行動経済学2007年02月01日

〈歌うロボットの例え話〉

ある日、私は「人間と全く同じメカニズムではないものの、歌をうたうロボットがついにできました!」というニュースを聞いて、展示会に行きました。
ロボットが歌をうたうなんて。どんな仕組みで、どんなロボットなのだろう。これでロボットの世界も大きく発展するのに違いない。
わくわくしながら会場に向かい、そのロボットのブースに勇んで行ってみました。
そこには、太い針金で作った骨格模型みたいなものが立っていて、そのお腹の部分にiPodが差しこまれていました。
ブースにいたロボットの開発者は、誇らしげに私に言いました。
「このリモコンで操作すると、iPodが稼働して、保存されている歌が流れるんですよ」
かちっと開発者がボタンを押すと、iPodがかりかりと動く音がして、それからロボットの口についたスピーカーから「ら〜ららら〜」という女の人のハミングの録音が流れてきました。
「……これが、歌うロボットなんですか?」
「そうですよ。歌が再生されているじゃないですか」
「人間とは違いません?」
「はじめから、人間とは違うメカニズムで歌うロボットとお知らせしたと思うんですけど」
「……なんだかイメージが違うなぁ」
「それはあなたが、『人間の歌う歌』という概念に囚われているからですよ。歌とはハーモニーとリズムを備えた音の連続なんです。このロボットはそれを発している。間違いなく歌っています」
「でも、あなたが操作しているだけなんですよね?」
「次のバージョンでは、スイッチをロボットの内部に仕込んで、ランダムで再生ボタンが押されるようにするつもりです。何でしたら、気流や温度を計測して人間が心地いいと感じるような温度や風速の時にスイッチが入るようにもできます」
「でも、単に再生しているだけだしなぁ」
「人間だって、いつもその時に自分で作詞作曲をしてる訳じゃないでしょう。あなたが歌う時、自分の好きな歌を記憶から引き出して、それを再生しているじゃないですが。このロボットは、その記憶媒体としてiPodを使っている、あなたは脳を使っている、それだけの違いです」
「……」
開発者がスイッチをオンにしたりオフにしたりするたびに、ハミングや、君が代や、ポケモンのテーマソングや、色々な歌が流れてきました。それに合わせて、ロボットの目玉に仕込まれたLEDがきらきらと点滅しました。
「どうもありがとうございました」
私はお辞儀をして、そのブースを離れました、開発者はまだスイッチをかちかちやっていて、私に気付いた様子はありませんでした。
自宅への道すがら、私は一体何が納得いかないのだろうとずっと考えながら歩いていました。途中、見知らぬ小学生が大きな声でポケモンのテーマソングを歌っていました。それはとても微笑ましい光景で、どうしてもあのロボットの歌とは同じものには聞こえないのでした。何故なのか、自分でもよくわからないのが、私にはとても不思議でした。
(了)



こんな話をイメージしたのは、友野典男という行動経済学者の方が執筆した、「行動経済学 経済は「感情」で動いている」という本を読んでいるからなのです。
経済学が今まで想定していた「超合理的な経済人」がいかに人間の実像とかけ離れているか、そして本来の人間の実像に沿って、いかにして経済学を修正していくべきか、といったことを述べた入門書です。
最初に言っておきますが、この本は読みやすいとは言えませんが、面白い本です。良書と言っていいでしょう。古典経済学のどこに限界があるのか、感情や直感や記憶といったものをどのように経済学に適用していけばいいのか、そういったことに対して熱心に考え、経済学をよりよい方向へ発展させていきたい!という瑞々しい著者の熱意が伝わります。
しかし、私の脳裏には、「歌うロボットの例え話」が浮かんでしまったのです。

この本では、人工知能でおなじみのフレーム理論や、ヒューリスティクス、時間経過とそれに伴う変化に対する人間の感情の違いなどなど、色々な心理学が取り入れられ、経済行動にどんな影響が及ぶのかといった実験や議論が紹介されています。
それらはどれもきちんとした、筋の通ったものです。
けれど、「……何だか違うなぁ」と思ってしまうのです。
それは数式がいっぱい出るからとか、出る結果が自分の常識や価値観と違うから、といった理由ではありません。

