斉藤和義という詩人、いきものがかりという批評家2011年04月14日

 実は私は、先日ネットを風靡した斉藤和義の「ずっとウソだった」の動画を一度も閲覧していない。何しろネット上の動画を閲覧するという習慣が全くなく、どんなリンク先も動画だとわかるや否やすぐにBackボタンを連打する人間なので、閲覧するはずがないのだけど。

 ネットの話題というのは、実に狭い範囲でしか盛り上がらないもので、知らない人もいるはずだから、拙いながらも説明をしておくと。
 斉藤和義という歌を作ったり歌ったりするアーティストがいて、その人が過去に自分が作って人気を博した「ずっと好きだった」という歌の、替え歌である「ずっとウソだった」という歌を自分でギターで弾き語りした動画が、ネット上の動画サイトに流出した。歌詞の内容が、原発の「絶対安全」という言説とそれに騙されていた社会という内容だったので、特に原発問題に敏感になっていたアーティスティックな人々に強く支持された……らしい。
 そして反面、そういう行為や、歌詞の内容が偽善的である、無邪気すぎるという雰囲気の、否定的な意見や反論や批評をする人々も一定数現れている……らしい。

 私が、その代表的な意見として目にしたのが、「いきものがかり」という音楽グループのメンバーの誰か(全く興味がないので名前は覚えてない)のTwitterでのコメント群をまとめたものだったかな。

 そういう、まぁごくごく一部の世界の中で盛り上がったトピックなのだけど、この騒動を経験した後の今の私の感想は、
「斎藤和義のCDは今後買おうと思うかも知れないけど、いきものがかりは買わないだろうなぁ」
というものなのである。


 先に述べた通り、私は実は、当該動画を一度も閲覧していない。元の歌も、替え歌も、聴いたことすらない。ただ、ネットであがっていた歌詞を読んだだけである。
 その時、私は単純に、詩として、面白いなと思った。好きか嫌いかは人によって色々あるだろう。大嫌いという感想も大いにありうるだろうけど、逆に言えば「大嫌い」という感想を生み出すような、「何か」はある詩だな、と。
 つまり、青臭いとか、原発問題の表層しかとりあげてないとか、自分の加害性を棚上げしているように見える無邪気さとか、そういうもろもろを含めて、これは現実のある側面を切り取っている(あるいは抽出している)と思ったのだ。

 もしも斉藤和義という人が、社会運動家である前に(私が想像するように)詩人でありアーティストであるならば、彼はこれを風刺ソングとして書いたのではないような気がする。詩人がうたわずにはいられないように、彼はある瞬間のある現実、ある心情をそのまま「うたった」、うたわずにいられなかった、に過ぎないのだろう。
 そしてそれは"うたったに過ぎない”ことだが、逆に言えば詩とは本質的に、そういうものなのだ。
 私は詩人に、道徳性や人間の在るべき姿を教えてもらおうとは思わない。詩は、現実の(あるいは非現実の)一部を、思いもかけぬ(あるいは非常に納得できる)形で、心に訴えるように、表現するものであって、それ以外のものではない。
 もしあの詩を陳腐、表層的、偽善的と感じるならば、それは切り取られている真実がそういう性質のものだからであって、しかもそれはあの時社会にあったまぎれもない真実のひとつだった。
 いやもしかしたら、あの詩にただよう偽善性、陳腐さは、詩の中というよりも、読み手に存在するものなのかも知れない。私があれに陳腐さや偽善を感じるのは、私が陳腐で偽善者だからなのだ。
(もちろん、だからといって陳腐な偽善者があってはならない存在という訳ではないが)

 斉藤和義が、そこまで意識してあの詩を書いたのか、という疑問を呈する人がいるかも知れない。ありていにいえば「そんな立派なことまで考えた歌詞かよ、あれが」ということだ。
 だが、実は「そんなことはどうでもいい」。できあがった詩が全てであり、その動機も、いや作者本人の願いや意図さえ、「できあがった詩」の前には何の意味も持たない。それが芸術というもののすごさであり、残酷さだ。
 だから、もしも斉藤和義が、私の予想と反して、あれを「痛切な社会風刺、反原発運動ソング」として作ったのだとしても、その事実に苦笑はするかも知れないが、詩としての評価は何も変わらない。私が彼個人という人間に何の興味も持たないように。

 そういう意味で、あの歌は、詩として面白いな、というのが私の結論だった。


 翻って、色々と出てきたあの歌への反論は、私には何というか、実に「正しさ以外何もない」しらじらとした言葉の羅列に映った。要するに……「つまんない」のだ。何も新しい価値がない。白いものを指さして「白いよ!」と言っているだけの行為にしか見えなかった。
 いきものがかりのメンバーの誰かは、Twitterにコメントを書くよりも、もっと美しくもっと素晴らしい歌なり詩なりを書いてくれればよかったのだ。別にその内容が、「ずっとウソだった」へのアンサーソングや反論ソングである必要は全くない。何でもいいから、ただ、心に訴える何かを作り出して見せてほしかった。私が歌をうたう人に期待するのはそれであって、「斉藤和義がどんな歌をうたうべきか」という批評なんかではないのだ。
 一連のコメントを読み終わった後には、私の心には何も残らなかった。なので私は、「いきものがかりの歌に興味を持つことは、もうないだろうな」と思ってしまった。いきものがかりの歌自体に、あのコメントより先に接することがあれば、違う展開もあったのかも知れないが、まぁこれが縁というものなのだろう。


 私は、斉藤和義は詩人として評価し、それに対する反論には、詩としても、あるいは散文としても、それ以上の価値を感じられる文章に遭っていない。
 それは単に、私の読解力のなさや、不勉強に由来するものかも知れない。そしてそれ以上に、この文章が、価値あるものかと問われれば、全く価値がないとしか言いようがないのだけれど。


*追記

「あの歌への反論や反発は、あの歌自体ではなくて、『あの歌を無邪気に"反原発ソング"として祭り上げる人間たち』の無知さ、厚顔さ、おめでたさに対するものだ」
という意見があるだろう。
 それはまぁ正しい意見だなとは思うが、やはり、
「正しい以外の価値が何もない意見」
だなとしか思えない。
 別に、価値ある意見を常に言わなければならないという訳ではないから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど……。
 社会に多少の変化をもたらそうという試みは、人間がそういう無恥厚顔な存在でありうる、ということを動かし難い前提としなければならないのだから、そこで「無恥厚顔だ」という批判をしたところで、何か意味があるのかなぁ……と思うのだ。何というか、痒くないところを一生懸命掻いているような光景に見える。それよりも、自分がもっと「効果のある活動」を何でもいいからすればいいんじゃないのかな……。

 まぁ私自身は、白いものを一生懸命「白い」と言い張るだけの文章を、日々ブログに書いているだけの存在なのだが。

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