僕は音楽家 電卓と3D両手に2013年05月11日

 赤坂BLITZで開催されている、クラフトワークのコンサートに行ってきました。軽鴨の君がひっそりとクラフトワークリスナーなものでチケットを取ってくれておりまして、まあそんな事情で、クラフトワークのファンでもなくテクノポップに興味がある訳でもないくせにのこのこと出かけてきた次第であります。
http://www.udo.jp/Artists/Kraftwerk/index.html

 スタンディングなので体力が保つか、3D映像付きなので目が保つか、特段ファンでもないので精神的に保つか、という感じの不安三重奏で、こんな有り難みを感じずにこの場に立ってるのは私くらいだろうという申し訳ない気分で入場したのですが、始まってみれば退屈など無縁、2時間強の間、幸せに過ごすことができました。楽しかったわーいわーい。
 歌詞は英語かドイツ語(たまに日本語)、MCなんてある訳がなく、そこに立っている4人のドイツおっさんはステップ踏むどころか表情ひとつ動かすでなく。投射される3D映像には物語も象徴も意味もなく。そこにはただただ、音と映像だけがある。と書くと、何が楽しいんだそれはと言われそうですが、楽しかったのです。公園のベンチで、飛んでくるスズメやハトがちょこまかしてたり、空の雲が流れていったり、樹が風にざわめいたりしてるのを、ただぼーっと見て幸せな気分になる、あの感じに近いでしょうか。

 私はあまり3D映像を上手に観られないタイプでして、いい悪い以前に数分で疲労困憊してギブアップしてしまう(3DSをプレイする時も3D機能は完全オフ)のですが、今回は全然大丈夫でした。映像の内容が単純で、起こし絵や立版古みたいな雰囲気なので、「現実の立体ではない、違うもの」として認識処理がしやすかったみたいです。
 しかし、クラフトワークのレトロフューチャーと、3D技術というのは、相性がいいですね。3D映像を観て「おおっ」と思ったのは初めてです。レトロフューチャーな人工衛星やアウトバーンアニメ映像が、3Dで出てくると、感じたことのない趣と言いますか、面白さがありました。
 考えてみれば、「モノが立体的に見える」って、技術的にはすごいんでしょうけどある意味どうでもいいことな訳で。だって本当に立体的なモノが見たければ、現実のモノを見ればいいんだし。特に今の日本みたいな、行こうという本気の気持ちさえあれば地球のどこにだって行けてしまう贅沢な時代に生きている者としては。「本物は観られなくて、2D映像で観ても満足できなくて3D映像でなら満足できるもの」って、全然思いつかない。テレビの画像がハイビジョンになってもう昔のガビガビの粗い映像に戻れないわー、みたいな欲望と、似ているようでいて実は全然違うものなんじゃないかな。3D映像って、リアル性を追求したために逆にコケたんでは、とか思ってしまう。
 3D技術って、実は「生まれた時からすでに郷愁の対象」、レトロフューチャーになることが運命づけられた技術なのかも。「21世紀の技術を結集して作る蒸気機関車」みたいなものと言うか。そんなことをね、考えてしまいましたよ。

 あと、「放射能」(曲の名前なのよ、内容とか背景についてはGoogle神辺りに訊くと教えてもらえるはず)は日本語歌詞つきバージョンでして、私はこのバージョンの存在自体知らなかったので、背景は全然わからないで視聴したのですが、単語ぶつ切りで投げ掛けられる言葉達は、メッセージや原子力批判云々とは異なる次元の、全然違うレイヤーのなにか、まあ俗っぽい表現をするなら「芸術」に感じられて、興味深かったです。何かを伝えようとしているプレゼンテーションというよりも、あのパフォーマンスから、何を思い何を感じ、何を持ち帰るかは、その人の器にかかっている、そういう種類のものではないかと。
 昔、斉藤和義の「ずっとウソだった」の歌詞を見た時もそうでしたが、クラフトワークもまた社会運動家ではなく芸術家なのであって、あの音楽を単純に何かのメッセージやテーマとして捉えたり、またそのメッセージについて賛同したり反論したりするのは、つまんないし的外れじゃないかなと思います。


 そんな感じで、久方ぶりに素直に、「ああいいものを味わえたなぁ」と思った数時間でした。しかし、40年間活動し続けるというのはすごいね。アルバムは8枚しかないというのに。ビートルズだってムーンライダーズだってもうちょっと勤勉だったぞ。そういえば2日目の公演には鈴木慶一氏もスタンディング席に来てたとか。噂では隣は坂本美雨だったとか。もうその場面自体に、味わい深い笑いがあります。

