実感2007年07月07日

中井久夫氏の「こんなとき私はどうしてきたか」で読んだのだけれど、幻聴に苦しむ人たち同士で会話としている時というのは、互いに相手の聞いているものが「幻聴」であることはわかるそうである。他人の妄想の話を聞くと、「あいつはおかしなことを言ってる、そんなことあるはずがない」とちゃんとわかるのだそうだ。
ところが「ではあなたの場合は?」と尋ねられると、「私の場合はほんとうに聞こえてくるんですから仕方ありません」と答えるらしい。
この話を聞いて、「馬鹿じゃないの」と笑う人は愚かなだけで、つまり論理的判断力というのは実感に比べるとかなり無力な存在なのだということなのだろう。

ところで、幻聴の実感から少しこの話の力点をずらして、「私の場合は本当だ、私の場合は違う」というところに意識を向けてみる。
「俺だけは違う」「私だけは違う」という実感を強く抱いていて、しかし客観的に見るとそれがてんで見当違いであるという例は、日常生活ではいくらでもある。それは宇宙の電波が私を罵るというレベルの話だけではない。
「この会社の連中はどうしようもない人間ばかりだが、私だけはきちんとやっている」「世の中は馬鹿ばっかりだが俺だけは少なくとももうすこしましなポジションにいる」といったレベルに落としこめば、それこそ今これを書いている私から、これを読んでいる誰かまで、全ての人が心当たりがあるに違いない。
この実感を論理で折伏することなどは困難であるのみならず、不毛でさえありうる。いやむしろ、論理的判断力というのは、実感を説明するための道具のひとつでしかないのではという極論まで浮かんできてしまう。
実感は実感として浮遊させつつ、外から自分を見るという作業は簡単なことではないし、またそれをするためにエネルギーを失う心の動きというものもあるので客観視すればいいというものでもない。
また他人の実感を自分の論理的判断力で斬りさばくというのは、その場は大層なカタルシスを得られるけれど、実は斬りさばいている本人の気持ちよさ以外にはそれほど益がないことも多い。しかも、それに気付いていないことも多い。
恐らく実感と論理的判断力を二項対立で捉えるのではなく、両輪としてうまく働かせていくのが理想なのだが……。それは言うは易く行うは難し、の類のことのようだ。