たとえば
「低い確率で利得が得られる場合人間はリスクを追及し、低い確率で損失が起こる場合は人間はリスクを回避する」
といった実験結果があります。確率が中くらいから高の場合はこれが逆になります。
人間は低い確率を過大評価し、高い確率を過小評価する傾向があるため、小さい確率でもいいことが実現しそうな、悪いことが実現しそうな気がするからのようです。
「このパターンによって(中略)感染がきわめて低いにもかかわらず、BSEを恐れて牛肉を忌避する行動が理解できる」
と著者は述べるのですが、私はそこで「???」となってしまったのです。
BSEが起こる可能性は確かに低い。でも何となく起こるような気がするから牛肉を食べない。そういうことも確かにあります。間違ってはいない。
しかしそれ以上に「BSEは一度起こっちゃったら治療方法もない、確実に死ぬ、絶対アウト」という側面があります。つまり確率が低かろうが高かろうが、起きたら絶対死ぬ、しかもすごく怖い死に方をするという恐怖がある。
(実際にそうなのかは別として、今の日本社会ではBSEに対する恐怖が非常にアピールされていますから、BSE=脳が腐って死ぬ、みたいな恐ろしいイメージがありますよね?)
牛肉を忌避するのは、そういった「確率云々ではなく、起こったらアウトな致死的な結果を避けようとする行動」であるという説明も考えられる訳です。BSEがお腹を壊してちょっと下痢する、で終わる病気だったら、確率が同じでも別にそんなに忌避されないのでは?なんて想像が浮かんでしまいます。
現実にどうなのかはもちろんわかりません。BSEを恐れて牛肉を忌避する人々の行動は「低い確率を過大評価する」ところによるもも確かに大きいでしょう。その点で著者の指摘が間違っている訳ではないのですが……。

言っておきますが、私は著者の意見に反対な訳でも、行動経済学が間違っていると言っている訳でもありません。むしろ、行動経済学はどんどん発展していって欲しいと思うし、また発展していくだろうと思います。この本で述べられる様々な理論も、それ自体は納得いくものです。
けれど何と言えばいいのかな、どうも色々な要素がごちゃごちゃになっていて複雑すぎる現実を、単純化された実験で説明しようとする際に発生する、あの胡散臭さと言いましょうか。それが抜けきらないのです。
特に行動経済学でよく出てくる心理学的実験は、念入りにノイズを排除して、できる限り限定的な条件で行い、純粋な結果を得ようとしています。その努力は認めます。しかし、実験結果に影響を与えそうなノイズ(実験で求めたいものに影響するけれど、実験が想定していないもの、たとえば常識とか)がひょいとイメージされ、それを排除するための工夫について説明されていないために、何だかヘンな感じがしてしまうのです。
(実際の論文ではそういうのが排除されているのが、本では省略されているだけかも知れませんけどね)


たぶん、私は最初にあまりにも過大評価したイメージを抱いていたのでしょう。
人間というわかりにくいものを総体で捉えつつ、その行動を理解するために多方面からアプローチする経済学。おお、なんかすごい!
でも経済学は経済学なのです。パオロ・マッツァリーノの名言「経済学は無慈悲なお約束の女王」てのがありますが、心理学を踏まえた行動経済学であっても、結局はその制約から逃れることはできません。限られた変数、限られた数式、そのどれを採用しどれを変数として取り入れるか、それらがその時々の目的や研究者のスタンスによって異なってくる「巨大なお約束の集合体」であることに変わりはないのです。お約束を共有できなかった時点で、その理論を共有できないことになります。時には、お約束は明示さえされておらず、いわば「空気を読む」形で察しなくてはなりません。
「この実験結果には、○○は影響していないとする(あるいは影響は測定不可能なので考慮しない)(あるいはとても微弱な影響なので考慮しなくてよいものとする)」といったことを、実験はいちいち述べません。フレーム理論じゃないですが、そんなのいちいち述べてたら論文の水増しがすごいことになってしまいます。けれど……素人ですらぽっと「でもそれって○○が影響してないはずはないんじゃない?」と思いついてしまうような実験を、その実験以外のところに適用するのはどうなんだろう?と思ってしまうのです。

