矛盾 ― 2009年02月14日
デトロイト・メタル・シティというコミックを原作にした映画が去年公開されて、観に行こうよとさんざん誘われていたのに、結局観ていない。
原作も読んでいないのだけれど、伝え聞く話によると、ストーリーは、
J-POPが大好きでほんわかした雰囲気の歌をうたうのが喜びの気弱な青年が、諸般の事情でデスメタルバンドのボーカルに仕立て上げられてしまい、しかも何の因果かその方面に神懸かり的な才能があって大人気になってしまうのだけれど、彼自身の夢や希望と真逆の状況にドタバタする、というコメディらしい。
その話を聞いた時に、これをコメディとして描けるとは、作者は何と心の強い人だろうと思ったのを覚えている。
私がそんな物語を書いたら、陰惨なまでに苦痛に満ちたものになるのは間違いない。
(そしてきっと読んでも誰も楽しくないので当然ボツになるだろう)
自分の(アイデンティティですらあるかもしれない)夢や希望や価値観と、才能(少なくとも他人が才能と評価するもの)が全く異なっていたとしたら、その不幸を人は乗り越えられるのだろうか。
という話をした時、
「他人が喜んで評価してくれる方がずっと大事でしょう」
みたいなことを言われた記憶がある。
他人や社会の評価を、自分の基準軸に設定しなおして、自分を修正していけるのならば、不幸の原因自体が消滅するので、恐らくそこに何も問題はない。
だから、他人が喜んで評価してくれるのならいいじゃない、と納得できれば、それでいい。
納得できなかったとしても、もしかしたらいつか、他人の笑顔を励みに、苦痛を喜びに変換できるのかも知れない。苦しみが他人の幸せならば、その他人の幸せを喜べるのなら、苦しみそれ自体が幸福に変わるということが、あるのかも。
あるいは、逆に他人や社会の評価に完全に背を向けても、自分の希望と価値観を主張するという選択肢もある。
それは自己への徹底的な信頼と揺るがぬ意志が求められるであろうけれど、それを続けていくことによって、やがては社会の方が評価を変えるという成功物語も、世には満ち満ちている。
そうならずに消えていった地上の星もたくさんあるのだけれど。
たぶん多くの人はその中間で、日々上手に何とかやりくりして生きているのだろう。
私は、他人の評価にも、自分自身にも、信頼をおいていない。
けれどその形は、自己と他人という二つの極があってそのどちらにも完全に属さないというような中間的な(多くの人が選択する実に健全な)在り方になっていない。
その不信は、奇妙な形で完全に並列に存在している。逆に、他人の評価への絶大な信頼も、自己への絶望的な傾斜も、また同時に並列に存在している。
私は、私自身に対する否定的な評価が、常に完全に正しいとわかっているし、にも拘らずそれを基準軸に自分を設定し直せないこともわかっている。
このねじれた矛盾した状態が、私を社会や責任ある立場から遠ざけるのだろう。
AとBが完全に相反して対立し共存不可能なのにそのどちらも真であるというとき、どうすればいいのか、その答えはどこかに出ているのだろうか。
もっともその答えがわかりさえすれば、この世から全ての戦争さえも消滅させることができるのかも知れないが。
原作も読んでいないのだけれど、伝え聞く話によると、ストーリーは、
J-POPが大好きでほんわかした雰囲気の歌をうたうのが喜びの気弱な青年が、諸般の事情でデスメタルバンドのボーカルに仕立て上げられてしまい、しかも何の因果かその方面に神懸かり的な才能があって大人気になってしまうのだけれど、彼自身の夢や希望と真逆の状況にドタバタする、というコメディらしい。
その話を聞いた時に、これをコメディとして描けるとは、作者は何と心の強い人だろうと思ったのを覚えている。
私がそんな物語を書いたら、陰惨なまでに苦痛に満ちたものになるのは間違いない。
(そしてきっと読んでも誰も楽しくないので当然ボツになるだろう)
自分の(アイデンティティですらあるかもしれない)夢や希望や価値観と、才能(少なくとも他人が才能と評価するもの)が全く異なっていたとしたら、その不幸を人は乗り越えられるのだろうか。
という話をした時、
「他人が喜んで評価してくれる方がずっと大事でしょう」
みたいなことを言われた記憶がある。
他人や社会の評価を、自分の基準軸に設定しなおして、自分を修正していけるのならば、不幸の原因自体が消滅するので、恐らくそこに何も問題はない。
だから、他人が喜んで評価してくれるのならいいじゃない、と納得できれば、それでいい。
納得できなかったとしても、もしかしたらいつか、他人の笑顔を励みに、苦痛を喜びに変換できるのかも知れない。苦しみが他人の幸せならば、その他人の幸せを喜べるのなら、苦しみそれ自体が幸福に変わるということが、あるのかも。
あるいは、逆に他人や社会の評価に完全に背を向けても、自分の希望と価値観を主張するという選択肢もある。
それは自己への徹底的な信頼と揺るがぬ意志が求められるであろうけれど、それを続けていくことによって、やがては社会の方が評価を変えるという成功物語も、世には満ち満ちている。
そうならずに消えていった地上の星もたくさんあるのだけれど。
たぶん多くの人はその中間で、日々上手に何とかやりくりして生きているのだろう。
私は、他人の評価にも、自分自身にも、信頼をおいていない。
けれどその形は、自己と他人という二つの極があってそのどちらにも完全に属さないというような中間的な(多くの人が選択する実に健全な)在り方になっていない。
その不信は、奇妙な形で完全に並列に存在している。逆に、他人の評価への絶大な信頼も、自己への絶望的な傾斜も、また同時に並列に存在している。
私は、私自身に対する否定的な評価が、常に完全に正しいとわかっているし、にも拘らずそれを基準軸に自分を設定し直せないこともわかっている。
このねじれた矛盾した状態が、私を社会や責任ある立場から遠ざけるのだろう。
AとBが完全に相反して対立し共存不可能なのにそのどちらも真であるというとき、どうすればいいのか、その答えはどこかに出ているのだろうか。
もっともその答えがわかりさえすれば、この世から全ての戦争さえも消滅させることができるのかも知れないが。
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