超高層風景2012年09月04日

展望台からの風景を色鉛筆加工してみました
 ちょっと前の話なのですが、東京スカイツリーに行ってきました。
 およそ流行りものとは無縁な生活をしているので、東京スカイツリーも、あと5年くらいは行かないんじゃないかと思っていたのですが、機会に恵まれまして、これが無欲ゆえの巡りあわせというやつでしょうか。

 旬のスポットということで、どのコーナーへ行っても長蛇の列と黒山の人だかり。遊びに行くというより途方に暮れに行ったような有様でしたが、放っておくとどこどこまでも引きこもる私には、たまにはこういう経験が必要な気もします。でもお土産はさすがに買えませんでした。ものを選ぶとか物欲をかきたてるとかにも、体力と気力が必要なのだという事実を深々と実感です。

 夏の東京ゆえのスモッグがかかっていたので、450階の展望台はパスしましたが、350階の展望台でも十分、高さは味わえました。

 煙と何とやらは高いところが好きと言われ、高いところが好きだけれど煙ではないのでたぶん何とやらにカウントされるであろう私は、東京タワーにもサンシャイン60にも行ったことがあります。
 正直、展望台から見下ろした時の感想は、それらとそれほど異なるものではなかったです。ああ、高いなぁ、色々ちっちゃいなぁ、とそんな感じ。
 ところが、面白いことに、降りた後に、それらでは経験したことのない感覚を味わいました。
 展望台からエレベーターで降りて、スカイツリータウンから外を見る、その視界に映るビルや建物の姿に、ぎょっとするような違和感を覚えるのです。ものすごく大きく見えるというか、ビルや建物が自分の目線の「上」にそびえているのが強烈なまでに不自然に感じられました。
 ほんの数分でその違和感は消えて、ビルはいつものビルになり、建物を見上げることはごく当たり前のこととなったのですが、この感覚の違いは驚異的でした。今まで登ったどの展望台でも、こんな体験はなかったです。
 空撮映像を主としたテレビ番組などで、急にカメラが空撮映像から地上の風景に切り替わっても、あんな違和感は覚えないので、どうやら切り替えの急激さが原因ではなさそうです。それとも映像で見るのと、実際に目視するのとでは、感覚に与える影響が異なるのかも知れませんが。

 SFなどで生まれた時から軌道エレベーターの上で育った人類が地上に降りてギャップを覚える、なんて話はよく出てきますが、そういうエピソードが妙な実感として迫ってきたひとときでした。

決まった音2012年09月05日

 窓を網戸にしていると、外の音や匂いが家の中によく入ってきます。家の中で益体もない思考に沈んでしまっている時には、現実に引き戻してくれるので、こういう刺激が多少必要なのかも知れません。
 どこかでカレーを作ってるなぁとか、虫の声が秋に近づいてきたなぁとか、これもまた別に役に立つ訳ではない刺激なのですけど、人間の現実というのは案外こういうものが基盤になっている気がします。

 最近ご近所のお子さんが、ピアニカに熱中しているらしくて、毎日昼から夕方にかけて、演奏している音が聞こえてきます。レパートリーは2曲くらいしかないようで、「勇気100%」と童謡の「手をたたきましょう」です。メロディが途切れ途切れに、ひたすらにリフレインされます。
 人によってはいらいらする音の風景かも知れませんが、ピアニカの音がユーモラスなせいか、妙に笑いがこみあげてくる感じです。何となく、鳥のさえずりを聞いている感覚に近いかも知れません。

 それから、ご近所なのかわかりませんが、夜にわが家の近くの道を通るらしき人がいて、この方がいつも同じメロディを口笛で吹いています。見事な口笛で、かすれや音色が毎回ほぼ同じに再現されるので、録音かと思うくらいです。
 しかし、通っている人を見たことはないので、一体誰なのかはわかりません。謎の口笛の人です。

 ピアニカの音がひとしきり鳴った後、日が落ちて、カレーの匂いがただよい始めたと思ったら、口笛が聞こえてくる。通り過ぎた後に、りんりんと虫の鳴く声が空気を満たしていく。私の最近の宵の風景は、こんな感じです。

