期待2014年10月02日

 最近は、割とまめに掃除したり片づけをしたりまともな主婦らしい生活を申し訳程度にはしていたのですが、今日は久しぶりに「何もやりたくない、何もできない」無気力状態でした。ヴァナ・ディールにさえほとんどログインしなかったという。
 ここ数日、ちょっと気分が落ち込む出来事が重なって、それが一気に閾値を越えた感じ。

 こういう状態の時には、つらつらと実にもならないことを考えてしまうのですが、私という人間は、「他人から期待される」という状態がつくづく苦手なんだなぁと思い至りました。
 お金をもらうような仕事が苦手とか、師弟関係において一定のラインから急に行き詰まるとか、そういう今までの自分の人生の失敗や挫折の理由を考えていくと、結局のところこの性質に収束していくのではないかと。

 ならば期待されない方がいいのかと問われると、当然ながら何も期待されない顧みられないという状態の寂しさもわかっているので、それがいいというのとも違うのですけど。
 この私が苦手とする「期待」というのは、漠然としたわくわく感というものではなくて、詳細に言語化するなら「ある人(ある人々)が、私がその人の望むことをこなしてくるだろうということを当然視している状態」だと思います。期待というよりもこれはプレッシャーに近いのだろうか。
 私という個人の意志や思考ではなくて、「その人が望んでいることをやってくれる」行動が必要とされているのだな、という空気を感じると、私はものすごく怯んでしまうのです。

 たぶん、私の問題は、ある人が期待している状態やものというものを感じる程度には空気が読めるけれど、それを実現するほどの現実処理能力や詳細な人心把握能力がない、ということにあるのでしょうね。
 そして何故か、妙に相手に期待される(というか実力を過大評価される)ことが多いので、到底こなせそうにない状態を期待されて、それがはっきりわかって、しかもそれに応えられない未来までありありと予想できてしまって、絶望感まで先回りでやってくるという。
 相手の期待に沿おうとがんばってみた経験は、まぁさすがに人生も長いのでそこそこあるのですが、そこで無惨に失敗ばかりしているので、「相手の期待するものがわかる能力」というのと「相手の期待に応える能力」というのは全然別のものなのだなぁと実感します。

 おそらく人間の社会活動においては、大半の場合、その人の個性とは関係なく「結果として代理に活動してもらえる」ことが重要です。
 多くの人にとっては、「人間としては好きだけど全然役に立たない(あるいは積極的に負担が増える)人」よりも「人間として好きじゃないけどとっても役に立つ人」の方がありがたい訳で。
 私は、他人にとって役に立つことが本当にできない人間なので、本当ならば何倍も何十倍も努力をしないといけないのでしょうが、まぁそれをしていないのだから自業自得なのでしょうけれどね。


 今の私の暮らしは結構精神的に安定していますが、その最大の理由は、他人からの「当然これくらいのことをしてくれるはず」というプレッシャーが非常に少ないからだと思います。
 私にとって一番ありがたいのは、他人の期待に沿うのではなく自分で考えて積み上げて作っていく状態で、それがたまたま誰かにとって価値のある状態だととてもうれしいだろうなぁ、と思います。
 でも、そんな幸運というものは、空から可愛い女の子が降ってくる並みのレア現象でしょう。もともとそれが一致しやすい人間であれば、プレッシャーではなく自信になっていたはずですから。なので私は、ひとり静かに、世界から遠ざかって、丸くなっておきたいと思います。

最後の遺物に何度目かのチャレンジ2014年10月27日

 周期的にやってくる物欲の波に襲われまして、あれこれ買い物をいたしました。
 本も読みたくなって、結構買ったり借りたりしたものの、小説には相変わらず手が伸びません。物語に触れたい、という気持ちはあるので、代わりに久しぶりに、FF11以外のゲームをやろうかという気分になっています。
 が、これまで買ったものの、クリアを見ていない積みゲームが結構あり、さすがにこれを放置して新しいのを買うのはいかがなものかという良識の声に逆らえないので、とりあえず積みゲーに手を伸ばしました。

 本当は、あまり長くがっつりとのめりこむ気分とは少し違うので、いわゆるやりこみ系とかのゲームではない方がよかろうとは思うのですが。
 しかしそもそも今積まれているゲームにしても、萌え絵やアニメ口調を観賞したい気分ではないし、かといって複雑なパズルゲームじゃなくて物語に触れたいし、という時に買ったものばかりなので、結果的にボリュームのある大作系になっております。

 で、今日は、エンディング近くまではやっていたもののなかなかエンディングに進めずにいる、PC版ラストレムナントなど引っ張り出して、これのためだけに購入したXBoxコントローラーをパソコンに繋ごうと四苦八苦したりしておりました。
 このゲームも、強くてニューゲームが可能だったりとやりこみを始めるときりがない系統のゲームなのですが、毎度それに溺れてエンディングまで辿り着けてないうちにパソコンのトラブルで再インストール、というループをしているので、今回は「とにかくエンディング!」を目標にがんばりたいと思います……。
 あとはPSアーカイブスで買ってからは手を付けていない、FF9かなぁ。
 しかし、こうしてみるとスクエニのタイトルばかりですね。まぁ新作や新しいメーカーを発掘する気力がいまないのも事実なのですが。何かいい縁があるといいんでしょうけど。