 あ、私が一番好きだった映像は、FRANZ SCHUBERTでした。もう純粋にきれいだった。私の、夜寝る前や目をつぶってぼーっとしてる時に見える夢っぽい映像の質感にすごく似ていて、あーこういうの見る人私だけじゃなかったんだーという妙な嬉しさがありました。

土壌と農夫2013年05月14日

 昔から、書物とか音楽とか絵画とか映画とか、ええいもう面倒なんで大きく「芸術」とくくってしまうが、それと受け手との関係って何だろうな、と思うことは多々あるのだが。
 で、最近一番自分の中で腑に落ちる関係性の比喩は、「土と農夫」である。

 楽園の時代には、汗して耕さずとも口を開けて待っていれば熟れたバナナやマンゴーやイチジクが自分から落ちてきてくれたのだが、農夫は自らの手足を動かし、耕し、蒔いた種を世話し、あれやこれやと労力を注がねば実りを得ることができない。
 大きな実りをもたらす肥えた土壌、大した努力もなく半端な技術でもそこそこのものが収穫できる土地は確かにある。けれど、「痩せた」土地からも大きな実りを引き出す技術と熱意を持つ農夫もまた、確かに存在する。同じ土地でも、収穫は同じではない。
 また、すぐれた農夫は、どの土にどんな種を植えれば大きな実りがあるのかを判断することができる。水はけの悪い土地にブドウを植えるような、栄養分の多い土地に大豆を植えるような愚かな真似はしない。
 そもそも農夫は、「土を”作る”」と言う。だが彼らは本当の意味で土を「創造する」のではない。土はすでにそこにある、与えられるものだ。彼らは努力によってそれを実りあるものに育てていくことしかできない。だがそれこそが、意義ある営みなのだ。

 芸術は、何もしなくても口に入れれば美味しい砂糖菓子ではない。芸術から何を得て、何を持ち帰ることができるかどうかは、その人の力量と意志にかかっている。
 輪作の工夫によって同じ土地から何年も豊かな実りを享受する農夫もいるし、コントロールされていない焼き畑のように次々土地を渡り歩く人もいる。自分が育てたいものが先にあって、それに合わせて土壌を「改良」する者もいる。土地の方に合わせて、作物を選んでいく者もいる。そしてそれだけ努力をしても、本当に実りが得られるかは、最後まで誰にもわからない。

 という、私の考えは、たぶん鑑賞者にかなり大きな責任を負わせるものなのだと思う。
 ただ、芸術から何かを得る、何かを持ち帰るということは、結局のところ鑑賞者たる自分の力量次第なのだという思考は、常に持っておいた方がいいのだろう。口を開けたらマンゴーが自分から落ちてくるようなことを求めるのであれば、あるいは実りがなかったことを土のせいにして終わりにしたいなら、芸術などという曖昧なものにお金を投じない方がいい。すぐれた農夫でないからと言って、人間として無価値であるという訳ではないのだから。そういう人は、すぐれた商人なりすぐれた役人なり、あるいは他のすぐれた何かを目指せばいいだけのことだ。

 芸術は土壌のようなものだ。何を持って帰ってもらえるかは、基本的に土壌自身の力の及ぶところではない。痩せた土地にもそれを選んで大きく実る植物がある。セイタカアワダチソウが、他の植物を一掃してひたすらに黄色い花で占拠することもある。
 自然そのものの目から、あるいは神のレイヤーから見れば、芸術に善し悪しなどないのだろう。本当は誰だって芸術を作ることができる。難しいのは、特定の作物、特定の農作業にマッチした土壌で在ること、在り続けることの方だ。そしてそれは、たぶん本来は、芸術の存在意義とはあまり関係がない。ただ、人間の手によって開墾不可能な土地が、事実上「役に立たない」ものであるというだけのことで。

 たとえば何かのプロパガンダ用の映画みたいなわかりやすい「芸術」だって、本当に土壌として豊かなものであれば、そこにはプロパガンダ以外の、あるいは以上のものが実るし、すぐれた鑑賞者はまた実際そうするものだろう。芸術作品を、そのメッセージや意図によってのみ判断するのは、あまり意味がない。ヘンデルの「メサイア」を、興福寺の阿修羅像を、「特定の宗教を讃える表現だから駄目」と言う人は愚かである。そう言えば誰もがうなずくだろうが、ではこれが「反原発」だったり「ヒトラー賛美」だったりしたら、どうだろうか。鑑賞者とは、そういうことが試される存在だ。特定の土壌でしか農業ができない農夫でも、別に人間として価値が劣る訳ではないけれど。
 逆に、ある特定の「実り」しかもたらさないのであれば、その実りが甘い葡萄であっても、「痩せた土地」ということなのだろう。くどいが、これもまた、別に痩せた土地が価値がない訳ではないのだが。