単に人間の能力(あるいは行動経済学)が一度に扱える対象がまだあまりに少なすぎるからこうなってしまうのであって、やがて発展していけばそこは解決できるのだ——という考えももちろんあります。
ロボットはいずれは人間と寸分変わらぬ外見を持ち、人間と寸分変わらぬ音声を出力し、おなかのiPodも見えないように隠され、その再生のタイミングが外からではわからないようになり、本当に歌うようになるのかも知れません。
けれど、そうはならない、ような感じも捨て切れません。

蝋燭2007年02月02日

今日はブリギットの日です。ブリギットは古代ケルトの詩と鍛冶と治癒を司る、火とインスピレーションの女神。魔女はこの日にブリギットに祈り、新たな創造をもたらすインスピレーションと個性の力を得ます。
ブリギットは火の女神なので、私もキャンドルを点けて、祈ります。ミツロウのキャンドルはほのかに甘い香りと、明るい暖かなオレンジ色の炎をもたらします。
暗い部屋のなか、炎を前にしていると、自分に足りないもの、必要なもの、それを得るためにしなくてはならないもの、そういったことが次々とやってきて、私の肩を叩いていきます。

調理高弟2007年02月03日

ずいぶん長くかかったけれど、今日ようやく調理スキルが68に。カラフルエッグやスキッドスシ、ブリームスシを造り続けた甲斐があるというものだ。レーズンブレッドを自作して納め、無事高弟にランクアップした。
現状のヴァナ・ディールにおける調理のスキル上げと稼ぎを兼ねたレシピはやはりスシだが、そのぶん競売の出品も多いので、一度に大量に作りたくはない。色々なレシピを分散して作り、少しずつ出品……という地道な繰り返しが必要になる。となると鞄や金庫の空きが少ない私には毎日のやりくりが重要課題だ。
「それにしても、ヴァナではあんなに一生懸命働くのに、何で君は現実世界で全然働かないのだい」と先日軽鴨の君にあきれられた始末だが、まあやっぱりフレンドさんがいることが励みになるのだろう。
そろそろ土クリの在庫が少なくなってきた。レベル上げにまた行かないといけないかな。


調理スキル68.0 錬金術スキル5.1 釣りスキル43.2
調理指定生産品ポイント20533
太公望の釣り竿まであと9007匹

ラッセル 幸福論2007年02月04日

ラッセル 幸福論,安藤貞雄訳,2004.12.15.第20刷(1991.3.18.第1刷),青659-3

・自己にあまり没頭しないこと。
・情念と興奮に支配されるがままにならないこと。
・そして外界に対してなるべく広く、好意的な興味を抱くこと。
 かつてヴィトゲンシュタインの師であった、しかし弟子とは異なり、偉大な中庸精神を持ち合わせていたラッセル。彼の幸福論を箇条書きで要約すれば、そんな感じになる。
 で、この内容は、最近たくさん出版される「自己啓発」とか「幸福追求」とか「精神世界」をテーマにした本の内容と、驚くほど似ている。ラッセルが引き合いに出す、不幸な人間やその社会問題の像は、嫌になるくらい今の日本の閉塞感とそっくりだ。結局のところ、この辺りにまつわる欠乏感に対する処方箋を、現代社会はまだ共有できていないということなんだろう。多くの賢人が書いているにも関わらず、その認識が一般化しないのは、何故なのか。
 まぁきっと、それはあまりに穏やかで、見ようによっては退屈でさえある主張だからだ。ラッセルの主張は、それこそヴィトゲンシュタインのスパイシーで刺激的な哲学に比べると、「ごはんと味噌汁」みたいに普通である。普通さは、哲学においては大きなハンデなのかも知れない。
 ラッセルの幸福論が、万人に有用であるとは思わないけれど、結構役に立つ人は多いような気はする。岩波書店は、これを新装版の単行本にして売り出したらいいんじゃないのかな。若い女性が好むようなイラストと装丁にして。

