失楽園2007年08月05日

失楽園(上),ミルトン作,平井正穂訳,2007.5.15.第45刷(1981.1.16.初版),赤206-2
失楽園(下),ミルトン作,平井正穂訳,2007.3.5.第42刷(1981.1.16.初版),赤206-2

「一敗地に塗れたからと言ってそれがどうだというのだ? すべてが失われたわけではない」−−勇壮かつ悲痛なサタンの言葉はある種のエネルギーを持って輝くものの、この話はキリスト教的「神」というものを受け入れない限り、始めから終わりまで理不尽の連続である。
 自由意志による奉仕こそ神の喜びと言いながら、その引き換えとして幸福と不幸を選ばせるどこか脅迫的な選択肢は、何やら世間を席巻した自己責任論に近いいかがわしさがある。さらに神への服従の証として「決して食べてはならない木の実」をまさに楽園の中心に置くという、ほとんどパラノイアのような試練(しかも別にアダムとイーヴはその試練を与えて己を試してほしいと神に望んだ訳でもないのだ)は一体何なのか。
 全能の神はもちろんサタンの誘惑にアダムとイーヴが屈服することを予見している。全知全能の神による、失敗に終わることが見越されている試練と、その失敗に対する罰、そしてその罰に対して神から恩寵として与えられる救済−−という矛盾だらけの状況を受容するのに、どれほどの説明が必要とされるか。この長大な叙情詩を読むとめまいがしてくる。
 もちろん、キリスト教の神に限らず、神的な存在が与えてくる試練というものは時として意味不明なものではあるし、また救済というものや、善なるものから遠ざかることによって善なるものが自らの苦痛となってしまう苦悩、「自らが悪であると自認する苦痛」といったものは、興味深いテーマではある。しかし、この物語に限って言うと、中心にある「神」というものの本質が、愛や笑いや喜びというよりも、全くもって観念的なものであり、かすかに人が共感できる心らしきものが垣間見えるときには、やたらと自己中心的に見えるので、描き出される楽園は美しく豊であるはずなのに、どうにもこうにも幸せそうに見えないのである。それに楽園が結局、ひどく物質主義的(美味なる食べ物、働かなくていい生活、罪のない性の三点セット)なのも、本質的ではあるのだろうけど、何やらむなしさを感じてしまうのは何故なのだろう。
 神、というものを、己の本質として捉えるのなら、なるほどそれに背くことは限りない苦痛となる。だがこの物語においては、結局神は人ではない。人の本質は神ではなく、人の本質に従うことというのはサタンが罵られたように「己自身の奴隷となる」こと、そしてそれが悪である−−というのなら、そこにはやはり広大なパラノイアが広がるようにも思えてしまう。
 結局、神への服従というテーマについては、私の心には全く響かなかった。けれど、罪からの救済ということに関しては、感じるものがある。
 最後のアダムが決意する、生を呪いとして受け入れるのではなく、しかし同時に罪を忘れることもなく生き続けていくという姿勢。それは、人生の中で「とりかえしがつかないことをしてしまった」という気持ちを抱えて生きる人ーーそれは決して多数ではないだろうが、しかしそれほど少数ではないーーにとっては、ひとつの指針となるものかも知れない。

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