どちらにしてもそれは自分の責任 ― 2013年05月15日
昨日の記事では、芸術と鑑賞者の関係を土と農夫に例えて、だいぶ鑑賞者側の責任を重くした話を書いたのだけれど、実のところあの比喩は、逆転させても成り立つものだったりする。
要するに、芸術の方が農夫で鑑賞者が土壌であり、芸術やそれを作る側の方に大きな責任があるという考えも、十分成立するのだ。
プロパガンダ芸術を例に出したので、「兵士を鼓舞するラッパを吹いていた者には戦争責任はない」みたいな話に転化できなくもないだろうけれど、そう単純なものではもちろんない。あえてその例えを継続して説明するならば、兵士を鼓舞するラッパが芸術的価値を持ち得る可能性はあり、それはそのラッパが負う戦争責任と併存しうる、という話だ。
私が一連の思考で結局何にたどりついたのか。それは突き詰めると、「どんな立場であれ責任を引き受ける」ということなのだと思う。それが観賞する側であれ、あるいは作る側であれ。そして同時にまた、「責任とは他人が負わせるものではない」ということでもあるのだが。
芸術を作る側は、作った(あるいは生まれた)そのものによって、そのものが引き起こしたものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
そして観賞する側は、観賞から得られた(あるいは影響された)ものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
多くの場合、観賞する側は、自分は安全圏にいると思っている。つまらないものをつまらない、わからないものをわからないと言う時、つまらないのは芸術の方であって自分ではないと思う。それは根本から間違っている。
そして多くはないが結構な数の芸術家もまた、理解されないのは鑑賞者の責任であって自分の芸術の責任ではないと思う。暴力的な芸術に影響されて人殺しをするのは、そいつの責任であって芸術は無垢だ、という理屈だ。まあそうなのだろう。法的にも、また現実的にも、そんなことに物理的責任を負わせることはできない。
けれど私にとっては、法律的な責任は、「責任」という言葉の本来的に示すものの、ほんの一部のことでしかない。私の「責任」というものの解釈は、英語のresponsibilityに恐らく近い。それは自分以外の、自分の甘えが通じない、あるいは自分を越えた何かからの問いかけに、応じる勇気と能力だ。
そしてそれは、他人から命令されて強制されるものではない。たぶん、他者から「責任を負え」と言われなければ責任がない、というのなら、すでにその時責任は放棄されているのだ。ないのではなく。
私の発した言葉は、私の意識しないところで、意図しないところで、世界を変える。それは誇大妄想的な思考だけれど、自分の外に言葉を発するとは、そういう行為だろうと思う。本当に何にも影響を及ぼさずに消える言葉などあるだろうか。私の気分が変わる、というだけでも変化だ。私は世界の一部なのだから。(世界が私の一部である、という発想もあるがここでは深入りしない)
私はその結果を、好むと好まざるとに関わらず引き受けなければならない。
こう書くと、なんだ全部自己責任か、と言われそうな気もする。でも私が一番嫌いな言葉のひとつが「自己責任」というやつだったりするのだ。この言葉が、それこそ安全圏から自分の責任を逃れるために他人に投げられる言葉だからだろう。
要するに、芸術の方が農夫で鑑賞者が土壌であり、芸術やそれを作る側の方に大きな責任があるという考えも、十分成立するのだ。
プロパガンダ芸術を例に出したので、「兵士を鼓舞するラッパを吹いていた者には戦争責任はない」みたいな話に転化できなくもないだろうけれど、そう単純なものではもちろんない。あえてその例えを継続して説明するならば、兵士を鼓舞するラッパが芸術的価値を持ち得る可能性はあり、それはそのラッパが負う戦争責任と併存しうる、という話だ。
私が一連の思考で結局何にたどりついたのか。それは突き詰めると、「どんな立場であれ責任を引き受ける」ということなのだと思う。それが観賞する側であれ、あるいは作る側であれ。そして同時にまた、「責任とは他人が負わせるものではない」ということでもあるのだが。
芸術を作る側は、作った(あるいは生まれた)そのものによって、そのものが引き起こしたものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
そして観賞する側は、観賞から得られた(あるいは影響された)ものによって測られ、称賛され、あるいは否定される。
多くの場合、観賞する側は、自分は安全圏にいると思っている。つまらないものをつまらない、わからないものをわからないと言う時、つまらないのは芸術の方であって自分ではないと思う。それは根本から間違っている。
そして多くはないが結構な数の芸術家もまた、理解されないのは鑑賞者の責任であって自分の芸術の責任ではないと思う。暴力的な芸術に影響されて人殺しをするのは、そいつの責任であって芸術は無垢だ、という理屈だ。まあそうなのだろう。法的にも、また現実的にも、そんなことに物理的責任を負わせることはできない。
けれど私にとっては、法律的な責任は、「責任」という言葉の本来的に示すものの、ほんの一部のことでしかない。私の「責任」というものの解釈は、英語のresponsibilityに恐らく近い。それは自分以外の、自分の甘えが通じない、あるいは自分を越えた何かからの問いかけに、応じる勇気と能力だ。
そしてそれは、他人から命令されて強制されるものではない。たぶん、他者から「責任を負え」と言われなければ責任がない、というのなら、すでにその時責任は放棄されているのだ。ないのではなく。
私の発した言葉は、私の意識しないところで、意図しないところで、世界を変える。それは誇大妄想的な思考だけれど、自分の外に言葉を発するとは、そういう行為だろうと思う。本当に何にも影響を及ぼさずに消える言葉などあるだろうか。私の気分が変わる、というだけでも変化だ。私は世界の一部なのだから。(世界が私の一部である、という発想もあるがここでは深入りしない)
私はその結果を、好むと好まざるとに関わらず引き受けなければならない。
こう書くと、なんだ全部自己責任か、と言われそうな気もする。でも私が一番嫌いな言葉のひとつが「自己責任」というやつだったりするのだ。この言葉が、それこそ安全圏から自分の責任を逃れるために他人に投げられる言葉だからだろう。
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