孤独感 ― 2006年12月01日
私の「やさしさ」は、単純に言語化すれば、「誰かの宝物を破壊しないように」という表現になるのだろう。
自分に価値のわからないものも、誰かにとっては、あるいは天の上の誰かにとっては、かけがえのないものでありうる。そうであるなら、どんなに醜く愚かで邪悪で狂っていて堕落していて間違ったように見えるもの、であっても、どんなに自分の意見が正当に思えても、まずは相手にうなずくことから始めよう、という感覚が、私にとっての「やさしさ」——というよりも、もっと魂に近い行動、のような気がする。
世界の全てに意味を感じる。価値を感じる。それができたら、本当に美しいものが見えると思う。そして、私は時々、本当に時々だけど、それに成功する。
けれど、「私の中に見える世界」は世界そのものとは異なり、それは私自身に帰属するものだから、究極的には私の存在価値と等価となる。
そして、世界はほとんど常に、「おまえなんか別にいらないよ」と表現してみせるので、この美しい世界はがらくたとなって掃いて捨てられる。
訊けば人はみな、「あなたが好きですよ。あなたは愛らしいし、面白いし、いい人だし、大切な人ですよ」と言ってくれる。そのいじましい努力(あるいは深い考えはない慰め)を、私はとても好ましく思う。
しかし、次の瞬間、彼らはいともあっさりとその言葉を裏切って、何の悪意もなく笑いながら、「私の中に見える世界」を破壊する。楽しそうに。私の世界は、たぶん、綺麗であっても歪で儚いので、彼らの楽しそうな攻撃に一瞬で消えてなくなる。
彼らが楽しそうなので、私も一応笑っておく。彼らの楽しみを、その場は私の楽しみとして、衝動を耐える。
耐えた衝動は、孤独感として、誰もいない時間にやってくる。
孤独感は、誰も私を理解していないし、理解しようともしていないし、理解したいとさえ思ってもいないという事実を、淡々と教えてくれる。
そして同時に、私が、自分の信条とやらにそむいて、いかに他人の大切なものを破壊してきたのかを、容赦なく教えてくれる。私が、なぜ、価値がない人間なのかを。
私はうなずき、もう一度最初からやり直す。
その、繰り返し。
それでもこうして生きているのだから、私には何かやらなくてはならないことが残っているのだろう。
それはもしかしたら、誰かのために死ぬこととか、あるいはもっとくだらない何かのために死ぬこと、かも知れないが。
そのことを思い出すと、私は、いつも死ぬことを思い止まる。その時が来るまで無駄に命を遣ってはいけないのだと、言い聞かせる。
自分に価値のわからないものも、誰かにとっては、あるいは天の上の誰かにとっては、かけがえのないものでありうる。そうであるなら、どんなに醜く愚かで邪悪で狂っていて堕落していて間違ったように見えるもの、であっても、どんなに自分の意見が正当に思えても、まずは相手にうなずくことから始めよう、という感覚が、私にとっての「やさしさ」——というよりも、もっと魂に近い行動、のような気がする。
世界の全てに意味を感じる。価値を感じる。それができたら、本当に美しいものが見えると思う。そして、私は時々、本当に時々だけど、それに成功する。
けれど、「私の中に見える世界」は世界そのものとは異なり、それは私自身に帰属するものだから、究極的には私の存在価値と等価となる。
そして、世界はほとんど常に、「おまえなんか別にいらないよ」と表現してみせるので、この美しい世界はがらくたとなって掃いて捨てられる。
訊けば人はみな、「あなたが好きですよ。あなたは愛らしいし、面白いし、いい人だし、大切な人ですよ」と言ってくれる。そのいじましい努力(あるいは深い考えはない慰め)を、私はとても好ましく思う。
しかし、次の瞬間、彼らはいともあっさりとその言葉を裏切って、何の悪意もなく笑いながら、「私の中に見える世界」を破壊する。楽しそうに。私の世界は、たぶん、綺麗であっても歪で儚いので、彼らの楽しそうな攻撃に一瞬で消えてなくなる。
