「DEATH NOTE」にまつわること 1 ― 2007年01月11日
唐突だが、私は「新世紀エヴァンゲリオン」を観ていない。
理由は簡単で、リアルタイムで接触しそこねたからだ。その後、周囲にファンやマニアが山と現れ、彼らの解釈や謎解きや蘊蓄を聞くだけで十分満足してしまったのである。
それが私にとって幸福なことだったのか否かは、未だにわからないし、きっとわからないままでわるだろう。
こんなことを書いたのは、恐らくあの時代の人にとっての「エヴァ」が、私にとっては「DEATH NOTE」だったのではないかと思ったからだ。
独特の設定、虚構的な登場人物、奇妙で異常な緻密さで積み上げられるルールと世界設定、受け手の予想を覆し続け最後には空中分解するストーリー、そして鑑賞した後の行き場のない不全感——そういったもの全てが、とても近しい空気をかもしだしている。
†
トランプで積み上げられたピラミッドの如き危うい緊張感で疾走する第一部と、そのトランプピラミッドが徐々に崩壊して狂っていく泥沼のような重みの第二部を比べた時、私は好みからも物語全体の完成度からも、第一部に軍配を上げる。
第一部は、文句なしに面白い。あのポテトチップスを使った一幕や山手線でひっそりと行われるジェノサイド、月とLが出会い徐々に距離を詰めていく過程、そして記憶を失った月とLの共闘を経て、それでもなおデスノートを手にした瞬間にキラへ立ち戻る月といったエピソードの連続は、本当に久しぶりに「次のページをめくるのがもどかしい」といった感覚で突き進んでいく。
たぶん、これにとても近い作品はフレドリック・ブラウンの「73光年の妖怪」ではないかと思う。はるか73光年隔てた星からやってきたエイリアンと、エイリアンの目的に気付いた一人の科学者のひそやかな闘いを描く物語だ。
エイリアンは肉体が退化して自分で動くことさえできないが、その本体(亀の甲羅のような代物である)に触れた生命体の意識を支配することができ、死ぬとまた本体にエイリアンの意識が戻る。エイリアンは自分を銜えた犬を手始めに支配し、次々と宿主を殺しながら乗り換えて、宇宙船を作りうるような高度な知能を持つ主人公の科学者を支配しようとたくらむのだが……。
この物語がホラーやオカルトとは全く異なるのは、エイリアンが生命体に憑依し支配する行為に、厳然とした限界とルールが定められていることである。何しろこのエイリアン自身とその憑依に関しては、あれはダメこれはムリと制限がてんこ盛りなのだ。デスノートが月自身「全く不便だよデスノートは」とぼやいたのと同じように。そして狡猾なエイリアンはその制限をものともせず乗り越えながら、徐々に目的に近付いていく。月がデスノートの制限を巧みに乗り越えながら、新世界の神へ近付いていくように。
その狡知にわくわくしつつも、彼の目的が達せられた時にはどん底の恐怖が待っているために素直に喜ぶことができず、ねじれた感情を喚起するところも、よく似ているかも知れない。
タイトルに「妖怪」とあろうが、エイリアンや超能力が物語の骨格であろうが、また不気味な存在が徐々に近付いてくる恐怖が存在していようが、「73光年の妖怪」はホラーではなく、恐らくSFでもなく、コンゲームものに近い狡知を描く物語だろう。
私は「DEATH NOTE」もまた、そういう物語だと思っていた。そして恐らく、第一部は純粋にそうだったのではないか。その単純な構造の中では、死神の超常能力もLの奇矯でとがった魅力も、月やLのほとんどあり得ないような知能も、全て要素に過ぎない。そのことは欠点ではなく、むしろ物語にある種のリアリティを与えていたとも言える。
リアルであることがリアリティを意味しないことは、言うまでもない。ひとつの物語世界がリアリティを獲得するためには、現実世界を模するのではなく、その世界自体で一貫したリアリティを持つことが必要なのだ。第一部は、「傑出した知性を持つ二人の天才が命を賭けて狡知を競う」という構造を詳細に記述し、それ以外の全てを排除するか単純化することによって、物語全体のリアリティを強固なものにしているのである。
†
しかし、この完成度の高いリアリティに満ちた物語世界は、Lの死とともに緩慢に崩壊していく。
