宿命的な、自らの負った役割を崇高に生き切るものとしてまばゆく映し出される。
 そしてその一方で、武士、主従、役人といった役割を決して出ることができない、特定の価値観と世界の中でしか生きられない存在として相対化もされる。
 一番わかりやすいのは、義経が富樫に見咎められて、弁慶がその場を切り抜けるために義経を杖で叩きのめすシーンだ。歌舞伎や能では、富樫がその様子に恐れをなして通れ、ということになるのだが、この映画では、あまりの有様になんと強力が泣きながら割って入る。こんなのあんまりだ、と言いながら義経をかばう。本来の「勧進帳」予定調和の世界ではそんなことはできないのだけど、強力はそれができる。なぜなら彼は、義経や弁慶や富樫の価値観とは違う世界で生きている人間だということが、それまでの映像で明らかにされているから。そして、泣きながら義経を助けようとするその姿は、その場にいる全ての人間の心の底に本当はあるプリミティブな感情であり、また同時に映画を観ている観客の心情でもあるのだ。
 映画の最後は、富樫の設けた酒宴で一同が大いに謳い舞い踊り、目が覚めると弁慶一行はすでに旅立った後、強力は一人残されている。懐にはお礼なのか、印籠と小袖が残されているのみ。そして強力は、歌舞伎「勧進帳」で弁慶役の見せ場といわれるあの、立ち六方を踏んでフェードアウトしていく。一種の狂言回しだった強力が主役の見せ場を演じる、鮮やかな転回。
 強力が弁慶を継承していくと捉えるか、あるいは強力という民衆の自由でしたたかな心が弁慶という役割を喰ったとみなすか。もしくは弁慶や義経の心はこの強力に宿って開放されたのだと捉えることもできるかも知れない。


 と、まぁ、ここまでがなんと前段(笑)。


 FF12は、主人公とその幼なじみの主役二人が、いわゆる「声優」ではない新人の俳優がキャスティングされて、その他の声優がベテランのキャスティングで固められている。何故主役の二人だけ、あえて声優未経験の新人を起用したか。黒澤が勧進帳世界にエノケンをあえて重要人物として放り込んだのと同じような意図があったのか。あるいは結果的にそうなっただけなのか。
 声優、という表現形態は今や、キャラ造形や萌えという「型」の踏襲によって作られている。「型」をいかに究極につきつめ、昇華させていくかが声優たちの「芸」であって、その葛藤はもはや、古典芸能の演者に近しいものになっているような気がする。
 そういう型にのっとってまとめられた美しい表現世界の中に、突如主役二人の声は異質なものとして割って入る。
 だがそれは、FF12という物語世界の中で、そもそもヴァンとパンネロという存在が帯びる「違和感」でも、実はある。

 FF12の登場人物の多くは、支配階級・上流階級という、圧倒的な「型」が支配する世界観に生きている。そして彼らは、敵方も含めて、「与えられた役割」「負った宿命」との葛藤を持つ。一見自由に見える、ジャッジをやめたバルフレア、ヴィエラ族長の妹でありながら森を去ったフランも例外ではない。しかもその負った役割を徹底的に「果たし切る」か、徹底的に「逃げ切る」形で解決しようとする。「私は私。自由でありたいだけよ」という結論にたどりつくアーシェの宣言は、型の中で生き切るヴェインの心には刺さることさえなく、物語の中ではさらりと流されてしまう。

 そんな中でおよそ空気のように悲しい扱いをされ続ける主役二人だが、この二人の存在は、宿命に支配された義経一行の中にまぎれこんだ強力のごとく、予定調和と型の物語世界を、常に相対化していく役割を果たす。彼らには守るべき型も、負う宿命もない。自由に、感情のままに行動する。型と調和の中で「こうしかならない」状態を打破するのは、常にヴァンだ。アーシェを「お前」呼ばわりし、「そっちは勝手に掟を守ってろよ、こっちが勝手にやる」と言い放つヴァンは、調和を守り世界を救うヒーローではなく、常に調和を壊し続け世界を更新させ続けるトリックスターなのである。
 そういうトリックスターの視界で、重々しく正統的なファンタジー歴史絵巻を演ずる他の面々を見やる時、美しさと同時に、ふとそこに哀しい滑稽さ、あるいは無意味な残酷さが垣間見えることがある。この相対性は、ヒロイックな価値観を是とする他のFF作品には一切存在しない妙味で、そしてこれは、「上手い声優」が主役をやる限り決して得られないものだろうとも思うのだ。


