欲望に憑依する ― 2013年07月25日
私は、恐ろしいのだと思う。
「私は欲望をコントロールできています」と断言する、という光景が。
交流関係の都合上、メディア規制や青少年健全育成条例に関連する話は、自分で求めなくても何かと耳に入ってくる。ネットで触れるのは、これも当然といえば当然なのだけれど、規制や条例に反対する立場の発言が多い。
賛成か反対なのか!?と詰め寄られたとしたら(詰め寄られるなどというのは相当に病的な事態だと思うけど)反対と答えるだろうけれど、ネットにあふれる反対の言説には、私は距離を置いている。あれらと一緒に見られるのはキツい、というのが本音だ。
そこにある、「自分の欲望の対象がなくなるのは嫌なので、表現の自由という都合のいい錦の御旗で立ち向かう」というエゴについては、もう色々な人が述べていることだから繰り返さない。そもそも、エゴをもとに主張するのもひとつの立場なのだろうから。
万一、訴えている側が己のエゴが見透かされてないと思っているとしたら、よほどのお気楽さだとは思うけれど、それは私が心配する筋合いのものではない。
むしろ、私が薄気味悪くなるのは、
「オタクは空想と現実をちゃんと区別して、空想の世界で欲望を満たしてコントロールしているのだ」
といった言説の方である。
欲望をコントロールしている。なぜ、そう断言できるのだろう。
私は、あなたは、本当に自分の欲望を把握しているのか。それをコントロールしているというのは本当なのか。
理性や知性は、大いなる情動と無意識の海に浮かぶ小舟に過ぎないのに?
欲望とはそんな、なまやさしくて人間に都合のいい代物ではない。欲望をコントロールしている、などという言説は、「私は自分の欲望を本当には把握していません」という宣言に過ぎないと思う。子どもと交流できていない親の「うちの子はいい子で手がかかりません」と、何が違うというのか。
もし本当に、自分の欲望と正面から向き合い、それを少しでもコントロールしようとしたのなら、そんな思い上がった発言は出ないだろう。欲望は深淵だ。飼いならすことは不可能で、にもかかわらず、放任してはならないものだ。
オタクは空想と現実を区別して、欲望をコントロールしています。と澄まし顔で言うその行為自体が、何も区別できていないし、コントロールできてもいない、というよりそもそもそんなことを試しすらしなかったという証明のように、私には見える。
その発言には、欲望という恐ろしくも偉大な存在に対する、敬意も理解も感じられない。
私は以前、オタクというのは、ある対象に注ぐ欲望の質と量だけが突出しているのであって、それ以外は「普通の人」でしかないのだ、と書いた。
けれど最近は、もう少し違った風に考えることがある。
オタクというのは、自分の叶えられない欲望を、「オタクっぽい欲望」でマスキングし昇華し、その欲望に憑依している存在なのではないか。
本当は、彼らの底に深く沈みこむ欲望とは、美少女や美青年をどうこうしたり、軍事や鉄道をあれこれ研究したりすることでは、全然ないのではないか。それらは実は、「表向きのラベル」に過ぎないのではないか。
他人から見ても微笑ましい「愛好家」と、距離を取られる「オタク」を分けるのは、その違いなのでは?
そして昇華というのは、心理的な安全感はあるけれど、本当の満足を与えない。おなかが減っている時に本を読んでその空腹感を忘れようとするようなもので、実際にはおなかは満たされないし、欲望は消えない。しかも、本人はこのすりかえを意識できない(意識すると昇華が成立しない)。
なので無限の欲望の追求になり、しかもそれを自覚できないという状況が起こる。
オタクの人々が、自分の欲望を常に全肯定し、「妄想の中だから」というエクスキューズであらゆるものを欲望の道具とし、しかもそれが終わることがなく徐々にエスカレーションしていく(満足に達すれば本来欲望の追求は終わるはずである)のは、結局のところそれが、本当の目的ではないからなのだろう。
欲望は、私たちオタクの最後の鎧であり盾なのだ。そして私たちは、その鎧を脱ぐことが、もはやできない。にもかかわらず、その鎧は結局のところ自分の本質ではない。幽霊が憑依する相手のようなもの、本当に危なくなればいつでもひょいひょいと取り換えられるものなのだ。それを認めない人は多いだろうけれど(認めれば昇華を自覚することになる=昇華が不成立になるので仕方ないのだが)。
もしこの考えにひとかけらでも的を得たものがあるとして、しかし昇華を自覚することはできないのだから、何の意味があるのだろうと思う。
結局のところ、われわれは、奢りをつつしむという、使い古された心の在り方に立ち戻るしかないのだろう。
自らの欲望を、道具のように扱わないこと。自分自身を、自分の所有物のように扱わないこと。自分の中に、意識が把握もコントロールもできない荒れた海があるということに対して、謙虚に頭を垂れること。
その先に、自らがあらゆるものを――他人の尊厳・肉体・精神、そして自分自身さえも――「利用」しているのだという恐ろしい事実にどう対峙していくのかという、もっと大きな問いに突き当たるのだろう。