熟成期間2012年09月06日

 この数ヶ月の低空飛行生活をもう少しましな状態にしようという気力がようやく出てきました。朝起きて、ごはんをまともに作って、ものを書いて、という人間らしい生活です。どれだけ私の「人間らしい生活」のレベルが低いのかという話ですが、そこに深入りするとまた面倒な気分になるので、あまり気にしないのがコツです。
 そしてそういう時には、少し余ってきた気力を一気に使い切って色々やりたくなってしまうので、そこにも深入りしない必要があります。お小遣いが入って、あっという間に無駄遣いするあのノリですね。そう言えば私はお金を遣うのもあまりうまくないです。リソースの分配全般がへたくそなのでしょうか。

 まぁ、こういう気分というか、気力が出ている状態は当たり前ながら長続きはしないので、あとはいかに、この気力が下がった後に人間らしい生活を保てるようつっかえ棒になるような習慣をつけるかという問題になりそうです。
 今年の頭に考えた目標は、ライフログをつけてみようということだったのですが、それに関する色々なTipsが、意外とここへ来て役に立っています。
 不思議なことに、こういうTipsや知識や「やり方」というのは、知ってすぐ試してもうまくいかないことが多いようで、少なくとも私の場合、タイミングもあるのでしょうが一定の熟成期間が必要みたいです。
 何とか今年が終わる頃には、まともな人間ライフを構築できているといいのですが。熟成がちゃんと終わっておりますように。

 ああ、そういえば、今年仕込んだ味噌の天地返しを先日しました。こちらは確実に順調に熟成しておりました。人間よりも、麹さまの熟成の方がずっと信頼性が高いのは確かと言えましょう。

色眼鏡2012年09月07日

 大昔から、フィクションや娯楽が人間の精神に与える影響について(主に堕落という側面から)ああだこうだとやかましく言われている訳で、今に始まったことではありません。それでも、何かの形でその話題をしばしば見るのは、やはりあの非実在なんちゃらの件が尾を引いているのでしょうか。

 この話題については何回か、色々なところで長文も短文も書きましたけど、対立する層の隔絶があまりに絶望的で、双方が互いに対して理解がなさすぎて、鏡像に生卵を投げ続ける有り様になっていますから、何だか自分が何を書いても無意味だなぁという気分になります。
 それでもたまに思い出したように書くのは、単純に、自分の考えをまとめようという圧力なのですが。


「ポルノや猟奇殺人ものを観賞する人間が、実際に犯罪を起こす訳ではない」
という主張や、心理学上の実験結果は繰り返し立ち現れますし、まぁ実際そうなのだろうとも思います。
 それでも最近、私はこの手の発言に微妙に懐疑的になってきました。
 というよりも、むしろこの主張は正しい、だからこそその正しさの陰で皆が都合よく忘れ去っている何かがあるような気がする、という感覚でしょうか。

 ポルノや大量殺人の物語を読んだ人が、それに影響されて連続暴行や殺人に走ったのだとしたら、むしろ扱いやすくて楽だったと思うのです。そういう物語の扱いに気をつければいいだけの話なのですから。
 かつてベトナム戦争時のアメリカ軍が発砲率を上げるために、兵士に大量の殺人映像を見せ、キャベツをくりぬいて中にトマトソースを詰めたものを頭にした人形を撃ち抜くゲームを競わせることで、「人間を殺す」ことへの抵抗値を大幅に下げることに成功したのは、そこそこ有名なエピソードのようです。
(副作用として、帰還兵の中に日常生活に適応できない者が無視できない比率で現れた訳ですが)
 これなどは「フィクション」が現実の人間の精神にちゃんと影響を与えられる証左であって、そして同時にわかりやすい方法でもあります。

 ところが大抵の場合、人間の精神というのは、Aを入れたらAになるというような、素直で単純な応答をしません。
 調べものなどで、ある一定の傾向を持つコンテンツに大量に接した後、しばらくの間その特有の「癖」が、微妙に思考に覆いかぶさるのがわかります。
 それはまるで色のついたレンズのようです。青いフィルター越しに見る紫が違う色になり、そして青が見えなくなるように、思考はしばらくの間、普段と違う軸になります。
 けれど別に、モノの形が変わる訳でも、視力が落ちる訳でもありません。そんなわかりやすい変化ではありません。
 その体験を鑑みると、長い間、あるいはそれが繰り返されれば、思考の位相が微妙な形でずれていくのは、自然な現象に思えます。
 人間の精神というのは、Aを入れたらA'どころか、Bになるような厄介な形で、「影響」を受けるのではないか。そして誰も、その影響を自覚すらできないのではないか。