掃除意義2007年02月05日

よく、掃除をすると終わった時の爽快感がいい、といった話を聞く。掃除嫌いの人でさえそう言うのだから、本当にそうなのだろうと思う。
「だろうと思う」と書いたのでおわかりかも知れないが、実は私にはこの感覚がない。
いや、全くない訳ではない。掃除が終わって、床が綺麗になりモノが整理整頓されている状態というのは、確かに快いものだと感じる。感じるのだが……爽快感というほどのカタルシスにつながってくれない。自分でも困る。
それでも掃除をしない訳にはいかないので、せっせと埃を掃き、床を拭き、ゴミを捨てる。終わると本当にぐったりする。綺麗になった部屋を見ても、それを見て喜ぶ人を見てさえも、「ああそう、よかったね」くらいの感情しか浮かばない。
それでも、ごちゃごちゃの部屋は創造性を鈍らせるというし、きっと気付かないうちに私の気分もこのごちゃごちゃの部屋によって悪影響を受けているはずなのだから、もっと掃除も整理整頓もせねばならぬと思う。
そしてそれがピークに達した時、私の中で「もううんざり、何もかも滅びてしまえ」と叫びたくなるような衝動が出てくる。
そしてこの瞬間、私は気付く。
もしもいつか私が取り返しのつかないこと(たとえば人を殺すとか)をしてしまったとしたら、その時の感覚はこの状態に極めて近いに違いない、と。
このうんざりするような感覚こそが、人を殺し大切なものを打ち壊し世界を滅ぼすものなのだろう。

つまり掃除をしないでいると、私はいつか人を殺してしまうのかも知れない。
そうなっては大変なので、私は掃除をし続けなくてはならないのだ。
私にとって掃除は、そういう意味で、完全にネガティブなものを平衡状態に戻すだけの行為で、全くもってポジティブではないし楽しいものでもない。
これを何とか補うような、楽しい何かを見つけられると、いいのだが。

ナジャ社長に騙される2007年02月06日

今日の指定生産品クエストはサンドリアティー、ちょうどほどよくスキルが上げられる品なので、勇んでサンドリアへ飛びセージを購入して(ついでにフナを貢いで)ウィンダスに帰ってお茶を淹れては納入。これでポイントはようやく3万台に回復。ふう。職人装備まではまだまだ遠いががんばらねば。

倉庫キャラを持たず、いつも荷物がいっぱいいっぱいで溺れかけている私を哀れんで、フレンドのAさんがモグロッカーを使った方がいいとアドバイスしてくれた。
モグロッカーの存在は聞いたことがある、程度しか知らず、アトルガンミッション2をやらないと使えず、アトルガンミッション2をこなすためには知覚遮断魔法が必須で……つまりまあ何だ、知覚遮断魔法のかけ直しに自信のない私は(大昔はEvil Weaponの隣でスニークとか、あほをやったものだ)何となく尻込みしていたのである。
だがいい加減もうそんなことを言っていられない状態になったので、重い腰をあげて不滅隊に差し入れをすることにした。
向かった先は移動が簡単と噂のハルブーン。エスケプが使えないので火山のショートカットはできないけど、歩いていける距離で、知覚遮断魔法を見破るモンスターもいないとのこと。いとしのマイチョコボPurJasminちゃんをこんな危険な地に呼び出せないので(笑)レンタルチョコボを借りていざ出陣。
全然地図がないので右往左往、即死確実のコウモリやイモムシや獣人の目の前で「スニークが切れそうだ」メッセージ連呼の恐怖、等々、先日の「ひとりで海蛇の岩窟歩き」再びだ。本当に胃が痛くなるような恐怖で、これぞロールプレイゲームの醍醐味という気がする。ゲームでこんなに怖いのだ。本当の戦争は真っ平ごめんだ。
posコマンドを連打しつつ、何とか火山を抜けてハルブーン監視哨に到着。帰りは幻灯があるのでまっすぐ帰れるのだった。知らなかったのでHPを白門に設定してきちゃったんだけど。

