きのこの塩麹漬け ― 2011年04月11日
部屋をの片付けを再開しているものの、なかなか思うようには捗りません。困った困った。こういうことをするたびに、モノを処分しているのですが、それでもなかなかスペースができないところに、己の業の深さを実感します(なんて大げさな表現を使うようなことでもないような気がしますが)。
今日は、きのこの塩麹漬けをスパゲティに和えていただきました。塩麹は、文字通り、麹と塩水を合わせて熟成させて作る、調味料と食材の中間くらいのものです。まあるい甘味があって、一口目はやや茫洋とした感じなのですが、噛んでいくとコクが広がります。
麹は玄米麹を使いましたが、あの玄米麹独特の、香ばしい食欲をそそる風味が鼻に抜けるのもいいところです。
私は小さい頃から、金山寺味噌が結構好きなのですが、あの味を思い出しますね。そういえば金山寺味噌って自作できるのかしら。
それにしても、酒も飲まないのに何故こういうものが好きなのか、時々首をひねります。小学生の頃、ひたし豆が好きで好きで、作ってくれた年配の方が、「子供なのにどうしてこういうものが好きなのかしら、この子は」と不思議がっていたことを思い出します。
今日は、きのこの塩麹漬けをスパゲティに和えていただきました。塩麹は、文字通り、麹と塩水を合わせて熟成させて作る、調味料と食材の中間くらいのものです。まあるい甘味があって、一口目はやや茫洋とした感じなのですが、噛んでいくとコクが広がります。
麹は玄米麹を使いましたが、あの玄米麹独特の、香ばしい食欲をそそる風味が鼻に抜けるのもいいところです。
私は小さい頃から、金山寺味噌が結構好きなのですが、あの味を思い出しますね。そういえば金山寺味噌って自作できるのかしら。
それにしても、酒も飲まないのに何故こういうものが好きなのか、時々首をひねります。小学生の頃、ひたし豆が好きで好きで、作ってくれた年配の方が、「子供なのにどうしてこういうものが好きなのかしら、この子は」と不思議がっていたことを思い出します。
芸にもならないリアクション ― 2011年04月12日
ここ数日というもの、ものすごく気力がなくて、寝たり起きたりを繰り返しています。何とかせねばとお菓子を焼いてみると失敗したりして、もう何をやっているのやら(笑)。
私は疲れているのだと思います。何かをした人に対して、あれこれと批評をする人が数百数千と現れてくる状況に対して。
何かをするよりも、された何かの欠点にうんざりと肩をすくめる方が簡単なので、そういうことが起こるのは致し方ないのだろうとは思うのですが。けれど、批評というのは、世の中がその批評によってよりよくならなければ意味がない訳で、意味のない批評とは、偽善よりも始末が悪いと思います。
私自身は、批評家よりも創造者、行動を起こす人が素晴らしいと思います。作られたもの、起こされたアクションが自分にとって不愉快なものであったのなら、批評するよりも先に自分がそれ以上の何かの価値を作り出せばいいのだと。
そう言いながら、私自身はなにひとつ価値を創造していないという事実を思い出し、また自分にため息をつくのです。
私は疲れているのだと思います。何かをした人に対して、あれこれと批評をする人が数百数千と現れてくる状況に対して。
何かをするよりも、された何かの欠点にうんざりと肩をすくめる方が簡単なので、そういうことが起こるのは致し方ないのだろうとは思うのですが。けれど、批評というのは、世の中がその批評によってよりよくならなければ意味がない訳で、意味のない批評とは、偽善よりも始末が悪いと思います。
私自身は、批評家よりも創造者、行動を起こす人が素晴らしいと思います。作られたもの、起こされたアクションが自分にとって不愉快なものであったのなら、批評するよりも先に自分がそれ以上の何かの価値を作り出せばいいのだと。
そう言いながら、私自身はなにひとつ価値を創造していないという事実を思い出し、また自分にため息をつくのです。
一周忌 ― 2011年04月13日
今日で、お鳥様が天に還ってからちょうど一年になります。長いと言えば長く、短いと言えば短い一年。
今でも、あの瞬間のフラッシュバックの硬度は変わらず、脳裏によみがえると息が詰まります。
けれど、たぶん私は、立ち直っているのだろうとも、思うのです。笑ったり、泣いたりしながら、元気に生きているのですし。
一年経った今、こんな災害が起こるとは思っていませんでした。彼が今、完全に安全なところにいることだけは、私にとっての救いでもあります。
今日はお鳥様の大好きだった苺と、チョコレートをたくさんお供えしました。空の向こうにいる彼は、天界のもっとおいしいものをついばんでいるような気もしますけど、きっと食べてくれるでしょう。
そっちに行けるのは、まだもう少し先になりそうだけど。待っていておくれ。その時には君が迎えに来てくれるのを楽しみにしているよ。
今でも、あの瞬間のフラッシュバックの硬度は変わらず、脳裏によみがえると息が詰まります。
けれど、たぶん私は、立ち直っているのだろうとも、思うのです。笑ったり、泣いたりしながら、元気に生きているのですし。
一年経った今、こんな災害が起こるとは思っていませんでした。彼が今、完全に安全なところにいることだけは、私にとっての救いでもあります。
今日はお鳥様の大好きだった苺と、チョコレートをたくさんお供えしました。空の向こうにいる彼は、天界のもっとおいしいものをついばんでいるような気もしますけど、きっと食べてくれるでしょう。
