ハッブル 銀河の世界2007年02月25日

ハッブル 銀河の世界,戎崎俊一訳,1999.8.18.第1刷,青941-1

「専門家以外の方でも十分楽しめる.シャーロック・ホームズのように,銀河と宇宙の謎を解き明かしていくハッブルの精巧な推理を楽しんでほしい.」と元気よく訳者あとがきで宣言されているのだが、正直さっぱり理解できなかったし、よって楽しめなかった。アシモフの啓蒙書のようなけれんみ、わかりやすさを期待すると、ハズレもハズレ、大ハズレになってしまう。だが真面目な天文学の専門的入門書と考えれば……まあ、こういうものだろう。
 何が明らかになり何が否定されたのかすらよく理解できなかったていたらくなのだが、ところどころにいきなり出てくる「おとめ座銀河団までの距離は5600光年±600万光年とかなり正確に決められた」といった、スケールが大きいとかいう言葉を使うのもはばかられる豪快な丼勘定がすごい。600万光年のずれが「かなり正確」に入るって一体! 「桁数があってれば上出来」といった話を昔宇宙物理学をやっていた知人が言っていたのを思い出す。

アスパンの恋文2007年02月20日

アスパンの恋文,ヘンリー・ジェイムズ作、行方昭夫訳,1998.5.18.第1刷、赤313-8

 どうも今ひとつ相性の合わない本というのはあるもので、この本も私にとってはそれらしい。
 先が気になるわくわくするようなストーリー展開ではあるのだけれど、読み終わった後に何も残らない。語り手である主人に対しても、また彼と関わる登場人物に対しても、あまり焦点が合わないまま終わってしまったという感じだ。
 初期アメリカの大詩人アスパン(架空の人物らしい)のかつての恋人であり、その書簡を持っているという老婦人から、何とかしてその書簡を手に入れようとするアスパンの伝記作家が、身分を偽って彼女が姪と二人で住む邸宅に下宿人になるのだが……というストーリーの骨格は、手紙が本当にあるのか?本当に老婦人はアスパンと関わりがあったのか?といった謎と絡まって、またちょっとしたコンゲームの趣も見せて、先が気になる面白さがある。だが逆に言えばそれしか私には感じられない物語でもあって、「だから何?」みたいな味気なさがある。
 主人公のエゴと配慮の無さと無垢な探求者としての要素。彼に立ちはだかる奇妙な威厳と卑しさを合わせもつ老婦人。控えめで健気で頼りないが最後に鮮やかな行動を見せる中年婦人の姪。彼らの人間性はどれも面白いし、長所と短所を合わせもつ生きた人間として鮮やかなのだけれど、ディケンズのような強い印象やオースティンのような躍動感がないように思えてしまう。
 恐らく、アメリカ的要素とヨーロッパ的要素の相克と融和という、ジェイムズ生涯のテーマとからめて考えていかないと、この物語はオチがいまいちのコンゲーム小説もどきになってしまう。古典を読む難しさを感じる瞬間である。

野上弥生子随筆集2007年02月14日

野上弥生子随筆集,竹西寛子編,2003.9.5.第5刷(1995.6.16.第1刷),緑49-9


 夏目漱石に推薦されて作家となった野上弥生子の、生活と社会に根付いた随筆をまとめた本。どれも端然として乱れることのない文体と、確固たる精神性に貫かれた随筆であり、まさに名作というよりほかない。
 美しい言葉を話すやや古風な女性、というものを小説に出そうと思ったら、素晴らしいモデルになること確実だ。いつか書くときはお世話になろうと思う。
 とはいえ、では彼女の文章が私の心を打ったのかと言えば……残念ながら否、である。
 でもそれは野上に非があるものではなく、私という歪んだ人間には、野上のまっとうさ、正統性、ゆるぎのなさといったものに共感する要素が少ない、という話だ。現実に交流があったら、さぞやつきあいにくい相手だったろうと思う。
 ニュアンスが消えてしまうほどにまっすぐで、明晰で、知性あふれる文章群。プラチナの塊のように、凛として重い。

