趣味が同じ人 ― 2013年12月04日
昔は、趣味が同じ人とだったら、ずっと楽しく話ができるだろうなぁと思っていました。
ここ二三年ほど、いわゆるSNSと呼ばれるものにあまりメリットを感じられなくなっているのですが、結局のところ私が「趣味が同じ人とのコミュニケーション」に魅力を感じない人間になってしまった、ということに尽きるようです。
私の数少ない話題は、読書とかゲームとか占いとかアロマテラピーとか、そういうものなのでしょうけれど、SNSでそういう話題が集まる場に参加しても、楽しく感じられないのです。大好きなものの話をしているのに。交わされるファンや同じ趣味の人の書き込みを読んでいても、正直なところ鬱陶しいばかりなのです。何故なんだろう。大好きなものの話のはずなのに。
大好きなものについての、浅い解釈や新鮮味のない一般論や好悪論争やファンの妄想を聞くよりも、全然興味もゆかりもないものについての、考え抜かれた解釈や新しい視点や素っ気ない事実に接している方が面白い。
そして大好きなものについての考え抜かれた解釈や新しい視点にめぐりあうための人徳が、どうやら今の私には備わっていない。
「自分では読まない・観ない」媒体(映画とか)のレビューを読んだりしているのは、そういう傾向のせいかも知れません。
なので近頃は、「ファイナルファンタジーは好きだけどファイナルファンタジーのファンは好きじゃない」みたいなおかしな状態になっており、これでは趣味や属性の共通項をよすがとするSNSでは盛り上がるはずがなく、かくてネットステルス状態は進行するばかりなのです。
かつての私にも「つきあう人や結婚する人は、絶対趣味が同じ人!」という感覚があって、「家族と趣味が違うオタクの悲劇」みたいな話にうんうんとうなずいていたのですが、いつの頃からかそういう感覚はすっかり消えてしまいました。
そして結局、私のつれあいは、ゲームはしない訳じゃないけどさほど興味は持っていないし、私と読む本の種類は全然違うし、私は彼の鉄道とか音楽とかの趣味についてはさっぱりとんちんかんな訳です。
それでも何故か会話は成立し、一緒にいられてよかったなぁと思える(少なくとも私はね、向こうの真意は知りません)。
これは恋愛や伴侶の選択だけの話ではなくて、私にとって居心地のよさとか接したいと思うもの全般にあるべきものは、趣味の共通性などではなくて、もう少し違う感覚のようです。
それを言葉にすると、「違うものへの理解と尊重」とか、「誠実さ」とか、曖昧模糊とした陳腐なものになってしまいそうですけれど。
ここ二三年ほど、いわゆるSNSと呼ばれるものにあまりメリットを感じられなくなっているのですが、結局のところ私が「趣味が同じ人とのコミュニケーション」に魅力を感じない人間になってしまった、ということに尽きるようです。
私の数少ない話題は、読書とかゲームとか占いとかアロマテラピーとか、そういうものなのでしょうけれど、SNSでそういう話題が集まる場に参加しても、楽しく感じられないのです。大好きなものの話をしているのに。交わされるファンや同じ趣味の人の書き込みを読んでいても、正直なところ鬱陶しいばかりなのです。何故なんだろう。大好きなものの話のはずなのに。
大好きなものについての、浅い解釈や新鮮味のない一般論や好悪論争やファンの妄想を聞くよりも、全然興味もゆかりもないものについての、考え抜かれた解釈や新しい視点や素っ気ない事実に接している方が面白い。
そして大好きなものについての考え抜かれた解釈や新しい視点にめぐりあうための人徳が、どうやら今の私には備わっていない。
「自分では読まない・観ない」媒体(映画とか)のレビューを読んだりしているのは、そういう傾向のせいかも知れません。
なので近頃は、「ファイナルファンタジーは好きだけどファイナルファンタジーのファンは好きじゃない」みたいなおかしな状態になっており、これでは趣味や属性の共通項をよすがとするSNSでは盛り上がるはずがなく、かくてネットステルス状態は進行するばかりなのです。
かつての私にも「つきあう人や結婚する人は、絶対趣味が同じ人!」という感覚があって、「家族と趣味が違うオタクの悲劇」みたいな話にうんうんとうなずいていたのですが、いつの頃からかそういう感覚はすっかり消えてしまいました。