そっちに行けるのは、まだもう少し先になりそうだけど。待っていておくれ。その時には君が迎えに来てくれるのを楽しみにしているよ。
斉藤和義という詩人、いきものがかりという批評家 ― 2011年04月14日
実は私は、先日ネットを風靡した斉藤和義の「ずっとウソだった」の動画を一度も閲覧していない。何しろネット上の動画を閲覧するという習慣が全くなく、どんなリンク先も動画だとわかるや否やすぐにBackボタンを連打する人間なので、閲覧するはずがないのだけど。
ネットの話題というのは、実に狭い範囲でしか盛り上がらないもので、知らない人もいるはずだから、拙いながらも説明をしておくと。
斉藤和義という歌を作ったり歌ったりするアーティストがいて、その人が過去に自分が作って人気を博した「ずっと好きだった」という歌の、替え歌である「ずっとウソだった」という歌を自分でギターで弾き語りした動画が、ネット上の動画サイトに流出した。歌詞の内容が、原発の「絶対安全」という言説とそれに騙されていた社会という内容だったので、特に原発問題に敏感になっていたアーティスティックな人々に強く支持された……らしい。
そして反面、そういう行為や、歌詞の内容が偽善的である、無邪気すぎるという雰囲気の、否定的な意見や反論や批評をする人々も一定数現れている……らしい。
私が、その代表的な意見として目にしたのが、「いきものがかり」という音楽グループのメンバーの誰か(全く興味がないので名前は覚えてない)のTwitterでのコメント群をまとめたものだったかな。
そういう、まぁごくごく一部の世界の中で盛り上がったトピックなのだけど、この騒動を経験した後の今の私の感想は、
「斎藤和義のCDは今後買おうと思うかも知れないけど、いきものがかりは買わないだろうなぁ」
というものなのである。
先に述べた通り、私は実は、当該動画を一度も閲覧していない。元の歌も、替え歌も、聴いたことすらない。ただ、ネットであがっていた歌詞を読んだだけである。
その時、私は単純に、詩として、面白いなと思った。好きか嫌いかは人によって色々あるだろう。大嫌いという感想も大いにありうるだろうけど、逆に言えば「大嫌い」という感想を生み出すような、「何か」はある詩だな、と。
つまり、青臭いとか、原発問題の表層しかとりあげてないとか、自分の加害性を棚上げしているように見える無邪気さとか、そういうもろもろを含めて、これは現実のある側面を切り取っている(あるいは抽出している)と思ったのだ。
もしも斉藤和義という人が、社会運動家である前に(私が想像するように)詩人でありアーティストであるならば、彼はこれを風刺ソングとして書いたのではないような気がする。詩人がうたわずにはいられないように、彼はある瞬間のある現実、ある心情をそのまま「うたった」、うたわずにいられなかった、に過ぎないのだろう。
そしてそれは"うたったに過ぎない”ことだが、逆に言えば詩とは本質的に、そういうものなのだ。
私は詩人に、道徳性や人間の在るべき姿を教えてもらおうとは思わない。詩は、現実の(あるいは非現実の)一部を、思いもかけぬ(あるいは非常に納得できる)形で、心に訴えるように、表現するものであって、それ以外のものではない。
もしあの詩を陳腐、表層的、偽善的と感じるならば、それは切り取られている真実がそういう性質のものだからであって、しかもそれはあの時社会にあったまぎれもない真実のひとつだった。
いやもしかしたら、あの詩にただよう偽善性、陳腐さは、詩の中というよりも、読み手に存在するものなのかも知れない。私があれに陳腐さや偽善を感じるのは、私が陳腐で偽善者だからなのだ。
(もちろん、だからといって陳腐な偽善者があってはならない存在という訳ではないが)
斉藤和義が、そこまで意識してあの詩を書いたのか、という疑問を呈する人がいるかも知れない。ありていにいえば「そんな立派なことまで考えた歌詞かよ、あれが」ということだ。
だが、実は「そんなことはどうでもいい」。できあがった詩が全てであり、その動機も、いや作者本人の願いや意図さえ、「できあがった詩」の前には何の意味も持たない。それが芸術というもののすごさであり、残酷さだ。
だから、もしも斉藤和義が、私の予想と反して、あれを「痛切な社会風刺、反原発運動ソング」として作ったのだとしても、その事実に苦笑はするかも知れないが、詩としての評価は何も変わらない。私が彼個人という人間に何の興味も持たないように。
そういう意味で、あの歌は、詩として面白いな、というのが私の結論だった。
翻って、色々と出てきたあの歌への反論は、私には何というか、実に「正しさ以外何もない」しらじらとした言葉の羅列に映った。要するに……「つまんない」のだ。何も新しい価値がない。白いものを指さして「白いよ!」と言っているだけの行為にしか見えなかった。
いきものがかりのメンバーの誰かは、Twitterにコメントを書くよりも、もっと美しくもっと素晴らしい歌なり詩なりを書いてくれればよかったのだ。別にその内容が、「ずっとウソだった」へのアンサーソングや反論ソングである必要は全くない。何でもいいから、ただ、心に訴える何かを作り出して見せてほしかった。私が歌をうたう人に期待するのはそれであって、「斉藤和義がどんな歌をうたうべきか」という批評なんかではないのだ。