アイルランド2007年02月11日

アイルランド,オフェイロン著,橋本槇矩訳,2005.5.17.第9刷(1997.11.17第1刷),赤232-1


 アイルランドという、ケルト人的アイデンティティを高らかに掲げ、イギリスとプロテスタントに対し固定的な怨恨を抱く国家と国民の、その精神史を描き出そうとする試みがこの著作なのだけれど、岩波の青や白ではなく赤に入っていることからもわかるように、学問的考察というよりもエッセイに近い。また、オフェイロン以前のアイルランド史が、愛国・民族主義を高らかにうたいあげるというものしかなかった(それしか在りようがなかった)事実を知らないと、理解しがたい部分も多い。
 オフェイロンは、多くのアイルランド人が素朴に信じている「連綿と続くケルトの伝統」が幻想でしかないことを説き、民族主義に自らの土台を置くのではなく、ヨーロッパの一員として生きていくべきであると述べる。
 ゲール人が、夢想されるような平和的で美しい民族ではなかったこと、ノルマン人からもたらされた様々な思想が今のアイルランドを潤していること、アイルランド・カトリックをはじめとしたアイルランドの霊性は普遍的なものにはなり得ないことを語るこの論は、ある種の反動であろうし、またそうした反動を望んでいた知識層にとっては素晴らしい著作であったに違いない。
(アイルランドは1929年に検閲法が成立し、ジョイス等々の自国の文学を元気いっぱい発禁処分にしてきた国である)
 だが、時代の限界というべきなのか、オフェイロン自身も結局はヨーロッパ文明至上主義・キリスト教至上主義から脱することができなかった人物であり、そんな彼が述べたアイルランドの精神性を、日本人の私が読むと、いささかトンチンカンに感じる部分が出てくるのは仕方がない。オフェイロンは、アイルランドの神話が過剰に超自然的であり、アニミズムの段階に留まっていて、結局思想や宗教を形成することができなかったと嘆くのだが、「そもそもアニミズム思想が未発達で、原罪という超ネガティブシンキングを抱えこんだユダヤ・キリスト教の方が優れているという論自体がおかしいんじゃないの?」などと突っ込まれるとは、たぶん予想もしていなかっただろう。
 そもそも、個性というものは、あらゆる属性を超越して存在するものだから、ある民族・国家・風土に特有の精神性というものは、本質的にはない。「アイルランドはこうで、こうで、こういう歴史をたどった。結果としてこういう精神性を持った」というのは、結局のところどこか胡散臭い、こじつけた印象がつきまとってしまう。オフェイロンの、公平であろうとする誠実な論であっても、だ。

(ただ、ある民族・国家・風土が自分のものとして「イメージし、承認する」類型は存在する。だから「なぜこうした精神性が生まれたのか」ではなく、「なぜこうした精神性が類型として承認されたのか」を問うべきなのだろう。それは、その民族が「そういう精神性である」ということではなく、「そういう精神性ということにしておく」必要がどこにあったのか、を問うことだろう)

 この著作は、アイルランドとアイルランド人への愛情と公平さに充ち満ちているけれど、そういう学問的バランス感覚のようなものは、実はほとんどない。知的スノビズムの臭気がふんぷんとただよう箇所もある。これは時代の限界(初版は1947年)なのかも知れないが、何とも残念としか言いようがない。

ブッダのことば スッタニパータ2007年02月10日

ブッダのことば スッタニパータ,中村元訳,1992.3.16.第19刷(1984.5.16.第1刷),青301-1


 仏教の聖典の中でも最も古いスッタニパータを邦訳したもの。訳者も述べているけれど、今日本でイメージされる仏教とはだいぶ違った仏教像である。
 全ての悩み苦しみは執着からくる、だから執着は全部捨てちゃえ、というある意味乱暴な教義はすでにここにあるけれど、教えとしてはぐっとシンプルで、「与えられていないものを自分のものにするな」「全てにこだわるな」といった感じだろうか。現代の仏教者のイメージというより、むしろ仙人に近い。
「聖者は自分が清浄だ、正しい、賢いとは思わない。他者を汚れてる、誤っている、愚かとは思わない。一切の思想的断定を行わない」なんて教えは、その後の仏教界の大論争なんかを見ると皮肉っぽい色さえ帯びてくるし、また「私はいかなる疑惑者をも解脱させえないだろう」といった、気負いのない態度は、結構好感が持てる。
 身分制度が全てを支配する世界の中で、「生まれではなく行為によって清浄となる」というブッダの思想はあまりに異質であったのだろう(もっとも待ち望まれていたものでもあったのだけれど)。たぶん、ブッダは自分の教えが世界に広まって世界を変革することなんて、考えていなかったし望んでもいなかった。ただその時代のゲームからイチ抜けすることで、自分を安定させた。そのやり方を、望まれるたびに話していっただけなのかも知れない。この本を読んでいると、そんな風に思えてくる。
 ところで、この聖典の中には、「人間としてあるべき姿」とか「恥ずべき姿」といったこともちゃんと述べられているのだけど、抽象的な話の中に、突然妙に具体的な描写が出てきて唖然とすることがある。「ティンバル果のように乳房が盛り上がった若い女を云々」とかね。話題のアイドルみたいな、誰か具体的な対象がいたんでしょうか。

