良心2007年07月10日

前に、「厭世感に襲われている私が心の中でどんな冷酷なことを考えているかわかったら、友達がいなくなるだろう」と書いたら、珍しく複数の人から反応があったのでちょっと面白かった。
私の文章は、ピンポイントで人を突くらしく、ある人にとって面白い文章は大抵別の人々からは全くの無反応、なんてことが多いのだけれど、あれは久しぶりに色々な人から反応が返ってくる話題だったみたいだ。

私はmixiで2万人弱のコミュニティの管理人をやっているので、いつ誰がどんな経緯で自分の発言を読んでいるのかわからないと思っている。だから、コミュニティに絡んだことはもちろん、そうでないことでも他人が絡む愚痴はあまり日記に書かなくなった。
もちろん、全く愚痴を言わないで生きていくことは私には不可能なので、うんと親しい友人や、軽鴨の君という最終兵器に、色々と益体もないドーナツトークを放って迷惑をかけている訳である。
しかし、そんな姿を見たことのない、ネット上の礼儀正しい管理人としてだけ私を知っている人にとっては、私は決して怒らず常に穏やかな人のように見えるのだろう。
そう在れたら、どんなにいいだろうなぁとは、自分でも思うのだけど。

私はちっとも清廉潔白な人ではないので、腹立たしい出来事に直面すれば、反射的に、ここでは書けないような罵詈雑言だの個人攻撃だのが浮かんでくる。
だが次の瞬間、「いや待てよ、その感情的な物言いは正しいのか?」と冷めた目で仲裁する意識が現れる。それは本当に、零コンマ数秒という短い間で、ほとんど同時に見えるのだが、決して同時ではない。
たぶん、そのシステムは誰にでもあって、「罵詈雑言」の方を自分の本当の姿だと思い「良心で無理矢理抑えている」と思っている人と、「良心の仲裁」を自分の本当の姿と思い「自分の中の悪魔と戦っている」と思っていると、いるのだろう。
たぶんその両方を含めて自分なのだ、というのが一番つまらなくて一番まっとうな考えなのだと思うのだが。