「DEATH NOTE」にまつわること 42007年01月17日

デスノートという存在は、大抵の人間(そしてキャラクター)を簡単に呑みこみ翻弄し破壊する。一話完結型のストーリーだったら、心弱い人間がデスノートによって束の間欲望を叶え、そしてデスノートによって滅ぼされるという、寓話的な(そしてとても典型的な)物語として成立しただろう。
だがデスノートに支配されるはなく、あくまで道具として使いこなしながら、自分の目的を達していける稀有なキャラクターとして月は存在する。
デスノートを使った直後、月は恐怖で不眠に苦しみ数キロ痩せ、その後死神という超常的な存在に出会うが、なお持ち堪える。それからの彼は、自分に対する迷いや苦悩を一切表さない。そしてリュークに「お前は立派な死神だ」「もしかしてすごく前向きな奴」「最高の奴にノートを拾われた」とまで言わしめた訳だ。
それ自体が人の運命を狂わせる超越的な存在であったデスノートは、ここで「月の道具」に変わる。卓越した知性と精神力と体力と美貌が月の武器であるように、デスノートもひとつの武器に過ぎなくなる。「DEATH NOTE」がデスノートの物語ではなく月の物語になった瞬間だ。

……と、ここで恐らく多くの人が反論するだろう。
「いや、月もデスノートに支配されていたのではないか。記憶を失った彼は、キラのようになるなんて考えられないと自認していた。月はデスノートによってキラになり、そして段々と歯止めが効かなくなって、最後はデスノートと死神に殺されたのだ」
いや全くその通り。デスノートにあのような形で出会わなかったら、月があのような思想に至りあのような行為に走ったかは、はなはだ疑問だ。恐らく、月は父親と同じ、ひどく頭がいいがちょっと融通が効かない高潔な警察官僚として一生を終えただろう。
(そして「DEATH NOTE」は「笑ウせいるすまん」みたいな一話完結型連載になったことだろう)
「もし月がデスノートに出会わなかったら」というifの世界は、物語内で実現する。デスノートと記憶を失った月はLと共に、ヨツバ・キラを追いつめる。このエピソードは、完全に善である月と奇矯な善人であるLが、議論の余地なく悪人であるヨツバ・キラに相対するという、とても安心して応援できる設定もあって、わくわくするような興奮に満ちている。
と同時に、「月なしのデスノート」がどれほど脆い存在であるかも露呈される。ヨツバ・キラの終わりは実にあっけない。ある意味ではデスノートに翻弄される心弱い人間のストーリーそのものだ。
やがて月とデスノートは再会し、死を大量生産していくキラに立ち戻り、そして月の死後、デスノートは燃やされて消える。殉死する臣下のように。
デスノートと月は、どちらかがどちらかを支配していたというより、絡まりあうウロボロスの蛇となって一体化していたらしい。

デスノートは物語中何人かの手に広がっていくが、キラ(つまり月)の縮小再生産を繰り返すのみである。唯一デスノートを持っても持たなくても全くと言っていいほど変わらなかったキャラクターは、ミサだ。デスノートをあれほど長く所有し、また何人と人を殺したにもかかわらず、デスノートを所有しても手放しても、彼女には記憶以外何の変化もない。ひょっとしてキラがいなかったら、彼女はデスノートを使用することさえなかったのではないかとさえ思わされる。
他にデスノートを(恐らく)使用して生き延びたのはニアだけだが、彼はLの後継者であり、デスノートを使わずとも悪人を裁ける(そして同時に他人を合法的に使い捨て殺すことができる)権力者である。彼がデスノートに捕まらなかったのは、すでにそれに代わるものを持っていたからとも言えるだろう。
だからこそ、デスノートでしかできない「善」があった時、ニアはそれを実行してのけたのだ。つまりニアもまた、純粋な善にはなり得なかったのである。まぁ彼はLになりたかったのであって善になどあまり興味はなかったようにも見えるが。



