積んだものを解消する2014年10月30日

 理屈ではわかっていて、他人が同じ状況に陥ってたら真っ先に指摘するだろうに、いざ自分がその問題を実感するまでに齢ン十年を要してしまう、という問題はあるものです。
 イエス・キリストも言っていた。他人の目の塵に文句つけるより先に己の目の梁を取り除きなさいと。そんなことを神の子がいちいち言わねばならなかったというのは、人間がよっぽどその手のことを繰り返しているという証でしょう。つまり、私だけの欠点ではないですよね。何の言い訳にもならないけど。

 という訳で、今さらだけど、「あらかじめ買ってある本やゲームは、すぐ読まない限り何年でも積まれる」という事実、いや真理を今さらながらに噛みしめて反省しております。

「読みたい本を買うお金がいつもない」という飢餓感とともに成長してきた(親が悪かったとか貧乏だったとかいう話ではない、単に私の金銭の使い方が下手くそだっただけ)ために、一種の安全保障感を求めて、「後で読もう」という本やらゲームやら買い込んでしまいがちなのですが、こうして買ったものというのは何故かいついつまでも積まれるのですね。
 買っただけで安心するという側面もあるのですけど、それ以上に、いつか読もう(遊ぼう)と思っているものってシチュエーションを限定したくなる妙な欲望がまとわりつくというか、「もっとゆっくりできる時に」とか「今はその気になれない」とか、そういう気分に左右されるのです。

「今それに手を付けないのなら、手を付ける気分になるまでモノは確保しない」というのが一番正しいのだろうなぁ。
 本は読む直前に買う。ゲームも遊ぶ時間の直前に買う。それができるまで買わない。買う前に気分が変わっちゃったら、次の波まで待つ。
 こういうやり方でいけば、死蔵されることなく、「本はたくさんあるのに今読みたい本がなくてまた買うはめになる」みたいなどこぞの衣装持ちがまた服を買うスパイラル的な状況は避けられる……はず。

 理屈ではこんなにはっきりわかっていることなのに、何故実行するのは難しいのだろうなぁ。
 先にも書いた通り、今手を付けないのに本やゲームを買うのは安全保障感の確保のためなので、その不安をどうやってなだめるかというのが鍵なのでしょうね。
 あと、「今はこれを読む気分じゃない」という気まぐれに振り回されずに、有無を言わせず目の前のものを処理していく鋼の意志を鍛えないと。
 たぶん、これが確立できたら、家の中の散らかっているものの大半(というか全部?)を処理できるんだろうな……。