彼らが楽しそうなので、私も一応笑っておく。彼らの楽しみを、その場は私の楽しみとして、衝動を耐える。
耐えた衝動は、孤独感として、誰もいない時間にやってくる。
孤独感は、誰も私を理解していないし、理解しようともしていないし、理解したいとさえ思ってもいないという事実を、淡々と教えてくれる。
そして同時に、私が、自分の信条とやらにそむいて、いかに他人の大切なものを破壊してきたのかを、容赦なく教えてくれる。私が、なぜ、価値がない人間なのかを。
私はうなずき、もう一度最初からやり直す。
その、繰り返し。
それでもこうして生きているのだから、私には何かやらなくてはならないことが残っているのだろう。
それはもしかしたら、誰かのために死ぬこととか、あるいはもっとくだらない何かのために死ぬこと、かも知れないが。
そのことを思い出すと、私は、いつも死ぬことを思い止まる。その時が来るまで無駄に命を遣ってはいけないのだと、言い聞かせる。
美味礼讃 ― 2006年12月04日
美味礼讃(上),ブリア-サヴァラン著,関根秀雄・戸部松実訳,1967.8.16.(1994.11.5.第32刷),赤524-1
美味礼讃(下),ブリア-サヴァラン著,関根秀雄・戸部松実訳,1967.9.16.(1981.9.10.第13刷),赤524-2
どんな人間であっても、食について語る時には、自分の属している文化や時代や嗜好、ありていに言えば偏見の影響を受ける。美食通は言うまでもなく、公平と客観性を叩きこまれているはずの学者であっても、それは免れえない。そしてこの本も、決して例外ではない。
サヴァランは獣肉こそが最も人間にとって栄養のある食品であり、魚は人間を好色にする傾向があって、砂糖は文明の生んだ素晴らしい滋養食品で、澱粉はおいしくそれなりに栄養があるが、肥満のもとで人間の勇気を減少させるものだ、等々、現代日本人(おまけにその中でも菜食よりでかなり極端な食嗜好を持つ私)にとっては「???」な「科学的観察」を一生懸命述べている。
だがそれをあげつらっても仕方ない。そういった記述は、食卓でうっかり洩れたげっぷのように上品に無視して、食べ物の真髄を味わうとはどういう心持ちでなされねばならないのかという精神を学ぶのが「おいしい」読み方だろう。原題は「味覚の生理学」となっているが、この本に知識や蘊蓄を期待するのはお門違いというものだ。
特に第二部、様々な食卓に関するエピソードをちりばめた「ヴァリエテ」に入れば、ただただ楽しんでしまうこと間違いない。鮪のオムレツや平目の蒸し物、修道院の庭に生えた「アスパラガス」の顛末など、いかにも19世紀のフランス上流階級の晩餐で語られているような楽しい話である。
ちなみに、サヴァランは革命後のごたごたで命を狙われたため、しばらくアメリカに亡命していた。「ヴァリエテ」の中には、「アメリカ滞在」と題された章があるのだが、ここは章題だけで何と本文がない。「美味礼讃」を読もうと思うようなタイプの人間ならば、この「幻の本文」の意味を、注釈を読むまでもなく感じてしまうだろうけれど。
美味礼讃(下),ブリア-サヴァラン著,関根秀雄・戸部松実訳,1967.9.16.(1981.9.10.第13刷),赤524-2
どんな人間であっても、食について語る時には、自分の属している文化や時代や嗜好、ありていに言えば偏見の影響を受ける。美食通は言うまでもなく、公平と客観性を叩きこまれているはずの学者であっても、それは免れえない。そしてこの本も、決して例外ではない。
サヴァランは獣肉こそが最も人間にとって栄養のある食品であり、魚は人間を好色にする傾向があって、砂糖は文明の生んだ素晴らしい滋養食品で、澱粉はおいしくそれなりに栄養があるが、肥満のもとで人間の勇気を減少させるものだ、等々、現代日本人(おまけにその中でも菜食よりでかなり極端な食嗜好を持つ私)にとっては「???」な「科学的観察」を一生懸命述べている。