 恐らく、ポルノや猟奇殺人小説を消費した者が、犯罪を犯すようなことはないでしょう。そんな単純な、子供みたいにわかりやすい因果関係は、それこそ「物語」の中でしか起こらないでしょう。
 そうではなく、そういう物語の影響は、見えないところで静かにその人を浸していくでしょう。別に悪い影響とは限りません。ストレスが発散されるようないい影響だって十分ありえます。けれど、「何も起こらない」ことだけは、ないような気がします。

 結局のところ、できることは、その視界にかかる色ガラスに自覚的になることしかないのかも知れません。
 そして何事にも、作用があれば反作用があるように、「良い影響」「悪い影響」だけが単独で起こることはありえないのだと、自覚し自律して受容していくしか、方法はないのだと思います。

点検2012年09月11日

「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡
ての言に由る」とイエス・キリストはサタンに言ったと伝えられているけれど。

 借金のために自殺する人は昔から後をたたないが、そうすると人は「何も金のために死ななくてもいいのに」と言う。そこで、「何を言ってるんだ、金は大事に決まってるだろう」と怒る人は、まぁいるまい。腹の中でそう思うとしても。
 ところが、「たかが電気のために、なんで生命を危険にさらさなければならないのですか」と言うと、何故か非難轟々となるらしい。
 実際には、坂本龍一のあの言葉は、電気がパンのごとく金のごとく必要不可欠で重要であるからこそ、しかしそれは、どんなに重要であっても本来生命に仕える「道具」であって、生命を道具にする主であるべきではない、という反語的な表現として放たれた言葉であろう。
 それを、自分が電気を使っていることを棚に上げているとか、文明生活を否定しているとか、そういう論点で非難する人がいるのは、私には不思議でならない。いや、反原発運動や坂本龍一の社会運動活動を批判するのはかまわない。だが、あの言葉尻をとらえてわあわあ言うのは、あまりにも幼稚だしお粗末だという感想しか出てこない。

 もっとも、社会運動を行う側は、そういうお粗末な反応を織り込み済みで活動しているものではある。
 それなりの歴史を持ち、成果をあげている社会運動団体というのは、大体において、そういうものにいちいち反論しない。非暴力直接運動を行う場合は、参加するメンバーは罵倒されても言い返さないトレーニングを受けるそうだ。
 反射的に文句を言いたくなる私などは、そういうトレーニングを受けた方がいいのかも知れないが。


 今日は、MacBook Airのアダプタを抜いてバッテリーだけで、iPhoneも充電せず、ゲームもせずテレビもつけず、ガスもなるべく使わず、水道も最低限、なるべく非常用の備蓄のものを使い、防災用品の点検をする。
 私は、私の世界を包むインフラから少し離れて、文字通り湯水のように使う生活を、眺めやる。

