スライムはどんな目でこっちを見ていたのか2012年06月05日

 私は自分が活字中毒者なので、活字というものの効用に対して皮肉っぽく考える傾向がある。
 本というものが様々な恩恵をもたらし、読書という体験がかけがえのないものになりうることを認めるにはやぶさかではないけれど、それが人間性を高める唯一あるいは最善の方法だと思ったことは一度もない。

 読書、あるいは文章を読むという行為が意識のある部分を鍛えてくれる一方で、逆にある種の能力をスポイルするという面は確実に存在する。
 奇異に聞こえるかも知れないけれど、読書というのは、想像力をはぐくむというより、むしろカットしていく側面があるのだ。

 読書は想像力を豊かにする、文字から様々なものをイメージする訓練になるとよく言うけれど、あれはずいぶん理想論というか、最大効用のみを都合よく引っ張ってきている話だと思う。
 言葉から状況や表情を想像する、というのは、読書によって自動的に生まれる力ではない。実際には、言葉というのはとても説明的で、想像力を介在させる必要がないくらい、楽な伝達手段だ。
「うれしそうな顔をした」「複雑な表情をした」といった言語表現の、何と曖昧で簡単なことか。「うれしそうな顔」とはどんな顔なのか。「複雑な表情」とはどんな表情なのか。実際にこれを視覚化できる人は、読書好きの中に果たしてどれくらいいるだろうか。
 言葉は抽象的な概念を扱うのに都合のいい道具なので、具体的な想像というものを適当に迂回させることができる。それは、細かい枝葉にとらわれる罠を回避してくれるけれど、同時に人を、「理解したつもりにさせる」という心地よい別の罠に引っ張っていく。

 実際には、本をよく読む人ほど、他人の表情を感受していなかったり、声のニュアンスを聞き落としていたりする。
 絵画や彫刻のような視覚的芸術で、どう感受したものか途方に暮れている人が、タイトルや解説という「文字」を見た途端に、急に安堵してあれこれ解釈を始めるのも、よくあることだ。あるいは、映画の映像的表現を全部すっとばして、「○○が描けていない」などとしたり顔でこき下ろす人とか。

 言葉は本当に簡単だ。逆に人間の説明されていない表情や映像から、感情や心、真実、徴候、言語化しにくい何かを捉えることができる「読書で想像力を鍛えた人」は、どれくらいいるだろう。
 私は時々、「読書によって想像力が育まれた人」というよりも、「読書"にも関わらず"想像力が育まれた人」という表現の方が正しいのではないかと思うことすらある。
 ドラクエシリーズのあの「スライムは仲間にしてほしそうな目でこっちを見ている」という名台詞に笑いが生まれるのは、言葉というもののスポイル性を上手にすくいとって、ある種の皮肉にまでしてしまったからと思う。

 本を読む力というのは、打ち出の小槌ではなく、つまらない基礎的な能力のひとつに過ぎない。それはあるベクトルの理解力を、一定程度、保証してくれる。それ以上でもそれ以下でもない。
 本をたくさん読める人が、他人の心を理解できるとか、想像力が豊かだとか、高い倫理観を持つとか、人間性が優れるなんてことは一切ない。足が速い人や視力が2.0ある人が人間性に優れる訳でもないのと同じように、そういうひとつの「能力」に過ぎない。

 恐らく、本に過剰な期待をする人というのは、むしろ読書をあまりしない人――あるいは、本を読んでもそれこそ「想像力が育まれていない人」なのではないかと思う。
 たぶん、人は自分が本当には理解していない活動を、過大に評価しがちなのだ。子供に読書をさせれば人間性が高まる、といった話は、私には、子供を東大に入学させれば人生安泰、といったレベルの話にしか聞こえないのである。

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