批判輪廻 ― 2012年04月27日
少し前から、ソーシャルゲームについて、ガチャを始めとする課金システムなどに対して、色々と批判が出てきているようです。批判自体は、あってかまわないですし、また一定あるべきでしょう。
私が感じるのは、その批判に対する既視感です。
何だか最近のネットをはじめ色々なところで出される言説に、既視感ばっかり覚えている気がしますけれど。これが年を取ったということなのでしょうね、きっと。
つまり、ソーシャルゲームを批判する言説というのを聞いていると、その大半は、過去に「テレビゲームはよくない」「ネットゲームはよくない」と言っていた言説の繰り返しなのです。
人の心の弱いところに漬け込んで中毒化する、歯止めが効かないようなシステムになっていて心を壊す、たくさんのリソース(金銭、時間)を無駄にさせる、そして何より、「コンテンツとしてつまらない、何が面白いのかわからない」。
面白いのは、こういうことを言っている人々の多くが、はなからゲーム全体を否定する立場の人ではなく、結構な頻度で「昔ゲームをやっていた、あるいは今もゲームをやっている」と認める人であることです。
かつて、テレビゲームもネットゲームも、いえテーブルトークRPGすらも、さんざん否定され非難され批判されました。
ところが、今そんなゲームを遊んだ層の一部が、率先して、ソーシャルゲームを否定します。
で、まぁ、こういう時に私が思い出すのは、江川紹子がNHKのテレビ番組で、テーブルトークRPGのサークルに押しかけて、色々暴言を吐いた光景です。
昔あったネットゲームへの批判でも、「試しに私はネットゲームをプレイしてみたが、殺戮の連続で何が面白いのか全くわからなかった……こんな繰り返しが人の心を……」みたいな話に繋がって、これはツッコミ待ちなんだろうかと思ったものですが。
「観察しよう」とか「正体を見極めよう」とか、そういう気分でゲームをプレイしはじめたら、大抵のゲームは実につまらないものです。「何が面白いのかわからない」という人の大抵は、面白くプレイしようと思っていないのでまぁ当たり前です。
そしてまた、人は自分になじんだ、自分が過去に面白いと思ったもののインデックスから「面白さの基準」を作り出すので、コンシューマゲームの関係者という、コンシューマゲームに最適化された「面白さの基準」を持つ人がソーシャルゲームの面白さに反応できないというのは、実に自然な気がします。
そしてさらに彼らは、自分たちが過去に非難された言説を、そのまま自分が繰り返していることには、あまり自覚的ではないようです。自覚していても、「過去に非難され乗り越えた自分たちだからこそ、今の問題がわかる」というスタンスにすり替わってしまいます。
過去にゲーム脳騒ぎが花盛りの時、こういう騒ぎは必ず時代の移り変わりに伴って起こることだから、きっと未来にゲームが認められれば、今度はゲームを遊んだ人たちがその時代の若者を「我々はゲームで鍛えられたが、今の若者にはそれがないから軟弱だ」としたり顔で言うようになるのだなぁと、私も思いましたし、そう発言していた識者もいたように記憶しています。
なので、本当にそんな発言を見た時にはちょっと笑ってしまいました。
でたでた、自分はテレビゲームで鍛えられたからソーシャルゲームなんてものには釣られないよ、という発言。
ちなみに私個人の経験と考えを言えば、ソーシャルゲームは結構面白いものもありますし、全然面白くないものもありました。露骨にお金を使わせようとするゲームはつまらなかったですし、お金を使わなくても楽しく遊べるタイトルもありました。要するに、「色々」でしかなかったです。「ソーシャルゲームはつまらない(面白い)」というほどひとくくりではありませんでした。
たぶん、ひとくくりに「つまらない」「面白い」という人は、そもそもあまり(ソーシャルゲームに限らず)その対象を理解できてないのではないでしょうか。
ソーシャルゲームを結構よく遊んでいた人が、「お金をかけて数値ばっかり上げても、ただ便利に使われるだけのプレイヤーもいるし、お金なんて全然かけなくても、立ち回りがうまくてみんなに信頼される名プレイヤーもいる。結局人だよ」と言っていました。
レアカードが高額で取引されることもある、トレーディングカードゲームに詳しい友人も、「うまくなるほど、資金力が勝敗に関わる割合は下がる。むしろその人とゲームしたいと思われる魅力ある人物であることが大事、プレイ経験をたくさん積んでうまくなれるから」と語っていたことがあります。
たぶんソーシャルゲームでも、「金さえかければ強くなれる」というのは、思い込みか幻想なのです。
で、まぁ、色々考えると。