星座を作る2012年09月12日

 ここ数日は、私にしては結構早起きしているのですが、反動で昼の眠気がすごく、昼寝してしまうのでプラマイゼロ、というか、むしろ昼夜逆転に転落しそうでよろしくないのではないかと思います。
 昼寝を必要とする時は、ただ眠いというよりも気力を必要としている状態なので、今の私はもしかしたら、底にひびの入ったガラス容器のように、見えにくいところから気力が漏れているのかも知れません。わかりやすいストレッサーは全部取り除いているのですけれどね。不思議なものです。
 最近は新型うつとかいう、あのあまり好きになれない言葉が出てきて、「夜は起きていられるのに昼は起きられないといって仕事を休んだりするのは、病気ではなくて怠け、甘えだ」みたいなことを言う人もいますが、健康でない時に夜に訪れる眠気と、昼に覆いかぶさってくる眠気は明らかに別物なので、その二つを一緒にして語る人は、単にそういう経験をしたことのない幸せな人なのだと思います。
 別物、というのは、単純に別の感覚というだけでなく、たぶん目的というかその眠りを必要とする理由も違うのです。なので、私は余裕がない時には、あまり無理をせずにおとなしく昼寝をすることにしています。余裕がない時にこういう辻褄合わせをしておかないと、もっと厄介な何かを招くのではないかと思うからです。
 そんな感じなので、私の精神的低調が復調していく過程は、階段を一段ずつ上っていくのではなく、空に散らばる星を飛び交って線でつないで形を作っていくようなものになります。AができるようになったからA'へ、というような、技術の進歩のような経過をたどりません。Bの次にCが来て、Aに飛んだかと思うと急にEが現れて、またBを繰り返す、というような状態です。
 たぶん、「徐々に"まっとうな状態"に戻っていく」ということを期待する視点からは、こういうのは耐えられない、許しがたい復調に見えるのでしょうが、もともと私が目指す精神状態は、段階を積み上げていった高みにあるものではなく、星を繋いでできた星座のようなものなので、すれ違うのは仕方ないのかも知れません。
 まあせめて、あまり大きな破綻をしないで済むように、のんきに生きていきたいと思います。

統一と分散2012年09月14日

 ネット上での匿名性(実名性)と責任については、ここでも少しだけ書いたことがありますが、この件については最近、根本的なものの捉え方の違いによるのではないかという気がしてきています。
 私は常々、「まず自分があってその解釈として世界がある」人と、「まず世界があってその析出として自分がある」人の二種類がいるのではないかと勝手に思っているのですが、似たような分類といいますか、世界観(人間観)の差異がもたらすことなのではないかと。

 アメリカの偉大な精神科医サリヴァンは「人格は対人関係の数だけある」という説を晩年提示して、人々を驚嘆させたそうです。でもこの考えは、日本では、少なくとも私の周囲では、違和感なく普通に受け入れられそうな気がします。
 一人の人間が、あるひとつのまとまってあまりぶれのない統一した人格を所有しているというよりは、色々な顔色々な要素を併せ持ってその時々に違う顔が出る、という人間観は、日本では結構すんなり了解されていることではないでしょうか。

 私はFacebookのアカウントを作成したまま、すっかり放置していますけれど、あの家族も親戚も友人も恋人も仕事も趣味も、ありとあらゆる自分の要素を全てひとつのアカウントにまとめずにはおられない、と言いたげなシステムには、大袈裟ですが凄絶な「統一への熱意」を感じます。
 アメリカ人のことなど浅薄な知識でしか知らないのですけれど、アメリカという世界は、もしかしたらそういう統一というか、どんな場でもぶれない同じ顔を見せるということが称揚されるのだろうかと、考えたりするのです。だからこそ、対人関係の数だけ人格がある、という説が驚愕されたのかと。
 私のような、割とあっちこっちで受け取られ方の違う人間は、あの家族も友人も仕事も趣味も全部一緒くたに扱われている場に放り出されると、非常に混乱します。私がFacebookであまり活発に動けないのは、そのせいかも知れません。
(実際にはそもそも他人のアカウントとあまり関連付けすらしていないので、混乱も何もないはずなのですけど)

 ネットの議論における匿名性についての話では、匿名を擁護する側からよく、「ペンネームの効用」というものが出てきます。つまり、ネット上での自分はそれ以外の場の自分とは違う「人格」によってまとまっていて、それは実名ではなくペンネームや匿名によって保持されるのであり、実名のみでの運用はそういう要素を否定してしまう、というものです。
 たぶん、こういう意見を言う人は、私のように自分の色々な要素が並立している場に放り込まれるのが、非常に苦手なのでしょう。あるいはもっとわかりやすく、拒絶しているのかも知れません。


 ただまぁ、実はこういう「対人関係の数だけ違う人格を構築する」方法も、「どんな場でも基本的に統一されたひとつの人格で相対する」方法も、単なる方法に過ぎなくて、人格の成熟とはあんまり関係がないのだと思います。
 いくつもの人格を並立させる人から見ると同じ人格で対応する人はいかにも平面的に感じられ、逆に同じ人格で対応する人からすると人格を複数並立させる人はその場しのぎに葛藤から逃げ回る人に感じられる――という部分がありますけれど、確かにそういう要素もあるのですけれど、実際にはどちらかの戦術が洗練されているとか、人格の感性に近いとかいうことはないのでしょう。あるのはただ単純な、方法の違いという意味だけで。それぞれの方法に由来する陥りがちな罠や弱点は存在する訳ですけれど。

