「DEATH NOTE」にまつわること 1 ― 2007年01月11日
唐突だが、私は「新世紀エヴァンゲリオン」を観ていない。
理由は簡単で、リアルタイムで接触しそこねたからだ。その後、周囲にファンやマニアが山と現れ、彼らの解釈や謎解きや蘊蓄を聞くだけで十分満足してしまったのである。
それが私にとって幸福なことだったのか否かは、未だにわからないし、きっとわからないままでわるだろう。
こんなことを書いたのは、恐らくあの時代の人にとっての「エヴァ」が、私にとっては「DEATH NOTE」だったのではないかと思ったからだ。
独特の設定、虚構的な登場人物、奇妙で異常な緻密さで積み上げられるルールと世界設定、受け手の予想を覆し続け最後には空中分解するストーリー、そして鑑賞した後の行き場のない不全感——そういったもの全てが、とても近しい空気をかもしだしている。
†
トランプで積み上げられたピラミッドの如き危うい緊張感で疾走する第一部と、そのトランプピラミッドが徐々に崩壊して狂っていく泥沼のような重みの第二部を比べた時、私は好みからも物語全体の完成度からも、第一部に軍配を上げる。
第一部は、文句なしに面白い。あのポテトチップスを使った一幕や山手線でひっそりと行われるジェノサイド、月とLが出会い徐々に距離を詰めていく過程、そして記憶を失った月とLの共闘を経て、それでもなおデスノートを手にした瞬間にキラへ立ち戻る月といったエピソードの連続は、本当に久しぶりに「次のページをめくるのがもどかしい」といった感覚で突き進んでいく。
たぶん、これにとても近い作品はフレドリック・ブラウンの「73光年の妖怪」ではないかと思う。はるか73光年隔てた星からやってきたエイリアンと、エイリアンの目的に気付いた一人の科学者のひそやかな闘いを描く物語だ。
エイリアンは肉体が退化して自分で動くことさえできないが、その本体(亀の甲羅のような代物である)に触れた生命体の意識を支配することができ、死ぬとまた本体にエイリアンの意識が戻る。エイリアンは自分を銜えた犬を手始めに支配し、次々と宿主を殺しながら乗り換えて、宇宙船を作りうるような高度な知能を持つ主人公の科学者を支配しようとたくらむのだが……。
この物語がホラーやオカルトとは全く異なるのは、エイリアンが生命体に憑依し支配する行為に、厳然とした限界とルールが定められていることである。何しろこのエイリアン自身とその憑依に関しては、あれはダメこれはムリと制限がてんこ盛りなのだ。デスノートが月自身「全く不便だよデスノートは」とぼやいたのと同じように。そして狡猾なエイリアンはその制限をものともせず乗り越えながら、徐々に目的に近付いていく。月がデスノートの制限を巧みに乗り越えながら、新世界の神へ近付いていくように。
その狡知にわくわくしつつも、彼の目的が達せられた時にはどん底の恐怖が待っているために素直に喜ぶことができず、ねじれた感情を喚起するところも、よく似ているかも知れない。
タイトルに「妖怪」とあろうが、エイリアンや超能力が物語の骨格であろうが、また不気味な存在が徐々に近付いてくる恐怖が存在していようが、「73光年の妖怪」はホラーではなく、恐らくSFでもなく、コンゲームものに近い狡知を描く物語だろう。
私は「DEATH NOTE」もまた、そういう物語だと思っていた。そして恐らく、第一部は純粋にそうだったのではないか。その単純な構造の中では、死神の超常能力もLの奇矯でとがった魅力も、月やLのほとんどあり得ないような知能も、全て要素に過ぎない。そのことは欠点ではなく、むしろ物語にある種のリアリティを与えていたとも言える。
リアルであることがリアリティを意味しないことは、言うまでもない。ひとつの物語世界がリアリティを獲得するためには、現実世界を模するのではなく、その世界自体で一貫したリアリティを持つことが必要なのだ。第一部は、「傑出した知性を持つ二人の天才が命を賭けて狡知を競う」という構造を詳細に記述し、それ以外の全てを排除するか単純化することによって、物語全体のリアリティを強固なものにしているのである。
†
しかし、この完成度の高いリアリティに満ちた物語世界は、Lの死とともに緩慢に崩壊していく。
第一部と第二部の間に一体何が起こったのか、評論家でもなければ部内者でもない(いや雑誌の定期購読者でさえない)私には全くわからないのだけれど、本当に全く突如と言っていいほどに、第二部の幕開けと同時に「DEATH NOTE」は知恵比べ的構造を振り捨てる。
ノートの強奪やメロのアジトの特定、ニアが月をキラと推理する過程など、第一部と同じ推理ゲームは確かに展開するのだが、どこかしら生気がない。物語の焦点はすでにそこにはない、といった風なのだ。
代わりに、軍隊やマフィアの出動、社会情勢、群集心理やマスコミの愚かさ、家族を犠牲にせざるを得なくなる月、ニアとメロの成長と無意識の和解、そして「キラの行為は、そしてキラという存在は果たして善なのか悪なのか」といったある種哲学的な苦悩の描写が現れる。
第二部は、デスノートという超常的な殺人兵器そのものがもたらす広い影響のようなものに物語の焦点を移し、そこを描こうとあがいているかのようだ。死んだLの代わりにニアとメロ、彼らの協力者、さらには魅上や高田といったキラ側の協力者まで新たに登場し、複数の登場人物が入り乱れて作戦は錯綜していく。
だが悲しいかな、純粋な知性競争である物語に、哲学的背景を取り込むのが極めて困難であるように、「DEATH NOTE」もこの試みに失敗したと言わざるを得ないようだ。
第一部では物語を支え続けた「一筋縄ではない強烈さがあるが人間性はないキャラクター」という特徴が、第二部ではむしろマイナスに働く。ニュアンスのない人間達が交わす善悪論や社会論は空転していき、「どこかで聞いたような話」の繰り返しになっていった。
最後ニアは月を「単なる殺人快楽者」と断定するが、これは第二部の厚みの無さを象徴している瞬間かも知れない。物語を前進させ続けた主人公に対して、勝利者が与える称号がこれしかないという事実は、「DEATH NOTE」という物語全体が(哲学的には)それだけの厚みしか持ち得なかったことを証明しているように見えるのである。
(2に続く)
理由は簡単で、リアルタイムで接触しそこねたからだ。その後、周囲にファンやマニアが山と現れ、彼らの解釈や謎解きや蘊蓄を聞くだけで十分満足してしまったのである。
それが私にとって幸福なことだったのか否かは、未だにわからないし、きっとわからないままでわるだろう。
こんなことを書いたのは、恐らくあの時代の人にとっての「エヴァ」が、私にとっては「DEATH NOTE」だったのではないかと思ったからだ。
独特の設定、虚構的な登場人物、奇妙で異常な緻密さで積み上げられるルールと世界設定、受け手の予想を覆し続け最後には空中分解するストーリー、そして鑑賞した後の行き場のない不全感——そういったもの全てが、とても近しい空気をかもしだしている。
†
トランプで積み上げられたピラミッドの如き危うい緊張感で疾走する第一部と、そのトランプピラミッドが徐々に崩壊して狂っていく泥沼のような重みの第二部を比べた時、私は好みからも物語全体の完成度からも、第一部に軍配を上げる。
第一部は、文句なしに面白い。あのポテトチップスを使った一幕や山手線でひっそりと行われるジェノサイド、月とLが出会い徐々に距離を詰めていく過程、そして記憶を失った月とLの共闘を経て、それでもなおデスノートを手にした瞬間にキラへ立ち戻る月といったエピソードの連続は、本当に久しぶりに「次のページをめくるのがもどかしい」といった感覚で突き進んでいく。
たぶん、これにとても近い作品はフレドリック・ブラウンの「73光年の妖怪」ではないかと思う。はるか73光年隔てた星からやってきたエイリアンと、エイリアンの目的に気付いた一人の科学者のひそやかな闘いを描く物語だ。
エイリアンは肉体が退化して自分で動くことさえできないが、その本体(亀の甲羅のような代物である)に触れた生命体の意識を支配することができ、死ぬとまた本体にエイリアンの意識が戻る。エイリアンは自分を銜えた犬を手始めに支配し、次々と宿主を殺しながら乗り換えて、宇宙船を作りうるような高度な知能を持つ主人公の科学者を支配しようとたくらむのだが……。
この物語がホラーやオカルトとは全く異なるのは、エイリアンが生命体に憑依し支配する行為に、厳然とした限界とルールが定められていることである。何しろこのエイリアン自身とその憑依に関しては、あれはダメこれはムリと制限がてんこ盛りなのだ。デスノートが月自身「全く不便だよデスノートは」とぼやいたのと同じように。そして狡猾なエイリアンはその制限をものともせず乗り越えながら、徐々に目的に近付いていく。月がデスノートの制限を巧みに乗り越えながら、新世界の神へ近付いていくように。
その狡知にわくわくしつつも、彼の目的が達せられた時にはどん底の恐怖が待っているために素直に喜ぶことができず、ねじれた感情を喚起するところも、よく似ているかも知れない。