だがそれをあげつらっても仕方ない。そういった記述は、食卓でうっかり洩れたげっぷのように上品に無視して、食べ物の真髄を味わうとはどういう心持ちでなされねばならないのかという精神を学ぶのが「おいしい」読み方だろう。原題は「味覚の生理学」となっているが、この本に知識や蘊蓄を期待するのはお門違いというものだ。
特に第二部、様々な食卓に関するエピソードをちりばめた「ヴァリエテ」に入れば、ただただ楽しんでしまうこと間違いない。鮪のオムレツや平目の蒸し物、修道院の庭に生えた「アスパラガス」の顛末など、いかにも19世紀のフランス上流階級の晩餐で語られているような楽しい話である。
ちなみに、サヴァランは革命後のごたごたで命を狙われたため、しばらくアメリカに亡命していた。「ヴァリエテ」の中には、「アメリカ滞在」と題された章があるのだが、ここは章題だけで何と本文がない。「美味礼讃」を読もうと思うようなタイプの人間ならば、この「幻の本文」の意味を、注釈を読むまでもなく感じてしまうだろうけれど。
表裏 ― 2006年12月05日
先日、漢方薬局に行った時の待ち時間に雑誌を渡されたので、ぱらぱらめくっていた。確かFRaUだったかな。2007年の恋愛占い特集!とやらが麗々しく綴られていて、自分にはあまり関係の話だったのでまるでドラマを眺めるように眺めていた。
そうしたら、鏡リュウジだか誰かが書いていた「あなたにとっての金の男、泥の男」というコーナーが意外に面白くて、つい熱中。
かに座の私の場合は「泥の男」が「ナノ系」で、「金の男」が「執事系」。ナノ系とは、細かいところまでよく気がつくのだけど大局が見えないので肝心なところを外し、結局つきあううちに疲れてくるタイプの男性。執事系とは、自己主張をほとんどせず、さりげなく目立たないけれど、必要とされる大切なところを決して外さない男性。
これはつまり「細かいところまで気がつく」という点で裏表を成している人間像であって、こういう表現はうまいなぁと感心した訳だ。
人間の性質というのは、ひとつひとつは善くも悪くもない単音だけれど、それが他の性質と響き合って和音や調を作り出す時に、思いも寄らない美しい調和となることもあれば、狂った不協和音になることもある。ほんのひとつの音が和音に欠けていたばかりに全てが台無しになることもあれば、たったひとつの音が加わるだけで全てが様相を変えて美しく広がることもある。
その調和の法則があらかじめわかっていてその通りに動くことができれば、失敗などすることはないのに……と思うのだけれど、もしかしたら不協和音にも音楽的意味があるように、失敗にも何かの意味があるのかも知れない。
なんてことを、過去に出会った色々な「ナノ系男性」や「執事系男性」を思い浮かべつつ、考えたのだった。
でも、執事系男性のハードルは高そうだよね。必要とされる時に必ずそこにいる、というのは偉大な能力だ。それを生まれつき持っている人はほとんどいないし、努力して身につけようと思う人はもっと少ない。本当は後天的な能力なのだろうけれど。……と、自分のことは棚に上げる。
そうしたら、鏡リュウジだか誰かが書いていた「あなたにとっての金の男、泥の男」というコーナーが意外に面白くて、つい熱中。
かに座の私の場合は「泥の男」が「ナノ系」で、「金の男」が「執事系」。ナノ系とは、細かいところまでよく気がつくのだけど大局が見えないので肝心なところを外し、結局つきあううちに疲れてくるタイプの男性。執事系とは、自己主張をほとんどせず、さりげなく目立たないけれど、必要とされる大切なところを決して外さない男性。
これはつまり「細かいところまで気がつく」という点で裏表を成している人間像であって、こういう表現はうまいなぁと感心した訳だ。