 なので本当は、実名匿名の是非についてのディスカッションで、そういう「名前で象徴される人格の存在」を持ち出すのは、あまり実りがないというか、本当は問題ではないことを問題にしているような気がします。
 まあ実名匿名の是非が問われる場が本当に問うているのは、名前なんかではない、ということを皆が忘れてしまいがちなのは、しょうがないのでしょうね。


 というわけで、長々書いた末に何を考えたかというと、Facebookは自分の様々な要素を統一して扱うことに抵抗のない人には、すごく便利なシステムなのだろうなあという、あまり役に立たない思考なのでした。

楽屋の顔2012年09月17日

 あちこちで書いた話ですが、私は図書館で本を見るのが好きです。
 書店の本というのは強烈なリアルタイム性によって選別されており、それはそれで生命力あふれる素晴らしい光景なのですが、どうも苦手です。少なくとも今の私は、地層のように積み重ねられた、あるいは樹齢の高い樹木が立ち並ぶ林のように本が並んだ光景の方がくつろげるのです。

 図書館の一番のいいところは、書店では追いにくくなってしまった微妙に過去の本に再会できるという点です。流行の激しい分野の棚を見ていると、それだけで、時の流れが今手に取れる織物になって掛けられているような気分を味わえます。
 私は図書館で料理レシピの本を見るのが好きです。料理の本というのは、感覚に深く根ざす分野なので、本の装丁や写真の雰囲気もはっきりと変わっていきます。それは新刊のように、わかりやすく刺激的に気持ちをかきたててはくれないのですが、それだけに今の自分にはっきり呼応する部分がよく掴めるのです。現代の小説を読むよりも古典作品を読んだ時の方が、自分の中に普遍的な心性が見える、あの感覚でしょうか。

 さらには、最近は料理の本の流行がはっきりしているので、ちょっと過ぎて流行が落ち着いたジャンルの本が、気楽な顔で迎えてくれるのも楽しい。
 書店で見かける料理の本は塩麹やスムージーが多いですが、今は平積みされなくなったショウガ関係の本などは、図書館に行くとほどよく力が抜けた表情をして並んでいます。

 そんな訳で、今日ものんびりと図書館に行き、本を借りて返ってきました。明日はしょうがのシロップでも作ろうかと思います。

活字嗜癖2012年09月18日

 私のいくつかある、あまり好ましくない中毒のうち、筆頭は活字中毒だ。
 アルコールや麻薬の中毒よりは害が少ないぶん、ましなのだろうけれど、結構な時間を空費させる。気が滅入った時にジャンクフードを食べて、意識を詰まらせるのに似た行動パターンだ。

 私のネット依存の大半は、この活字中毒に由来するものなので、動画投稿サイトなどは全然閲覧しないし、コミュニケーションにもあまり大きなウェイトを置かない。
 私がmixiやTwitterを見るのは、要はそこに、まだ読んだことのない文字があるからだ。
 たぶん、ゲームもそういう部分があるだろう。

 嗜癖については、(たびたび私が言及する)優れた精神科医の中井久夫氏が素晴らしい嗜癖論をいくつか書いているけれど、それを引き合いに出すと、嗜癖の最大の欠点は「同じ結果を得るためにますます多量の嗜癖行為が必要なこと」だそうだ。
「大規模な行為が、かつては些細な行為のもたらしたと同じ効果をかろうじてもたらすかそれとももたらさないかのすれすれに目減りする」   ――「世に棲む患者」より

 私の活字中毒は年季が入っているうえに、読んだものを記憶する能力も無駄にあるので、読んでも満足が得られるものはどんどん少なくなっている。
 覚えている割には、同じものを何度も読む方だとは思う。一度読んだものは、もう私を裏切ることはないという意味で大きな安心感がある。だから、とにかく安心感が欲しい時にはそういうものを読む。
 けれど求めているのが安心ではなくて、頭の中が騒がしくてとにかく何かに意識を向けて頭を黙らせたいというような時には、「まだ読んでない」ものが必要になる。で、そういう頻度は高いので、私は際限なく「まだ読んでないもの」を欲しがる傾向がある。
 そのくせ、読みたいものや読めるもの(能力的な意味でも気力的な意味でも趣味的な意味でも)は、年をとった割には増えていっていない。こうして、クローゼットにやまほど服を突っ込んでいるくせに「今日着るものがない」と嘆くような私が現れる。