タイトルに「妖怪」とあろうが、エイリアンや超能力が物語の骨格であろうが、また不気味な存在が徐々に近付いてくる恐怖が存在していようが、「73光年の妖怪」はホラーではなく、恐らくSFでもなく、コンゲームものに近い狡知を描く物語だろう。
私は「DEATH NOTE」もまた、そういう物語だと思っていた。そして恐らく、第一部は純粋にそうだったのではないか。その単純な構造の中では、死神の超常能力もLの奇矯でとがった魅力も、月やLのほとんどあり得ないような知能も、全て要素に過ぎない。そのことは欠点ではなく、むしろ物語にある種のリアリティを与えていたとも言える。
リアルであることがリアリティを意味しないことは、言うまでもない。ひとつの物語世界がリアリティを獲得するためには、現実世界を模するのではなく、その世界自体で一貫したリアリティを持つことが必要なのだ。第一部は、「傑出した知性を持つ二人の天才が命を賭けて狡知を競う」という構造を詳細に記述し、それ以外の全てを排除するか単純化することによって、物語全体のリアリティを強固なものにしているのである。
†
しかし、この完成度の高いリアリティに満ちた物語世界は、Lの死とともに緩慢に崩壊していく。
第一部と第二部の間に一体何が起こったのか、評論家でもなければ部内者でもない(いや雑誌の定期購読者でさえない)私には全くわからないのだけれど、本当に全く突如と言っていいほどに、第二部の幕開けと同時に「DEATH NOTE」は知恵比べ的構造を振り捨てる。
ノートの強奪やメロのアジトの特定、ニアが月をキラと推理する過程など、第一部と同じ推理ゲームは確かに展開するのだが、どこかしら生気がない。物語の焦点はすでにそこにはない、といった風なのだ。
代わりに、軍隊やマフィアの出動、社会情勢、群集心理やマスコミの愚かさ、家族を犠牲にせざるを得なくなる月、ニアとメロの成長と無意識の和解、そして「キラの行為は、そしてキラという存在は果たして善なのか悪なのか」といったある種哲学的な苦悩の描写が現れる。
第二部は、デスノートという超常的な殺人兵器そのものがもたらす広い影響のようなものに物語の焦点を移し、そこを描こうとあがいているかのようだ。死んだLの代わりにニアとメロ、彼らの協力者、さらには魅上や高田といったキラ側の協力者まで新たに登場し、複数の登場人物が入り乱れて作戦は錯綜していく。
だが悲しいかな、純粋な知性競争である物語に、哲学的背景を取り込むのが極めて困難であるように、「DEATH NOTE」もこの試みに失敗したと言わざるを得ないようだ。
第一部では物語を支え続けた「一筋縄ではない強烈さがあるが人間性はないキャラクター」という特徴が、第二部ではむしろマイナスに働く。ニュアンスのない人間達が交わす善悪論や社会論は空転していき、「どこかで聞いたような話」の繰り返しになっていった。
最後ニアは月を「単なる殺人快楽者」と断定するが、これは第二部の厚みの無さを象徴している瞬間かも知れない。物語を前進させ続けた主人公に対して、勝利者が与える称号がこれしかないという事実は、「DEATH NOTE」という物語全体が(哲学的には)それだけの厚みしか持ち得なかったことを証明しているように見えるのである。
(2に続く)
コチョコボ ― 2007年01月12日
太公望クエストと釣りスキルアップを兼ねて、近頃昼間にツェールン鉱山にこもって釣りをしている。指定生産品でウナギの串焼きが来ないかなぁなんて夢を見つつも、まだ来ないんだけどね……。ああ鞄と金庫が圧迫される。
料理スキルと金策を兼ねて作り始めたスキッドスシは、価格が乱高下しつつも、回転がものすごく速いのでおおむねスムーズに売れていくようだ。ちょっと痛いけれど穀物の種を買って、真面目にタルタルライス栽培に取り組むことにする。
そんなこんなで細かい用事を済ませ、ウィンダスの厩舎へ行ってみると、わがチョコボはヒナからコチョコボに成長していた。色はどうやら、ごく普通の黄色みたい。緑だったらいいなとか、あれこれ考えていたのだけど、結局育て始めてみると別にそんなことはどうでもよくなって、「とにかく元気でいてくれればいいや」みたいな気分になった。
子育てだと、最初は誰もが「とにかく無事に生まれて育てばいい」と思うけど、日が経つにつれて「でも頭もよくなってほしい、運動神経がいい方が、いい学校、いい会社に入って」となると聞くのだけど、チョコボはまるで逆である。初めから愛するために生む子供と、当初は役に立てばなぁと思って育て始めたチョコボ(というかペット)の違いなのだろうか。うーん。
釣りスキル39.7 料理スキル64.3 太公望の竿まであと掘ブナ9468匹
料理スキルと金策を兼ねて作り始めたスキッドスシは、価格が乱高下しつつも、回転がものすごく速いのでおおむねスムーズに売れていくようだ。ちょっと痛いけれど穀物の種を買って、真面目にタルタルライス栽培に取り組むことにする。
そんなこんなで細かい用事を済ませ、ウィンダスの厩舎へ行ってみると、わがチョコボはヒナからコチョコボに成長していた。色はどうやら、ごく普通の黄色みたい。緑だったらいいなとか、あれこれ考えていたのだけど、結局育て始めてみると別にそんなことはどうでもよくなって、「とにかく元気でいてくれればいいや」みたいな気分になった。
子育てだと、最初は誰もが「とにかく無事に生まれて育てばいい」と思うけど、日が経つにつれて「でも頭もよくなってほしい、運動神経がいい方が、いい学校、いい会社に入って」となると聞くのだけど、チョコボはまるで逆である。初めから愛するために生む子供と、当初は役に立てばなぁと思って育て始めたチョコボ(というかペット)の違いなのだろうか。うーん。
釣りスキル39.7 料理スキル64.3 太公望の竿まであと掘ブナ9468匹
「DEATH NOTE」にまつわること 2 ― 2007年01月13日
Lというキャラクターは、回を追うごとに愛嬌を増し、ヒーローとしての地位を獲得していったと思う。
登場した瞬間から明らかに全てを兼ね備えたキャラクターである月と異なり、Lは最初「知性は突出しているが、人格や身体能力や社会性が欠如したキャラ」であるかのように現れ徐々にその予想を裏切っていった。
それが作者の計算なのか、それとも描いていくうちに作者の愛情を獲得していった結果なのかはわからないけれど、Lは次第に「DEATH NOTE」世界における善と人間的完成という象徴性を帯びていく。
だがそれが物語にとってよいことだったのか、私にはわからない。
少なくとも物語が始まった時は、「自らを善と信じる悪」である月の際立った対照者として、つまり「偽悪する善」としてLは存在していた。
月とLはあらゆる点で合わせ鏡のように「異なりつつ同じ」に描かれる。
月の自らの偽善を意識しないところと、Lの自らの偽悪に対する自意識をはじめとして、完璧な美貌と奇怪な外見、デスノートを持つ一個人と国家機関にさえ干渉可能な権力者等々、異なる点はぴたりと正反対なのだが、同じところは不気味なほど一致する。異常な負けず嫌いで、自己の正当性を疑わず、幼稚で、目的のためには他人の生死を使い捨てることも辞さず、そして互いへの親近感や友情はそのままに相手を殺すことができる冷酷さの持ち主。南空ナオミが「あなたにはLと似たものを感じました」と言ったように、月とLは完璧に相対する天秤の両端だったのだろう。
それはつまり、月が善であり得ないのと同じく、Lもまた善ではないことを、意味する。
(少なくとも、あれが善であるのなら、私はごめんこうむりたい。それはLというキャラクターへの愛着とは別の話である)
だが恐らく物語の製作者が、「悪」に寄り添って、しかも悪で在り続けながら物語を製作していくことは、非常に困難なのであろう。
凶悪・異常犯罪者のドキュメンタリーでさえも、対象になった犯罪者はドキュメントする側の共感が追いつかなくなって理解不能な人外の存在に追いやられるか、スティグマを負った聖者や歪んだヒーローになるか、どちらかが多い。いわんや娯楽向けのフィクション作品においては。多くのピカレスク物では、悪は途中である種のヒーローに転換される。
「悪である善」であったLは次第に、「ちょっとヘンなところはあるけど本当はいい人」に傾斜していく。Lは自分の身代わりに死刑囚を利用するような、また「誤認逮捕でなければ問題ない」と言い切って少女を拷問できるような、正常な感覚が欠如した人間であり、単なる「奇矯な善人」ではないはずなのだが、その辺りの負の側面の描写は次第に遠ざかっていったようだ。
そして、Lへのある種好意的な描写が深まるにつれ、物語はどこかバランスを失ったように思える。
最終的にLは死ぬ。それは敗北であったはずだけれど、傷つかない「善と人間的完成の象徴」への昇華を意味するのかも知れず、片割れを失った月がその後人格的にもキャラクター的にも崩壊の一途を辿っていくのとは(またしても)対照的である。