 もちろん、そもそも榎本健一は喜劇俳優という別の「型」を極めた存在であって、新人俳優とは違うというもっともな反論があるだろうし、強力は「主役」ではなく「狂言回し」に近い存在であった。FF12には、その狂言回しを強引に主役にしてみたら、うまく扱えなくて空気になっちゃいました的な部分をはじめ、かなり語りが失敗した部分があるのは否めない。
 だがそれでもやはり、FF12においては、ヴァンとパンネロの存在が、いわゆる「上手い声優」では決してない声も含めて、絶対に不可欠だったと思う。あの二人がいなかったら、あるいは上手な型の演技ができる声優が演じていたら、何のとっかかりもないつるつるとした喉越しのよいだけの物語で終わったはずなのだ。

副次的利益2013年01月12日

 人は地震以外ではタダでは動かない、と言う。
 だから人を動かすためには、メリットが必要なのだ。そういう訳で、何か大きなことを成し遂げたいと思う人や団体は、その成し遂げたいことのもともとの目的以外の、「副次的利益」を大声で叫ぶことで、色々な人を巻き込もうとする。

 JAXAは、宇宙開発は技術が発展するし日本の国威高揚にもなりますよ、と謳う。オリンピック招致委員会は、オリンピックは地域を盛り上げ経済効果がありますよ、パラリンピックは人々に希望を与えるんですよ、と訴える。
 それが時々、ひどく虚しく見える。

 宇宙開発は、技術発展や国威高揚のためにやることなのだろうか。オリンピックは経済効果を生み、人々に希望を与えるためにやるものなのだろうか。
 本当は違う。恐らくJAXAにいる中心人物たちの誰一人として、「日本の国威高揚のために」なんて思ってないだろう。彼らの中にある、ひりつくような欲求、それは宇宙の果てを見たい!まだ明かされていない宇宙の秘密をひとかけらでも明らかにしたい!というもののはずだ。
 オリンピック選手も、いやパラリンピック選手も、日本のためにと口では言うけれど、本当のところはただひたすらに、勝ちたい、いい競技をしたい!そのスポーツをやりたい!という思いではなかろうか。
 そしてそれは、果たして、人の心を動かさない個人的なものだろうか。その思いが表現された時に、もしかしたら、多くの人の心が共感するものではないだろうか。

 何かを求める時の理由に、説得のためだけの、信じてもいない理由が持ち出される時、人はそれを敏感にかぎつけるものだろう。
 その理由で説得される人は、結局のところ「説得されることを求めていた」人という気がする。つまり、仲間内への発信だ。
 もちろん、広告や宣伝というものは、あたかも「あなたも当然私たちの仲間であり優れた多数派でしょう?」と思わせることで効果をあげる場合もあるので、そういった理由が無意味という訳ではない。
 けれど、本当の理由を隠したまま「受け入れられそうな理由」を持ち出して説得したものは、最後には大きな不全感を招くのだと思う。
 そしてそもそも、そういった理由が、持ち出す方が期待するほど説得力を持ちえるのかも、私は疑問に思っているのだ。

 人は地震以外ではタダでは動かない。しかし、人はお金や名誉や快楽だけで動く訳でもない。人を動かす力は、実は自分が「共有できない」と思っているその本心に、すでに備わっているかも知れないのだ。
 たまには、それを信じた、「本気の説得」というものが立ち現れても、いいんじゃなかろうか。