そして結局、私のつれあいは、ゲームはしない訳じゃないけどさほど興味は持っていないし、私と読む本の種類は全然違うし、私は彼の鉄道とか音楽とかの趣味についてはさっぱりとんちんかんな訳です。
それでも何故か会話は成立し、一緒にいられてよかったなぁと思える(少なくとも私はね、向こうの真意は知りません)。
これは恋愛や伴侶の選択だけの話ではなくて、私にとって居心地のよさとか接したいと思うもの全般にあるべきものは、趣味の共通性などではなくて、もう少し違う感覚のようです。
それを言葉にすると、「違うものへの理解と尊重」とか、「誠実さ」とか、曖昧模糊とした陳腐なものになってしまいそうですけれど。
摩尼車 ― 2013年12月09日
マニ車というものがありまして、これはチベット仏教の道具なのですが、クルクル回る円筒のガラガラみたいな外見で、クルクルの中に経文が入っており、このクルクル円筒を1回まわすと、お経を1回唱えたのと同じ功徳を得られるというものです。チベットだけでなく、日本のお寺にも、この大きめのものが備え付けてある場合があります。
風や水力、太陽電池などを利用して、自動的にクルクル回る屋外型もあると聞きます。
で、この「回すだけで功徳が得られたことにする」というところを捉えて、宗教的なものを揶揄するために引き合いに出されるマニ車なのですが、最近私は、これは手抜きとかそういうものとも違うように感じられてきました。
チベット仏教には全く疎いので、以下の話は完全に私の想像というか感覚のもので、専門の方からしたら見当外れもいいとこのような気がしますが、あしからず。
マニ車を揶揄したり、否定的に見たりする感覚の根底には、「心をこめず、苦労もせずに、功徳が得られる訳がない。自分自身で心をこめ、体力精神力を消耗しつつ読経してこそ功徳が得られるはずだ」という考えがあります。
つまり読経は、読まれる経文や読んでいる声自体は基本的に単なる器に過ぎず、一定のエネルギーを消耗することで真心を証し立てする行為という訳です。
そうであるなら、読経の声が嗄れていても、音痴でも、すごい小声でも迷惑な大声であっても、あるいは読みが間違いだらけであっても、真心がこもっておりエネルギーを消耗しているならばよしということになります。
可愛いあの子が作ってくれた手作りチョコレートが砂糖が固まり切らずジャリジャリでも、編んでくれたマフラーが編み目がガタガタでスカスカで悲惨な見た目であっても。あるいは中学生の彼がギターやバイオリンをギィギィ鳴らしつつ自作の愛の歌を捧げてくれるようなことがあっても。そこに愛情があるのならば、彼氏くん彼女くんは感謝感激するはずです。チョコレートの味やマフラーの外見機能性や歌の善し悪しは、この際二の次であり、それらは愛情の「器」に過ぎません。
しかし。経文、あるいは読経という行為を、違う形で解釈することもできます。
それは、「力ある聖なる何かで、時間と空間を満たす行為」という考え方です。経文は単なる器ではなく、聖なる力を持つことができる尊い存在であり、それが何かの形で空間と時間を満たしてゆくことこそが重要である。
卑近な形で喩えるなら、それは、花瓶に買ってきた美しい花を生けるような。素晴らしい音楽の録音を流すような。そういった行為に近い、ただしはるかに真剣で重みのあるもの、かも知れないのです。
(むしろ花瓶に花を飾ることの方が、読経のはるかに薄まった行為、なのかも)
もしそうであるなら、真心をこめてエネルギーを注いだとしても、捧げられるできあがったものが聖なる力を帯びるに足る完成度に達していないなら、あんまり意味がないということになります。
レストランで食事をしようとしたら、そこではピアノの生演奏をやっていて、おっそろしく演奏がへたくそで聞くに耐えず、しかし本人が真剣に心をこめて弾いているのはよくわかる……という場面に陥ったら。まあ気弱な人は面と向かって「あのピアニスト、チェンジ」とは言えないでしょうが、「心がこもってるから素晴らしい」と言う人はまずいないはずです。
手編みのセーターは、もらってうれしい贈り物と言われると同時に、もらって迷惑な贈り物ともよく言われます。心がこもっていさえすれば、何でも喜ばれる訳ではない……かも知れません。