第二部は、月が墜落していく物語であると同時に、ニアとメロの和解と、瞬間的な救済の物語である。
ニアとメロは、Lの後継ゲームの道具としてキラを選ぶ。Lにとってキラは正面から向き合う生涯を賭けた闘いの相手だったが、ニアとメロにとってはそうではない。主人公を根本的には無視している人間達が物語の根幹に入ってくることで、第二部の軸はかなり狂ってしまった。
もしも、月という存在を完全に除外するか、あるいは月の視点を排除してニアとメロに視点を固定していたら、第二部はもっと完成度の高いものになっていたように思う。
ニアとメロの葛藤と愛憎は、月とLの間に交わされたものに似ているが、さらに濃密で圧迫感に満ちている。彼らはシャム双生児のごとき不可分の存在だ。ニアとメロは反発を繰り返しながらようやく無意識の共闘を成し遂げ、月を(そしてLを)超える。だがそのためにはメロが死なねばならなかった。
片割れを失ったニアは、メロのチョコレートを貪る癖を引き継いでLとなる。——しかし、死が虚無を意味するこの世界で、その姿を「ニアとメロがひとつになってLとなった」と考えるのは、やや単純で感傷的に過ぎる気がする。私の目にはそれは、メロの命を代償に一度だけLになり得たけれど、それを永続させる可能性を失ってしまったニアの、空虚さを埋めようとあがく行為のように映るのだが……それについては、異論も多いことだろう。

何度か述べたように、ニアとメロの意識は常に互いに、そしてLに向けられている。
そのため、彼らにとって月は単なる通過点に過ぎず、月の帯びるある種の悲劇性や苦悩には全く興味がない。そもそも彼らと月が出会うのはひとときであり、最初から最後までニアとメロにとってキラはほとんど概念でしかなかったろう。
(その頃の月が、度重なる聖域の喪失によってすでに人間性とキャラクター性を失いつつあったこともそれを加速する)
ニアは月をただの大量殺人者と切って捨てるが、それは恐らくLが月に抱いていた感情とは微妙に異なっている。また同じようにデスノートを使って「一番の存在になろうとした」メロがキラとして彼に対峙したとしたら、ニアは全く違った感情を抱いたことだろう。月・L、ニア・メロは、(レベルや質とは全く別の意味で)次元を異にする存在だ。両者の間には、恐らく理解や共感は一瞬たりとも存在しなかったし、その可能性すらなかっただろう。
月とニア(メロ)の闘いは、どこかちぐはぐで、緊張感というよりは不協和音に近い落ち着かなさをただよわせている。それは本来なら交わることのなかった運命が、ほとんど手違いのようにして交錯するストーリーだ。そして少なくとも月という主人公には、その結果は死であるのみならず、何の実りももたらさない。
ニアの断罪は月の心に届くことなく、月は己の偽善性や過ちや罪悪や狂気を自覚しないまま、ただのたうちまわって死ぬ。その光景は、月を貶めると同時に、ニアの限界を——他者に対する共感性や悪に転落する者の苦悩への理解を持たず、自己の正当性に疑いを抱くことのない、平板な人間性を示してしまう。
ニアとメロが手を取り合ってLを超える和解の物語は、ここでもまた空中分解を起こし、ニアはただ知恵比べに優れる「人間性の欠如したL」ではないだろうか、という不安が生まれる。
もしニアが正面から闘う相手が月ではなく、本来闘うべき相手であれば——彼が正面から向き合い、本当の意味で存在を賭けて闘い、その過程で理解が生じる可能性のある相手であったなら。ニアは頭脳という意味だけでなく精神性や人間性という側面においても、Lに比肩する、あるいはLを超える存在として読者の心に響いたかも知れない。だがその可能性は残念ながら失われている。この無念さもまた、私が第二部を決して評価できない理由のひとつである。



ついでながら、Lなき後月の「本当の相手」として対峙できる可能性があったのは、意外だけれど松田であったかも知れない。
彼は唯一、キラという存在に対して否定一辺倒ではない複雑な感情を持つ人間として描かれ、またキラとは無関係に月という人間自身に、単なる仲間意識を越えた友情を感じていたキャラクターである。彼が見ていた月が、多くの仮面によって構成されている代物であったことを割り引いても。
結局物語は、松田を月に近づけることはあっても、それ以上の共感は許さない。松田が最後に月に与える言葉は、月の父親に関することである。松田と月の関係性は、総一郎を共有したという仲間意識に後退する。
月の死後、松田は彼への哀惜を表すが、それすらも他の人間に指摘されるまでは気付かない。松田の月への感情は、物語の奥深く、二重三重に屈折して封印されていく。


(5に続く)

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