ラッセル 幸福論2007年02月04日

ラッセル 幸福論,安藤貞雄訳,2004.12.15.第20刷(1991.3.18.第1刷),青659-3

・自己にあまり没頭しないこと。
・情念と興奮に支配されるがままにならないこと。
・そして外界に対してなるべく広く、好意的な興味を抱くこと。
 かつてヴィトゲンシュタインの師であった、しかし弟子とは異なり、偉大な中庸精神を持ち合わせていたラッセル。彼の幸福論を箇条書きで要約すれば、そんな感じになる。
 で、この内容は、最近たくさん出版される「自己啓発」とか「幸福追求」とか「精神世界」をテーマにした本の内容と、驚くほど似ている。ラッセルが引き合いに出す、不幸な人間やその社会問題の像は、嫌になるくらい今の日本の閉塞感とそっくりだ。結局のところ、この辺りにまつわる欠乏感に対する処方箋を、現代社会はまだ共有できていないということなんだろう。多くの賢人が書いているにも関わらず、その認識が一般化しないのは、何故なのか。
 まぁきっと、それはあまりに穏やかで、見ようによっては退屈でさえある主張だからだ。ラッセルの主張は、それこそヴィトゲンシュタインのスパイシーで刺激的な哲学に比べると、「ごはんと味噌汁」みたいに普通である。普通さは、哲学においては大きなハンデなのかも知れない。
 ラッセルの幸福論が、万人に有用であるとは思わないけれど、結構役に立つ人は多いような気はする。岩波書店は、これを新装版の単行本にして売り出したらいいんじゃないのかな。若い女性が好むようなイラストと装丁にして。

パロマーの巨人望遠鏡2007年01月29日

パロマーの巨人望遠鏡(上)(下),D.O.ウッドベリー著,関正雄・湯澤博・成相恭二訳,2002.6.14(上)2002.7.16.(下),青942-1〜2

 大きいことがいいことだとは限らないし、科学の発展と知識の探究が無条件の善と美であるはずもない。だが、天文学においてはより巨大な望遠鏡が不可欠だし、また科学と知識が人類を救うと考える人も世にはたくさんいる。
 そういう視点で書かれた、「プロジェクトX」的美談だと考えれば、まあそんなに間違いではない。誠実で、名誉や報酬など見向きもせずに科学の進歩のために身を捧げた天文学者・技術者たちの苦闘が描かれ、愚かな民衆と迷惑なマスコミがその対比を演じる。綺麗で文句なく面白い記録物語だ。特に反射望遠鏡の心臓部である直径200インチのパイレックスガラス製鏡の製作と、それを東部の工場からカルフォルニアまで運ぶ顛末など、映画が三本くらい作れそうな波瀾万丈ぶりである。
 いかにもアメリカ的な、人間の努力と知恵と情熱が産みだした、輝かしい成果。
 つまりそれは、そのままこの記録物語の欠点でもある訳で、科学や天文学に対して懐疑的な人を説得できるたぐいの話ではない。
 どうも著者の意図としては、そういうものもあったようで、文中何度も、「何百万という人が飢えているのに、600万ドルを一望遠鏡に費やすのは正当か」という問いに対する著者の悲痛な答えが差し出される。でもはっきり言って、説得力はあんまりない。
「科学と知識の進歩を否定すれば、そもそも人類の生存そのものが危うくなるだろう」という著者の主張はもっともだけど、この望遠鏡をを可能にした富そのもの(大半は財閥の寄付である)が、多くの人々の生命と財産と尊厳を犠牲にしていることに対する、免罪符になるものでもない。ある一面から見れば、天文学もしょせん、金持ちの手慰みでしかないのだーーという視点は、この本には欠けている。
 まぁでも、天文学者に社会の不均衡の是正を求めてみたところで、答えは "None of my business!" でしかないだろう。ギリシャのパルテノン神殿を見るように、エジプトのピラミッドを見るように、私はとりあえず200インチ反射望遠鏡に拍手と尊敬の念を送る。天文学に無知な、衆愚のひとりとして、ね。