「心がこもってるけど下手くそで聞くに耐えない読経をえんえん捧げられるより、心は後からついてくると判断してとにかく聖なるものにふさわしい形を備えた経文で時空を満たす仕掛けを使った方が、仏様もありがたいんじゃなかろうか」
そんな風に判断する人がたくさんいたとしても、不思議ではありません。
現にマニ車は、作るのに非常に厳格な手順があり、高僧が聖別してようやく認められるものなのだそうです。つまり、適当に素人が経文らしきものを書いてぐるんぐるん回すようないい加減なものではないのです。
いーや心がこもってないのは無意味だ!と怒るのであれば、「今まで録音の音楽を一度も聞いたことがなく、心がこもってない大量生産の食品を食べたことがない者のみが石を投げなさい」とイエスに言われるかも知れませんね!(それ宗教違う)
そんな訳で、マニ車というのは「聖歌の録音再生」みたいなものなのかなぁと感じるようになってから、私はマニ車を回している光景がとても美しいものに見えるようになりました。あれを変だと揶揄するのは、喫茶店で「心のこもってないGBMを流すな!」と怒るのと同じくらい無粋な行為なのかと。
そして、われわれが録音の音楽に心がこもっていると感じることがあるように、マニ車の回転にも、仏や宇宙の真理は聖なる尊いものを感じ、功徳はやはり世界を満たしているのかも知れません。それを感じられないわれわれの方が、不完全であるというだけで。
風や水力、太陽電池などを利用して、自動的にクルクル回る屋外型もあると聞きます。
で、この「回すだけで功徳が得られたことにする」というところを捉えて、宗教的なものを揶揄するために引き合いに出されるマニ車なのですが、最近私は、これは手抜きとかそういうものとも違うように感じられてきました。
チベット仏教には全く疎いので、以下の話は完全に私の想像というか感覚のもので、専門の方からしたら見当外れもいいとこのような気がしますが、あしからず。
マニ車を揶揄したり、否定的に見たりする感覚の根底には、「心をこめず、苦労もせずに、功徳が得られる訳がない。自分自身で心をこめ、体力精神力を消耗しつつ読経してこそ功徳が得られるはずだ」という考えがあります。
つまり読経は、読まれる経文や読んでいる声自体は基本的に単なる器に過ぎず、一定のエネルギーを消耗することで真心を証し立てする行為という訳です。
そうであるなら、読経の声が嗄れていても、音痴でも、すごい小声でも迷惑な大声であっても、あるいは読みが間違いだらけであっても、真心がこもっておりエネルギーを消耗しているならばよしということになります。
可愛いあの子が作ってくれた手作りチョコレートが砂糖が固まり切らずジャリジャリでも、編んでくれたマフラーが編み目がガタガタでスカスカで悲惨な見た目であっても。あるいは中学生の彼がギターやバイオリンをギィギィ鳴らしつつ自作の愛の歌を捧げてくれるようなことがあっても。そこに愛情があるのならば、彼氏くん彼女くんは感謝感激するはずです。チョコレートの味やマフラーの外見機能性や歌の善し悪しは、この際二の次であり、それらは愛情の「器」に過ぎません。
しかし。経文、あるいは読経という行為を、違う形で解釈することもできます。
それは、「力ある聖なる何かで、時間と空間を満たす行為」という考え方です。経文は単なる器ではなく、聖なる力を持つことができる尊い存在であり、それが何かの形で空間と時間を満たしてゆくことこそが重要である。
卑近な形で喩えるなら、それは、花瓶に買ってきた美しい花を生けるような。素晴らしい音楽の録音を流すような。そういった行為に近い、ただしはるかに真剣で重みのあるもの、かも知れないのです。
(むしろ花瓶に花を飾ることの方が、読経のはるかに薄まった行為、なのかも)
もしそうであるなら、真心をこめてエネルギーを注いだとしても、捧げられるできあがったものが聖なる力を帯びるに足る完成度に達していないなら、あんまり意味がないということになります。
レストランで食事をしようとしたら、そこではピアノの生演奏をやっていて、おっそろしく演奏がへたくそで聞くに耐えず、しかし本人が真剣に心をこめて弾いているのはよくわかる……という場面に陥ったら。まあ気弱な人は面と向かって「あのピアニスト、チェンジ」とは言えないでしょうが、「心がこもってるから素晴らしい」と言う人はまずいないはずです。