帰ってきてナジャ社長に報告すると、なるほど噂の詐欺同然のやり方で契約を結ばされることに。いや詐欺同然じゃなくて、詐欺そのもの。しかもかなり古式ゆかしい詐欺。何というか、「一部の国では日本人観光客が詐欺に遭うので気をつけて」といった警告を思い出してしまった。
本当は山猫クエストで集めていた招待券があったのだが、渡し忘れてしまった。その後いくら話しかけても社長はその話をしてくれない……。やれやれ。
何はともあれ、ようやくロッカーが使えるようになった。これでまたしばらくロッカーの管理費稼ぎもせねばならないが。そういえば私はまだビシージに参加したことはおろか、目撃したことさえないのだが、一度くらいは参加してみた方がいいのだろうか。


調理ギルドポイント30133
調理スキル68.7 錬金術スキル5.1 釣りスキル43.6
太公望の釣り竿まであと8946匹(ようやく9000匹を切った!)

ロールプレイという遊び方2007年02月07日

アトルガンミッションを進めたり、指定生産品のコカトリスの煮込みを作って納入したり(コカトリスの肉が2万ギルもかかった……)、フレンドRさんの助けを得て木工スキルを上げたり、さらりとした一日。
アトルガンミッションは謎の元サンドリア騎士にして賢者ライファルが、正体まるわかりで可愛い。サンドリアという国は、最初はあのお高くとまった態度が気に障って好きではなかったのだけど、近頃見せるあの豪快な間の抜け具合が何とも微笑ましくて、好きになってきた。ウィンダスを移籍する気は全くないのだけど、もしも移るとしたらサンドリアがいいな。バストゥークには全然思い入れがわかないけれど……。

ところで、先日FF11関連のあるサイトを見ていたら、青魔道士取得クエ「渇望」について、批判的な発言を目にした。
要するに、あの占いの時に、非常に偏った回答をしないと取得クエが進行しないことが不満らしい。ロールプレイを大事にするプレイヤーにとってこれは苦痛だが他に青魔を取得する方法がない、偏った設定を押しつけてくる開発者の姿勢はいかがなものか……ということのようだ。
だが私はそう言われると、「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。
もしロールプレイを重視するプレイスタイルをとりたくて、あのクエストで要求される回答が「このキャラクターとしては到底選べない」というのなら、答えはひとつ「青魔道士にはならない」しかない。何故なら青魔道士は己の目的のためにモンスターの魂を貪るというジョブなのであって、あの回答が苦痛なキャラクターであれば当然青魔道士のプレイ自体が苦痛になるはずなのだ。それを「イヤならゲームをやめろ」的な開発者の傲慢と一緒にするのは、明らかにおかしい。
だって、青魔になることは誰にも強制されていないし、かなり特徴的な(つまり偏向的な)エキストラジョブのひとつに過ぎないのだ。青魔道士を取得しなくても、全てのミッションは問題なく進行できるし、ゲームで不利になることは何もない。
それを踏まえてなお、「青魔道士というジョブをプレイしたい」と思う人間に対して、ある種の覚悟と犠牲を要求することは何ら不自然ではないと思う。