第一部と第二部の間に一体何が起こったのか、評論家でもなければ部内者でもない(いや雑誌の定期購読者でさえない)私には全くわからないのだけれど、本当に全く突如と言っていいほどに、第二部の幕開けと同時に「DEATH NOTE」は知恵比べ的構造を振り捨てる。
ノートの強奪やメロのアジトの特定、ニアが月をキラと推理する過程など、第一部と同じ推理ゲームは確かに展開するのだが、どこかしら生気がない。物語の焦点はすでにそこにはない、といった風なのだ。
代わりに、軍隊やマフィアの出動、社会情勢、群集心理やマスコミの愚かさ、家族を犠牲にせざるを得なくなる月、ニアとメロの成長と無意識の和解、そして「キラの行為は、そしてキラという存在は果たして善なのか悪なのか」といったある種哲学的な苦悩の描写が現れる。
第二部は、デスノートという超常的な殺人兵器そのものがもたらす広い影響のようなものに物語の焦点を移し、そこを描こうとあがいているかのようだ。死んだLの代わりにニアとメロ、彼らの協力者、さらには魅上や高田といったキラ側の協力者まで新たに登場し、複数の登場人物が入り乱れて作戦は錯綜していく。
だが悲しいかな、純粋な知性競争である物語に、哲学的背景を取り込むのが極めて困難であるように、「DEATH NOTE」もこの試みに失敗したと言わざるを得ないようだ。
第一部では物語を支え続けた「一筋縄ではない強烈さがあるが人間性はないキャラクター」という特徴が、第二部ではむしろマイナスに働く。ニュアンスのない人間達が交わす善悪論や社会論は空転していき、「どこかで聞いたような話」の繰り返しになっていった。
最後ニアは月を「単なる殺人快楽者」と断定するが、これは第二部の厚みの無さを象徴している瞬間かも知れない。物語を前進させ続けた主人公に対して、勝利者が与える称号がこれしかないという事実は、「DEATH NOTE」という物語全体が(哲学的には)それだけの厚みしか持ち得なかったことを証明しているように見えるのである。
(2に続く)
理由は簡単で、リアルタイムで接触しそこねたからだ。その後、周囲にファンやマニアが山と現れ、彼らの解釈や謎解きや蘊蓄を聞くだけで十分満足してしまったのである。
それが私にとって幸福なことだったのか否かは、未だにわからないし、きっとわからないままでわるだろう。
こんなことを書いたのは、恐らくあの時代の人にとっての「エヴァ」が、私にとっては「DEATH NOTE」だったのではないかと思ったからだ。
独特の設定、虚構的な登場人物、奇妙で異常な緻密さで積み上げられるルールと世界設定、受け手の予想を覆し続け最後には空中分解するストーリー、そして鑑賞した後の行き場のない不全感——そういったもの全てが、とても近しい空気をかもしだしている。
†
トランプで積み上げられたピラミッドの如き危うい緊張感で疾走する第一部と、そのトランプピラミッドが徐々に崩壊して狂っていく泥沼のような重みの第二部を比べた時、私は好みからも物語全体の完成度からも、第一部に軍配を上げる。
第一部は、文句なしに面白い。あのポテトチップスを使った一幕や山手線でひっそりと行われるジェノサイド、月とLが出会い徐々に距離を詰めていく過程、そして記憶を失った月とLの共闘を経て、それでもなおデスノートを手にした瞬間にキラへ立ち戻る月といったエピソードの連続は、本当に久しぶりに「次のページをめくるのがもどかしい」といった感覚で突き進んでいく。
たぶん、これにとても近い作品はフレドリック・ブラウンの「73光年の妖怪」ではないかと思う。はるか73光年隔てた星からやってきたエイリアンと、エイリアンの目的に気付いた一人の科学者のひそやかな闘いを描く物語だ。
エイリアンは肉体が退化して自分で動くことさえできないが、その本体(亀の甲羅のような代物である)に触れた生命体の意識を支配することができ、死ぬとまた本体にエイリアンの意識が戻る。エイリアンは自分を銜えた犬を手始めに支配し、次々と宿主を殺しながら乗り換えて、宇宙船を作りうるような高度な知能を持つ主人公の科学者を支配しようとたくらむのだが……。
