長所育成2007年02月23日

私は文章が駄目出しを経てよくなった例をほとんど知らないし見ていない。
代わりに、書き手のエネルギーが枯渇しきってしまう例は、見る。
駄目出しというのは、最も簡単に行えることで、しかも最も簡単に書き手の力を奪える手段なのだと思う。
そう言うと、たくさんの文筆家が「いや編集者の目を通っていない文章はやはり一定以上の水準を超えられない」と言うだろうし、それもまた正しいのだけれど、私の言いたいことはそれとも少し違う。
書き出したものは、大抵駄目なものなのである。書き直しをしない一部の特殊な人(彼らが優れているとか天才とかいうのとは少し違う、あれはベクトルの違いのようなものだ)をのぞいて、普通は欠点だらけのどうしようもない、けれど何かの可能性がある塊から始まる。
だがそれはダイヤモンドの原石というよりは、小さな双葉に近いもので、まず水をやり肥料を与えることが最優先、剪定や根切りはもっとずっと後でもいいのだ。
そうでなくても、書き手というのは自分に駄目出しをする生き物なのである。彼らは厳格な母親の顔色をうかがう内気な子供のように、どこにあるのかわからない「完璧な文章」の顔色をうかがい、びくびくしている。
そこへ「ここは駄目だと思う」「ここはよくないんじゃないかな」と言うのは、緊張して戸惑っている子供の横面を引っぱたくようなもので、それでたくましく育つ子供もいるかも知れないが、黙りこんで一切の表現を捨てる子供も多いのだ。
そう考えると、創造性を育てるというのは難しい作業だと、つくづくため息をつかずにはいられない。

ではどうすればいいの?と問われたら、私はジュリア・キャメロンの言葉通り、
「どこが駄目なのかを言う人ではなく、どこをもっと読みたいかを言ってくれる人を選んで作品を見せる」
と答えるだろう。
そういう意味で、Blogは私にとってはまだ、自分の最も大切な文章を出すところではない。私はまだ、書き手としてはいたいけな幼児であるのだ。もっとも、永遠に大人になどならないのであろうし、なっても仕方ないのかも知れないが。