その後登場するニアとメロのキーワードは「Lを超えること」であり、月にとってニアとメロはLの粗悪模造品でしかない。Lのお面をかぶったニアに対して「お前はそれに値しない」と思考したように。
(Lに比べて魅力に乏しいニアとメロに対して、一部の読者が同じような感想を抱いただろうけれど)
Lは死ぬことで純粋なヒーローとして完成し、同時にヒーローが死んだ物語が空転していく様は皮肉だ。そして(アンチやスティグマとしての)ヒーローになる可能性があった月を唯一理解し、友人という対等な関係を築いたLの死によって、月が物語の構造の中で「理解される」機会は失われる。第二部の月には、傍観者と賛美者と敵しか残されない。それにも関わらず物語は心理劇に転じ、あの奇妙な展開を見せるのだけれど……。
†
先に述べた通り、月にとってニアとメロはLの粗悪代替品だったけれど、恐らくニアとメロにとってもキラ(そして月)は直接の対象ではなかったろう。
ニアとメロは、互い同士を、そしてLを相手にコミュニケーションしていたのであって、キラはその道具に過ぎなかった。
このねじれた構造は、実は月とニア・メロに限らなくて、ニア陣営、メロ陣営、月陣営、月と捜査本部メンバーといったほとんど全ての第二部登場人物の関係にあてはまる。
彼らはキラやLといった象徴を挟んで向かい合うけれど、その視線は交差せずに、まるきりすれ違う。彼らのコミュニケーションが、多くの言葉を費やしているのに、どこか空虚なのはそのせいだろう。
第一部の物語構造は、ごくごく単純な知恵比べだったけれど、そこで交わされるコミュニケーションが濃密に感じられるのは、互いに仮面をかぶりつつも正面から取っ組み合い、はらわたをえぐりあうようなものだったからだ。「第一部は接近戦だったけれど、第二部は遠隔攻撃中心」と言った人がいたけれど、これは本当によく本質を言い当ててる気がする。
私が思い出すのは、捜査本部の中で、「キラは本当に悪なんだろうか?」という問いを松田が吐き出して苦しむ場面である。月は松田の姿を見ていない。彼は窓の外を見ている(そして窓には月自身の姿が映っている)。月は、キラを代弁するという形で自分の心情を吐露する。だが月とその他の人間達の視線が合うことはない。
(3につづく)
登場した瞬間から明らかに全てを兼ね備えたキャラクターである月と異なり、Lは最初「知性は突出しているが、人格や身体能力や社会性が欠如したキャラ」であるかのように現れ徐々にその予想を裏切っていった。
それが作者の計算なのか、それとも描いていくうちに作者の愛情を獲得していった結果なのかはわからないけれど、Lは次第に「DEATH NOTE」世界における善と人間的完成という象徴性を帯びていく。
だがそれが物語にとってよいことだったのか、私にはわからない。
少なくとも物語が始まった時は、「自らを善と信じる悪」である月の際立った対照者として、つまり「偽悪する善」としてLは存在していた。
月とLはあらゆる点で合わせ鏡のように「異なりつつ同じ」に描かれる。
月の自らの偽善を意識しないところと、Lの自らの偽悪に対する自意識をはじめとして、完璧な美貌と奇怪な外見、デスノートを持つ一個人と国家機関にさえ干渉可能な権力者等々、異なる点はぴたりと正反対なのだが、同じところは不気味なほど一致する。異常な負けず嫌いで、自己の正当性を疑わず、幼稚で、目的のためには他人の生死を使い捨てることも辞さず、そして互いへの親近感や友情はそのままに相手を殺すことができる冷酷さの持ち主。南空ナオミが「あなたにはLと似たものを感じました」と言ったように、月とLは完璧に相対する天秤の両端だったのだろう。
それはつまり、月が善であり得ないのと同じく、Lもまた善ではないことを、意味する。
(少なくとも、あれが善であるのなら、私はごめんこうむりたい。それはLというキャラクターへの愛着とは別の話である)
だが恐らく物語の製作者が、「悪」に寄り添って、しかも悪で在り続けながら物語を製作していくことは、非常に困難なのであろう。
凶悪・異常犯罪者のドキュメンタリーでさえも、対象になった犯罪者はドキュメントする側の共感が追いつかなくなって理解不能な人外の存在に追いやられるか、スティグマを負った聖者や歪んだヒーローになるか、どちらかが多い。いわんや娯楽向けのフィクション作品においては。多くのピカレスク物では、悪は途中である種のヒーローに転換される。
「悪である善」であったLは次第に、「ちょっとヘンなところはあるけど本当はいい人」に傾斜していく。Lは自分の身代わりに死刑囚を利用するような、また「誤認逮捕でなければ問題ない」と言い切って少女を拷問できるような、正常な感覚が欠如した人間であり、単なる「奇矯な善人」ではないはずなのだが、その辺りの負の側面の描写は次第に遠ざかっていったようだ。
そして、Lへのある種好意的な描写が深まるにつれ、物語はどこかバランスを失ったように思える。
最終的にLは死ぬ。それは敗北であったはずだけれど、傷つかない「善と人間的完成の象徴」への昇華を意味するのかも知れず、片割れを失った月がその後人格的にもキャラクター的にも崩壊の一途を辿っていくのとは(またしても)対照的である。
その後登場するニアとメロのキーワードは「Lを超えること」であり、月にとってニアとメロはLの粗悪模造品でしかない。Lのお面をかぶったニアに対して「お前はそれに値しない」と思考したように。
(Lに比べて魅力に乏しいニアとメロに対して、一部の読者が同じような感想を抱いただろうけれど)
Lは死ぬことで純粋なヒーローとして完成し、同時にヒーローが死んだ物語が空転していく様は皮肉だ。そして(アンチやスティグマとしての)ヒーローになる可能性があった月を唯一理解し、友人という対等な関係を築いたLの死によって、月が物語の構造の中で「理解される」機会は失われる。第二部の月には、傍観者と賛美者と敵しか残されない。それにも関わらず物語は心理劇に転じ、あの奇妙な展開を見せるのだけれど……。
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先に述べた通り、月にとってニアとメロはLの粗悪代替品だったけれど、恐らくニアとメロにとってもキラ(そして月)は直接の対象ではなかったろう。
ニアとメロは、互い同士を、そしてLを相手にコミュニケーションしていたのであって、キラはその道具に過ぎなかった。
このねじれた構造は、実は月とニア・メロに限らなくて、ニア陣営、メロ陣営、月陣営、月と捜査本部メンバーといったほとんど全ての第二部登場人物の関係にあてはまる。
彼らはキラやLといった象徴を挟んで向かい合うけれど、その視線は交差せずに、まるきりすれ違う。彼らのコミュニケーションが、多くの言葉を費やしているのに、どこか空虚なのはそのせいだろう。
第一部の物語構造は、ごくごく単純な知恵比べだったけれど、そこで交わされるコミュニケーションが濃密に感じられるのは、互いに仮面をかぶりつつも正面から取っ組み合い、はらわたをえぐりあうようなものだったからだ。「第一部は接近戦だったけれど、第二部は遠隔攻撃中心」と言った人がいたけれど、これは本当によく本質を言い当ててる気がする。
私が思い出すのは、捜査本部の中で、「キラは本当に悪なんだろうか?」という問いを松田が吐き出して苦しむ場面である。月は松田の姿を見ていない。彼は窓の外を見ている(そして窓には月自身の姿が映っている)。月は、キラを代弁するという形で自分の心情を吐露する。だが月とその他の人間達の視線が合うことはない。
(3につづく)
アラン 幸福論 ― 2007年01月14日
アラン 幸福論,神谷幹夫訳,200.5.7.第8刷(1998.1.16.初刷),青656-2
とても面白い本だ。私にとってはね。
ひとは望んだものを手に入れるものだという思想、空想上の苦痛や不幸に囚われていないでまず行動せよという明確な処方箋、そして、意志とオプティミズムによって幸福を構築しようとする強い態度。こういったものは多くの幸福論に出てくる内容で、しかもそれを切れ味鋭い文章によって述べている。散文詩の趣。
けれど、古典や文学が好きという種類の人間は、けっこうペシミスティックで不幸と悲しみを後生大事に抱えるのが好きな、苦悩=快楽人間であったりするので、こういった本は微妙な評価しかされないだろうなという気がする。
そういった「生き方」論とはまた別に、戦争や平和というものについて述べたプロポも多くて、これはリアルタイムで胸をえぐる。「死に対する恐怖は暇人の考えることである」「死を待つより死を呼び出すことの方が容易なのだ」等々の言葉は、今の日本やアメリカの状況を想起させられて怖い。
もちろん、この言葉だけで現在の戦況は説明できない。だが、少なくともアメリカが戦争を始めたのは、目に見えないテロという恐怖を見える戦争という惨劇で代替しようとしたからだ、というのも一面の真実だろう。
とても面白い本だ。私にとってはね。