一連のコメントを読み終わった後には、私の心には何も残らなかった。なので私は、「いきものがかりの歌に興味を持つことは、もうないだろうな」と思ってしまった。いきものがかりの歌自体に、あのコメントより先に接することがあれば、違う展開もあったのかも知れないが、まぁこれが縁というものなのだろう。
私は、斉藤和義は詩人として評価し、それに対する反論には、詩としても、あるいは散文としても、それ以上の価値を感じられる文章に遭っていない。
それは単に、私の読解力のなさや、不勉強に由来するものかも知れない。そしてそれ以上に、この文章が、価値あるものかと問われれば、全く価値がないとしか言いようがないのだけれど。
*追記
「あの歌への反論や反発は、あの歌自体ではなくて、『あの歌を無邪気に"反原発ソング"として祭り上げる人間たち』の無知さ、厚顔さ、おめでたさに対するものだ」
という意見があるだろう。
それはまぁ正しい意見だなとは思うが、やはり、
「正しい以外の価値が何もない意見」
だなとしか思えない。
別に、価値ある意見を常に言わなければならないという訳ではないから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど……。
社会に多少の変化をもたらそうという試みは、人間がそういう無恥厚顔な存在でありうる、ということを動かし難い前提としなければならないのだから、そこで「無恥厚顔だ」という批判をしたところで、何か意味があるのかなぁ……と思うのだ。何というか、痒くないところを一生懸命掻いているような光景に見える。それよりも、自分がもっと「効果のある活動」を何でもいいからすればいいんじゃないのかな……。
まぁ私自身は、白いものを一生懸命「白い」と言い張るだけの文章を、日々ブログに書いているだけの存在なのだが。
余談だが、私が勧めるのは、家庭での電力消費をいかに少なくするかということについて工夫をしたり考えたりすることである。電力消費を抑えることは、どんな発電方式を選ぶにしても、基本的に好ましいことだからだ。
入門書としては、ソトコト新書の「エコハウス私論」が非常におすすめである。
http://www.amazon.co.jp/dp/4907818912/
ネットの話題というのは、実に狭い範囲でしか盛り上がらないもので、知らない人もいるはずだから、拙いながらも説明をしておくと。
斉藤和義という歌を作ったり歌ったりするアーティストがいて、その人が過去に自分が作って人気を博した「ずっと好きだった」という歌の、替え歌である「ずっとウソだった」という歌を自分でギターで弾き語りした動画が、ネット上の動画サイトに流出した。歌詞の内容が、原発の「絶対安全」という言説とそれに騙されていた社会という内容だったので、特に原発問題に敏感になっていたアーティスティックな人々に強く支持された……らしい。
そして反面、そういう行為や、歌詞の内容が偽善的である、無邪気すぎるという雰囲気の、否定的な意見や反論や批評をする人々も一定数現れている……らしい。
私が、その代表的な意見として目にしたのが、「いきものがかり」という音楽グループのメンバーの誰か(全く興味がないので名前は覚えてない)のTwitterでのコメント群をまとめたものだったかな。
そういう、まぁごくごく一部の世界の中で盛り上がったトピックなのだけど、この騒動を経験した後の今の私の感想は、
「斎藤和義のCDは今後買おうと思うかも知れないけど、いきものがかりは買わないだろうなぁ」
というものなのである。
先に述べた通り、私は実は、当該動画を一度も閲覧していない。元の歌も、替え歌も、聴いたことすらない。ただ、ネットであがっていた歌詞を読んだだけである。
その時、私は単純に、詩として、面白いなと思った。好きか嫌いかは人によって色々あるだろう。大嫌いという感想も大いにありうるだろうけど、逆に言えば「大嫌い」という感想を生み出すような、「何か」はある詩だな、と。
つまり、青臭いとか、原発問題の表層しかとりあげてないとか、自分の加害性を棚上げしているように見える無邪気さとか、そういうもろもろを含めて、これは現実のある側面を切り取っている(あるいは抽出している)と思ったのだ。
もしも斉藤和義という人が、社会運動家である前に(私が想像するように)詩人でありアーティストであるならば、彼はこれを風刺ソングとして書いたのではないような気がする。詩人がうたわずにはいられないように、彼はある瞬間のある現実、ある心情をそのまま「うたった」、うたわずにいられなかった、に過ぎないのだろう。
そしてそれは"うたったに過ぎない”ことだが、逆に言えば詩とは本質的に、そういうものなのだ。
私は詩人に、道徳性や人間の在るべき姿を教えてもらおうとは思わない。詩は、現実の(あるいは非現実の)一部を、思いもかけぬ(あるいは非常に納得できる)形で、心に訴えるように、表現するものであって、それ以外のものではない。
もしあの詩を陳腐、表層的、偽善的と感じるならば、それは切り取られている真実がそういう性質のものだからであって、しかもそれはあの時社会にあったまぎれもない真実のひとつだった。
いやもしかしたら、あの詩にただよう偽善性、陳腐さは、詩の中というよりも、読み手に存在するものなのかも知れない。私があれに陳腐さや偽善を感じるのは、私が陳腐で偽善者だからなのだ。
