加害者でいい、か?2011年04月29日

 ある一定以上の感受性を持つ人間にとって、「偽善」とは、耐え難い苦痛となる要素である。これは、時代の影響も強い、つまり世代の違いも表れるところかも知れないが。
 善であること、あるいは善を目指すことに、躊躇いと胡散臭さと疑念と気恥ずかしさを感じるのは、かなりの人に覚えがあることだ。これが全くない人間というのは、どちらかというと迷惑な存在である。そして善の独善性(何だか言葉遊びのようだが)は、数多の善を善から転落させてきた毒なのであって、真面目に歴史や人間社会を学ぼうとする人間ほど、そこに警戒心を抱き、そして警戒を通り越した嫌悪を抱かざるを得ない。
 なので、「偽善の否定・偽善への怒り」は文学作品・文学的芸術作品のお気に入りのテーマであり、その系譜の後継者たるオタクたちにとってもお気に入りのテーマだ。
 そして、このテーマは、そこから先へ一歩も踏み出せない迷宮の隘路となって、未だ多くの人をからめとっている。

「偽善の否定」というテーマで私が真っ先に思い浮かべるのは三原順だ。彼女の緻密な作品群は、ことごとく、人間の生きる意味を問い続け、「普通の人」に加齢臭のようについてまわる偽善と自己正当化に正面から向き合うことで成立する。
 原発事故によって最近またピックアップされるようになった彼女の作品「Die Energie 5.2☆11.8」などは、その代表であり、主人公ルドルフが最後に放つ「俺は加害者でいい」という言葉は、本質を見失った偽善者たちへの鋭い攻撃として屹立している。

 だが、私が彼女の作品の価値を認めながらも、それ以上読み込もうとは思わなかったのは、まさにその、「俺は加害者でいい」で立ち止まってしまったところに限界を見たからでもある。
 彼女は「被害者であることを理由に自己正当化する弱者」を嫌悪し、「自己の加害性を受容することで弱さを強さに転換する」生き方を作中の人物に選ばせる。その裏にあるのは、深い知識と論理性に裏打ちされた、考え抜かれた強靭な哲学だが、しかし彼女の作中人物たちは、その結果として奇妙な脆さを抱えもつことになる。
 実際には、「俺は加害者でいい」というスタンスは、偽善から逃れると同時に「本当に正当であろうとする努力」からも逃れているのではなかろうか。それはあたかも、「完全なる純粋な恋」を求めるあまりに本当の愛を見失うようなちぐはぐさだ。

 本当に必要なのは、偽善に対する感受性を持ちつつ、さらに「偽善に耐える」強さなのだろう。というよりも、本来善なるものというのは、無数の偽善と矛盾を内包し、それら全てを呑み込んだ末にたどりつく広大深淵な海のようなものなのだ。
 だが偽善の腐臭を嫌う人々は、そこに留まり続けることができないために、そこから先へ進むことができない。善を目指して悪に転落する危険だけは犯さないで済んでいる訳だが……。

 文学(あるいは文学的性質の創造物)の大半は、基本的に偽善の腐臭への嫌悪から成立している。そしてそこから先へ進むことができず、むしろその隘路を最終地点と見なしている部分がある。
 もしかしたらそれが、文学と信仰(宗教ではない)を分けるものかもしれない。

 日本人が、文学を愛好する割に、信仰に対して関心が薄いのは、もしかしたら日本人の潔癖症という国民性が、偽善に対しても働いているからではないかと、私は時々、勝手に考えたりもするのである。