ひとは望んだものを手に入れるものだという思想、空想上の苦痛や不幸に囚われていないでまず行動せよという明確な処方箋、そして、意志とオプティミズムによって幸福を構築しようとする強い態度。こういったものは多くの幸福論に出てくる内容で、しかもそれを切れ味鋭い文章によって述べている。散文詩の趣。
けれど、古典や文学が好きという種類の人間は、けっこうペシミスティックで不幸と悲しみを後生大事に抱えるのが好きな、苦悩=快楽人間であったりするので、こういった本は微妙な評価しかされないだろうなという気がする。
そういった「生き方」論とはまた別に、戦争や平和というものについて述べたプロポも多くて、これはリアルタイムで胸をえぐる。「死に対する恐怖は暇人の考えることである」「死を待つより死を呼び出すことの方が容易なのだ」等々の言葉は、今の日本やアメリカの状況を想起させられて怖い。
もちろん、この言葉だけで現在の戦況は説明できない。だが、少なくともアメリカが戦争を始めたのは、目に見えないテロという恐怖を見える戦争という惨劇で代替しようとしたからだ、というのも一面の真実だろう。
「DEATH NOTE」にまつわること 3 ― 2007年01月15日
夜神月、というキャラクターについて語る時、私はとても奇妙な気持ちになる。
通常なら、私は彼のような人間を全く好まない——というより、傍にいたらはっきりと嫌悪するだろう。
そもそも私は、意図が純粋であっても結果が正しくても、倫理を他者に強制する人間を認めない。月という人間は、始末に負えないほど独善的で、他者に対する共感能力に乏しい。善意を惜しげもなく燃料として投じながら人を殺していく彼の姿は、恐怖政治を敷く独裁者の類型に極めて近いだろう。
だが不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語の中で私が最も感情移入した(そして恐らく最も好んだ)キャラクターは夜神月であって、Lやミサや松田ではないのである。
まあ「やっぱり美形はいいよね」といった笑い話に軟着陸させてしまえば、一番わかりやすいし納得しやすいところなのだが、そう簡単な理屈ではないらしい。
(そう思いたいだけなのかも知れないが)
「DEATH NOTE」がもともと短篇として作られ、その後設定を生かしてこの連載に至った、という事情を私は全く知らなくて、連載終了後に友人から聞いた。その友人が言うには「『笑ウせいるすまん』みたいなテイストの一話完結型の連載になると思ってた」そうだ。
だがそうはならず、「DEATH NOTE」はあのような長編となった。それが成立したのは、月というキャラクターに因るところが大きい。
考えてみると、たとえばLは、単独で別の物語の登場人物になり得る(実際外伝はLが事件を解決していく探偵ものだ)。だが月はどうだろうか。不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語から切り離された月は極めてキャラクター性に乏しいのだ。
常軌を逸したと言ってもいいような知能と、強靱極まりない精神力、優れた運動神経と体力、端整な美貌、他人を簡単に籠絡できる魅力、そういった「何もかも神様から与えられた」人間——だがただそれだけのキャラクター、になってしまう。
月は「DEATH NOTE」でこそ生かされるキャラクターであり、そして同時に彼なしでは「DEATH NOTE」という物語は成立しない。
他人を焼きつくす白光のごとき陰翳のない、月というキャラクターは、「DEATH NOTE」という物語でそれこそ光そのもののように直進する。
彼は終始迷いがなく、妥協せず、限りなく純粋で、決してあきらめず、同時に己の過ちを認めることも、そもそも己を振り返ることもほとんどない。
「僕は日本一と言ってもいいくらい真面目な優等生だよ」と何の衒いもなく言ってしまうような彼の自己中心性は、あまりにまっすぐで、独善を通り越してほとんど神(悪魔)の領域に入っているような気さえする。
物語は、彼のそんな様子を突き放すのではなく、微妙な距離感を保ちつつも常に寄り添いながら展開していく。
月はどうしようもなくエゴイスティックで選民意識に凝り固まっている人間なのだが、どこかに透明感と哀しみを帯びる。その哀切さは月自身が抱くものではなく、極めて優れた資質を持ちながら滅亡へ突き進んでいく予感から読者が抱くものだが。
(逆にそこに哀切さではなく嫌悪を感じ、彼が崩壊していく様をむしろ歓迎し喜ぶ読者も多かっただろうけれど)
†
月を単なる独裁者という描写から救い出しているのは、恐らく彼の家族——中でも総一郎の存在だろう。
月が父親に抱いている感情は、実はとても奇妙な描写のされ方をしていて、物語の中ではっきりと結論が出せないように、つまり無限の解釈が可能なようになっている。
単純に頼りにできる手駒であり、月がキラではないことを装うための重要な道具として考えているようにも見えるし、純粋な敬愛の対象であり、大切な心の温もりであるようにも見える。
恐らくその全てが入り混じっているというのが一番間違いの少ない考えで、また実際人間が親に抱く感情というのはそういった複雑怪奇なものだろう。
過労で総一郎が心臓発作を起こした時、月はLとともに「まさかキラが」と叫ぶ。そうではないことは彼自身が誰よりも知っているはずで、キラではないことを隠すためにLに見せたポーズと考えるのが自然だ。だがその表情は、Lに相対していた時に描かれる「作った表情」とは異なったものにも見える。その瞬間だけ、月はキラであることを忘れ、愛する人を失う無防備な少年になったかのようだ。
その後の、入院した父と交わす「僕がキラを死刑にする」といった言動は、Lに「演技だとしたらクサすぎる」とまで思わせ、総一郎に「月がLであるはずがない」と確信させる。月の演技力を見せるエピソードとも、月が「純粋な善」として存在できるのは実は家族の愛の中だけだというニュアンスを示しているともとれる。
他の誰をも(自分を命がけで愛しているミサさえも)道具として使い捨てることをためらわない月が、唯一守ろうとあがくのが、総一郎を含めた家族の存在である。繰り返しになるが、もちろんそれは、「キラではないというポーズ」のためともとれる。
月の心に設定されたこの一種の聖域は、月に残された数少ないキャラクター性である。単なる制約と見るか、月の最後の良心と見るかで、月というキャラクターに対する印象と評価は全く変わってくるだろう。
そしていよいよ第二部で、聖域が破壊される時が来る。粧裕は命をとりとめるものの心を失い、さらに月は、父親をデスノートの所有者に設定して殺すか否かを迫られる。
結局月は、父親を助けることを選ばなかった(選べなかった)。
総一郎は、月の寿命が見えるために月がキラではないのだという確信を持ったまま、幸福に死ぬ。月が泣きながら「悔しくないのか、せめてメロの名前をデスノートに書いてくれ」と頼む声も間に合わない。その懇願はメロを殺す的確な手段であるけれど、同時に父を失おうとしている月が怒りを転嫁した先であるメロへの復讐をも意味している。
彼の涙が空涙なのか、最初で最後の本当の涙なのか、物語は結論を示すことはない。どちらにせよ、自分の手で自分の良心の象徴を破壊した月は、それから先は議論の余地のない悪に——「ただの大量殺人者」に転落していく。
そういう意味では、夜神月というキャラクターは、実は夜神総一郎というキャラクターがあって成立していたのかも知れない。Lしかり、総一郎しかり、月は他のキャラクターとの関係性において初めて「キャラクター」として光り輝く。発光体であるけれど、自ら輝く太陽ではなく反射体である月という天文が彼の名前になっているのは、偶然なのだろうけれど。
†
余談だが、これにとても近いキャラクターとして私が思い出すのは、吉田秋生の「吉祥天女」の主人公、叶小夜子である。彼女は新世界の神を目指すほど傲慢ではなかったけれど、家と家族と自らの女性性を守ろうという懸命で純粋な気持ちのまま、次々と殺人を実行し、最後には本当に自分を想ってくれていた(そして彼女自身も恐らく最も大切に想っていたと感じられる)少年を死に追いやることになる。
だが「吉祥天女」は「DEATH NOTE」とは全く異なる結末を迎える。それが何故なのかは、この双方の作品を読んでいただくととても明快にわかるだろう。
†
月という人間が崩壊していくのは、第二部で顕著にはなるけれど、恐らく物語のテーマのひとつとして最初から念頭に置かれていただろう。その証拠に、デスノートを持ってからの月の顔や表情は、明確に変化する。いわゆる漫画家のペンタッチの変化とは明らかに異なる、作為的なものだ。その意味では、純粋な善であった月が、殺人を重ねるにつれて次第にただの殺人者に堕落していき、最後は無惨に死ぬというのは想定されていた結末だったのに違いない。
だが、人間性の変化とは別に、キャラクター性の変化というものが恐らくあって、こちらは想定していたというよりもやや暴走していったような雰囲気がある。
第二部以降、次第に不利になっていき、しかも凶悪で狂気に満ちた存在になっていく月を、物語はサディスティックな興奮を交えて描く。それまで月に寄り添っていた物語が、彼を裏切り、彼を嬉々として苛み始める。