統一と分散2012年09月14日

 ネット上での匿名性(実名性)と責任については、ここでも少しだけ書いたことがありますが、この件については最近、根本的なものの捉え方の違いによるのではないかという気がしてきています。
 私は常々、「まず自分があってその解釈として世界がある」人と、「まず世界があってその析出として自分がある」人の二種類がいるのではないかと勝手に思っているのですが、似たような分類といいますか、世界観(人間観)の差異がもたらすことなのではないかと。

 アメリカの偉大な精神科医サリヴァンは「人格は対人関係の数だけある」という説を晩年提示して、人々を驚嘆させたそうです。でもこの考えは、日本では、少なくとも私の周囲では、違和感なく普通に受け入れられそうな気がします。
 一人の人間が、あるひとつのまとまってあまりぶれのない統一した人格を所有しているというよりは、色々な顔色々な要素を併せ持ってその時々に違う顔が出る、という人間観は、日本では結構すんなり了解されていることではないでしょうか。

 私はFacebookのアカウントを作成したまま、すっかり放置していますけれど、あの家族も親戚も友人も恋人も仕事も趣味も、ありとあらゆる自分の要素を全てひとつのアカウントにまとめずにはおられない、と言いたげなシステムには、大袈裟ですが凄絶な「統一への熱意」を感じます。
 アメリカ人のことなど浅薄な知識でしか知らないのですけれど、アメリカという世界は、もしかしたらそういう統一というか、どんな場でもぶれない同じ顔を見せるということが称揚されるのだろうかと、考えたりするのです。だからこそ、対人関係の数だけ人格がある、という説が驚愕されたのかと。
 私のような、割とあっちこっちで受け取られ方の違う人間は、あの家族も友人も仕事も趣味も全部一緒くたに扱われている場に放り出されると、非常に混乱します。私がFacebookであまり活発に動けないのは、そのせいかも知れません。
(実際にはそもそも他人のアカウントとあまり関連付けすらしていないので、混乱も何もないはずなのですけど)

 ネットの議論における匿名性についての話では、匿名を擁護する側からよく、「ペンネームの効用」というものが出てきます。つまり、ネット上での自分はそれ以外の場の自分とは違う「人格」によってまとまっていて、それは実名ではなくペンネームや匿名によって保持されるのであり、実名のみでの運用はそういう要素を否定してしまう、というものです。
 たぶん、こういう意見を言う人は、私のように自分の色々な要素が並立している場に放り込まれるのが、非常に苦手なのでしょう。あるいはもっとわかりやすく、拒絶しているのかも知れません。


 ただまぁ、実はこういう「対人関係の数だけ違う人格を構築する」方法も、「どんな場でも基本的に統一されたひとつの人格で相対する」方法も、単なる方法に過ぎなくて、人格の成熟とはあんまり関係がないのだと思います。
 いくつもの人格を並立させる人から見ると同じ人格で対応する人はいかにも平面的に感じられ、逆に同じ人格で対応する人からすると人格を複数並立させる人はその場しのぎに葛藤から逃げ回る人に感じられる――という部分がありますけれど、確かにそういう要素もあるのですけれど、実際にはどちらかの戦術が洗練されているとか、人格の感性に近いとかいうことはないのでしょう。あるのはただ単純な、方法の違いという意味だけで。それぞれの方法に由来する陥りがちな罠や弱点は存在する訳ですけれど。

 なので本当は、実名匿名の是非についてのディスカッションで、そういう「名前で象徴される人格の存在」を持ち出すのは、あまり実りがないというか、本当は問題ではないことを問題にしているような気がします。
 まあ実名匿名の是非が問われる場が本当に問うているのは、名前なんかではない、ということを皆が忘れてしまいがちなのは、しょうがないのでしょうね。


 というわけで、長々書いた末に何を考えたかというと、Facebookは自分の様々な要素を統一して扱うことに抵抗のない人には、すごく便利なシステムなのだろうなあという、あまり役に立たない思考なのでした。