人間の性質というのは、ひとつひとつは善くも悪くもない単音だけれど、それが他の性質と響き合って和音や調を作り出す時に、思いも寄らない美しい調和となることもあれば、狂った不協和音になることもある。ほんのひとつの音が和音に欠けていたばかりに全てが台無しになることもあれば、たったひとつの音が加わるだけで全てが様相を変えて美しく広がることもある。
その調和の法則があらかじめわかっていてその通りに動くことができれば、失敗などすることはないのに……と思うのだけれど、もしかしたら不協和音にも音楽的意味があるように、失敗にも何かの意味があるのかも知れない。
なんてことを、過去に出会った色々な「ナノ系男性」や「執事系男性」を思い浮かべつつ、考えたのだった。
でも、執事系男性のハードルは高そうだよね。必要とされる時に必ずそこにいる、というのは偉大な能力だ。それを生まれつき持っている人はほとんどいないし、努力して身につけようと思う人はもっと少ない。本当は後天的な能力なのだろうけれど。……と、自分のことは棚に上げる。
うるしの話 ― 2006年12月06日
うるしの話,松田権六著,2001.4.16.青567-1
読み終わった後、猛烈に漆器が欲しくなる。商業的宣伝の計算が全くないにも関わらずそう感じるということは、やっぱり良書ということなんだろう。「漆器は王水でも溶けない」といった「へぇ」な知識あり、客船の内装外装に漆を取り入れてもらうための奮闘記あり、漆が採取され器になっていくまでの知的ドキュメンタリーあり。これを一人の人間が書いているんだからすごい。
知識に偏らず、職人的芸術論に偏らず、体験に偏らず、聞いた話に偏らず、見事なバランスをとって平易な文章で書かれているところは、ある分野を総まとめするタイプの本のお手本のようだ。漆を極めた著者は、職人にとどまらない稀有な才能を持っていたのだろうと痛感させられた。
読み終わった後、猛烈に漆器が欲しくなる。商業的宣伝の計算が全くないにも関わらずそう感じるということは、やっぱり良書ということなんだろう。「漆器は王水でも溶けない」といった「へぇ」な知識あり、客船の内装外装に漆を取り入れてもらうための奮闘記あり、漆が採取され器になっていくまでの知的ドキュメンタリーあり。これを一人の人間が書いているんだからすごい。
知識に偏らず、職人的芸術論に偏らず、体験に偏らず、聞いた話に偏らず、見事なバランスをとって平易な文章で書かれているところは、ある分野を総まとめするタイプの本のお手本のようだ。漆を極めた著者は、職人にとどまらない稀有な才能を持っていたのだろうと痛感させられた。
対訳ポー詩集 ― 2006年12月07日
対訳ポー詩集 アメリカ詩人選(1),加島祥造編,1997.1.16.赤306-2
ポーの詩そのものは、私の好みとは少し外れていて、あまりぴんとこない。かの有名な鴉も、鐘も、海底都市も、綺麗だし言葉の響きはいいし何がいけないということもないけれど、「私のものだ!」という気がしない。
ただ、この詩集では、それぞれの詩が書かれた背景や、その時のポーの状況などを引いて解説を行っており、それが面白い。ポーの妻が十数歳も年下で夭折したことなんて、さっぱり知らなかった。今ならロリコン呼ばわりされそうな(そして実際色々な伝記ではロリコン呼ばわりされているらしい)このポーの結婚を、編者は「変態的なものではなく、ごくまっとうに困っている母娘を助けようとした結果」と書き、また実際その記述には説得力がある。詩そのものより、この解説の方が面白いので、ぜひこの編者によるポーの伝記が読みたいところだ。
ポーの詩そのものは、私の好みとは少し外れていて、あまりぴんとこない。かの有名な鴉も、鐘も、海底都市も、綺麗だし言葉の響きはいいし何がいけないということもないけれど、「私のものだ!」という気がしない。