まるまる見開きで描かれるあの「僕がキラだよ」という告白、「単なる大量殺人者」という烙印、そして全ての味方から背を向けられ醜悪極まりない形で迎える死。それらはただ惨めというだけではなく、月という人間にもキャラクターにもまるで似つかわしくない。醜悪だからではなく、その醜悪さの方向性が彼らしくない、と言うべきだろうか。私は呆然と「今まで保たれてきた月という人間の統一性はどこへ行ってしまったんだろう?」と思ったのを覚えている。
さらに言えば、あの場面には「彼が犯してきた罪への罰」といった言葉では説明のつかない、暗い感覚に満ちている。あそこで描かれるのは全てを失った犯罪者に対して民衆が石を投げるリンチの情念だ。
ここでカタルシスを覚え溜飲を下げた読者もいるはずで、それは月というキャラクター(および人間)から離陸し彼を突き放すことに成功した読者だろう。
同時に、月に対して否定的な感情を抱きつつも、どこかで共感を続けていたタイプの読者の感情はここで放り出され、物語は空中分解する。物語の終わりで「月くんはキラだったが、彼のことが好きだったろう?」と問われる松田のように、虚脱感にも似たやりきれなさを抱えていくことを余儀なくされる。
(4に続く)
通常なら、私は彼のような人間を全く好まない——というより、傍にいたらはっきりと嫌悪するだろう。
そもそも私は、意図が純粋であっても結果が正しくても、倫理を他者に強制する人間を認めない。月という人間は、始末に負えないほど独善的で、他者に対する共感能力に乏しい。善意を惜しげもなく燃料として投じながら人を殺していく彼の姿は、恐怖政治を敷く独裁者の類型に極めて近いだろう。
だが不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語の中で私が最も感情移入した(そして恐らく最も好んだ)キャラクターは夜神月であって、Lやミサや松田ではないのである。
まあ「やっぱり美形はいいよね」といった笑い話に軟着陸させてしまえば、一番わかりやすいし納得しやすいところなのだが、そう簡単な理屈ではないらしい。
(そう思いたいだけなのかも知れないが)
「DEATH NOTE」がもともと短篇として作られ、その後設定を生かしてこの連載に至った、という事情を私は全く知らなくて、連載終了後に友人から聞いた。その友人が言うには「『笑ウせいるすまん』みたいなテイストの一話完結型の連載になると思ってた」そうだ。
だがそうはならず、「DEATH NOTE」はあのような長編となった。それが成立したのは、月というキャラクターに因るところが大きい。
考えてみると、たとえばLは、単独で別の物語の登場人物になり得る(実際外伝はLが事件を解決していく探偵ものだ)。だが月はどうだろうか。不思議なことに、「DEATH NOTE」という物語から切り離された月は極めてキャラクター性に乏しいのだ。
常軌を逸したと言ってもいいような知能と、強靱極まりない精神力、優れた運動神経と体力、端整な美貌、他人を簡単に籠絡できる魅力、そういった「何もかも神様から与えられた」人間——だがただそれだけのキャラクター、になってしまう。
月は「DEATH NOTE」でこそ生かされるキャラクターであり、そして同時に彼なしでは「DEATH NOTE」という物語は成立しない。
他人を焼きつくす白光のごとき陰翳のない、月というキャラクターは、「DEATH NOTE」という物語でそれこそ光そのもののように直進する。
彼は終始迷いがなく、妥協せず、限りなく純粋で、決してあきらめず、同時に己の過ちを認めることも、そもそも己を振り返ることもほとんどない。
「僕は日本一と言ってもいいくらい真面目な優等生だよ」と何の衒いもなく言ってしまうような彼の自己中心性は、あまりにまっすぐで、独善を通り越してほとんど神(悪魔)の領域に入っているような気さえする。
物語は、彼のそんな様子を突き放すのではなく、微妙な距離感を保ちつつも常に寄り添いながら展開していく。
月はどうしようもなくエゴイスティックで選民意識に凝り固まっている人間なのだが、どこかに透明感と哀しみを帯びる。その哀切さは月自身が抱くものではなく、極めて優れた資質を持ちながら滅亡へ突き進んでいく予感から読者が抱くものだが。
(逆にそこに哀切さではなく嫌悪を感じ、彼が崩壊していく様をむしろ歓迎し喜ぶ読者も多かっただろうけれど)
†
月を単なる独裁者という描写から救い出しているのは、恐らく彼の家族——中でも総一郎の存在だろう。
月が父親に抱いている感情は、実はとても奇妙な描写のされ方をしていて、物語の中ではっきりと結論が出せないように、つまり無限の解釈が可能なようになっている。
単純に頼りにできる手駒であり、月がキラではないことを装うための重要な道具として考えているようにも見えるし、純粋な敬愛の対象であり、大切な心の温もりであるようにも見える。
恐らくその全てが入り混じっているというのが一番間違いの少ない考えで、また実際人間が親に抱く感情というのはそういった複雑怪奇なものだろう。
過労で総一郎が心臓発作を起こした時、月はLとともに「まさかキラが」と叫ぶ。そうではないことは彼自身が誰よりも知っているはずで、キラではないことを隠すためにLに見せたポーズと考えるのが自然だ。だがその表情は、Lに相対していた時に描かれる「作った表情」とは異なったものにも見える。その瞬間だけ、月はキラであることを忘れ、愛する人を失う無防備な少年になったかのようだ。
その後の、入院した父と交わす「僕がキラを死刑にする」といった言動は、Lに「演技だとしたらクサすぎる」とまで思わせ、総一郎に「月がLであるはずがない」と確信させる。月の演技力を見せるエピソードとも、月が「純粋な善」として存在できるのは実は家族の愛の中だけだというニュアンスを示しているともとれる。
他の誰をも(自分を命がけで愛しているミサさえも)道具として使い捨てることをためらわない月が、唯一守ろうとあがくのが、総一郎を含めた家族の存在である。繰り返しになるが、もちろんそれは、「キラではないというポーズ」のためともとれる。
月の心に設定されたこの一種の聖域は、月に残された数少ないキャラクター性である。単なる制約と見るか、月の最後の良心と見るかで、月というキャラクターに対する印象と評価は全く変わってくるだろう。
そしていよいよ第二部で、聖域が破壊される時が来る。粧裕は命をとりとめるものの心を失い、さらに月は、父親をデスノートの所有者に設定して殺すか否かを迫られる。
結局月は、父親を助けることを選ばなかった(選べなかった)。
総一郎は、月の寿命が見えるために月がキラではないのだという確信を持ったまま、幸福に死ぬ。月が泣きながら「悔しくないのか、せめてメロの名前をデスノートに書いてくれ」と頼む声も間に合わない。その懇願はメロを殺す的確な手段であるけれど、同時に父を失おうとしている月が怒りを転嫁した先であるメロへの復讐をも意味している。
彼の涙が空涙なのか、最初で最後の本当の涙なのか、物語は結論を示すことはない。どちらにせよ、自分の手で自分の良心の象徴を破壊した月は、それから先は議論の余地のない悪に——「ただの大量殺人者」に転落していく。
そういう意味では、夜神月というキャラクターは、実は夜神総一郎というキャラクターがあって成立していたのかも知れない。Lしかり、総一郎しかり、月は他のキャラクターとの関係性において初めて「キャラクター」として光り輝く。発光体であるけれど、自ら輝く太陽ではなく反射体である月という天文が彼の名前になっているのは、偶然なのだろうけれど。
†
余談だが、これにとても近いキャラクターとして私が思い出すのは、吉田秋生の「吉祥天女」の主人公、叶小夜子である。彼女は新世界の神を目指すほど傲慢ではなかったけれど、家と家族と自らの女性性を守ろうという懸命で純粋な気持ちのまま、次々と殺人を実行し、最後には本当に自分を想ってくれていた(そして彼女自身も恐らく最も大切に想っていたと感じられる)少年を死に追いやることになる。
だが「吉祥天女」は「DEATH NOTE」とは全く異なる結末を迎える。それが何故なのかは、この双方の作品を読んでいただくととても明快にわかるだろう。
†
月という人間が崩壊していくのは、第二部で顕著にはなるけれど、恐らく物語のテーマのひとつとして最初から念頭に置かれていただろう。その証拠に、デスノートを持ってからの月の顔や表情は、明確に変化する。いわゆる漫画家のペンタッチの変化とは明らかに異なる、作為的なものだ。その意味では、純粋な善であった月が、殺人を重ねるにつれて次第にただの殺人者に堕落していき、最後は無惨に死ぬというのは想定されていた結末だったのに違いない。
だが、人間性の変化とは別に、キャラクター性の変化というものが恐らくあって、こちらは想定していたというよりもやや暴走していったような雰囲気がある。