 実り豊かな芸術を作ることと、実り豊かな観賞経験を作ることは、接近しているようでいて全く違う活動だ。「芸術を作るのは難しいが、観賞や批評は容易にできる」という誤解は広くはびこっているけれど、実際にはそれらは比較するものではないのだろう。
 結局のところ、「自分の実りに自分で責任を取る」という一文で説明できるような気もするのだが。

どちらにしてもそれは自分の責任2013年05月15日

 昨日の記事では、芸術と鑑賞者の関係を土と農夫に例えて、だいぶ鑑賞者側の責任を重くした話を書いたのだけれど、実のところあの比喩は、逆転させても成り立つものだったりする。
 要するに、芸術の方が農夫で鑑賞者が土壌であり、芸術やそれを作る側の方に大きな責任があるという考えも、十分成立するのだ。
 プロパガンダ芸術を例に出したので、「兵士を鼓舞するラッパを吹いていた者には戦争責任はない」みたいな話に転化できなくもないだろうけれど、そう単純なものではもちろんない。あえてその例えを継続して説明するならば、兵士を鼓舞するラッパが芸術的価値を持ち得る可能性はあり、それはそのラッパが負う戦争責任と併存しうる、という話だ。

 私が一連の思考で結局何にたどりついたのか。それは突き詰めると、「どんな立場であれ責任を引き受ける」ということなのだと思う。それが観賞する側であれ、あるいは作る側であれ。そして同時にまた、「責任とは他人が負わせるものではない」ということでもあるのだが。

 芸術を作る側は、作った(あるいは生まれた)そのものによって、そのものが引き起こしたものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
 そして観賞する側は、観賞から得られた(あるいは影響された)ものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
 多くの場合、観賞する側は、自分は安全圏にいると思っている。つまらないものをつまらない、わからないものをわからないと言う時、つまらないのは芸術の方であって自分ではないと思う。それは根本から間違っている。
 そして多くはないが結構な数の芸術家もまた、理解されないのは鑑賞者の責任であって自分の芸術の責任ではないと思う。暴力的な芸術に影響されて人殺しをするのは、そいつの責任であって芸術は無垢だ、という理屈だ。まあそうなのだろう。法的にも、また現実的にも、そんなことに物理的責任を負わせることはできない。

 けれど私にとっては、法律的な責任は、「責任」という言葉の本来的に示すものの、ほんの一部のことでしかない。私の「責任」というものの解釈は、英語のresponsibilityに恐らく近い。それは自分以外の、自分の甘えが通じない、あるいは自分を越えた何かからの問いかけに、応じる勇気と能力だ。
 そしてそれは、他人から命令されて強制されるものではない。たぶん、他者から「責任を負え」と言われなければ責任がない、というのなら、すでにその時責任は放棄されているのだ。ないのではなく。

 私の発した言葉は、私の意識しないところで、意図しないところで、世界を変える。それは誇大妄想的な思考だけれど、自分の外に言葉を発するとは、そういう行為だろうと思う。本当に何にも影響を及ぼさずに消える言葉などあるだろうか。私の気分が変わる、というだけでも変化だ。私は世界の一部なのだから。(世界が私の一部である、という発想もあるがここでは深入りしない)
 私はその結果を、好むと好まざるとに関わらず引き受けなければならない。

 こう書くと、なんだ全部自己責任か、と言われそうな気もする。でも私が一番嫌いな言葉のひとつが「自己責任」というやつだったりするのだ。この言葉が、それこそ安全圏から自分の責任を逃れるために他人に投げられる言葉だからだろう。