手編みのセーターは、もらってうれしい贈り物と言われると同時に、もらって迷惑な贈り物ともよく言われます。心がこもっていさえすれば、何でも喜ばれる訳ではない……かも知れません。
「心がこもってるけど下手くそで聞くに耐えない読経をえんえん捧げられるより、心は後からついてくると判断してとにかく聖なるものにふさわしい形を備えた経文で時空を満たす仕掛けを使った方が、仏様もありがたいんじゃなかろうか」
そんな風に判断する人がたくさんいたとしても、不思議ではありません。
現にマニ車は、作るのに非常に厳格な手順があり、高僧が聖別してようやく認められるものなのだそうです。つまり、適当に素人が経文らしきものを書いてぐるんぐるん回すようないい加減なものではないのです。
いーや心がこもってないのは無意味だ!と怒るのであれば、「今まで録音の音楽を一度も聞いたことがなく、心がこもってない大量生産の食品を食べたことがない者のみが石を投げなさい」とイエスに言われるかも知れませんね!(それ宗教違う)
そんな訳で、マニ車というのは「聖歌の録音再生」みたいなものなのかなぁと感じるようになってから、私はマニ車を回している光景がとても美しいものに見えるようになりました。あれを変だと揶揄するのは、喫茶店で「心のこもってないGBMを流すな!」と怒るのと同じくらい無粋な行為なのかと。
そして、われわれが録音の音楽に心がこもっていると感じることがあるように、マニ車の回転にも、仏や宇宙の真理は聖なる尊いものを感じ、功徳はやはり世界を満たしているのかも知れません。それを感じられないわれわれの方が、不完全であるというだけで。
弱ってます ― 2013年12月10日
今年はこれまで、気温が下がっても私にしてはまともに活動していた方だったので、あら寒がりを少しは克服したのかしらとか思っていたのですが、ここ数日の冷え込みでがつんと動けなくなりました。自然の力の大きさと、己の小ささの対比を思い知らされております……。脂肪とか、人並み(以上?)にあるのに。何でこんなに動けないのか。謎。
自分がぱりぱりに乾いた枯れ葉になったような気分で、このままではひび割れたあげく粉々になってしまう、何か補充しないと……と思うのですが、外に出ることさえもひどく億劫に感じます。
ちょっとは冬支度っぽいことをしようと、とりあえず冬用の保湿クリームを手作りしました。香りはカモマイル・ジャーマン。弱った時の私が使いたがる精油です。
気分が明るくなるという、セントジョンズワートとパッションフラワーを浸出させたハーブ酒を少しだけ飲みつつ、これから増していく寒さに私は丸くなって備えるのです。
自分がぱりぱりに乾いた枯れ葉になったような気分で、このままではひび割れたあげく粉々になってしまう、何か補充しないと……と思うのですが、外に出ることさえもひどく億劫に感じます。
ちょっとは冬支度っぽいことをしようと、とりあえず冬用の保湿クリームを手作りしました。香りはカモマイル・ジャーマン。弱った時の私が使いたがる精油です。
気分が明るくなるという、セントジョンズワートとパッションフラワーを浸出させたハーブ酒を少しだけ飲みつつ、これから増していく寒さに私は丸くなって備えるのです。
再構築 ― 2013年12月11日
小説を読むという行為にあまり大きな喜びを感じなくなって、もう何年か経つ。
それは最近の小説がつまらんとかそういう話ではなくて、原因は完全に私の側にあり、小説および出版世界にはない。
単純に、私が、他人の目に映る世界というものに疲れているということだと思う。
私は特別に個性的な人間でも、ましてや優れている人間でも全くないのだけれど、なぜか、「私の感じるようには、私以外の人は感じてはくれない」という感覚につきまとわれて生きている。
それは単なる錯覚かも知れないし、自分が特別な存在であってほしいという自己承認欲求に近似する欲望を何とか昇華する試みなのかも知れない。あるいは、もしかして本当に、私の感じること考えることが私の属している社会の中で少数派に属しているという可能性も、全くのゼロではないけれど。(そして少数派であるということは、貴重さや価値の高さとは何の関係もないのだけれど)
小説や物語というのは、往々にして書き手によって再構築された世界の姿だから、そこに広がっている光景はどんなに美しくても私の目に映る世界ではない。