第二部以降、次第に不利になっていき、しかも凶悪で狂気に満ちた存在になっていく月を、物語はサディスティックな興奮を交えて描く。それまで月に寄り添っていた物語が、彼を裏切り、彼を嬉々として苛み始める。
まるまる見開きで描かれるあの「僕がキラだよ」という告白、「単なる大量殺人者」という烙印、そして全ての味方から背を向けられ醜悪極まりない形で迎える死。それらはただ惨めというだけではなく、月という人間にもキャラクターにもまるで似つかわしくない。醜悪だからではなく、その醜悪さの方向性が彼らしくない、と言うべきだろうか。私は呆然と「今まで保たれてきた月という人間の統一性はどこへ行ってしまったんだろう?」と思ったのを覚えている。
さらに言えば、あの場面には「彼が犯してきた罪への罰」といった言葉では説明のつかない、暗い感覚に満ちている。あそこで描かれるのは全てを失った犯罪者に対して民衆が石を投げるリンチの情念だ。
ここでカタルシスを覚え溜飲を下げた読者もいるはずで、それは月というキャラクター(および人間)から離陸し彼を突き放すことに成功した読者だろう。
同時に、月に対して否定的な感情を抱きつつも、どこかで共感を続けていたタイプの読者の感情はここで放り出され、物語は空中分解する。物語の終わりで「月くんはキラだったが、彼のことが好きだったろう?」と問われる松田のように、虚脱感にも似たやりきれなさを抱えていくことを余儀なくされる。
(4に続く)
茶の本 ― 2007年01月16日
茶の本,岡倉覚三著,村岡博訳,1981.9.10.第61刷(1929.3.10.第1刷 1961.6.5.第38刷改版),青33-115-1
タイトルに茶とはあるけれど、茶道や茶芸に関する本ではなくて、芸術論や禅論に近い。
この本はアメリカで、東洋文化の啓蒙書として書かれた。それを考えれば、少々勇み足に見える文章も納得がいく。
不完全の中に美を見出し、己を主張するのではなく虚に徹することによって万物と呼応するという発想が、果たして茶道や東洋独自のものなのか、私にはよくわからない。ここに書かれている茶道は、茶道界の見解ではない、岡倉の「マイ茶道精神」という気もする。
この本の面白さは、結局のところ茶道の真髄がどうということではなく、あちこちの冴えた岡倉の芸術認識なのだろう。「われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する」「翻訳は、よくいったところで錦の裏を見るに過ぎぬ。糸は皆あるが色彩は見られない」といった、説明の困難な真理をすぱっと短文で切り取ってくれる様には、感嘆するばかりである。
タイトルに茶とはあるけれど、茶道や茶芸に関する本ではなくて、芸術論や禅論に近い。
この本はアメリカで、東洋文化の啓蒙書として書かれた。それを考えれば、少々勇み足に見える文章も納得がいく。
不完全の中に美を見出し、己を主張するのではなく虚に徹することによって万物と呼応するという発想が、果たして茶道や東洋独自のものなのか、私にはよくわからない。ここに書かれている茶道は、茶道界の見解ではない、岡倉の「マイ茶道精神」という気もする。
この本の面白さは、結局のところ茶道の真髄がどうということではなく、あちこちの冴えた岡倉の芸術認識なのだろう。「われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する」「翻訳は、よくいったところで錦の裏を見るに過ぎぬ。糸は皆あるが色彩は見られない」といった、説明の困難な真理をすぱっと短文で切り取ってくれる様には、感嘆するばかりである。
「DEATH NOTE」にまつわること 4 ― 2007年01月17日
デスノートという存在は、大抵の人間(そしてキャラクター)を簡単に呑みこみ翻弄し破壊する。一話完結型のストーリーだったら、心弱い人間がデスノートによって束の間欲望を叶え、そしてデスノートによって滅ぼされるという、寓話的な(そしてとても典型的な)物語として成立しただろう。
だがデスノートに支配されるはなく、あくまで道具として使いこなしながら、自分の目的を達していける稀有なキャラクターとして月は存在する。
デスノートを使った直後、月は恐怖で不眠に苦しみ数キロ痩せ、その後死神という超常的な存在に出会うが、なお持ち堪える。それからの彼は、自分に対する迷いや苦悩を一切表さない。そしてリュークに「お前は立派な死神だ」「もしかしてすごく前向きな奴」「最高の奴にノートを拾われた」とまで言わしめた訳だ。
それ自体が人の運命を狂わせる超越的な存在であったデスノートは、ここで「月の道具」に変わる。卓越した知性と精神力と体力と美貌が月の武器であるように、デスノートもひとつの武器に過ぎなくなる。「DEATH NOTE」がデスノートの物語ではなく月の物語になった瞬間だ。
……と、ここで恐らく多くの人が反論するだろう。
「いや、月もデスノートに支配されていたのではないか。記憶を失った彼は、キラのようになるなんて考えられないと自認していた。月はデスノートによってキラになり、そして段々と歯止めが効かなくなって、最後はデスノートと死神に殺されたのだ」
いや全くその通り。デスノートにあのような形で出会わなかったら、月があのような思想に至りあのような行為に走ったかは、はなはだ疑問だ。恐らく、月は父親と同じ、ひどく頭がいいがちょっと融通が効かない高潔な警察官僚として一生を終えただろう。
(そして「DEATH NOTE」は「笑ウせいるすまん」みたいな一話完結型連載になったことだろう)
「もし月がデスノートに出会わなかったら」というifの世界は、物語内で実現する。デスノートと記憶を失った月はLと共に、ヨツバ・キラを追いつめる。このエピソードは、完全に善である月と奇矯な善人であるLが、議論の余地なく悪人であるヨツバ・キラに相対するという、とても安心して応援できる設定もあって、わくわくするような興奮に満ちている。
と同時に、「月なしのデスノート」がどれほど脆い存在であるかも露呈される。ヨツバ・キラの終わりは実にあっけない。ある意味ではデスノートに翻弄される心弱い人間のストーリーそのものだ。
やがて月とデスノートは再会し、死を大量生産していくキラに立ち戻り、そして月の死後、デスノートは燃やされて消える。殉死する臣下のように。
デスノートと月は、どちらかがどちらかを支配していたというより、絡まりあうウロボロスの蛇となって一体化していたらしい。
デスノートは物語中何人かの手に広がっていくが、キラ(つまり月)の縮小再生産を繰り返すのみである。唯一デスノートを持っても持たなくても全くと言っていいほど変わらなかったキャラクターは、ミサだ。デスノートをあれほど長く所有し、また何人と人を殺したにもかかわらず、デスノートを所有しても手放しても、彼女には記憶以外何の変化もない。ひょっとしてキラがいなかったら、彼女はデスノートを使用することさえなかったのではないかとさえ思わされる。
他にデスノートを(恐らく)使用して生き延びたのはニアだけだが、彼はLの後継者であり、デスノートを使わずとも悪人を裁ける(そして同時に他人を合法的に使い捨て殺すことができる)権力者である。彼がデスノートに捕まらなかったのは、すでにそれに代わるものを持っていたからとも言えるだろう。
だからこそ、デスノートでしかできない「善」があった時、ニアはそれを実行してのけたのだ。つまりニアもまた、純粋な善にはなり得なかったのである。まぁ彼はLになりたかったのであって善になどあまり興味はなかったようにも見えるが。
†
第二部は、月が墜落していく物語であると同時に、ニアとメロの和解と、瞬間的な救済の物語である。
ニアとメロは、Lの後継ゲームの道具としてキラを選ぶ。Lにとってキラは正面から向き合う生涯を賭けた闘いの相手だったが、ニアとメロにとってはそうではない。主人公を根本的には無視している人間達が物語の根幹に入ってくることで、第二部の軸はかなり狂ってしまった。
もしも、月という存在を完全に除外するか、あるいは月の視点を排除してニアとメロに視点を固定していたら、第二部はもっと完成度の高いものになっていたように思う。
ニアとメロの葛藤と愛憎は、月とLの間に交わされたものに似ているが、さらに濃密で圧迫感に満ちている。彼らはシャム双生児のごとき不可分の存在だ。ニアとメロは反発を繰り返しながらようやく無意識の共闘を成し遂げ、月を(そしてLを)超える。だがそのためにはメロが死なねばならなかった。
片割れを失ったニアは、メロのチョコレートを貪る癖を引き継いでLとなる。——しかし、死が虚無を意味するこの世界で、その姿を「ニアとメロがひとつになってLとなった」と考えるのは、やや単純で感傷的に過ぎる気がする。私の目にはそれは、メロの命を代償に一度だけLになり得たけれど、それを永続させる可能性を失ってしまったニアの、空虚さを埋めようとあがく行為のように映るのだが……それについては、異論も多いことだろう。
何度か述べたように、ニアとメロの意識は常に互いに、そしてLに向けられている。
