滑稽2012年05月02日

 NHKの、英語のプレゼンテーションを紹介する番組か何かで、面白いものがあるよと奨められて観たのですが、残念ながら私にはあまり面白くないものでして。
 その内容は、アメリカの芸術家というか、パフォーマーの活動についてで、その人は公共の場で「面白いこと」をやって、その反応を隠しカメラで撮影した動画をYouTubeなどにアップロードして、人が笑いを共有する場面を作ろうという活動をなさっているそうです。
 紹介されていた動画は、「ニューヨークの地下鉄で、さもうっかり忘れてきたという風で、ズボンを履かずに下がパンツ姿の男性が何人も乗ってきて、最後はズボンを履いてない売り子からズボンを買う」というものでした。たまたま乗り合わせていた無関係の女性が見せる反応が動画のメインな訳ですが。
 プレゼンテーションされた会場は大爆笑だったのですが、私は、、もし自分がその場に居合わせたらと想像すると、全く笑えませんでした。もし私があの女性だったら、ただの露出狂、痴漢と思うのではなかろうか。だって下はパンツしか履いてない男性が、地下鉄のシートに座っている自分の周りをこれ見よがしにうろうろするんですよ……。怖いですよ……。いつパンツを下ろして何か始めるかわからないじゃないですか……。
 実際、ズボンどころかパンツも履かない露出狂に遭遇したこともあるので、仕込みがわかってる動画だと知っていても、笑うどころか恐怖しか感じなかったです。隠しカメラも、意図がわかっていても、嫌がらせの道具にしか見えなくなってくるという。

 しかし、もしこれが、普通の公共の場での活動ではなく、純粋に誰かが劇場でやってるコントだとしたら、そこそこ笑ったのではないかと思うのです。だって、普通に考えたら滑稽な光景ですものね。
 コントは絶対に現実とは切り離されていて、少なくとも今のところ私が観るであろう種類のコントにおいては、ズボンを履き忘れて電車に乗る人は、本当にズボンを履き忘れて電車に乗る滑稽な人以外のものではなく、他人に危害を加えることはないという強力な暗黙の了解が働いています。
 その上でなら、滑稽な光景は、純粋に滑稽な光景でありそれ以上でも以下でもなく、私は普通にそれを笑うことができます。

 もしかしたら、現実の悲惨な状況であっても、それを笑ってしまえば、恐怖も嫌がらせすらも力を失う、ということもあるのかも知れません。笑いは心の余裕であり、精神の優位性の証明でもあります。
 けれどやっぱり私には、それはできそうにありません。
 私にとって現実は、常に、自分が想像するよりはるかに残酷で悪意に満ちています。
(逆に、自分が想像するよりも常に、美しく素晴らしいものだともわかっていますけれど)
 私がズボンを履き忘れて電車に乗ってくる「現実の男性」を笑えないのは、その行為を悪意と人間の尊厳への攻撃として用いる人が、想像の次元ではなく現実に当たり前に存在しているものだからです。しかもその悪意自体は、特別な異常なものではなく、「普通の人」と自称している人の中にそれこそ普通に存在する悪意であったりします。
 私には、それを動かすことができません。その絶望感が、私を笑いから遠ざけるのだと思います。

 こうして考えてみると、私は現実の社会や人間存在に対する、普通の人ならば持っている安心感を、あまり持ってないのかも知れません。
 逆に考えれば、そういう無根拠な安心感がないので、異常と言われる犯罪や、許しがたい事故と言われるものが起こっても、「それは普通に存在するもの」と思っているので、特別非難する気にもならないのですけど。
 でもズボンを履き忘れた男性を、本当にズボンを履き忘れた滑稽な男性、とだけ思える人間だったら、色々なことが、もっと楽にやり過ごせるのかなぁ……と思ったりもします。

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