臭気2013年07月01日

 日曜日の日経新聞朝刊に、哲学者のコラムがあった。
 それは、哲学者と学者の問答形式をとったシリーズらしく、シリーズなので全体はわからないのだけれど、たまたま私が読んだこの回は、「なぜ宗教ではなく哲学でなければならないのか」という話題についてだった。
 この問答が、傍目にも解る出来レースというか、一応「哲学者に対して学者が鋭く質問する」体をよそおっているのだけれど、学者が明らかに「説得されるためにいます」という感じなのが笑いどころである。いや、書いている人にとっては笑いどころじゃないんだろうけれど。

 一番の突っ込みどころは、「人間がどのように生きるべきかという重要な問いに、宗教は残念ながら嘘(根拠なき独断)で答えるけど、哲学は論理で答える」という話で、はっきりとは書いてないけれど、文章の裏からは「だから哲学って宗教よりスバラシイデスネー」という臭いがぷんぷんとただよってくる。
(申し訳程度に最後に、「いや宗教を否定しているわけでなくて、哲学は祈りを拒否する祈りなのだ」と書いているけれど、この一文で「この人は宗教も尊重してるんですね」と思うのはよっぽどのお人よしだと思う)

 いや、嘘って(笑)。

 宗教の出す答えを、「嘘」という表現ではなく、「虚構」や「創作」と言い換えてみたらどうなるだろうか。なんか話が急に、「ボクは小説は作り物だから感動しませんがね、ドキュメンタリーは真実ですから認めますよ」みたいなノリになってくるような気がしないか。
 そもそも、嘘=not真 というのが成立するのは、論理学の世界だけで、現実も人間の心も、嘘=真だったり、嘘にして真だったり、根拠なき独断だけど真だったりすることはよくある。ついでに言えば、根拠ある共通善が嘘だったり、無意味だったりすることもたまにある。

 宗教では救われない人はたくさんいると思う。「宗教が言っていることを私は真実とは感じられないので救われない」という人だ。それはそれで、何も人間として問題ではない。
 そういう人が、哲学や論理学によって救われることもあるだろうし、そしてそのこと自体もまことに結構なことだ。
 だが別に、その間に優劣はない。
 私は宗教で救われませんでしたけど哲学で救われました、なので哲学は素晴らしいです。という話なら、私は哲学で救われませんでしたけど宗教で救われました、という話の対に過ぎない。だったら金子みすずの「みんな違ってみんないい」の詩を読めよ、というオチになってしまう。
 哲学=真、宗教=嘘という理由付けは、単に「我が仏尊し」というやつで、身もふたもない言い方をすれば、宗教を否定する者が最も強固な宗教と化す陥穽ではないかと思う。


 どうも、哲学者にはこの手の「私は宗教とは違います宗教」の臭気をただよわせる人が多い、という偏見が私にはある。
 この臭気は哲学に特有のものではなくて、科学者にもある。
(広い意味で科学は哲学ではないか、あるいは哲学は科学ではないかという議論はいったん置く)
 カール・セーガンやアイザック・アシモフあたりを読むとよくただよってくる臭いである。もっともあれを「臭い」と感じない人も多いと思う。
 科学は素晴らしい、科学は反証可能性に開かれていて根拠があって、人間が持っている最もすぐれた知的道具である、というあの素朴ですらある「信仰」だ。
 言っておくけれど、私はセーガンもアシモフも大好きである。彼らのエッセイを繰り返し読み、そこから色々なものを得た。ただし私にとってそれは、真理というよりも、自分の知らない民族の神話のようなものだった。
 そして神話とは、真理や倫理を固定するためのものではなく、人間の心を自分の限界では思いも寄らないところへ運ぶためにあるものである。


 私がこの臭いを感じなかった哲学者は、今のところヴィトゲンシュタインとマイケル・サンデルだけで、恐らくそれは二人とも、己の哲学を真理とするのではなく、いわば「思考の梯子」として用いる者で、己の限界を知り抜いている(いた)からだと思う。


 そしてまたこの臭気は、もちろん哲学や科学の専売特許ではない。
 マイケル・サンデルを「たとえ話を都合よく引き合いに出して人を言いくるめている」と批判する仏教関係の宗教家(自称?)のブログがあったが、的外れな批判をしつつ「哲学なんかだめだ、宗教でなければ人は救えない」という話を繰り返していた。文字通りの我が仏尊しである。


 何にせよ、己の仏(神)を絶対視すると危ない。

 それでは信仰が成立しないではないかと問われるだろうが、神という絶対者を感じそれと交流する(あるいは跪く)ことと、神を絶対視しないことは、実は言葉の上では矛盾しているだけで、問題なく共存する。
 それは人間が、自分を「かけがえのないひとり」としても「すぐに取り換えの効く大勢のうちのひとり」としても同時に認識できるのと似ている。あるいは、この世で最も愛する人が、世界の中では別にどうということのない普通の人であることを矛盾なく受け入れていることにも似ている。

 現実には、そういうことを受け入れられない人はいて、色々大変な思いをする。なので、己の信仰を高く保ちなおかつ「我が仏尊し」にならない、というのは誰でもできることではない。

 それでも、多くの人がこの臭気を免れ、逆に哲学者や宗教者がこの臭気をまとうようになってしまうのは、やはりひとりの人間を越えた存在を扱おうとする道の、メジャーな落とし穴だからなのだろう。

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