実際ネットゲームで「廃人」と呼ばれるような、社会生活に適応できなくなるほどハマる人は、極く少数ですがいました。引きこもってテレビゲームにハマる人も、極く少数ですがいました。猟奇的なフィクションを過剰に消費して、そのせいかどうかはさておき犯罪を起こした人も過去にはいました。
そしてパチンコが出るよりはるか昔から、それこそ何百年の昔から、ひょっとしたら何千年も前から、賭博で身を持ち崩して破滅する人は、極く少数どころではなく、たくさんたくさんいました。
それらのジャンルの多くは、社会の中でうさんくさいものとして扱われつつ、しかし社会の多くの人が実際には「健全に」関わってきました。適度に消費するたくさんのサイレントマイノリティと、過剰に依存して身を滅ぼすマイノリティと、そこにスター性を発揮して「英雄」になっていくもっともっと少ないマイノリティとが、常に存在しました。
そう考えてみた時、さて、ソーシャルゲームはどうだろう。果たしてどれほどの「身を滅ぼすマイノリティ」がいるのだろう。
その割合は、過去の娯楽と比べて、特別に多いだろうか。少ないだろうか。
ソーシャルゲームの課金率は、最近の調査では17.1%だということですが。そのうち、生活に支障をきたすほど課金をしてしまうひとは、さてどれくらいなのでしょうか。実際の人数は何人なのでしょうか。
引用した記事にも出てきたような、月に150万も使ってしまって、目が覚めて「ゲームは二度としない」と誓った誰かさんは、ゲームに関係なく社会には常に一定数いたし、たぶんこれから出るでしょう。
「ソーシャルゲームがなければ彼らはそんなことにはならなかった」というのは全くその通りです。でも「家庭用ゲーム機がなければそんなことにはならなかった」人も過去には一定数いたし、「競馬ばなければそんなことにはならなかった」人もいました。「○○がなければ」の○○は、しょせん常に移り変わるもので、特定の何かがその時にいわば「憑依」されているに過ぎない、という見方もできるでしょう。
ソーシャルゲームの、射幸心をあおるやり方を批判するのは重要でしょうし、生活が壊れないように警告を出すのも重要です。
けれど、どんな娯楽にも必ず身を持ち崩す人はいるし、その一番煮詰まってしまった層だけを大々的にとりあげてわーわー言うのは、宮崎勤のみで全てのオタクを非難するようなやり方と大差ないように見えてなりません。そして不思議なのは、過去にそういう扱われ方をして、ひどい目にあった立場の人たちが、今それを他の人に、全く無自覚にやっているということです。
こうして見てみると、冷静さや過去の経験というものが、果たして自分の客観性というものをどれほど保証してくれるのだろうと、ちょっと悲しい気分になったりもします。
他のこと全てには、理性的に客観的に冷静に判断ができる人も、ある特定の事柄については、それを共感できない人には首をかしげるしかないような状態に陥るということは、よくあることです。
なので、テレビゲームは人の心を壊したりしないと叫んでいたその同じ人が、ソーシャルゲームは最低だ人の心を壊すと、論法も論拠も似たり寄ったりの状態で叫ぶということは、何もおかしくはないのでしょう。むしろ、近しいからこそ憎しみも強いのかも知れません。
ではお前はソーシャルゲームの問題を認めないのか、擁護するのか。と問われれば、別にそれはソーシャルゲームに限った話では全然ないので、「何かに依存し耽溺する人」は社会に一定数必ず存在するという事実を認めたうえで、そういう人をどうやったら救済し、社会でリカバーしていけるのかということを考えるのみだと思います。
そうではなく、テレビゲームはみないいゲームで、ソーシャルゲームは邪悪なゲームだ、というのなら、ずいぶんばかばかしい言説だな、としか思えません。
とはいえ、私がそう気付いたのは、友達の誘いでソーシャルゲームを始めてみた時、ずいぶんと斜に構えている自分に気付いた時でした。つまり私もそういうひとりだったのです。今でも私は、正直に言えば、ソーシャルゲームのどのタイトルよりもFF11やFF14を遊んでる時の方が楽しいです。
けれど、ソーシャルゲームが「つまらない」かと言われれば、そうでもないと思います。トランプのソリティアを遊ぶように、こういうのをこつこつやりたい時もあるのです。ソリティアは課金されないかも知れませんが、時間という有限かつ取り返しのない資源を浪費する訳で、さてソーシャルゲームの課金よりも害が少ないのか、私には判断はできないのでした。
私が感じるのは、その批判に対する既視感です。
何だか最近のネットをはじめ色々なところで出される言説に、既視感ばっかり覚えている気がしますけれど。これが年を取ったということなのでしょうね、きっと。
つまり、ソーシャルゲームを批判する言説というのを聞いていると、その大半は、過去に「テレビゲームはよくない」「ネットゲームはよくない」と言っていた言説の繰り返しなのです。
