FFXIIと、虎の尾を踏む男たち2013年01月19日

 えー。今日はゲームについての話です。FF12に関する話です。興味がない人はごめんなさい。FF12がわかんないと、全然何の話なのかわからない文章が続きます。ごめんなさいごめんなさい。

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 これは半年前くらいに不意に思ったことなんだけど、「FF12というのは『虎の尾を踏む男達』なんだ」という。

 なんじゃそらという話だが、「虎の尾を踏む男達」というのは、まあ有名な黒澤明の映画で、内容は歌舞伎の「勧進帳」もしくは能の「安宅」を映画にしたものである。話の筋は原作に忠実で、源義経と弁慶一行が山伏に変装して云々というあれ。主役の弁慶と義経には当時一流の時代劇俳優および歌舞伎役者を当て、彼らは重々しく正統的に、渋くて悲壮な報われない主従を演じる。
 ところがこの映画のヘンなところは、何故かこの一行に、武士でもなんでもない強力(荷物運び)がオリジナルキャラとして加わっており、しかもこの強力のキャスティングが、軽喜劇俳優の榎本健一(エノケンと呼ばれたあのひと)なのである。
 この強力が、エノケンの軽喜劇ノリのままなので、重々しく風格の大河内傳次郎の弁慶、しずしずと高貴に歩いていく十代目岩井半四郎の義経の立ち居振る舞いの傍で、騒々しくはしゃいだり踊ったり跳ねたりする。台詞回しや、語り口も全然違う。それらが全然統合されない状態で、映画は強引に続いていく。
 しかしこの映画の肝はやっぱりこの強力の存在なのだ。彼は義経のような武士ではない一般民衆で、観客の代弁者であり、自然な感情の持ち主でもある。そういう人物の視点が映像に加わることによって、義経や弁慶、あるいは富樫の姿は、ある宿命的な、自らの負った役割を崇高に生き切るものとしてまばゆく映し出される。
 そしてその一方で、武士、主従、役人といった役割を決して出ることができない、特定の価値観と世界の中でしか生きられない存在として相対化もされる。
 一番わかりやすいのは、義経が富樫に見咎められて、弁慶がその場を切り抜けるために義経を杖で叩きのめすシーンだ。歌舞伎や能では、富樫がその様子に恐れをなして通れ、ということになるのだが、この映画では、あまりの有様になんと強力が泣きながら割って入る。こんなのあんまりだ、と言いながら義経をかばう。本来の「勧進帳」予定調和の世界ではそんなことはできないのだけど、強力はそれができる。なぜなら彼は、義経や弁慶や富樫の価値観とは違う世界で生きている人間だということが、それまでの映像で明らかにされているから。そして、泣きながら義経を助けようとするその姿は、その場にいる全ての人間の心の底に本当はあるプリミティブな感情であり、また同時に映画を観ている観客の心情でもあるのだ。
 映画の最後は、富樫の設けた酒宴で一同が大いに謳い舞い踊り、目が覚めると弁慶一行はすでに旅立った後、強力は一人残されている。懐にはお礼なのか、印籠と小袖が残されているのみ。そして強力は、歌舞伎「勧進帳」で弁慶役の見せ場といわれるあの、立ち六方を踏んでフェードアウトしていく。一種の狂言回しだった強力が主役の見せ場を演じる、鮮やかな転回。
 強力が弁慶を継承していくと捉えるか、あるいは強力という民衆の自由でしたたかな心が弁慶という役割を喰ったとみなすか。もしくは弁慶や義経の心はこの強力に宿って開放されたのだと捉えることもできるかも知れない。


 と、まぁ、ここまでがなんと前段(笑)。


 FF12は、主人公とその幼なじみの主役二人が、いわゆる「声優」ではない新人の俳優がキャスティングされて、その他の声優がベテランのキャスティングで固められている。何故主役の二人だけ、あえて声優未経験の新人を起用したか。黒澤が勧進帳世界にエノケンをあえて重要人物として放り込んだのと同じような意図があったのか。あるいは結果的にそうなっただけなのか。
 声優、という表現形態は今や、キャラ造形や萌えという「型」の踏襲によって作られている。「型」をいかに究極につきつめ、昇華させていくかが声優たちの「芸」であって、その葛藤はもはや、古典芸能の演者に近しいものになっているような気がする。
 そういう型にのっとってまとめられた美しい表現世界の中に、突如主役二人の声は異質なものとして割って入る。
 だがそれは、FF12という物語世界の中で、そもそもヴァンとパンネロという存在が帯びる「違和感」でも、実はある。

 FF12の登場人物の多くは、支配階級・上流階級という、圧倒的な「型」が支配する世界観に生きている。そして彼らは、敵方も含めて、「与えられた役割」「負った宿命」との葛藤を持つ。一見自由に見える、ジャッジをやめたバルフレア、ヴィエラ族長の妹でありながら森を去ったフランも例外ではない。しかもその負った役割を徹底的に「果たし切る」か、徹底的に「逃げ切る」形で解決しようとする。「私は私。自由でありたいだけよ」という結論にたどりつくアーシェの宣言は、型の中で生き切るヴェインの心には刺さることさえなく、物語の中ではさらりと流されてしまう。

 そんな中でおよそ空気のように悲しい扱いをされ続ける主役二人だが、この二人の存在は、宿命に支配された義経一行の中にまぎれこんだ強力のごとく、予定調和と型の物語世界を、常に相対化していく役割を果たす。彼らには守るべき型も、負う宿命もない。自由に、感情のままに行動する。型と調和の中で「こうしかならない」状態を打破するのは、常にヴァンだ。アーシェを「お前」呼ばわりし、「そっちは勝手に掟を守ってろよ、こっちが勝手にやる」と言い放つヴァンは、調和を守り世界を救うヒーローではなく、常に調和を壊し続け世界を更新させ続けるトリックスターなのである。
 そういうトリックスターの視界で、重々しく正統的なファンタジー歴史絵巻を演ずる他の面々を見やる時、美しさと同時に、ふとそこに哀しい滑稽さ、あるいは無意味な残酷さが垣間見えることがある。この相対性は、ヒロイックな価値観を是とする他のFF作品には一切存在しない妙味で、そしてこれは、「上手い声優」が主役をやる限り決して得られないものだろうとも思うのだ。


 もちろん、そもそも榎本健一は喜劇俳優という別の「型」を極めた存在であって、新人俳優とは違うというもっともな反論があるだろうし、強力は「主役」ではなく「狂言回し」に近い存在であった。FF12には、その狂言回しを強引に主役にしてみたら、うまく扱えなくて空気になっちゃいました的な部分をはじめ、かなり語りが失敗した部分があるのは否めない。
 だがそれでもやはり、FF12においては、ヴァンとパンネロの存在が、いわゆる「上手い声優」では決してない声も含めて、絶対に不可欠だったと思う。あの二人がいなかったら、あるいは上手な型の演技ができる声優が演じていたら、何のとっかかりもないつるつるとした喉越しのよいだけの物語で終わったはずなのだ。