ただ、この詩集では、それぞれの詩が書かれた背景や、その時のポーの状況などを引いて解説を行っており、それが面白い。ポーの妻が十数歳も年下で夭折したことなんて、さっぱり知らなかった。今ならロリコン呼ばわりされそうな(そして実際色々な伝記ではロリコン呼ばわりされているらしい)このポーの結婚を、編者は「変態的なものではなく、ごくまっとうに困っている母娘を助けようとした結果」と書き、また実際その記述には説得力がある。詩そのものより、この解説の方が面白いので、ぜひこの編者によるポーの伝記が読みたいところだ。
ラ・ロシュフコー箴言集 ― 2006年12月08日
ラ・ロシュフコー箴言集,二宮フサ訳,1989.12.18.赤510-1
嫌味な本と言えばその通りだし、人生の真理と言えばそうとも言える。政治生活で辛酸をなめたロシュフコーの鬱憤晴らしという見方もある。また、「美徳は偽装した悪徳である」といった箴言は、もはや現代では使い古された言い回しになってしまって、今さら驚きがない、という面もあったりする。現代では、この本で何かを学ぶという人は意外と少ないかも知れないな。むしろ知識人が知ったかぶりをするために引き合いに出すくらいで。
思うに、この本は会話ゲームの種にちょうどいいんじゃないだろうか。ディベートのテーマでもいい。ひとつひとつの箴言をカードにして、引いたカードについて賛成や反対を語り合う、なんてのは楽しそうだ。箴言には、ロシュフコーの思想や心理や個人的背景が確かに隠れてはいるのだろうけど、言葉があまりにもストイックに選び抜かれているために、そういった要素がほとんど見えない。それゆえに、語る人間が勝手に隙間を埋めることができて楽しい。逆にこれを真理や座右の銘とすると、思考が硬直しそうな気がする。
嫌味な本と言えばその通りだし、人生の真理と言えばそうとも言える。政治生活で辛酸をなめたロシュフコーの鬱憤晴らしという見方もある。また、「美徳は偽装した悪徳である」といった箴言は、もはや現代では使い古された言い回しになってしまって、今さら驚きがない、という面もあったりする。現代では、この本で何かを学ぶという人は意外と少ないかも知れないな。むしろ知識人が知ったかぶりをするために引き合いに出すくらいで。
思うに、この本は会話ゲームの種にちょうどいいんじゃないだろうか。ディベートのテーマでもいい。ひとつひとつの箴言をカードにして、引いたカードについて賛成や反対を語り合う、なんてのは楽しそうだ。箴言には、ロシュフコーの思想や心理や個人的背景が確かに隠れてはいるのだろうけど、言葉があまりにもストイックに選び抜かれているために、そういった要素がほとんど見えない。それゆえに、語る人間が勝手に隙間を埋めることができて楽しい。逆にこれを真理や座右の銘とすると、思考が硬直しそうな気がする。
子規句集 ― 2006年12月11日
子規句集,高浜虚子選,1993.4.16.(1997.4.1.第5刷)緑13-1
俳句は写真、短歌は絵と言われるけれど、確かに子規句集は分厚い写真集を見ているような趣がある。子規(それから選者の虚子)に写生を重んじる傾向があるから、なおさらそう感じるのだろう。
俳句もひとつひとつが命を持つ詩だから、これだけの量がまとまっていると、読むのが大変になる。結局じっくり読んで、というよりも、まさに写真集をぱらぱらと繰っていってはっと目に止まった作品をまじまじと見る、という鑑賞の方法になった。シチュエーションを想像することもせず、言葉がもたらす一瞬の光芒を感じるだけ。俳句には色々と論争や異論があり、たくさんの人がある一句の魅力についてあれこれ述べるのだけれど、今ひとつピントが外れているように感じてしまうのは、結局のところ俳句が瞬間勝負であって、長々しい理論や複雑な体系と相反する性質のものだから……かも知れない。
気に入ったものを三句。
月に来よ 只さりげなく 書き送る
思い出して 又紫陽花の 染めかふる
君行かば 我とゞまらば 冴返る
俳句は写真、短歌は絵と言われるけれど、確かに子規句集は分厚い写真集を見ているような趣がある。子規(それから選者の虚子)に写生を重んじる傾向があるから、なおさらそう感じるのだろう。