「ロールプレイ」は、何でも好きなことをすることができる。それは確かだ。だが、好きなことをしてその結果起こる不都合や犠牲や失敗を回避できる訳ではない。というより、それを回避しようとするはただのわがままであって、ロールプレイでもゲームでもない。ある道を選べば別の道は閉ざされる。それはゲームというより、ほとんど全ての活動に伴う運命だろう。
タルタルはプレイしたい、でもMNDやSTRが低いのはイヤ、こんな偏った設定を押しつけてくる開発者が悪い……とプレイヤーは思うだろうか? 「だったらエルヴァーンをプレイすればいい」と誰でも答えるのではないか。
ロールプレイという遊び方は、
「どんな演じ方をしても有利不利が出ないことが保証された世界で、自由と選択を疑似体験する」ことではなく、
「有利不利があってもなお、ある特定のキャラクターを演じきることで、単なる数値上の有利不利を越えた素敵な何かを手に入れる」ことなのだ。
そう言う意味では、
「大いなる力が得られる、しかしそのためには心の一部分を犠牲にしなくてはならない」
という極めてオーソドックスな取引を要求してくる青魔道士取得クエストは、文字通り力への渇望がもたらす心の苦痛をプレイヤーに直撃で与えるという意味で、とてもよくできていると思うのである。

……ちなみに個人的には、獣使いの方が問題だと思う。あの取得クエストやAFクエストで語られる「獣を愛し思いやる、獣との心の交流」と、実際のプレイで要求されるテクニックの乖離は、もうちょっと何とかならないものだろうか。
私は獣使いクエストが、ジュノのクエストの中でも一二を争うほど好きなのだが、獣使いのレベルが9で止まっているのは、そんな理由もあったりする……。


調理ギルドポイント34133
調理スキル69.6 釣りスキル43.6 錬金術スキル5.1 木工スキル3.9
太公望の釣り竿まで あと8946匹

初ビシージ2007年02月08日

今日はほんとはちょっとだけログインして、アトルガンミッションを少し進めて、木工スキル上げして終わり……のつもりだった。
ところがたまたま見たら、もうすぐ対マムージャ軍のビシージが発生するとのこと。人数を見ても参加できそうな感じだったので、これも経験と一度ビシージをやってみるにした。

ヒーリングして待っていたら、本当に不意に、音楽が流れてイベントムービーが始まる。
吹き飛ばされるアルザビの扉、一般市民に避難を呼びかける声、嘲笑と罵声をあびせるマムージャたち。
天蛇将が剣を振り上げ、勝利を聖皇に捧げよと叫ぶ。
それは心臓が痛くなるほどの緊張と高揚の瞬間で、同時に走って今すぐ逃げ出したくなる。勝利、栄光、剣の煌めき、魔法の閃き、言葉に載せれば美しいありとあらゆるものが、本当は文字通り血と肉と骨の飛び散る地獄絵図であるということを、何故かはっきりと感じる。
そして戦闘が始まってしまえば、全ては混沌と狂乱の坩堝に落としこまれる。
膨大な量のデータが送られかりかりと悲鳴をあげるHD。処理落ちして敵も味方も姿すら確認できない。HPが減少しているアライアンスのメンバーにケアルしたくても、どこにいるのかさえわからない。処理が一瞬止まってようやく操作が戻ってきた時には、一瞬前まで立っていたように見えたのに範囲攻撃で戦闘不能にされたPCのグラフィックがごろごろ転がる。
上手に立ち回れない自分の下手さにあきれながら、攻撃から走って逃げながら、HPが減っているPCにひたすらケアルしながら、目の前の倒れた人にレイズをかけながら、私はずっと、戦争はいやだ、戦争だけはいやだと心の中でつぶやいていた。

奇妙な仮想体験である。ビシージでは、戦闘不能になっても経験値ロストさえない。痛みもなく死もなく、数字の減少すらないはずなのに、恐怖と緊張だけは確実に存在する。
もちろん、本当の戦争がこういうものであるはずはない。本当の戦争は、もっともっと悲惨でめちゃくちゃな代物だ。だから私は「これで戦争がわかった」などとうそぶくつもりはない。
だが、今まで数多くの戦争を描いた小説や漫画や映画やドラマを体験してきたけれど、あの圧倒的な緊張と恐怖と混乱を「体感」させられたのはこれが初めてだ。