そのため、彼らにとって月は単なる通過点に過ぎず、月の帯びるある種の悲劇性や苦悩には全く興味がない。そもそも彼らと月が出会うのはひとときであり、最初から最後までニアとメロにとってキラはほとんど概念でしかなかったろう。
(その頃の月が、度重なる聖域の喪失によってすでに人間性とキャラクター性を失いつつあったこともそれを加速する)
ニアは月をただの大量殺人者と切って捨てるが、それは恐らくLが月に抱いていた感情とは微妙に異なっている。また同じようにデスノートを使って「一番の存在になろうとした」メロがキラとして彼に対峙したとしたら、ニアは全く違った感情を抱いたことだろう。月・L、ニア・メロは、(レベルや質とは全く別の意味で)次元を異にする存在だ。両者の間には、恐らく理解や共感は一瞬たりとも存在しなかったし、その可能性すらなかっただろう。
月とニア(メロ)の闘いは、どこかちぐはぐで、緊張感というよりは不協和音に近い落ち着かなさをただよわせている。それは本来なら交わることのなかった運命が、ほとんど手違いのようにして交錯するストーリーだ。そして少なくとも月という主人公には、その結果は死であるのみならず、何の実りももたらさない。
ニアの断罪は月の心に届くことなく、月は己の偽善性や過ちや罪悪や狂気を自覚しないまま、ただのたうちまわって死ぬ。その光景は、月を貶めると同時に、ニアの限界を——他者に対する共感性や悪に転落する者の苦悩への理解を持たず、自己の正当性に疑いを抱くことのない、平板な人間性を示してしまう。
ニアとメロが手を取り合ってLを超える和解の物語は、ここでもまた空中分解を起こし、ニアはただ知恵比べに優れる「人間性の欠如したL」ではないだろうか、という不安が生まれる。
もしニアが正面から闘う相手が月ではなく、本来闘うべき相手であれば——彼が正面から向き合い、本当の意味で存在を賭けて闘い、その過程で理解が生じる可能性のある相手であったなら。ニアは頭脳という意味だけでなく精神性や人間性という側面においても、Lに比肩する、あるいはLを超える存在として読者の心に響いたかも知れない。だがその可能性は残念ながら失われている。この無念さもまた、私が第二部を決して評価できない理由のひとつである。
†
ついでながら、Lなき後月の「本当の相手」として対峙できる可能性があったのは、意外だけれど松田であったかも知れない。
彼は唯一、キラという存在に対して否定一辺倒ではない複雑な感情を持つ人間として描かれ、またキラとは無関係に月という人間自身に、単なる仲間意識を越えた友情を感じていたキャラクターである。彼が見ていた月が、多くの仮面によって構成されている代物であったことを割り引いても。
結局物語は、松田を月に近づけることはあっても、それ以上の共感は許さない。松田が最後に月に与える言葉は、月の父親に関することである。松田と月の関係性は、総一郎を共有したという仲間意識に後退する。
月の死後、松田は彼への哀惜を表すが、それすらも他の人間に指摘されるまでは気付かない。松田の月への感情は、物語の奥深く、二重三重に屈折して封印されていく。
(5に続く)
だがデスノートに支配されるはなく、あくまで道具として使いこなしながら、自分の目的を達していける稀有なキャラクターとして月は存在する。
デスノートを使った直後、月は恐怖で不眠に苦しみ数キロ痩せ、その後死神という超常的な存在に出会うが、なお持ち堪える。それからの彼は、自分に対する迷いや苦悩を一切表さない。そしてリュークに「お前は立派な死神だ」「もしかしてすごく前向きな奴」「最高の奴にノートを拾われた」とまで言わしめた訳だ。
それ自体が人の運命を狂わせる超越的な存在であったデスノートは、ここで「月の道具」に変わる。卓越した知性と精神力と体力と美貌が月の武器であるように、デスノートもひとつの武器に過ぎなくなる。「DEATH NOTE」がデスノートの物語ではなく月の物語になった瞬間だ。
……と、ここで恐らく多くの人が反論するだろう。
「いや、月もデスノートに支配されていたのではないか。記憶を失った彼は、キラのようになるなんて考えられないと自認していた。月はデスノートによってキラになり、そして段々と歯止めが効かなくなって、最後はデスノートと死神に殺されたのだ」
いや全くその通り。デスノートにあのような形で出会わなかったら、月があのような思想に至りあのような行為に走ったかは、はなはだ疑問だ。恐らく、月は父親と同じ、ひどく頭がいいがちょっと融通が効かない高潔な警察官僚として一生を終えただろう。
(そして「DEATH NOTE」は「笑ウせいるすまん」みたいな一話完結型連載になったことだろう)
「もし月がデスノートに出会わなかったら」というifの世界は、物語内で実現する。デスノートと記憶を失った月はLと共に、ヨツバ・キラを追いつめる。このエピソードは、完全に善である月と奇矯な善人であるLが、議論の余地なく悪人であるヨツバ・キラに相対するという、とても安心して応援できる設定もあって、わくわくするような興奮に満ちている。
と同時に、「月なしのデスノート」がどれほど脆い存在であるかも露呈される。ヨツバ・キラの終わりは実にあっけない。ある意味ではデスノートに翻弄される心弱い人間のストーリーそのものだ。
やがて月とデスノートは再会し、死を大量生産していくキラに立ち戻り、そして月の死後、デスノートは燃やされて消える。殉死する臣下のように。
デスノートと月は、どちらかがどちらかを支配していたというより、絡まりあうウロボロスの蛇となって一体化していたらしい。
デスノートは物語中何人かの手に広がっていくが、キラ(つまり月)の縮小再生産を繰り返すのみである。唯一デスノートを持っても持たなくても全くと言っていいほど変わらなかったキャラクターは、ミサだ。デスノートをあれほど長く所有し、また何人と人を殺したにもかかわらず、デスノートを所有しても手放しても、彼女には記憶以外何の変化もない。ひょっとしてキラがいなかったら、彼女はデスノートを使用することさえなかったのではないかとさえ思わされる。
他にデスノートを(恐らく)使用して生き延びたのはニアだけだが、彼はLの後継者であり、デスノートを使わずとも悪人を裁ける(そして同時に他人を合法的に使い捨て殺すことができる)権力者である。彼がデスノートに捕まらなかったのは、すでにそれに代わるものを持っていたからとも言えるだろう。
だからこそ、デスノートでしかできない「善」があった時、ニアはそれを実行してのけたのだ。つまりニアもまた、純粋な善にはなり得なかったのである。まぁ彼はLになりたかったのであって善になどあまり興味はなかったようにも見えるが。
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第二部は、月が墜落していく物語であると同時に、ニアとメロの和解と、瞬間的な救済の物語である。
ニアとメロは、Lの後継ゲームの道具としてキラを選ぶ。Lにとってキラは正面から向き合う生涯を賭けた闘いの相手だったが、ニアとメロにとってはそうではない。主人公を根本的には無視している人間達が物語の根幹に入ってくることで、第二部の軸はかなり狂ってしまった。
もしも、月という存在を完全に除外するか、あるいは月の視点を排除してニアとメロに視点を固定していたら、第二部はもっと完成度の高いものになっていたように思う。
ニアとメロの葛藤と愛憎は、月とLの間に交わされたものに似ているが、さらに濃密で圧迫感に満ちている。彼らはシャム双生児のごとき不可分の存在だ。ニアとメロは反発を繰り返しながらようやく無意識の共闘を成し遂げ、月を(そしてLを)超える。だがそのためにはメロが死なねばならなかった。
片割れを失ったニアは、メロのチョコレートを貪る癖を引き継いでLとなる。——しかし、死が虚無を意味するこの世界で、その姿を「ニアとメロがひとつになってLとなった」と考えるのは、やや単純で感傷的に過ぎる気がする。私の目にはそれは、メロの命を代償に一度だけLになり得たけれど、それを永続させる可能性を失ってしまったニアの、空虚さを埋めようとあがく行為のように映るのだが……それについては、異論も多いことだろう。
何度か述べたように、ニアとメロの意識は常に互いに、そしてLに向けられている。
そのため、彼らにとって月は単なる通過点に過ぎず、月の帯びるある種の悲劇性や苦悩には全く興味がない。そもそも彼らと月が出会うのはひとときであり、最初から最後までニアとメロにとってキラはほとんど概念でしかなかったろう。
(その頃の月が、度重なる聖域の喪失によってすでに人間性とキャラクター性を失いつつあったこともそれを加速する)
ニアは月をただの大量殺人者と切って捨てるが、それは恐らくLが月に抱いていた感情とは微妙に異なっている。また同じようにデスノートを使って「一番の存在になろうとした」メロがキラとして彼に対峙したとしたら、ニアは全く違った感情を抱いたことだろう。月・L、ニア・メロは、(レベルや質とは全く別の意味で)次元を異にする存在だ。両者の間には、恐らく理解や共感は一瞬たりとも存在しなかったし、その可能性すらなかっただろう。