(もちろん、だからといって陳腐な偽善者があってはならない存在という訳ではないが)
斉藤和義が、そこまで意識してあの詩を書いたのか、という疑問を呈する人がいるかも知れない。ありていにいえば「そんな立派なことまで考えた歌詞かよ、あれが」ということだ。
だが、実は「そんなことはどうでもいい」。できあがった詩が全てであり、その動機も、いや作者本人の願いや意図さえ、「できあがった詩」の前には何の意味も持たない。それが芸術というもののすごさであり、残酷さだ。
だから、もしも斉藤和義が、私の予想と反して、あれを「痛切な社会風刺、反原発運動ソング」として作ったのだとしても、その事実に苦笑はするかも知れないが、詩としての評価は何も変わらない。私が彼個人という人間に何の興味も持たないように。
そういう意味で、あの歌は、詩として面白いな、というのが私の結論だった。
翻って、色々と出てきたあの歌への反論は、私には何というか、実に「正しさ以外何もない」しらじらとした言葉の羅列に映った。要するに……「つまんない」のだ。何も新しい価値がない。白いものを指さして「白いよ!」と言っているだけの行為にしか見えなかった。
いきものがかりのメンバーの誰かは、Twitterにコメントを書くよりも、もっと美しくもっと素晴らしい歌なり詩なりを書いてくれればよかったのだ。別にその内容が、「ずっとウソだった」へのアンサーソングや反論ソングである必要は全くない。何でもいいから、ただ、心に訴える何かを作り出して見せてほしかった。私が歌をうたう人に期待するのはそれであって、「斉藤和義がどんな歌をうたうべきか」という批評なんかではないのだ。
一連のコメントを読み終わった後には、私の心には何も残らなかった。なので私は、「いきものがかりの歌に興味を持つことは、もうないだろうな」と思ってしまった。いきものがかりの歌自体に、あのコメントより先に接することがあれば、違う展開もあったのかも知れないが、まぁこれが縁というものなのだろう。
私は、斉藤和義は詩人として評価し、それに対する反論には、詩としても、あるいは散文としても、それ以上の価値を感じられる文章に遭っていない。
それは単に、私の読解力のなさや、不勉強に由来するものかも知れない。そしてそれ以上に、この文章が、価値あるものかと問われれば、全く価値がないとしか言いようがないのだけれど。
*追記
「あの歌への反論や反発は、あの歌自体ではなくて、『あの歌を無邪気に"反原発ソング"として祭り上げる人間たち』の無知さ、厚顔さ、おめでたさに対するものだ」
という意見があるだろう。
それはまぁ正しい意見だなとは思うが、やはり、
「正しい以外の価値が何もない意見」
だなとしか思えない。
別に、価値ある意見を常に言わなければならないという訳ではないから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど……。
社会に多少の変化をもたらそうという試みは、人間がそういう無恥厚顔な存在でありうる、ということを動かし難い前提としなければならないのだから、そこで「無恥厚顔だ」という批判をしたところで、何か意味があるのかなぁ……と思うのだ。何というか、痒くないところを一生懸命掻いているような光景に見える。それよりも、自分がもっと「効果のある活動」を何でもいいからすればいいんじゃないのかな……。
まぁ私自身は、白いものを一生懸命「白い」と言い張るだけの文章を、日々ブログに書いているだけの存在なのだが。
余談だが、私が勧めるのは、家庭での電力消費をいかに少なくするかということについて工夫をしたり考えたりすることである。電力消費を抑えることは、どんな発電方式を選ぶにしても、基本的に好ましいことだからだ。
入門書としては、ソトコト新書の「エコハウス私論」が非常におすすめである。
http://www.amazon.co.jp/dp/4907818912/
古琉球 ― 2011年04月22日
古琉球,井波普猷著,外間守善校訂,2000.12.15.初版,青N102-1
「沖縄学」の父と言われる井波の、古琉球にまつわる様々な方面の論文を集めたもの。全くの門外漢の私でも知っている、古代日本のハ行の発音がP音であったという定説となった「P音考」も収録されている。ハ行発音の変遷が、琉球語から導き出されたというのは知らなかった。
もっとも、そういう学術的な話に興味があるのは専門家や、アマチュア研究者であって、そうではない読者にとっては、「おもろそうし」などの琉球語の詩や、神話などを素直に楽しめばいいのだと思う。琉球語の民謡などには、結構びっくりするようなどぎつい内容のエロスがあったりして、けれど風土ゆえか、陰にこもらない明るいすがすがしい印象になっている。
この、「明るくすがすがしいけれど、ただ開けっ広げではない濃密なエロス」や、「圧倒的に雄大な自然と交歓しそれを称える感情」というのは、確かに古事記や万葉集、あるいは平安以降の京都・東京の文化にはあまりない、鮮やかで強烈なエネルギーだ。
一方で、井波は沖縄の歩んできた、苦難というもおろかな政治的経緯も掬い上げる。井波は沖縄の啓蒙運動に身を投じ、それに挫折した人であり、ここにある苦渋がインクとなって書かれたような文章は、明るい詩とは対照的だ