改善2014年10月29日

 とあるビルの案内表示板がわかりにくいという話が、以前Twitterで盛り上がったことがあったそうで。

新宿案内図問題:新宿エルタワーのサインのデザインがわかりにくい
http://togetter.com/li/185014

 Twitterでは、色々な人がよってたかってああだこうだとデザインを改良して、こうすればよかったのね、前よりずっとよくなったね、ああネットの集合知って素晴らしいとなっていたみたいです。

 この成果自体はまことに結構なこととして、これを読んで私が思ったのは、"すでにあるものを「改善」することにいきいきとなる場"というのがあるのだなぁということでした。
「ここにいる人たちがサインを作ってくれればよかったのに」とか感極まった書き込みもありましたけど、あの場にいた人たちが一から案内板を作っていたら、案外いいものはできなかったのではないのかな。
 無から有を産みだすのではなく、すでにあるものをつつきまわす時に、ネットの集合知というのは一番輝くような気がします。悪く言えばケチをつける時。
 それが集合知の特性なのか日本人の特性なのか人間の特性なのかは定かではありませんけど。

 問題があるとしたら、「すでにあるものをつつきまわす」時というのは、己の力量や成果を高く見積もりやすいことなのでしょう。
「ゼロから作り出す」よりも「すでにあるものをつつきまわす」方が、いわば後出しじゃんけんなのでずっと簡単なのですが、自分の優位性が証明されているような錯覚に陥りやすいという罠があるような気がします。
 批判が上手な人はいっぱいいるけれど、創造ができるひとはそんなにいません。

 しかしひょっとしたら、これは高い低いといった絶対値ではなく、能力として根本から異なっていたり方向性が全く違っていたりするのではとも思います。
 そうだとすると、「すでにあるものをつつきまわす」能力のある人が、「ゼロから作り出す」人になろうとすると、無惨な辛いことになります。
 ネットの集合知とやらが、時々あんなにも毒を含んだものになるのは、もしかしたら「無から有を産みだす」人になりたかったのに「すでにあるものをつつきまわす」能力だけが花開いてしまった人たちの、叶わなかった怨嗟が昇華されずに土壌に残っているからなのでしょうか。

 この文章とて、「すでにあるものをつつきまわす」典型なので、土壌の中に怨嗟がこもっていて毒を放つ可能性は大いにあるのです。
 ひとり静かに、誰も読まないものをただ書いている時の私の方が、社会に迷惑がないぶん、よいのでしょうか。

積んだものを解消する2014年10月30日

 理屈ではわかっていて、他人が同じ状況に陥ってたら真っ先に指摘するだろうに、いざ自分がその問題を実感するまでに齢ン十年を要してしまう、という問題はあるものです。
 イエス・キリストも言っていた。他人の目の塵に文句つけるより先に己の目の梁を取り除きなさいと。そんなことを神の子がいちいち言わねばならなかったというのは、人間がよっぽどその手のことを繰り返しているという証でしょう。つまり、私だけの欠点ではないですよね。何の言い訳にもならないけど。

 という訳で、今さらだけど、「あらかじめ買ってある本やゲームは、すぐ読まない限り何年でも積まれる」という事実、いや真理を今さらながらに噛みしめて反省しております。

「読みたい本を買うお金がいつもない」という飢餓感とともに成長してきた(親が悪かったとか貧乏だったとかいう話ではない、単に私の金銭の使い方が下手くそだっただけ)ために、一種の安全保障感を求めて、「後で読もう」という本やらゲームやら買い込んでしまいがちなのですが、こうして買ったものというのは何故かいついつまでも積まれるのですね。
 買っただけで安心するという側面もあるのですけど、それ以上に、いつか読もう(遊ぼう)と思っているものってシチュエーションを限定したくなる妙な欲望がまとわりつくというか、「もっとゆっくりできる時に」とか「今はその気になれない」とか、そういう気分に左右されるのです。

「今それに手を付けないのなら、手を付ける気分になるまでモノは確保しない」というのが一番正しいのだろうなぁ。
 本は読む直前に買う。ゲームも遊ぶ時間の直前に買う。それができるまで買わない。買う前に気分が変わっちゃったら、次の波まで待つ。
 こういうやり方でいけば、死蔵されることなく、「本はたくさんあるのに今読みたい本がなくてまた買うはめになる」みたいなどこぞの衣装持ちがまた服を買うスパイラル的な状況は避けられる……はず。

 理屈ではこんなにはっきりわかっていることなのに、何故実行するのは難しいのだろうなぁ。
 先にも書いた通り、今手を付けないのに本やゲームを買うのは安全保障感の確保のためなので、その不安をどうやってなだめるかというのが鍵なのでしょうね。
 あと、「今はこれを読む気分じゃない」という気まぐれに振り回されずに、有無を言わせず目の前のものを処理していく鋼の意志を鍛えないと。
 たぶん、これが確立できたら、家の中の散らかっているものの大半(というか全部?)を処理できるんだろうな……。