俳句もひとつひとつが命を持つ詩だから、これだけの量がまとまっていると、読むのが大変になる。結局じっくり読んで、というよりも、まさに写真集をぱらぱらと繰っていってはっと目に止まった作品をまじまじと見る、という鑑賞の方法になった。シチュエーションを想像することもせず、言葉がもたらす一瞬の光芒を感じるだけ。俳句には色々と論争や異論があり、たくさんの人がある一句の魅力についてあれこれ述べるのだけれど、今ひとつピントが外れているように感じてしまうのは、結局のところ俳句が瞬間勝負であって、長々しい理論や複雑な体系と相反する性質のものだから……かも知れない。
気に入ったものを三句。
月に来よ 只さりげなく 書き送る
思い出して 又紫陽花の 染めかふる
君行かば 我とゞまらば 冴返る
オイディプス王 ― 2006年12月12日
ソポクレス オイディプス王,藤沢令夫訳,1967.9.16.(1995.8.5.第48刷)赤105-2
ひどく近代的な物語。神と運命が絶対的な権威として存在しており、しかも人間がその奴隷ではなく意志を持って行動しているという状態の中で、起こる悲劇である。現在に至るまで、この戯曲が様々なバリエーションによって上演されている理由がよくわかる。登場人物がよかれと思ってやることが、過酷な運命を暴き出し、幸福の絶頂のはずだったオイディプス王は転落するのだ。神意と人間の言動の微妙なバランス。
だが、知らぬとはいえ父を殺し、母を妻とするという禁忌に対して、強い感情を持っていないと、この物語には全然のめりこめない。「知らなかったんだし、しょうがないじゃない、お父さんを殺したって言っても」とか「知らなかったんだし、お互い愛し合っていたのなら、いいんじゃないのお母さんと結婚したって言っても」などと言い出してしまったら、何故そんなにオイディプス王が己を責めて悲劇を招いてしまうのかがさっぱりわからなくなってしまうのだ。
今オイディプス王を改作するとしたら、彼は全てを知りながらやってのけ、周囲の人間にそれを暴かれて転落していくという、異常心理犯罪風の話になるかも知れない。現代では、悪意が存在しない罪は想定しにくい。様々な事故や悲劇で問題となるのは、関係者の「誠意の存在(あるいは悪意の存在)」であって、その結果ではないのだ。真意がどうあれ、行われたことに対しては情け容赦なく因果応報があるという古代との違いが、恐らくここにあるのだろう。
ひどく近代的な物語。神と運命が絶対的な権威として存在しており、しかも人間がその奴隷ではなく意志を持って行動しているという状態の中で、起こる悲劇である。現在に至るまで、この戯曲が様々なバリエーションによって上演されている理由がよくわかる。登場人物がよかれと思ってやることが、過酷な運命を暴き出し、幸福の絶頂のはずだったオイディプス王は転落するのだ。神意と人間の言動の微妙なバランス。
だが、知らぬとはいえ父を殺し、母を妻とするという禁忌に対して、強い感情を持っていないと、この物語には全然のめりこめない。「知らなかったんだし、しょうがないじゃない、お父さんを殺したって言っても」とか「知らなかったんだし、お互い愛し合っていたのなら、いいんじゃないのお母さんと結婚したって言っても」などと言い出してしまったら、何故そんなにオイディプス王が己を責めて悲劇を招いてしまうのかがさっぱりわからなくなってしまうのだ。
今オイディプス王を改作するとしたら、彼は全てを知りながらやってのけ、周囲の人間にそれを暴かれて転落していくという、異常心理犯罪風の話になるかも知れない。現代では、悪意が存在しない罪は想定しにくい。様々な事故や悲劇で問題となるのは、関係者の「誠意の存在(あるいは悪意の存在)」であって、その結果ではないのだ。真意がどうあれ、行われたことに対しては情け容赦なく因果応報があるという古代との違いが、恐らくここにあるのだろう。