「私は欲望をコントロールできています」と断言する、という光景が。
交流関係の都合上、メディア規制や青少年健全育成条例に関連する話は、自分で求めなくても何かと耳に入ってくる。ネットで触れるのは、これも当然といえば当然なのだけれど、規制や条例に反対する立場の発言が多い。
賛成か反対なのか!?と詰め寄られたとしたら(詰め寄られるなどというのは相当に病的な事態だと思うけど)反対と答えるだろうけれど、ネットにあふれる反対の言説には、私は距離を置いている。あれらと一緒に見られるのはキツい、というのが本音だ。
そこにある、「自分の欲望の対象がなくなるのは嫌なので、表現の自由という都合のいい錦の御旗で立ち向かう」というエゴについては、もう色々な人が述べていることだから繰り返さない。そもそも、エゴをもとに主張するのもひとつの立場なのだろうから。
万一、訴えている側が己のエゴが見透かされてないと思っているとしたら、よほどのお気楽さだとは思うけれど、それは私が心配する筋合いのものではない。
むしろ、私が薄気味悪くなるのは、
「オタクは空想と現実をちゃんと区別して、空想の世界で欲望を満たしてコントロールしているのだ」
といった言説の方である。
欲望をコントロールしている。なぜ、そう断言できるのだろう。
私は、あなたは、本当に自分の欲望を把握しているのか。それをコントロールしているというのは本当なのか。
理性や知性は、大いなる情動と無意識の海に浮かぶ小舟に過ぎないのに?
欲望とはそんな、なまやさしくて人間に都合のいい代物ではない。欲望をコントロールしている、などという言説は、「私は自分の欲望を本当には把握していません」という宣言に過ぎないと思う。子どもと交流できていない親の「うちの子はいい子で手がかかりません」と、何が違うというのか。
もし本当に、自分の欲望と正面から向き合い、それを少しでもコントロールしようとしたのなら、そんな思い上がった発言は出ないだろう。欲望は深淵だ。飼いならすことは不可能で、にもかかわらず、放任してはならないものだ。
オタクは空想と現実を区別して、欲望をコントロールしています。と澄まし顔で言うその行為自体が、何も区別できていないし、コントロールできてもいない、というよりそもそもそんなことを試しすらしなかったという証明のように、私には見える。
その発言には、欲望という恐ろしくも偉大な存在に対する、敬意も理解も感じられない。
私は以前、オタクというのは、ある対象に注ぐ欲望の質と量だけが突出しているのであって、それ以外は「普通の人」でしかないのだ、と書いた。
けれど最近は、もう少し違った風に考えることがある。
オタクというのは、自分の叶えられない欲望を、「オタクっぽい欲望」でマスキングし昇華し、その欲望に憑依している存在なのではないか。
本当は、彼らの底に深く沈みこむ欲望とは、美少女や美青年をどうこうしたり、軍事や鉄道をあれこれ研究したりすることでは、全然ないのではないか。それらは実は、「表向きのラベル」に過ぎないのではないか。
他人から見ても微笑ましい「愛好家」と、距離を取られる「オタク」を分けるのは、その違いなのでは?
そして昇華というのは、心理的な安全感はあるけれど、本当の満足を与えない。おなかが減っている時に本を読んでその空腹感を忘れようとするようなもので、実際にはおなかは満たされないし、欲望は消えない。しかも、本人はこのすりかえを意識できない(意識すると昇華が成立しない)。
なので無限の欲望の追求になり、しかもそれを自覚できないという状況が起こる。
オタクの人々が、自分の欲望を常に全肯定し、「妄想の中だから」というエクスキューズであらゆるものを欲望の道具とし、しかもそれが終わることがなく徐々にエスカレーションしていく(満足に達すれば本来欲望の追求は終わるはずである)のは、結局のところそれが、本当の目的ではないからなのだろう。
欲望は、私たちオタクの最後の鎧であり盾なのだ。そして私たちは、その鎧を脱ぐことが、もはやできない。にもかかわらず、その鎧は結局のところ自分の本質ではない。幽霊が憑依する相手のようなもの、本当に危なくなればいつでもひょいひょいと取り換えられるものなのだ。それを認めない人は多いだろうけれど(認めれば昇華を自覚することになる=昇華が不成立になるので仕方ないのだが)。
もしこの考えにひとかけらでも的を得たものがあるとして、しかし昇華を自覚することはできないのだから、何の意味があるのだろうと思う。
結局のところ、われわれは、奢りをつつしむという、使い古された心の在り方に立ち戻るしかないのだろう。
自らの欲望を、道具のように扱わないこと。自分自身を、自分の所有物のように扱わないこと。自分の中に、意識が把握もコントロールもできない荒れた海があるということに対して、謙虚に頭を垂れること。
その先に、自らがあらゆるものを――他人の尊厳・肉体・精神、そして自分自身さえも――「利用」しているのだという恐ろしい事実にどう対峙していくのかという、もっと大きな問いに突き当たるのだろう。
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