甘いトースト2013年05月16日

 トーストに、バターをたっぷり塗って、蜂蜜か、練乳か、マスカルポーネチーズか、チョコレートスプレッドを載せる。
 というのが最近のお気に入りのおやつです。ザ・炭水化物と糖質。こういうものが食べたくなるのはちょっと珍しい時期ですが。太り過ぎないようにほどほどにしないといけないと、と思いつつバターの香りに負けてしまうのです。
 凝ったところの全くない、素材オンリーのおやつなので、素材を奮発します。バターは発酵バター。香りが素晴らしいのでお気に入り。蜂蜜は、今はラベイユで買ったレザーウッド。もったりしたかなり癖の強い香りがバターに合います。チーズは今のところマスカルポーネが一番合うと思いますが、他には何があるかなぁ。チョコレートスプレッドは放浪中、今はイタリアのものを取りあえずチョイス。練乳は余計な混ぜ物がないものを。パンは柔らかすぎずさっくり焼き上がるものを選びます。
 暦の上ではもう夏に入って、これからどんどん気温も湿度も上がっていくので、こういうものが食べたくなることも減っていくと思います。何で、こんな秋とか冬に食べたくなるこっくりした感じの食べ物を、今食べたくなってるんでしょうね、私は。何か内部で狂いが生じている気もしないでもないですが、まあ気長に調整しようと言い聞かせて、トーストに今日もバターを塗るのです。

刺し身好き2013年05月20日

 半年ほど前に、歩いてすぐの近所に魚屋さんがオープンしまして、わが家の魚ライフが大変充実するようになったのであります。
 このご時世に、鮮魚店を新しく始めるというのもなかなか大変な話なのですが、実はここは数年前まで駅前で長らく営業していた鮮魚店がリニューアルしたものでして。私が住んでいるところは、昔からの地主さんが不動産市場に強い影響を持っているらしく、テナント家賃がかなり高額のようで、個人商店がそれに耐え切れずに撤退する事例を結構見るのです。で、この魚屋さんも恐らくその流れでいったんは閉店したのでしょうが、何とこのたび自宅のガレージを改装して、息子さんが後を継いでリニューアルオープンしたという、捲土重来物語なのでした。
 私にとっては、駅前よりはるかに近くなってむしろラッキーなくらいのお話です。自宅では肉を滅多に食べないわが家では、豆や豆腐やお魚が主流ということで、今では週に一度は通っておいしいお魚を堪能しております。
 私の魚の買い物は、大変な人任せでありまして、魚屋さんに行って「今日のおすすめは何ですか」と尋ねて、あとは言われるがままに買うという主体性の存在しないメソッドです。私は専門家がいるところでは基本的に専門家に丸投げするという悪癖があるもので、ついこういうことになります。まあ魚はその日の仕入れやら何やらで、おいしいものが変わるものですし、私の魚知識など大きさにしたらプランクトン程度のものなので、この方が毎回おいしいものを食べられてありがたいのですが。
 しかし、ある時期刺し身ばっかり買っていたせいか、私はお店の方に「刺し身好き」と完全に思われているらしく、おすすめを訊くと切り身でも一尾でもなく刺し身ばかりを勧められるので、己の調理技術のなさをも見透かされているのではないかと勝手な不安が湧き上がったりもします。
 でもまぁ、おかげでおいしい夕飯をいただけるので何も困ってないのですけどね。今日は釜揚げしらすと、トビウオの刺し身です。トビウオのお刺し身などお店でしか食べたことがないので、ちょっと楽しみ。白身の魚を食べる機会も増えたので、煎り酒作りを再開しようかとか考えております。

絹綿麻絹綿麻2013年05月23日

 フェリシモで買った、「重ねばき靴下」というのを試してみました。
 足の冷えが女性の万病のもとなので、足を温かくすることで体調をよくしましょうというアレです。まあ健康法としてそれほど追いかけている訳ではないのですが、単純にあったかそうなので(笑)冷房に追われることになるであろう夏に備えて、やってみようかと。
 重ね履き靴下は、絹素材と綿麻ウール素材の靴下を交互に重ねて履くものだそうで、4枚がスタンダードみたいです。ということで、このフェリシモのものも4枚セット。普通の靴下ではそんなに重ねられないので、専用のものが必要な訳です。
 体内から毒素が出るとか、色々効能はうたわれているみたいですが、まあその辺はよくわからないのでとりあえずスルーです。

 とりあえず履いてみた感想は、確かに温かいです。それも、厚着しているという感じではなくて、真綿にくるまれている感じと言いますか。快適なぬくぬくさなので、これに慣れると普通の靴下の方が寒く感じられるかもなぁ。
 夜に靴下を脱いでも、あったかい感じは続くので、冷房の中などでは重宝しそうです。
 でも1セットで4足の靴下……洗うのはともかく、干すのが大変そうだな。手間というより、干す場所の確保という点で。あと、靴のサイズに影響しそうなので、当分は家で履くのに使うことにいたします。