そんな中でも、古い民謡の採集のために懇意にしていた老人が、実は神懸かりと信じて自分の幻覚を「歴史的・民俗的事実」として話していたことがわかった顛末など、笑ってしまうような話も出てくる。いや実は、井波自身にとっては笑い事ではなかったろうと思うが、これをユーモアとして一編の文章にするあたりが、井波の精神の強靭さを表しているように思う。
「沖縄学」の父と言われる井波の、古琉球にまつわる様々な方面の論文を集めたもの。全くの門外漢の私でも知っている、古代日本のハ行の発音がP音であったという定説となった「P音考」も収録されている。ハ行発音の変遷が、琉球語から導き出されたというのは知らなかった。
もっとも、そういう学術的な話に興味があるのは専門家や、アマチュア研究者であって、そうではない読者にとっては、「おもろそうし」などの琉球語の詩や、神話などを素直に楽しめばいいのだと思う。琉球語の民謡などには、結構びっくりするようなどぎつい内容のエロスがあったりして、けれど風土ゆえか、陰にこもらない明るいすがすがしい印象になっている。
この、「明るくすがすがしいけれど、ただ開けっ広げではない濃密なエロス」や、「圧倒的に雄大な自然と交歓しそれを称える感情」というのは、確かに古事記や万葉集、あるいは平安以降の京都・東京の文化にはあまりない、鮮やかで強烈なエネルギーだ。
一方で、井波は沖縄の歩んできた、苦難というもおろかな政治的経緯も掬い上げる。井波は沖縄の啓蒙運動に身を投じ、それに挫折した人であり、ここにある苦渋がインクとなって書かれたような文章は、明るい詩とは対照的だ
そんな中でも、古い民謡の採集のために懇意にしていた老人が、実は神懸かりと信じて自分の幻覚を「歴史的・民俗的事実」として話していたことがわかった顛末など、笑ってしまうような話も出てくる。いや実は、井波自身にとっては笑い事ではなかったろうと思うが、これをユーモアとして一編の文章にするあたりが、井波の精神の強靭さを表しているように思う。
危険度 ― 2011年04月26日
私は数年前から、自分で石けんを作っています。色々な植物油脂を組み合わせて、苛性ソーダ溶液と混合して鹸化させる、固形石けんです。
当然ながら、このためには苛性ソーダが必要なのですが、実は手作り石けんという趣味において、一二を争う難関が、この苛性ソーダの購入なのです。
苛性ソーダは、現在は劇薬指定されており、購入には印鑑と身分証明書が必要な薬品です。しかも、どこの薬局でも販売できるのではなく、どうやら薬局の中でも指定の許可というか免許というかが必要なものらしくて、新しい薬局やドラッグストアではまず購入できません。かくて苛性ソーダ販売免許を持つ薬局を探して、東奔西走することになります。ちなみに私は、徒歩20分ほど離れた古い薬局でようやく購入できました。
と、そんな苦労話はどうでもいいのです。
この苛性ソーダ、強アルカリで皮膚に触れれば火傷を起こす危険のある薬品ですが、人によってその危険性の捉え方はかなり違います。
手作り石けんを作る道具は、ボウルや泡立て器など、通常の料理道具と共通するものが多いのですが、
「熱した天ぷら油みたいなものと思って扱えばそんなに危ないものじゃない」
と、普段使っている道具を(もちろん使用の前後はよくよく洗うことを前提に)共用している人もいます。
(実際海外では、かつて灰汁を用いて作っていた料理を現在作る時に、この苛性ソーダを家庭で用いて、普通に食べているところもあるそうです)
逆に、
「こんな危険な強アルカリ劇薬が、家庭の棚にポンと置いてあるのは悪夢に近い」
と強烈な否定的立場を表明する人もいます。
薬学などを専門に学んだか否かというのは、どうも関係ないようで、人それぞれの考え方によるようです。
あるものの危険性(安全性)というのは、結構単純な数字で見せることが難しいものだと、私は苛性ソーダにまつわる様々な発言を見て学びました。
そして実は意外と、「専門家」であっても、「正しい扱い方」を知っているものでもありません。
以前、「家庭で湿気を吸って固まった苛性ソーダは手作り石けんに使えるのか、廃棄するとしたらどういう手順で廃棄すればいいのか」を、かなり手を尽くして調べたことがあるのですが、これがどうも、答えが出しにくい問題のようなのです。確たる情報には、今現在もたどりついていません。
薬剤師のような専門家にもあたってみましたが、彼らも答えを出せない問題のようです。
恐らく、薬剤師のような専門家の取り扱うような環境では、まず起こらないような出来事であるために、データも確約も出せないのでしょう。
あることに対する(特に学術的な)専門知識というのは、ある一定の環境と前提があって初めて意味を持ちます。
医療機器やコンピュータや医療組織から完全に切り離された「医者」というものの有効性が、フィクションの中でしかありえないように、専門知識というのは意外な脆さを内包しています。
逆に言えば、現実の混沌の渦から一定の条件を揃えることでようやく引き出した秩序と因果関係こそが専門知識であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
震災の原発事故と、放出されている放射性物質の危険性については、様々な言説が四方八方から、それこそ宇宙からの放射線のように降り注いでいます。
デマや誤った情報による混乱の中、専門家や放射線について多少なりとも専門的知識を持った人からは、
「正しい専門的知識を持てば大丈夫」
という声も聞こえます。