別に何か教訓を目的としていなくても、物語というのは本当に鮮やかに、作り手の人間観や世界観を映し出すものだ。
人間とはこういう存在です。善悪とはこういうものです。世界とは、愛とは、生きるとは。
描かれているものがため息をつくほど美しかったとしても、そこに対して、喜びよりも強く、疎外されているぽつねんとした私自身の姿を感じてしまう。
そうじゃない。私の目に映る人間は、世界は、愛は、言葉は、善悪は、そんな風になっていない。
私が、出来のいい小説や漫画よりも、ゲームで語られる物語の方に感情移入しやすいのは、そこにある物語が、書き割りのように単純で、個性が漂白されている部分があるからだろうか。
今の私は、事実の羅列を読む方が気楽だ。とはいえ百科事典の記述でさえも、誰かの世界観は垣間見えるものだけれど。
そしてそんな私が書く文章や物語は、逆に「私」が充ち満ちていて、きっと私以外の人間にとっては読んでいてうんざりするような雰囲気があるのではないかと思う。
それは最近の小説がつまらんとかそういう話ではなくて、原因は完全に私の側にあり、小説および出版世界にはない。
単純に、私が、他人の目に映る世界というものに疲れているということだと思う。
私は特別に個性的な人間でも、ましてや優れている人間でも全くないのだけれど、なぜか、「私の感じるようには、私以外の人は感じてはくれない」という感覚につきまとわれて生きている。
それは単なる錯覚かも知れないし、自分が特別な存在であってほしいという自己承認欲求に近似する欲望を何とか昇華する試みなのかも知れない。あるいは、もしかして本当に、私の感じること考えることが私の属している社会の中で少数派に属しているという可能性も、全くのゼロではないけれど。(そして少数派であるということは、貴重さや価値の高さとは何の関係もないのだけれど)
小説や物語というのは、往々にして書き手によって再構築された世界の姿だから、そこに広がっている光景はどんなに美しくても私の目に映る世界ではない。
別に何か教訓を目的としていなくても、物語というのは本当に鮮やかに、作り手の人間観や世界観を映し出すものだ。
人間とはこういう存在です。善悪とはこういうものです。世界とは、愛とは、生きるとは。
描かれているものがため息をつくほど美しかったとしても、そこに対して、喜びよりも強く、疎外されているぽつねんとした私自身の姿を感じてしまう。
そうじゃない。私の目に映る人間は、世界は、愛は、言葉は、善悪は、そんな風になっていない。
私が、出来のいい小説や漫画よりも、ゲームで語られる物語の方に感情移入しやすいのは、そこにある物語が、書き割りのように単純で、個性が漂白されている部分があるからだろうか。
今の私は、事実の羅列を読む方が気楽だ。とはいえ百科事典の記述でさえも、誰かの世界観は垣間見えるものだけれど。
そしてそんな私が書く文章や物語は、逆に「私」が充ち満ちていて、きっと私以外の人間にとっては読んでいてうんざりするような雰囲気があるのではないかと思う。
年末 ― 2013年12月31日
気がつくと新暦大晦日です。
今年は、入院・手術があったり、家族が入院したり、友達が病気になったり、親類の訃報が続いたりと、自分の来し方行く末を色々と考える年でした。
その時その立場になってみないとわからないことがすごくたくさんあるものですね。
家の中のモノは少しは片づいたので、整理は進展しているのかな?
自分はどたばたしていましたが、周囲では色々よいニュースがあったのが幸いです。
来年はどんな年にしようかな。考えていることは色々あるのですが、それは来年に。皆様よいお年を。
今年は、入院・手術があったり、家族が入院したり、友達が病気になったり、親類の訃報が続いたりと、自分の来し方行く末を色々と考える年でした。
その時その立場になってみないとわからないことがすごくたくさんあるものですね。
家の中のモノは少しは片づいたので、整理は進展しているのかな?
自分はどたばたしていましたが、周囲では色々よいニュースがあったのが幸いです。
来年はどんな年にしようかな。考えていることは色々あるのですが、それは来年に。皆様よいお年を。
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