 で、何をそんな自分のどうしようもなさを長々書いたのかと言われると、単純にそういう心理をここに書いて、整理したかっただけだったりする。
 ここ数日はまた、読みたい本がないと七転八倒する状態だ。気楽で、新しい発見があって、毒を残さない本を読みたいのだけれど、そういう本が見つからない。こうして私は今日も、料理の本を読むのである。

ナッツのケース2012年09月24日

 おかげさま?で、ダイエットは亀の歩みながらも進んでいまして、体重はちょっとずつ、本当にちょっとずつ減っています。あまりにちょっとずつなので実感が湧かないのですが、一年前の同じ時期の体重と比べると、ちゃんと数字として少なくなっていっているので、ああよかったと安堵します。やっぱり記録しておくって大事。計るだけダイエットにも一面の真実はあるようです。
 しかしもう若くない悲しさ、体型の方は決して美しいラインを取り戻すとはいかず、こちらの方はさらなる運動が必要そうでありますが。

 年を重ねたせいか、甘いもの輪廻からはかなりの解脱を果たしまして、最近の間食はもっぱらドライフルーツとナッツ類です。たまにスコーンやケーキや、外食してデザートをいただくくらい。これから寒くなると、私が解脱できてない数少ない甘味道を舗装するチョコレートが現れてくるので、油断はできませんが。
 けれど、ドライフルーツもナッツも非常に良質のおいしいものを買えるルートを見つけたことと、間食に限らず食べる時に以前よりも意識して噛む回数を増やすようにしたおかげで、少量で十分満足できるようになりました。

 何でも、アーモンドを一日23粒食べると、女性に必要なビタミンEがほどよく摂取できるので、アーモンドを23粒食べよう運動みたいなものがあるのだそうで。友達に話したら、「23粒!? そんなに!?」と青ざめた顔で返されましたが、実際23粒を数えてみると油脂が心配になるほどの量では全然ありません。
 ナッツ専門通販ショップでは、携帯に便利な「アーモンドケース」なるものまで売っています。

 まぁ、ビタミンE云々はさておき、ナッツを携帯しておくのは意外と役立ちそうだなと思いました。
 私は大量には食べない代わりに、いわゆる食べ貯めのようなことが全くできないタイプで、よほど気を張ってるとか緊張しているとかでない限り、空腹感に耐えられないのです。おなかがすくとわかりやすく元気がなくなるという。なので、外出先で食事がちゃんと摂れず、頭が働かなくなって、やむなくあまり好きではない食べ物を急いで食べるということもあります。
 なので、ナッツを持ち歩いていれば、そういう時に手軽に当座をしのぐことができるので、意に染まない外食を減らせそうです。外出先で災害に遭って、長時間出られないなんて時にも役立つかも知れない。何より軽いので持ち歩く苦労がありません。

 が、私はプラスチックの触感がどうにも好きではないので、市販のアーモンドケースを購入する気にはなれず。
 どうしようかなぁと思っていたら、秘蔵の小鳥グッズコレクションを置いてある棚の一角が、私を呼ぶのです。
 以前お友達が、雀が寒さでふくふくと羽毛を立てた姿を図案化した「ふくら雀」モチーフの、てのひらサイズのミニ茶筒に入った飴をプレゼントしてくれまして、この可愛い茶筒をコレクションに加えていたのですが、見たらこの大きさがぴったりではありませんか。
 アーモンドを入れてみると、23粒入れて、あと少しレーズンを入れるとちょうどいっぱいになる感じ。あつらえたような器です。もう、ナッツとドライフルーツを携帯するために作られたものとしか思えない。いやそんなはずはないけど。

 こんな風に、探していたものが、必死に探した方向からではないところからひょいと現れるのは楽しいものです。
 なんというか、神様が見ていたんだなぁという気持ちになります。