自家製べったら漬け ― 2006年12月13日
べったら漬けという漬物を初めて食べたのはいつのことだったのか、もう覚えてないけれど、結構小さい頃だったと思う。
大根のこくのある甘みと、独特のまろやかでさっぱりした風味が好きなのだ。
ただ、たくあんと一緒で、おいしいべったら漬けを買おうと思うと意外と大変である。おいしくないものは、とにかくべたべたと甘い。とても単調な味になってしまう。
まあ文句を言うなら自分で作りなさい、という訳で、自家製べったら漬けに挑戦した。でも本格的に作るのはとても大変なので、簡易版。大根を1.5cmくらいの厚さの銀杏切りにして、塩で漬ける。一晩おいて水があがったら、今度は甘酒(濃縮タイプのもの、ノンアルコールのタイプね)を混ぜて本漬けするのだ。
自家製べったら漬けは、歯応えとパリパリ感はほどよい感じ、そして割と薄味に仕上がる。甘酒は少し控えめに、塩はきつめにした方が、めりはりのある味になっていいかも知れない。甘酒と一緒に砂糖を入れるレシピもあるらしいけど、私にはちょっと甘みがきついかな。
この作り方だと甘酒の味ができあがりの味といっても過言ではないので、甘酒のおいしいのを選ぶのは重要だ。本当はそれも自家製がいいんだけど、ちょっと大変。
大根のこくのある甘みと、独特のまろやかでさっぱりした風味が好きなのだ。
ただ、たくあんと一緒で、おいしいべったら漬けを買おうと思うと意外と大変である。おいしくないものは、とにかくべたべたと甘い。とても単調な味になってしまう。
まあ文句を言うなら自分で作りなさい、という訳で、自家製べったら漬けに挑戦した。でも本格的に作るのはとても大変なので、簡易版。大根を1.5cmくらいの厚さの銀杏切りにして、塩で漬ける。一晩おいて水があがったら、今度は甘酒(濃縮タイプのもの、ノンアルコールのタイプね)を混ぜて本漬けするのだ。
自家製べったら漬けは、歯応えとパリパリ感はほどよい感じ、そして割と薄味に仕上がる。甘酒は少し控えめに、塩はきつめにした方が、めりはりのある味になっていいかも知れない。甘酒と一緒に砂糖を入れるレシピもあるらしいけど、私にはちょっと甘みがきついかな。
この作り方だと甘酒の味ができあがりの味といっても過言ではないので、甘酒のおいしいのを選ぶのは重要だ。本当はそれも自家製がいいんだけど、ちょっと大変。
使用言語 ― 2006年12月14日
認知心理学の分野では、「用いる言語によって人間の思考が規定される」という考え方は主流ではなくなっているらしい。言語が思考を規定するとしても、それはごく表層の一部にとどまる。少なくとも認知心理学の実験では、用いる言語によって思考に有意な差は生じないようだ。放送大学でやってたのを見ただけなんで、具体的な根拠が示せないのだけど。
それでも、「英語を使うと論理的な思考ができるようになる」的な考えは根強く支持されている。英語で話してる時はアグレッシブになって日本語で話してる時と性格が変わる、なんてよく言われているし、それに違和感も覚えない。
実際には、言語によって違いが出るというよりも、意識して言語を選択することによって意識が変わるとか、ある言語に対して感じるイメージを利用して自分の思考や姿勢を変えているというのが正しいところで、要するに「勝負服を着て自分のイメージを変えるわ!」みたいなものなんだと思う。
英語が日本人にとって論理的な言葉に見えるのは、恐らく母語でないために入口が常に論理しかあり得ないことによるもので、日本語以外の言語はほとんど常に論理的に見えるだろう。そこでついつい自分の中にある「曖昧な日本の私」のイメージが思い出されて、日本人は論理ではなくて曖昧な心で動いているのよねぇ……なんて気分になってしまいがちだけど、英語でも曖昧な表現はいくらでもある。
(あのwhatやらitやらの大盤振る舞いのどこに論理だの明朗性だのがあるというのだ!)