これからも私はたぶん、何度も、ビシージに参加するのだろう。そのたびに、あの気分を味わうのだろう、慣れによって減少していくとしても。
それは、リアルでは恐らく戦争に直接的な戦闘要員として参加することがないであろう私が、戦争の恐怖と苦痛を味わう時間になるのだろう。
そしてそれが、疑似体験であることを——遊びとして享受できることの幸せを、実感するのだろう。そのたびに。


調理ギルドポイント35133
調理スキル69.8 木工スキル7.0 錬金術スキル5.1 釣りスキル43.8
太公望の釣竿まであと8887匹

微不調2007年02月09日

なんだかヴァナ・ディールの冒険ばかり進んでいるように見えているのは、何となく、調子が悪いからだ。でもそれは、私の周囲のみんなのような「とても忙しい!」とか「すごく辛い」とか「泣きたいほど切ない」……といった切実なものではなくて、そこはかとなくただよう不調。
こういうとらえどころのない気分が、私にとっては一番厄介で、ものすごい不調の方がはるかに扱いやすいと思う。あくまで私の場合はだが。
ものすごく辛かったり不調だったりする時は、それをばねにして物書きが進んだり物の見え方ががらりと変わったりして、ふっと「変わる」瞬間がある。楽しい経験ではないが、得るものがあり、無意味ではないと感じられる。
けれどこの「微不調」とでも言うような状態は、ただただ緩慢に気分が低下していくばかりで、ちっとも創造性が刺激されない。一瞬一瞬の苦痛はごくごく微量のものだが、蓄積されていくネガティブな気分は総量では結構な代物と化し、一日の終わりには全くうんざりしてしまうのである。朝は朝で、やはりうんざりと目が覚めるのだが。

この微不調をからりと切り替える道を、早く見つけたいものだと思う。それくらいのコントロールができなくして、(見習いとはいえ)魔女を名乗るというのも恥ずかしいではないか……と自分に言い聞かせるのだ。

ブッダのことば スッタニパータ2007年02月10日

ブッダのことば スッタニパータ,中村元訳,1992.3.16.第19刷(1984.5.16.第1刷),青301-1


 仏教の聖典の中でも最も古いスッタニパータを邦訳したもの。訳者も述べているけれど、今日本でイメージされる仏教とはだいぶ違った仏教像である。
 全ての悩み苦しみは執着からくる、だから執着は全部捨てちゃえ、というある意味乱暴な教義はすでにここにあるけれど、教えとしてはぐっとシンプルで、「与えられていないものを自分のものにするな」「全てにこだわるな」といった感じだろうか。現代の仏教者のイメージというより、むしろ仙人に近い。
「聖者は自分が清浄だ、正しい、賢いとは思わない。他者を汚れてる、誤っている、愚かとは思わない。一切の思想的断定を行わない」なんて教えは、その後の仏教界の大論争なんかを見ると皮肉っぽい色さえ帯びてくるし、また「私はいかなる疑惑者をも解脱させえないだろう」といった、気負いのない態度は、結構好感が持てる。
 身分制度が全てを支配する世界の中で、「生まれではなく行為によって清浄となる」というブッダの思想はあまりに異質であったのだろう(もっとも待ち望まれていたものでもあったのだけれど)。たぶん、ブッダは自分の教えが世界に広まって世界を変革することなんて、考えていなかったし望んでもいなかった。ただその時代のゲームからイチ抜けすることで、自分を安定させた。そのやり方を、望まれるたびに話していっただけなのかも知れない。この本を読んでいると、そんな風に思えてくる。
 ところで、この聖典の中には、「人間としてあるべき姿」とか「恥ずべき姿」といったこともちゃんと述べられているのだけど、抽象的な話の中に、突然妙に具体的な描写が出てきて唖然とすることがある。「ティンバル果のように乳房が盛り上がった若い女を云々」とかね。話題のアイドルみたいな、誰か具体的な対象がいたんでしょうか。