料理手順2008年12月17日

 どこかで書いた話のようにも思うのですが、以前、あるプログラマーの知り合いが
「世の中にはどうしてあんなに料理の本があるんでしょうね? 1冊あったらそれで間に合いそうなものなのに」
と尋ねたことがありました。
 その時は、
「いやぁ、料理の本を1冊買っても、その中のレシピが全部使える訳じゃないですからねぇ。プログラムの本だって、そこに載ってるソースやコードの全部を使う訳じゃないでしょう?」
と答えたのですが、そのプログラマー氏は
「ああ、確かにそうですねぇ、いやプログラムの本なんて1個か2個しか使わないかも知れない、あはは」
と笑って納得したものでありました。

 プログラムのことは未だにさっぱりわかりませんが、料理の本というもののことを考えると、恐らく家庭の料理というものが、非常に連続的で抗いがたい流れの中にあるということが、大きな理由ではないかと思うのです。
 などというとえらく難しいようですが、ごくごく簡単に言ってしまうと、
 家庭の毎日のごはんというのは、一ヶ月前、一週間前、昨日、今朝、今日、明日、明後日、一週間後、一ヶ月後……から逃れられないということなのです。
 あれ、ますますわからなくなった?

 普段あまり料理をしない人は、「今日はカレーを作るぞ!」と気合いを入れて決定し、
 お出かけして、料理の本にある材料を買ってきます。
 そこに書いてある通りに作ります。
 おいしくできあがりました(あるいはそうではないかも知れません)。
 いただきます。ごちそうさま。
 片付けをします(時には片付けを別の人に押し付けて自分は悠々と作った喜びをかみしめる人もいます)。
 これは毎日の繰り返しから切り離された、ちょっと特別なイベントとしての料理です。

 しかし、日々好むと好まざるとに関わらずとにかくごはんを家事として作らなくてはならない人の場合は、話が全然違っています。
 冷蔵庫にはすでに昨日、気合いを入れて料理を作った彼氏くんが買ってきた残りのホウレンソウが残っております。青菜はしおれやすいので早く調理せねばなりません。
 レシピには玉ねぎをみじん切りに刻んで水にさらすとありますが、今日は忙しくて後10分でごはんを作らねばならずそんな時間はありません。
 レシピの指定の調味料にナンプラーとありますが、そんな代物は普段使いません。
 カレーのデザートにはさっぱりしたものがよさそうですが、梨だのリンゴだのは重たくてスーパーから運ぶのが面倒です。干し柿で我慢してもらいましょう。

 ……まあまあそんな調子で、普段の暮らし、それも料理や食べることだけでないありとあらゆる様々な要素が、ざんぶざんぶと流れてゆく大河の中を泳ぎ切るがごとき作業が、日々のごはん作りというものであります。

 料理のレシピは、当然誰かが考えるもの、なのでその誰かの生活や価値観や信念が、知らず知らずに反映されてできているものです。
 その人が何となくよく使う調理法、何となくよく使う素材、何となくよく使う調味料、何となくよく使う調理道具、何となく料理にいつもかけている時間、何となく……なものが、非常に色濃くにじみだしているのを見るのは、面白い眺めです。
 もっと言えば、その人が普段から漬け物を漬けてるか、スープのストックを自分でとっているか、お風呂はピカピカに磨いているか、エルメスのバッグが好きなのか、そんなことさえも、こっそりと影響しています。
 そういった諸々の「何となく」が、より多く重なる人のレシピは、恐らく使いやすいレシピとなるのでしょう。逆に、どんなにおいしくても、その「何となく」が今ひとつ合わない人のレシピは、レシピ自体に何の問題もないとしても、やはり「たまに作る特別なレシピ」を卒業することがありません。
「10分で作れるカンタンおいしいキレイごはん」が、本当に10分で作れるかどうかは、そのレシピを考えた人の「何となく」が、どれだけ自分と重なっているかにかかってしまう訳です。

 ここ十年くらいで、料理研究家という職業は完全に定着し、料理のレシピ本も、「誰々のレシピ本」という形で出されることが多くなりました。
 それはたぶん、こういう「何となくが重なる人のレシピが打率がいい」ということをみんながつかむようになってきたのでしょう。おいしさや美しさや所要時間だけでレシピを選ぶのは難しいのです。

 逆に言えば、今は料理の本の歩留まりもかなりよくなっているのでしょうか。
 私自身は、レシピを参考にする人は、おおむね2-3人に絞られてきました。ここまで至るまでに、まぁまぁ山のように本を買った訳ですが……もしかして、プログラマーも、この領域に至ると、もうプログラムの本は買わなくなるのでしょうか。今、あの言葉を言ったプログラマー氏に、尋ねてみたい気がします。