人の心の弱いところに漬け込んで中毒化する、歯止めが効かないようなシステムになっていて心を壊す、たくさんのリソース(金銭、時間)を無駄にさせる、そして何より、「コンテンツとしてつまらない、何が面白いのかわからない」。
面白いのは、こういうことを言っている人々の多くが、はなからゲーム全体を否定する立場の人ではなく、結構な頻度で「昔ゲームをやっていた、あるいは今もゲームをやっている」と認める人であることです。
かつて、テレビゲームもネットゲームも、いえテーブルトークRPGすらも、さんざん否定され非難され批判されました。
ところが、今そんなゲームを遊んだ層の一部が、率先して、ソーシャルゲームを否定します。
「 このような、暇つぶしで遊んでいる主婦や子どもなどの姿から見えてくるのは、「刺激慣れしていない」ユーザー属性である。
筆者らの周りの家庭用ゲーム業界関係者は異口同音に「ソーシャルゲームは儲かるのは分かるが、正直何がおもしろいのか分からない」と言う。筆者も同感で、遊んだ5つのソーシャルゲームのどれも2日以上続かなかった。」
――「親のカードで400万円使った子ども、ヘソクリ全額150万円をつぎ込んだ主婦……過消費する“フツー”の人々――ソーシャルゲームの何が問題か【中編】」
で、まぁ、こういう時に私が思い出すのは、江川紹子がNHKのテレビ番組で、テーブルトークRPGのサークルに押しかけて、色々暴言を吐いた光景です。
昔あったネットゲームへの批判でも、「試しに私はネットゲームをプレイしてみたが、殺戮の連続で何が面白いのか全くわからなかった……こんな繰り返しが人の心を……」みたいな話に繋がって、これはツッコミ待ちなんだろうかと思ったものですが。
「観察しよう」とか「正体を見極めよう」とか、そういう気分でゲームをプレイしはじめたら、大抵のゲームは実につまらないものです。「何が面白いのかわからない」という人の大抵は、面白くプレイしようと思っていないのでまぁ当たり前です。
そしてまた、人は自分になじんだ、自分が過去に面白いと思ったもののインデックスから「面白さの基準」を作り出すので、コンシューマゲームの関係者という、コンシューマゲームに最適化された「面白さの基準」を持つ人がソーシャルゲームの面白さに反応できないというのは、実に自然な気がします。
そしてさらに彼らは、自分たちが過去に非難された言説を、そのまま自分が繰り返していることには、あまり自覚的ではないようです。自覚していても、「過去に非難され乗り越えた自分たちだからこそ、今の問題がわかる」というスタンスにすり替わってしまいます。
過去にゲーム脳騒ぎが花盛りの時、こういう騒ぎは必ず時代の移り変わりに伴って起こることだから、きっと未来にゲームが認められれば、今度はゲームを遊んだ人たちがその時代の若者を「我々はゲームで鍛えられたが、今の若者にはそれがないから軟弱だ」としたり顔で言うようになるのだなぁと、私も思いましたし、そう発言していた識者もいたように記憶しています。
なので、本当にそんな発言を見た時にはちょっと笑ってしまいました。
「それは、家庭用ゲームの刺激がすでに免疫としてできていることも大きいだろうし、また、ソーシャルゲームユーザーが好むとされる、「他人より強い自分」を確認したいという欲が全くないこともある。 」
(引用元は前述と同じ)
でたでた、自分はテレビゲームで鍛えられたからソーシャルゲームなんてものには釣られないよ、という発言。
ちなみに私個人の経験と考えを言えば、ソーシャルゲームは結構面白いものもありますし、全然面白くないものもありました。露骨にお金を使わせようとするゲームはつまらなかったですし、お金を使わなくても楽しく遊べるタイトルもありました。要するに、「色々」でしかなかったです。「ソーシャルゲームはつまらない(面白い)」というほどひとくくりではありませんでした。
たぶん、ひとくくりに「つまらない」「面白い」という人は、そもそもあまり(ソーシャルゲームに限らず)その対象を理解できてないのではないでしょうか。
ソーシャルゲームを結構よく遊んでいた人が、「お金をかけて数値ばっかり上げても、ただ便利に使われるだけのプレイヤーもいるし、お金なんて全然かけなくても、立ち回りがうまくてみんなに信頼される名プレイヤーもいる。結局人だよ」と言っていました。
レアカードが高額で取引されることもある、トレーディングカードゲームに詳しい友人も、「うまくなるほど、資金力が勝敗に関わる割合は下がる。むしろその人とゲームしたいと思われる魅力ある人物であることが大事、プレイ経験をたくさん積んでうまくなれるから」と語っていたことがあります。
