料理2012年01月22日

 今日は軽鴨の君に連れられて、久しぶりに映画に行きました。一年ぶりくらいです。
 観た映画は「エル・ブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン」。
http://www.elbulli-movie.jp/

 エル・ブリとは、サブタイトル通り世界一予約の取れないレストランとして料理業界で名を馳せる、スペインにあるレストランです。ミシュランの三つ星を維持し続けているのはもちろんのこと。このレストランはオーナーシェフであるフェラン・アドリアの前衛的・革命的な料理によって、世界中の料理に影響を与えています。最近、欧米でも柚子を取り入れた料理が一般化しているのですが、それはフェラン・アドリアが来日の際柚子に魅せられ、自身のレシピに取り入れたのが理由で、彼の功績として知られているそうです。
 まぁ料理世界における、Appleと昔日のソニーを足して二で掛けたような存在、とでも言えばいいでしょうか。乱暴な表現ですが。
 そのエル・ブリの新メニュー考案、完成に至る様子に密着した、ドキュメンタリー映画。

 エル・ブリ、そしてフェラン・アドリアがどれほど偉大で素晴らしいシェフであり芸術家であり実験家でありプロデューサーであるのかは、ここでは語りません。
 それは、「この映画」そのものが、エル・ブリの料理と同じくらい実験的な、革新的なドキュメンタリーの手法を見せてくれたからなのです。

 この映画がもしかしてそうなのではないかということは、最初の数分ですでに感じられました。
 そして最後のスタッフタイトルが終わった瞬間に、本当にそうであったことに私は感嘆しました。
 私が予感し、そして最後までそうであったこととは何か。
 この映画は、ドキュメンタリーであるにも関わらず、ナレーションが一回も登場しなかったのです。
 説明の字幕は、ほんの数ヶ所にしかありません。それも日付と場所を表すもののみ。一番長い字幕は、映画の最後に完成した新メニューの名前を表示するものだったのではないでしょうか。
 そしてインタビューや質問といった要素は、ドキュメンタリーの手法として存在することすら忘れてしまうくらい、一切登場することはありません。
 これは、完全に「説明」を排除した映画です。
 今映像に登場している人物が誰なのか、どんな背景の人なのか、今何をしているのか、何をしなければならないのか、何を考えているのか。それを親切に説明してくれるものなど全くない映画なのです。エル・ブリがそもそも何なのか。フェラン・アドリアは何者なのか。普通であれば観客に当然のごとく示されるであろうその基本的説明さえ、全く登場することはありません。
 
 あるのは映像。現実に起こっていたことから切り取られた映像。会話。音。
 音楽すらも最低限に絞って、あらゆる「作り手の説明」を空白にして、映画は進んでいきます。

 それではこのドキュメンタリーはわかりにくいのか、理解しにくいのか。そんなことは全くありません。そこで何が起こっているのかを、過不足なく表現する映像と会話と音を、カメラとマイクは的確に切り取り拾い上げます。観ている人は、その場の流れが理解できないというような事態には、まず陥らないでしょう。
 そして映像は、それ以上の余計なものを決して付け加えようとしません。感動も、感情も、思想も、意図も。
 映画は決して、「ほらフェラン・アドリアはすごいでしょう?」などとは言いません。エル・ブリのスタッフがカメラ目線でフェランの才能について語るなどというしらじらしい場面など、全くの皆無です。

 もちろん、ドキュメンタリーが「事実のみをうつす」などということはありえません。監督がほとんど完全に己の存在の痕跡を消し去っているこの映画においても、映像は注意深く取捨選択されているのがうかがえます。スタッフたちの会話は、現実の会話にも関わらず、まるでフィクションの映画の1シーンであるかのように「絵になって」います。
 けれどその解釈について、おせっかいに誰かがしゃしゃりでて、「観る人がわからないといけませんので」と言わんばかりに説明を始めるようなことは決してありません。
 これはものすごいことです。ドキュメントしている対象と、そして映画を観るであろう人々、その双方に対して、とても大きなリスペクトがなければできることではありません。


 ずいぶん昔のことですが、たまたまある聡明な友人と会話をしていて、フランス映画の話題になったことがあります。今も昔も私のフランス映画の知識など乏しいものですが、フランス映画が非常に難解で、ハリウッド映画のようなわかりやすく一般的な感動を与えてくれるものとは対極に位置しているというイメージだけはあって、そんなことを話した記憶があります。
「フランス映画って、何であんなにわかりにくくて難しいんでしょう。フランスの人って、ハリウッドみたいな明るくてわかりやすい映画を観ないんでしょうか」
 そんなようなことを言った私に、聡明な友人はこんな答えを返しました。
「たぶんフランス映画の考え方では、理解して解釈する過程が映画を観るということなのに、すでに解釈されてたら映画を観る意味がないからでしょう。ハリウッドみたいにわかりやすい映画は、他人が噛んで消化した食べ物を皿に載せられて、さあ食べろと出されてるような気がするんじゃないですか」
 この聡明な答えは、感覚的に腑に落ちる感じがして、その時もいたく感心したものですが、最近はこのことが、骨身に染みてわかってきたように思います。
 私は、そんな難解な複雑な映画をたくさん観る良き鑑賞者では全くないのですけれど、「わかりやすい」作品というものに対する欲求が、年々なくなっていくのを実感しているのです。
 それは押しつけがましさへの反発もあるけれど、それ以上に、「愛と感動の名作とわかっているのなら、何故それを私が時間をかけてわざわざ観て、愛と感動の名作という感想を確認する必要があるのだ?」という率直かつ大きな疑問です。
 もちろん、観賞には「共有」という要素がありますから、みんなと同じ感想を抱くことに意味があるのもわかるのですけれど。


 この映画は、完璧なまでに色も味も香りも熟した果実を、しかしそのまま皿に載せて出すのではなく、ほんのわずかな手を加えて完璧な「料理」にして出したかのようです。
 恐らく、この「素材そのままであるかのように見える」映像を作り上げるまでには、エル・ブリのスタッフと同じくらい、映画製作のスタッフたちも試行錯誤し、実験を重ね、試作を生み出しては捨てという果てしの無い作業を繰り返したのではないかと思います。
 そこまでしてなお、全ての理解も解釈も、受け手に惜しみなく委ね、説明すらせずに信頼して引き渡すという潔さ。
 本当に、久しぶりに、私は映画鑑賞において、監督の意図を読むのではなく、「自分がこの映画から何を得るのか」を問われたような気がします。
 それは、私が久しく映画を観なかった理由のひとつであり、そして私がこの映画に惜しみない賛嘆を送る理由でもあるのです。

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