信頼2012年11月08日

 ここ数日、とある人へ向けた個人的な書き物をしていたのですが、それを書いている時間が、非常に幸福でした。
 もともと書くという行為は、私にとっては呼吸みたいなものなので、売れようが売れまいが、称賛されようが酷評されようが、読まれようが読まれまいが、面白かろうがつまらなかろうが、とにかくひたすら続けていくことなのですが、それでもこれほどまでに幸福感にあふれて書き続けたのは、かなり久しぶりです。頭の中はそれ一色で、会話していて軽鴨の君はちょっとずれた感じだなぁと思ってたかも知れません。

 思うにそれほどに幸せな気分で書いていられたのは、それが私にとってはとても数少ない、無条件に信頼している人に宛てた、個人的な書き物だったからなのでしょう。
 宛てた相手、読み手への信頼感が、これほどまでに、書く力に影響するのかというのは、理屈ではわかっていたけれど実感すると驚くばかりです。

 信頼している人に宛てて書く時には、私は自由に、ただ降りてくるものを書き留めていくように書きます。読みやすくとか文法をきちんととか構成をわかりやすくとか、そういうことを考えません。書いているのは私ではなくて、そこにあるものが勝手に出てくるだけなのですから。もっとも、推敲の段階になると、文法やら構成やらをあれこれ考えますけれど。
 そういうところにあまり神経をとがらせなくてよいのは、読んだ相手が、できあがったものを心をこめて受け止めてくれる、同意や理解はしてくれないかも知れないけれど愛情をこめて扱ってくれる、とわかっているからです。
 たぶん、その信頼こそが、書くという行為に栄養を与えていくのだと思います。

 そうでない相手に書く時——というのはつまり、大半の場合、ということですけれど——私の文章は、張りつめた兵隊の行進のようにしずしずと進んでいきます。
 私の文章は長くて、つっこみどころがなくて、先回りして全ての道を塞いでいくような感じがするとよく言われますけれど、それは兵隊たちがかすかな物音にも警戒して塹壕から銃を構えるようなものだと思います。私は、自分の書いたものが受け取られるということについて、根本的に信頼していないのです。同意されること、理解されることはおろか、愛情をもって扱われるということすらも。
 たぶん私は、人間に対して、とても信頼感に欠けているのでしょう。そして緊張した歩兵となった言葉たちは、敵の狙いそうな抜け穴をつぶしていこうと、しつこく執念深く辛抱強く働いているのでしょう。他人が読むことができる場に置いてある私の文章のうち、かなりのものには、そういう強迫症的な粘っこさが備わっていると思います。

 まあ不思議なことにというか、厄介なことにというか、そういう粘着的な文章でも読んだ人から好意的な評価を受けることもありますし、幸福な気持ちで書きつづった明るく楽しい文章が他の人には一文の価値もないということも経験することです。
 それでも、自分にとっては、書いてよかった、これを書くために生きてきたと思うような文章はいくつかあります。それを書いていた時はやっぱり、基本的には幸せな気持ちでただ書き留めるように書いていることが多いです。

 そして、勝手な想像ですが、世間に数多いる小説家も漫画家も芸術家も、それは同じなのではないかと思うのです。
 幸せに創造するためには信頼こそが最も必要な滋養であって、それが失われてしまった場においては、悲しい顔をした張りつめた兵隊たちが、黙々と歩いていったような成果物が、日々ベルトコンベアに載せられているのでしょう。