けれど本当は、「わからない」というのが真実なのではないかと思うのです。
こんな事故も出来事も、放射線を取り扱う専門の学者たちが普段相手にしている環境ではなく、前提条件がたえず移ろう「現実」という混沌の中に起こっているものです。
われわれは、まさにシュレディンガーの猫のごとく、安全と危険の可能性の重なりとして、存在しているというのが実際のところなのかも知れません。
しかし、多くの専門家にとって、専門家でない人間に「わからない」と言うのは、最善のケースでも屈辱であり、最悪のケースではそんな発言をすること自体が許されない状態にはまりこんでいることさえあります。
そういう中では、歯切れの悪い、あるいは数字を並べた「身内にはわかるジャーゴン」でその場を切り抜けざるを得ないでしょう。
そしてそれが、専門家ではない人間に怒りと不安を引き起こし、悪循環が生まれるのでしょう。
われわれは、苛性ソーダという比較的単純な反応を起こす薬品のことさえ、よくわかっているとは言えません。
ましてや「安全性」や「危険性」というのは、恐らく簡単に語れるような問題ではないのでしょう。
しかしそれでもわれわれは生きていかねばならない訳で、そういう状態に応えられる存在でありうるのか否か、社会全体が、そしてひとりひとりが、試されているような気がします。
当然ながら、このためには苛性ソーダが必要なのですが、実は手作り石けんという趣味において、一二を争う難関が、この苛性ソーダの購入なのです。
苛性ソーダは、現在は劇薬指定されており、購入には印鑑と身分証明書が必要な薬品です。しかも、どこの薬局でも販売できるのではなく、どうやら薬局の中でも指定の許可というか免許というかが必要なものらしくて、新しい薬局やドラッグストアではまず購入できません。かくて苛性ソーダ販売免許を持つ薬局を探して、東奔西走することになります。ちなみに私は、徒歩20分ほど離れた古い薬局でようやく購入できました。
と、そんな苦労話はどうでもいいのです。
この苛性ソーダ、強アルカリで皮膚に触れれば火傷を起こす危険のある薬品ですが、人によってその危険性の捉え方はかなり違います。
手作り石けんを作る道具は、ボウルや泡立て器など、通常の料理道具と共通するものが多いのですが、
「熱した天ぷら油みたいなものと思って扱えばそんなに危ないものじゃない」
と、普段使っている道具を(もちろん使用の前後はよくよく洗うことを前提に)共用している人もいます。
(実際海外では、かつて灰汁を用いて作っていた料理を現在作る時に、この苛性ソーダを家庭で用いて、普通に食べているところもあるそうです)
逆に、
「こんな危険な強アルカリ劇薬が、家庭の棚にポンと置いてあるのは悪夢に近い」
と強烈な否定的立場を表明する人もいます。
薬学などを専門に学んだか否かというのは、どうも関係ないようで、人それぞれの考え方によるようです。
あるものの危険性(安全性)というのは、結構単純な数字で見せることが難しいものだと、私は苛性ソーダにまつわる様々な発言を見て学びました。
そして実は意外と、「専門家」であっても、「正しい扱い方」を知っているものでもありません。
以前、「家庭で湿気を吸って固まった苛性ソーダは手作り石けんに使えるのか、廃棄するとしたらどういう手順で廃棄すればいいのか」を、かなり手を尽くして調べたことがあるのですが、これがどうも、答えが出しにくい問題のようなのです。確たる情報には、今現在もたどりついていません。
薬剤師のような専門家にもあたってみましたが、彼らも答えを出せない問題のようです。
恐らく、薬剤師のような専門家の取り扱うような環境では、まず起こらないような出来事であるために、データも確約も出せないのでしょう。
あることに対する(特に学術的な)専門知識というのは、ある一定の環境と前提があって初めて意味を持ちます。
医療機器やコンピュータや医療組織から完全に切り離された「医者」というものの有効性が、フィクションの中でしかありえないように、専門知識というのは意外な脆さを内包しています。
逆に言えば、現実の混沌の渦から一定の条件を揃えることでようやく引き出した秩序と因果関係こそが専門知識であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
震災の原発事故と、放出されている放射性物質の危険性については、様々な言説が四方八方から、それこそ宇宙からの放射線のように降り注いでいます。
デマや誤った情報による混乱の中、専門家や放射線について多少なりとも専門的知識を持った人からは、
「正しい専門的知識を持てば大丈夫」
という声も聞こえます。
けれど本当は、「わからない」というのが真実なのではないかと思うのです。
こんな事故も出来事も、放射線を取り扱う専門の学者たちが普段相手にしている環境ではなく、前提条件がたえず移ろう「現実」という混沌の中に起こっているものです。
われわれは、まさにシュレディンガーの猫のごとく、安全と危険の可能性の重なりとして、存在しているというのが実際のところなのかも知れません。
しかし、多くの専門家にとって、専門家でない人間に「わからない」と言うのは、最善のケースでも屈辱であり、最悪のケースではそんな発言をすること自体が許されない状態にはまりこんでいることさえあります。
そういう中では、歯切れの悪い、あるいは数字を並べた「身内にはわかるジャーゴン」でその場を切り抜けざるを得ないでしょう。