この物語がホラーやオカルトとは全く異なるのは、エイリアンが生命体に憑依し支配する行為に、厳然とした限界とルールが定められていることである。何しろこのエイリアン自身とその憑依に関しては、あれはダメこれはムリと制限がてんこ盛りなのだ。デスノートが月自身「全く不便だよデスノートは」とぼやいたのと同じように。そして狡猾なエイリアンはその制限をものともせず乗り越えながら、徐々に目的に近付いていく。月がデスノートの制限を巧みに乗り越えながら、新世界の神へ近付いていくように。
その狡知にわくわくしつつも、彼の目的が達せられた時にはどん底の恐怖が待っているために素直に喜ぶことができず、ねじれた感情を喚起するところも、よく似ているかも知れない。
タイトルに「妖怪」とあろうが、エイリアンや超能力が物語の骨格であろうが、また不気味な存在が徐々に近付いてくる恐怖が存在していようが、「73光年の妖怪」はホラーではなく、恐らくSFでもなく、コンゲームものに近い狡知を描く物語だろう。
私は「DEATH NOTE」もまた、そういう物語だと思っていた。そして恐らく、第一部は純粋にそうだったのではないか。その単純な構造の中では、死神の超常能力もLの奇矯でとがった魅力も、月やLのほとんどあり得ないような知能も、全て要素に過ぎない。そのことは欠点ではなく、むしろ物語にある種のリアリティを与えていたとも言える。
リアルであることがリアリティを意味しないことは、言うまでもない。ひとつの物語世界がリアリティを獲得するためには、現実世界を模するのではなく、その世界自体で一貫したリアリティを持つことが必要なのだ。第一部は、「傑出した知性を持つ二人の天才が命を賭けて狡知を競う」という構造を詳細に記述し、それ以外の全てを排除するか単純化することによって、物語全体のリアリティを強固なものにしているのである。
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しかし、この完成度の高いリアリティに満ちた物語世界は、Lの死とともに緩慢に崩壊していく。
第一部と第二部の間に一体何が起こったのか、評論家でもなければ部内者でもない(いや雑誌の定期購読者でさえない)私には全くわからないのだけれど、本当に全く突如と言っていいほどに、第二部の幕開けと同時に「DEATH NOTE」は知恵比べ的構造を振り捨てる。
ノートの強奪やメロのアジトの特定、ニアが月をキラと推理する過程など、第一部と同じ推理ゲームは確かに展開するのだが、どこかしら生気がない。物語の焦点はすでにそこにはない、といった風なのだ。
代わりに、軍隊やマフィアの出動、社会情勢、群集心理やマスコミの愚かさ、家族を犠牲にせざるを得なくなる月、ニアとメロの成長と無意識の和解、そして「キラの行為は、そしてキラという存在は果たして善なのか悪なのか」といったある種哲学的な苦悩の描写が現れる。
第二部は、デスノートという超常的な殺人兵器そのものがもたらす広い影響のようなものに物語の焦点を移し、そこを描こうとあがいているかのようだ。死んだLの代わりにニアとメロ、彼らの協力者、さらには魅上や高田といったキラ側の協力者まで新たに登場し、複数の登場人物が入り乱れて作戦は錯綜していく。
だが悲しいかな、純粋な知性競争である物語に、哲学的背景を取り込むのが極めて困難であるように、「DEATH NOTE」もこの試みに失敗したと言わざるを得ないようだ。
第一部では物語を支え続けた「一筋縄ではない強烈さがあるが人間性はないキャラクター」という特徴が、第二部ではむしろマイナスに働く。ニュアンスのない人間達が交わす善悪論や社会論は空転していき、「どこかで聞いたような話」の繰り返しになっていった。
最後ニアは月を「単なる殺人快楽者」と断定するが、これは第二部の厚みの無さを象徴している瞬間かも知れない。物語を前進させ続けた主人公に対して、勝利者が与える称号がこれしかないという事実は、「DEATH NOTE」という物語全体が(哲学的には)それだけの厚みしか持ち得なかったことを証明しているように見えるのである。
(2に続く)
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