千字文2007年01月28日

千字文,小川環樹・木田章義注解,1997.1.6.,青220-1


 ああ懐かしい。小さい頃に書道を習わされていた身としては、「千字文」と聞くと身が縮こまるのである。四字一句として250の句、しかも同じ文字を使わずに韻を踏みつつ、千字をつらねたこの書は、中国古代の初歩の教科書であり、日本でも書道で必ず書かされるお手本として生き残っている。
 で、読み物としては、RPGの設定資料集のような面白さがある。古代中国の様々な思考の基本、世界観がさくさくと説明され、註が様々な逸話を説明しているので、飽きない。読めばトリビアの泉三週間分くらいのネタは仕入れられること確実である。
 それにしても、これだけ忠が説かれ、親を大切にせよと再三再四言われるということは、古代中国ではよっぽど家庭内暴力や虐待が多かったってことなんだろうか。
 本文自体も面白かったが、文庫版後書きで、小川環樹の思い出をつづった木田の文章は、「古き善き学者たち」の姿を描いていて、ふんわりと温かい読後感があったことを、最後に書いておく。

食卓の賢人たち2007年01月27日

食卓の賢人たち,アテナイオス著,柳沼重剛訳,1992.4.16.,青675-1


2世紀頃のローマにて、あるところで開かれた宴会で、集まった人々がああだこうだと、料理や酒や食器や少年愛や贅沢や、ありとあらゆる話題について、うんちくを述べまくる。
テーマについて、みんながてんでに自説を滔々と述べる。一応対話編ということになっているけれど、対話なんておよそ出てこない。出てくるのは「君の言ったことで思い出したけど」だの「君の言うことは違うね、なぜなら……」程度の台詞。で、あとは自分の知ってる古典をずううっっと引用してしゃべりまくる。客だけでなく、料理を出す料理人までそうする始末。
ただそれだけの本である。面白いけど、ただそれだけ。
でも、ものすごいデジャヴがある。
これはどこで見た光景だっけ、なんて探す必要もない。このノリは間違いなく、インターネットの掲示板だ。
誰も人の話を聞いてなくて、自分の話をするので頭がいっぱい。犬儒派と文献学者の論争あり、プラトンやソクラテスといった有名人への悪罵あり、誰かが何かを引用すれば、別の人が別のテクストを持ち出してひっくり返す、拾い読みするには面白いけど、通読すると疲れてくるところまで、そっくり。
要するに、現代日本のオタクってのは、古代ギリシャ・ローマのソフィストの後継者ってことなんだろうか。それとも、知識偏重の人種ってのは、だんだんとやることが似てくるんだろうか。
ま、それはともかく、この本はインターネットの掲示板より優れてるところがひとつある。少なくとも、議論だけでなく、おいしい料理も一緒に楽しめたらしいってことだ。掲示板だってオフ会がある、なんてことは言わないでおこう。

視覚的人間 映画のドラマツルギー2007年01月23日

視覚的人間 映画のドラマツルギー,ベラ・バラージュ著,佐々木基一・高村宏訳,1986.12.16.(1994.9.16.第3刷),青557-1


 私は映画鑑賞に対して、標準以上の能力を持ち合わせていない。なので、この本の中で展開される映画論が、果たして説得力があるのかどうか、あまりよくわからない。紹介される映画のどれ一つとして知らないし、出てくる俳優も知っているのはチャップリンだけという、惨憺たる読者なのだ。
 恐らく、この本で最も興味深く、永続的な価値を持つのは、映画がモノと生命ある存在を等しくエネルギーあるものとして描くという指摘や、映像によってのみ表現できる部分の魂(それは言葉に頼りすぎたことによって、今や人間から失われかけているものだ)が復活するであろうという希望である。それは、映画の技術がどんなに進歩しようと変わらない、映画の本質だろうと、私も思う。
 けれど、実のところ、私がそれ以上に面白く感じたのは、まだ映画が芸術として認められていない時代にあって、著者が「映画は芸術たりうる」という命題を証明しようとするくだりである。
 同じような格闘の末に、どうやら漫画は(日本では)芸術たりうると認められたようである。ゲーム(ボードゲームにせよ、コンピュータゲームにせよ)はどうだろうか。あるメディアが芸術になりうるかどうかの境目を考えるのに、この本はいい参考書になると思う。