月とニア(メロ)の闘いは、どこかちぐはぐで、緊張感というよりは不協和音に近い落ち着かなさをただよわせている。それは本来なら交わることのなかった運命が、ほとんど手違いのようにして交錯するストーリーだ。そして少なくとも月という主人公には、その結果は死であるのみならず、何の実りももたらさない。
ニアの断罪は月の心に届くことなく、月は己の偽善性や過ちや罪悪や狂気を自覚しないまま、ただのたうちまわって死ぬ。その光景は、月を貶めると同時に、ニアの限界を——他者に対する共感性や悪に転落する者の苦悩への理解を持たず、自己の正当性に疑いを抱くことのない、平板な人間性を示してしまう。
ニアとメロが手を取り合ってLを超える和解の物語は、ここでもまた空中分解を起こし、ニアはただ知恵比べに優れる「人間性の欠如したL」ではないだろうか、という不安が生まれる。
もしニアが正面から闘う相手が月ではなく、本来闘うべき相手であれば——彼が正面から向き合い、本当の意味で存在を賭けて闘い、その過程で理解が生じる可能性のある相手であったなら。ニアは頭脳という意味だけでなく精神性や人間性という側面においても、Lに比肩する、あるいはLを超える存在として読者の心に響いたかも知れない。だがその可能性は残念ながら失われている。この無念さもまた、私が第二部を決して評価できない理由のひとつである。
†
ついでながら、Lなき後月の「本当の相手」として対峙できる可能性があったのは、意外だけれど松田であったかも知れない。
彼は唯一、キラという存在に対して否定一辺倒ではない複雑な感情を持つ人間として描かれ、またキラとは無関係に月という人間自身に、単なる仲間意識を越えた友情を感じていたキャラクターである。彼が見ていた月が、多くの仮面によって構成されている代物であったことを割り引いても。
結局物語は、松田を月に近づけることはあっても、それ以上の共感は許さない。松田が最後に月に与える言葉は、月の父親に関することである。松田と月の関係性は、総一郎を共有したという仲間意識に後退する。
月の死後、松田は彼への哀惜を表すが、それすらも他の人間に指摘されるまでは気付かない。松田の月への感情は、物語の奥深く、二重三重に屈折して封印されていく。
(5に続く)
植物巡礼 プラント・ハンターの回想 ― 2007年01月18日
植物巡礼 プラント・ハンターの回想,F.キングドン-ウォード著,塚谷裕一訳,1999.9.16.,青478-1
1900年代前半、まだ先進国にエコロジーや地域固有生態系といった単語が存在しなかった無邪気な頃。
自前の植物の種類が少ない大英帝国は、世界中の、美しく育てるに値する植物を狩り集めてくるのに、夢中だった。プラント・ハンターとは、それを生業とした人々である。
何やら皮肉な書き出しになってしまったが、この本は面白い読み物である。青いケシや香りのよい(そして後にその香りを失った)花麝香など、園芸植物にまつわる植物学会や好事家のドタバタ、言うことを聞かない苦力を前に途方に暮れる探検の有様、「くすっと笑ったり、微笑んだり」という連続になること請け合いだ。
特に、花を見ずに採取したユリが、どこで育てても「汚れた白い花しか咲かない」と言われ、失意の著者が自然に咲いているところを探し求めるエピソードは、素敵な物語といった趣だ(その結果は本編をごらんあれ、というところだろうか)。
勝手に「未開」と決めつけた土地から、あれやこれやと有望な植物を漁って、自国の生態系のことなど考えずに持ち帰っては育てる。そういう姿勢はもちろん問題ではあるけれど、これは時代と場所の制限としか言いようがない。1900年代前半のイギリスとは、そういうものであったのだし。
むしろ、そういう背景でありながら、この本には根拠のない他国蔑視や、鼻持ちならない英国崇拝主義が、ほとんど見当たらない。著者がそういう人であったと決めるのは少々早合点ではあるけれど、少なくとも彼は、異国の植物に対する敬意と誠意を持っていたことだけは、確かだろう。この本は、植物を対象としているからこそ、この時代特有の臭気から逃れている。むしろ、少ない情報や思いこみで右往左往する、自国の好事家が皮肉っぽく描かれているが、面白いところである。
1900年代前半、まだ先進国にエコロジーや地域固有生態系といった単語が存在しなかった無邪気な頃。
自前の植物の種類が少ない大英帝国は、世界中の、美しく育てるに値する植物を狩り集めてくるのに、夢中だった。プラント・ハンターとは、それを生業とした人々である。
何やら皮肉な書き出しになってしまったが、この本は面白い読み物である。青いケシや香りのよい(そして後にその香りを失った)花麝香など、園芸植物にまつわる植物学会や好事家のドタバタ、言うことを聞かない苦力を前に途方に暮れる探検の有様、「くすっと笑ったり、微笑んだり」という連続になること請け合いだ。
特に、花を見ずに採取したユリが、どこで育てても「汚れた白い花しか咲かない」と言われ、失意の著者が自然に咲いているところを探し求めるエピソードは、素敵な物語といった趣だ(その結果は本編をごらんあれ、というところだろうか)。
勝手に「未開」と決めつけた土地から、あれやこれやと有望な植物を漁って、自国の生態系のことなど考えずに持ち帰っては育てる。そういう姿勢はもちろん問題ではあるけれど、これは時代と場所の制限としか言いようがない。1900年代前半のイギリスとは、そういうものであったのだし。
むしろ、そういう背景でありながら、この本には根拠のない他国蔑視や、鼻持ちならない英国崇拝主義が、ほとんど見当たらない。著者がそういう人であったと決めるのは少々早合点ではあるけれど、少なくとも彼は、異国の植物に対する敬意と誠意を持っていたことだけは、確かだろう。この本は、植物を対象としているからこそ、この時代特有の臭気から逃れている。むしろ、少ない情報や思いこみで右往左往する、自国の好事家が皮肉っぽく描かれているが、面白いところである。
いろいろ不手際 ― 2007年01月19日
味噌の仕込みのために麹を注文したはいいけれど、大豆を注文し忘れていたことに気付く。
麹は届いちゃって、まぁ塩切りすれば保つんだけど、時間がとれなくて冷蔵庫に入れっぱなし。やれやれ。
大豆も量が量(今年は3kg)なので、近所で買ったら迷惑以外の何者でもなく、通販であわてて注文。でもへたしたら一週間は届かない。加えて、容器の方もまだめどがついてない……。
味噌を煮る巨大鍋のことで頭がいっぱいになっていて、すっかりどたばたしてこのていたらくだ。大丈夫かしら、まったく・
麹は届いちゃって、まぁ塩切りすれば保つんだけど、時間がとれなくて冷蔵庫に入れっぱなし。やれやれ。
大豆も量が量(今年は3kg)なので、近所で買ったら迷惑以外の何者でもなく、通販であわてて注文。でもへたしたら一週間は届かない。加えて、容器の方もまだめどがついてない……。
味噌を煮る巨大鍋のことで頭がいっぱいになっていて、すっかりどたばたしてこのていたらくだ。大丈夫かしら、まったく・
白49になる ― 2007年01月20日
かなり手慣れた感じのパーティに混ぜてもらって、流砂洞にてレベル上げをする。めでたく白魔道士のレベルは49になり、そろそろMaatの翁にご挨拶が必要になってきた。
その一方で、地道に釣りと調理のスキル上げも続けていて、チョコボの退屈を紛らすために競争もさせねばならず、何だかんだで忙しい。
何というか、とても地道な繰り返しの作業で、ツェールン鉱山にこもってブラックイールと堀ブナを釣り、ギガントスキッドをほどほどに買いこんではスキッドスシを作り、厩舎にチョコボを見に行っては野菜やカロットをあげつつ、お出かけをさせ……。それは本当に地味な日常だ。それでも、積み上げたものが無駄になったり、後戻りになったりしないゲームの世界は、日常世界よりも数段ラクでいいな……なんて思ったりする。
調理スキル65.5 釣りスキル40.3 生産品納入ポイント26833
太公望の釣り竿まであと9364匹
その一方で、地道に釣りと調理のスキル上げも続けていて、チョコボの退屈を紛らすために競争もさせねばならず、何だかんだで忙しい。
何というか、とても地道な繰り返しの作業で、ツェールン鉱山にこもってブラックイールと堀ブナを釣り、ギガントスキッドをほどほどに買いこんではスキッドスシを作り、厩舎にチョコボを見に行っては野菜やカロットをあげつつ、お出かけをさせ……。それは本当に地味な日常だ。それでも、積み上げたものが無駄になったり、後戻りになったりしないゲームの世界は、日常世界よりも数段ラクでいいな……なんて思ったりする。
調理スキル65.5 釣りスキル40.3 生産品納入ポイント26833
太公望の釣り竿まであと9364匹
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