そしてそれが、専門家ではない人間に怒りと不安を引き起こし、悪循環が生まれるのでしょう。
われわれは、苛性ソーダという比較的単純な反応を起こす薬品のことさえ、よくわかっているとは言えません。
ましてや「安全性」や「危険性」というのは、恐らく簡単に語れるような問題ではないのでしょう。
しかしそれでもわれわれは生きていかねばならない訳で、そういう状態に応えられる存在でありうるのか否か、社会全体が、そしてひとりひとりが、試されているような気がします。
死ぬ力も特にない ― 2011年04月27日
発売が延期になっていたiPad2がもうすぐ発売になるということで、色々と買う算段を考えていたのですが、どうも私はお金のことを考えると鬱になるという性質の持ち主なので、買い物のことを考えるとだんだんと気が滅入ってくるのです。
お金のことを考えるというのは、収入について考えるということが当然ついてくる訳で、そうすると、仕事と名のつくものが大の苦手で考えるだけで生きる気力が薄らいでくる私は、人生の袋小路にはまった状態に陥ります。
まぁ、自殺をするとお迎えが来なくて今の精神状態のまま永遠に留まることになるだけなのだと思っている以上、自殺したりはしないので、その点は安心なのですけどね。
よく、「死ぬ気になれば、どんな努力だってできるはずだ」と言う人がいますけれど、死ぬ力と生きる力は、かなりベクトルの違うエネルギーなので、そう単純な話でもないような気がします。
いや本当は、「死に向かう力が過剰な状態」と「生を継続する力が十分にある状態」があり、そしてそれ以外に「その両方ともが枯渇した状態」があるのではないかと思うのです。
つまり死に向かって歩んでいってしまう人がいる一方で、死に向かっている訳ではないけれど生を持続するエネルギーが非常に乏しい状態で結果的に死に進んでしまう人、というのもいるような気がするのです。
そういう人は、ひといきに死に飛び込んでいくことはないけれど、死ぬ気になって頑張るなどという芸当もできなくて、ひたすら苦痛が続いていくような感覚しか生には抱けません。
「指輪物語」で、一つの指輪を所持し続けたビルボが、「パンの上のバターになってひたすら塗り延ばされている感じ」と己の苦痛を訴えていましたけれど、あれは「死なないから生きている」状態を、的確に表していた表現だと感心します。
まあそんなことを今は言っていますけれど、iPad2を前にしたら、ばかみたいに無邪気にはしゃぐような気も、しますけれどね。
お金のことを考えるというのは、収入について考えるということが当然ついてくる訳で、そうすると、仕事と名のつくものが大の苦手で考えるだけで生きる気力が薄らいでくる私は、人生の袋小路にはまった状態に陥ります。
まぁ、自殺をするとお迎えが来なくて今の精神状態のまま永遠に留まることになるだけなのだと思っている以上、自殺したりはしないので、その点は安心なのですけどね。
よく、「死ぬ気になれば、どんな努力だってできるはずだ」と言う人がいますけれど、死ぬ力と生きる力は、かなりベクトルの違うエネルギーなので、そう単純な話でもないような気がします。
いや本当は、「死に向かう力が過剰な状態」と「生を継続する力が十分にある状態」があり、そしてそれ以外に「その両方ともが枯渇した状態」があるのではないかと思うのです。
つまり死に向かって歩んでいってしまう人がいる一方で、死に向かっている訳ではないけれど生を持続するエネルギーが非常に乏しい状態で結果的に死に進んでしまう人、というのもいるような気がするのです。
そういう人は、ひといきに死に飛び込んでいくことはないけれど、死ぬ気になって頑張るなどという芸当もできなくて、ひたすら苦痛が続いていくような感覚しか生には抱けません。
「指輪物語」で、一つの指輪を所持し続けたビルボが、「パンの上のバターになってひたすら塗り延ばされている感じ」と己の苦痛を訴えていましたけれど、あれは「死なないから生きている」状態を、的確に表していた表現だと感心します。
まあそんなことを今は言っていますけれど、iPad2を前にしたら、ばかみたいに無邪気にはしゃぐような気も、しますけれどね。
加害者でいい、か? ― 2011年04月29日
ある一定以上の感受性を持つ人間にとって、「偽善」とは、耐え難い苦痛となる要素である。これは、時代の影響も強い、つまり世代の違いも表れるところかも知れないが。
善であること、あるいは善を目指すことに、躊躇いと胡散臭さと疑念と気恥ずかしさを感じるのは、かなりの人に覚えがあることだ。これが全くない人間というのは、どちらかというと迷惑な存在である。そして善の独善性(何だか言葉遊びのようだが)は、数多の善を善から転落させてきた毒なのであって、真面目に歴史や人間社会を学ぼうとする人間ほど、そこに警戒心を抱き、そして警戒を通り越した嫌悪を抱かざるを得ない。
なので、「偽善の否定・偽善への怒り」は文学作品・文学的芸術作品のお気に入りのテーマであり、その系譜の後継者たるオタクたちにとってもお気に入りのテーマだ。
そして、このテーマは、そこから先へ一歩も踏み出せない迷宮の隘路となって、未だ多くの人をからめとっている。
「偽善の否定」というテーマで私が真っ先に思い浮かべるのは三原順だ。彼女の緻密な作品群は、ことごとく、人間の生きる意味を問い続け、「普通の人」に加齢臭のようについてまわる偽善と自己正当化に正面から向き合うことで成立する。