たぶんソーシャルゲームでも、「金さえかければ強くなれる」というのは、思い込みか幻想なのです。
で、まぁ、色々考えると。
実際ネットゲームで「廃人」と呼ばれるような、社会生活に適応できなくなるほどハマる人は、極く少数ですがいました。引きこもってテレビゲームにハマる人も、極く少数ですがいました。猟奇的なフィクションを過剰に消費して、そのせいかどうかはさておき犯罪を起こした人も過去にはいました。
そしてパチンコが出るよりはるか昔から、それこそ何百年の昔から、ひょっとしたら何千年も前から、賭博で身を持ち崩して破滅する人は、極く少数どころではなく、たくさんたくさんいました。
それらのジャンルの多くは、社会の中でうさんくさいものとして扱われつつ、しかし社会の多くの人が実際には「健全に」関わってきました。適度に消費するたくさんのサイレントマイノリティと、過剰に依存して身を滅ぼすマイノリティと、そこにスター性を発揮して「英雄」になっていくもっともっと少ないマイノリティとが、常に存在しました。
そう考えてみた時、さて、ソーシャルゲームはどうだろう。果たしてどれほどの「身を滅ぼすマイノリティ」がいるのだろう。
その割合は、過去の娯楽と比べて、特別に多いだろうか。少ないだろうか。
ソーシャルゲームの課金率は、最近の調査では17.1%だということですが。そのうち、生活に支障をきたすほど課金をしてしまうひとは、さてどれくらいなのでしょうか。実際の人数は何人なのでしょうか。
引用した記事にも出てきたような、月に150万も使ってしまって、目が覚めて「ゲームは二度としない」と誓った誰かさんは、ゲームに関係なく社会には常に一定数いたし、たぶんこれから出るでしょう。
「ソーシャルゲームがなければ彼らはそんなことにはならなかった」というのは全くその通りです。でも「家庭用ゲーム機がなければそんなことにはならなかった」人も過去には一定数いたし、「競馬ばなければそんなことにはならなかった」人もいました。「○○がなければ」の○○は、しょせん常に移り変わるもので、特定の何かがその時にいわば「憑依」されているに過ぎない、という見方もできるでしょう。
ソーシャルゲームの、射幸心をあおるやり方を批判するのは重要でしょうし、生活が壊れないように警告を出すのも重要です。
けれど、どんな娯楽にも必ず身を持ち崩す人はいるし、その一番煮詰まってしまった層だけを大々的にとりあげてわーわー言うのは、宮崎勤のみで全てのオタクを非難するようなやり方と大差ないように見えてなりません。そして不思議なのは、過去にそういう扱われ方をして、ひどい目にあった立場の人たちが、今それを他の人に、全く無自覚にやっているということです。
こうして見てみると、冷静さや過去の経験というものが、果たして自分の客観性というものをどれほど保証してくれるのだろうと、ちょっと悲しい気分になったりもします。
他のこと全てには、理性的に客観的に冷静に判断ができる人も、ある特定の事柄については、それを共感できない人には首をかしげるしかないような状態に陥るということは、よくあることです。
なので、テレビゲームは人の心を壊したりしないと叫んでいたその同じ人が、ソーシャルゲームは最低だ人の心を壊すと、論法も論拠も似たり寄ったりの状態で叫ぶということは、何もおかしくはないのでしょう。むしろ、近しいからこそ憎しみも強いのかも知れません。
ではお前はソーシャルゲームの問題を認めないのか、擁護するのか。と問われれば、別にそれはソーシャルゲームに限った話では全然ないので、「何かに依存し耽溺する人」は社会に一定数必ず存在するという事実を認めたうえで、そういう人をどうやったら救済し、社会でリカバーしていけるのかということを考えるのみだと思います。
そうではなく、テレビゲームはみないいゲームで、ソーシャルゲームは邪悪なゲームだ、というのなら、ずいぶんばかばかしい言説だな、としか思えません。
とはいえ、私がそう気付いたのは、友達の誘いでソーシャルゲームを始めてみた時、ずいぶんと斜に構えている自分に気付いた時でした。つまり私もそういうひとりだったのです。今でも私は、正直に言えば、ソーシャルゲームのどのタイトルよりもFF11やFF14を遊んでる時の方が楽しいです。
けれど、ソーシャルゲームが「つまらない」かと言われれば、そうでもないと思います。トランプのソリティアを遊ぶように、こういうのをこつこつやりたい時もあるのです。ソリティアは課金されないかも知れませんが、時間という有限かつ取り返しのない資源を浪費する訳で、さてソーシャルゲームの課金よりも害が少ないのか、私には判断はできないのでした。
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