再構築 ― 2013年12月11日
小説を読むという行為にあまり大きな喜びを感じなくなって、もう何年か経つ。
それは最近の小説がつまらんとかそういう話ではなくて、原因は完全に私の側にあり、小説および出版世界にはない。
単純に、私が、他人の目に映る世界というものに疲れているということだと思う。
私は特別に個性的な人間でも、ましてや優れている人間でも全くないのだけれど、なぜか、「私の感じるようには、私以外の人は感じてはくれない」という感覚につきまとわれて生きている。
それは単なる錯覚かも知れないし、自分が特別な存在であってほしいという自己承認欲求に近似する欲望を何とか昇華する試みなのかも知れない。あるいは、もしかして本当に、私の感じること考えることが私の属している社会の中で少数派に属しているという可能性も、全くのゼロではないけれど。(そして少数派であるということは、貴重さや価値の高さとは何の関係もないのだけれど)
小説や物語というのは、往々にして書き手によって再構築された世界の姿だから、そこに広がっている光景はどんなに美しくても私の目に映る世界ではない。
別に何か教訓を目的としていなくても、物語というのは本当に鮮やかに、作り手の人間観や世界観を映し出すものだ。
人間とはこういう存在です。善悪とはこういうものです。世界とは、愛とは、生きるとは。
描かれているものがため息をつくほど美しかったとしても、そこに対して、喜びよりも強く、疎外されているぽつねんとした私自身の姿を感じてしまう。
そうじゃない。私の目に映る人間は、世界は、愛は、言葉は、善悪は、そんな風になっていない。
私が、出来のいい小説や漫画よりも、ゲームで語られる物語の方に感情移入しやすいのは、そこにある物語が、書き割りのように単純で、個性が漂白されている部分があるからだろうか。
今の私は、事実の羅列を読む方が気楽だ。とはいえ百科事典の記述でさえも、誰かの世界観は垣間見えるものだけれど。
そしてそんな私が書く文章や物語は、逆に「私」が充ち満ちていて、きっと私以外の人間にとっては読んでいてうんざりするような雰囲気があるのではないかと思う。
それは最近の小説がつまらんとかそういう話ではなくて、原因は完全に私の側にあり、小説および出版世界にはない。
単純に、私が、他人の目に映る世界というものに疲れているということだと思う。
私は特別に個性的な人間でも、ましてや優れている人間でも全くないのだけれど、なぜか、「私の感じるようには、私以外の人は感じてはくれない」という感覚につきまとわれて生きている。
それは単なる錯覚かも知れないし、自分が特別な存在であってほしいという自己承認欲求に近似する欲望を何とか昇華する試みなのかも知れない。あるいは、もしかして本当に、私の感じること考えることが私の属している社会の中で少数派に属しているという可能性も、全くのゼロではないけれど。(そして少数派であるということは、貴重さや価値の高さとは何の関係もないのだけれど)
小説や物語というのは、往々にして書き手によって再構築された世界の姿だから、そこに広がっている光景はどんなに美しくても私の目に映る世界ではない。
別に何か教訓を目的としていなくても、物語というのは本当に鮮やかに、作り手の人間観や世界観を映し出すものだ。
人間とはこういう存在です。善悪とはこういうものです。世界とは、愛とは、生きるとは。
描かれているものがため息をつくほど美しかったとしても、そこに対して、喜びよりも強く、疎外されているぽつねんとした私自身の姿を感じてしまう。
そうじゃない。私の目に映る人間は、世界は、愛は、言葉は、善悪は、そんな風になっていない。
私が、出来のいい小説や漫画よりも、ゲームで語られる物語の方に感情移入しやすいのは、そこにある物語が、書き割りのように単純で、個性が漂白されている部分があるからだろうか。
今の私は、事実の羅列を読む方が気楽だ。とはいえ百科事典の記述でさえも、誰かの世界観は垣間見えるものだけれど。
そしてそんな私が書く文章や物語は、逆に「私」が充ち満ちていて、きっと私以外の人間にとっては読んでいてうんざりするような雰囲気があるのではないかと思う。
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