原発事故によって最近またピックアップされるようになった彼女の作品「Die Energie 5.2☆11.8」などは、その代表であり、主人公ルドルフが最後に放つ「俺は加害者でいい」という言葉は、本質を見失った偽善者たちへの鋭い攻撃として屹立している。
だが、私が彼女の作品の価値を認めながらも、それ以上読み込もうとは思わなかったのは、まさにその、「俺は加害者でいい」で立ち止まってしまったところに限界を見たからでもある。
彼女は「被害者であることを理由に自己正当化する弱者」を嫌悪し、「自己の加害性を受容することで弱さを強さに転換する」生き方を作中の人物に選ばせる。その裏にあるのは、深い知識と論理性に裏打ちされた、考え抜かれた強靭な哲学だが、しかし彼女の作中人物たちは、その結果として奇妙な脆さを抱えもつことになる。
実際には、「俺は加害者でいい」というスタンスは、偽善から逃れると同時に「本当に正当であろうとする努力」からも逃れているのではなかろうか。それはあたかも、「完全なる純粋な恋」を求めるあまりに本当の愛を見失うようなちぐはぐさだ。
本当に必要なのは、偽善に対する感受性を持ちつつ、さらに「偽善に耐える」強さなのだろう。というよりも、本来善なるものというのは、無数の偽善と矛盾を内包し、それら全てを呑み込んだ末にたどりつく広大深淵な海のようなものなのだ。
だが偽善の腐臭を嫌う人々は、そこに留まり続けることができないために、そこから先へ進むことができない。善を目指して悪に転落する危険だけは犯さないで済んでいる訳だが……。
文学(あるいは文学的性質の創造物)の大半は、基本的に偽善の腐臭への嫌悪から成立している。そしてそこから先へ進むことができず、むしろその隘路を最終地点と見なしている部分がある。
もしかしたらそれが、文学と信仰(宗教ではない)を分けるものかもしれない。
日本人が、文学を愛好する割に、信仰に対して関心が薄いのは、もしかしたら日本人の潔癖症という国民性が、偽善に対しても働いているからではないかと、私は時々、勝手に考えたりもするのである。
善であること、あるいは善を目指すことに、躊躇いと胡散臭さと疑念と気恥ずかしさを感じるのは、かなりの人に覚えがあることだ。これが全くない人間というのは、どちらかというと迷惑な存在である。そして善の独善性(何だか言葉遊びのようだが)は、数多の善を善から転落させてきた毒なのであって、真面目に歴史や人間社会を学ぼうとする人間ほど、そこに警戒心を抱き、そして警戒を通り越した嫌悪を抱かざるを得ない。
なので、「偽善の否定・偽善への怒り」は文学作品・文学的芸術作品のお気に入りのテーマであり、その系譜の後継者たるオタクたちにとってもお気に入りのテーマだ。
そして、このテーマは、そこから先へ一歩も踏み出せない迷宮の隘路となって、未だ多くの人をからめとっている。
「偽善の否定」というテーマで私が真っ先に思い浮かべるのは三原順だ。彼女の緻密な作品群は、ことごとく、人間の生きる意味を問い続け、「普通の人」に加齢臭のようについてまわる偽善と自己正当化に正面から向き合うことで成立する。
原発事故によって最近またピックアップされるようになった彼女の作品「Die Energie 5.2☆11.8」などは、その代表であり、主人公ルドルフが最後に放つ「俺は加害者でいい」という言葉は、本質を見失った偽善者たちへの鋭い攻撃として屹立している。
だが、私が彼女の作品の価値を認めながらも、それ以上読み込もうとは思わなかったのは、まさにその、「俺は加害者でいい」で立ち止まってしまったところに限界を見たからでもある。
彼女は「被害者であることを理由に自己正当化する弱者」を嫌悪し、「自己の加害性を受容することで弱さを強さに転換する」生き方を作中の人物に選ばせる。その裏にあるのは、深い知識と論理性に裏打ちされた、考え抜かれた強靭な哲学だが、しかし彼女の作中人物たちは、その結果として奇妙な脆さを抱えもつことになる。
実際には、「俺は加害者でいい」というスタンスは、偽善から逃れると同時に「本当に正当であろうとする努力」からも逃れているのではなかろうか。それはあたかも、「完全なる純粋な恋」を求めるあまりに本当の愛を見失うようなちぐはぐさだ。
本当に必要なのは、偽善に対する感受性を持ちつつ、さらに「偽善に耐える」強さなのだろう。というよりも、本来善なるものというのは、無数の偽善と矛盾を内包し、それら全てを呑み込んだ末にたどりつく広大深淵な海のようなものなのだ。
だが偽善の腐臭を嫌う人々は、そこに留まり続けることができないために、そこから先へ進むことができない。善を目指して悪に転落する危険だけは犯さないで済んでいる訳だが……。
文学(あるいは文学的性質の創造物)の大半は、基本的に偽善の腐臭への嫌悪から成立している。そしてそこから先へ進むことができず、むしろその隘路を最終地点と見なしている部分がある。
もしかしたらそれが、文学と信仰(宗教ではない)を分けるものかもしれない。
日本人が、文学を愛好する割に、信仰に対して関心が薄いのは、もしかしたら日本人の潔癖症という国民性が、偽善に対しても働いているからではないかと、私は時々、勝手に考えたりもするのである。
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