背負本2012年04月19日

 去年から部屋の片づけをずっとやっていて、本もだいぶ減らしました。なので、妙に読書家という誤解を受ける私ですが、今の手持ちの本の量は少ない方だと思います。電子化した分は、まだ1000冊を越えてない……かな。
 本の電子化は、私が本というものに抱いていた幻想というか、必要以上のセンチメンタルバリューを打ち砕くのによい役割を果たしてくれたと思います。
 いつも読みたい本が手元にない、と思ってしまう飢餓感が常にあるので、必要以上に本を買ってしまって積ん読本棚に積んでしまうという癖があって、そのくせ時間がある時には「もったいない」などと感じて読まないという繰り返しでしたが、電子化してみると自分にとっての本の必要性というのがシビアに見えてくる気がします。

 本の物理的実体にはそれなりの意味があって、本の背表紙や表紙が目の前にあると、本を開かなくても内容がすらすらと思い出せるのに、背表紙が見えなくなるとそれがなくなり、ロボトミーをしたように内容が思い出せなくなるという人の話を読んだことがあります。
 そこまではいかなくても、私も最近は書店に行くとひどく「うるさい」と感じるようになり(もちろん音の問題ではなく、本の物理的実体から自分が感じる精神的なものです)、書店に行く回数がめっきり減りました。
 情報というのは、理論的には媒体には影響されないはずですが、実際には物理的な実体から受ける影響は確かにあるというのが感覚的な事実で、モノとしての本に代替のない重きを置く人が多いのもむべなるかなと思います。

 ただ逆に言えば、その物理的な実体によって、その本の持つ情報や価値が、いわば「嵩上げ」されていることもあるのかも知れないと、最近は考えるようになりました。
 本を電子化してみると、その本を自分がどれくらい必要としていたのかが、よくわかります。読み返す本は電子化すると頻繁に読むようになりますし、たまにだけ必要になるけれど必要性が確かにあるという種類の本もその時にちゃんと思い出します。

 そして、人間が物理的に扱える本の量には、確かに限度があります。
 本好きな人は、本棚にぎっしり二段重ねに本を置いて、なおかつタワーのように積み重ねたりしていくものですが、それらのうち、確かに扱いこなせる量というのは、恐らくその十分の一にも満たないでしょう。せいぜい、一面の壁を埋めるくらいの量が限度ではないでしょうか。それ以上の本は、結局のところ「コレクション」か、「インテリア」以上のものではないだろうと思います。

 背負い水という、人間が一生に使える水の量は決まっていて人はそれを背負って生まれてくる、という表現がありますが、同じように背負い本というのもあって、ひとが一生の間に確かに有意義な意味を掴み取れる本の量というのは、決まっていてしかも人によってそれほど差がないのかも知れません。
 私にも、人生でこれしか読めないとしても悔いはないというほどに大切な本が何冊かありますが、逆に言えばそれは、もう背負い本の大半をすでに消費しきっていて、あとは私にとっては、限定的な意味かもしくは日々を過ごす娯楽と言うこともできそうです。


 もしも人が、一生に有意義な意味を持てる本の量に限りがあるとしたら、お金の続く限り消費者に買い続けてもらうという大量生産大量消費システムは、本という存在にはあまりふさわしくないという気がします。
 けれど少なくとも日本の出版という業界は、その道を選び、その道の行き着く先まで走ろうとしている訳で、その先に楽しいことがあるようには私にはあまり思えないのですが、けれどそれは余計なおせっかいというものでしょうから、せめてそのシステムが私の邪魔だけはしないでくれるといいなぁと思います。
 まぁ本の電子化そのものが、出版業界には嫌われているようなので、私の先行きはそれこそあまり明るくないのですけれど。

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