ある言語について学んでいくと、次第に当初のイメージとはかけ離れていって、自分の母語と同じような普遍に突き当たる。もし完全なバイリンガル(それは思考実験にしか存在しない理想状態らしいけれど)がいたら、きっと「どの言葉でも関係ないよ」と言うのではなかろうか。
それでも言語が思考を規定するように感じられるのは、それは思考というとらえどころのない代物の関係物の中で、最も身近で最も「とらえやすい」ものだからなのだろう。言語が思考を規定するという命題は、トートロジーというか、定義の遊びに近い。言語によって規定されるものを思考として捉える、という発想だろう。
それは人格や人間性や存在価値というとらえどころのないものを、「外見」という極めて開けっぴろげでわかりやすい属性によって判断するのに似ている。斉藤美奈子か誰かが、「言葉は服みたいなもんだから、その場で着替えればいい」と言っていたのは、その意味ではなかなか的を射た意見ではないかと思うのだ。
それでも、「英語を使うと論理的な思考ができるようになる」的な考えは根強く支持されている。英語で話してる時はアグレッシブになって日本語で話してる時と性格が変わる、なんてよく言われているし、それに違和感も覚えない。
実際には、言語によって違いが出るというよりも、意識して言語を選択することによって意識が変わるとか、ある言語に対して感じるイメージを利用して自分の思考や姿勢を変えているというのが正しいところで、要するに「勝負服を着て自分のイメージを変えるわ!」みたいなものなんだと思う。
英語が日本人にとって論理的な言葉に見えるのは、恐らく母語でないために入口が常に論理しかあり得ないことによるもので、日本語以外の言語はほとんど常に論理的に見えるだろう。そこでついつい自分の中にある「曖昧な日本の私」のイメージが思い出されて、日本人は論理ではなくて曖昧な心で動いているのよねぇ……なんて気分になってしまいがちだけど、英語でも曖昧な表現はいくらでもある。
(あのwhatやらitやらの大盤振る舞いのどこに論理だの明朗性だのがあるというのだ!)
ある言語について学んでいくと、次第に当初のイメージとはかけ離れていって、自分の母語と同じような普遍に突き当たる。もし完全なバイリンガル(それは思考実験にしか存在しない理想状態らしいけれど)がいたら、きっと「どの言葉でも関係ないよ」と言うのではなかろうか。
それでも言語が思考を規定するように感じられるのは、それは思考というとらえどころのない代物の関係物の中で、最も身近で最も「とらえやすい」ものだからなのだろう。言語が思考を規定するという命題は、トートロジーというか、定義の遊びに近い。言語によって規定されるものを思考として捉える、という発想だろう。
それは人格や人間性や存在価値というとらえどころのないものを、「外見」という極めて開けっぴろげでわかりやすい属性によって判断するのに似ている。斉藤美奈子か誰かが、「言葉は服みたいなもんだから、その場で着替えればいい」と言っていたのは、その意味ではなかなか的を射た意見ではないかと思うのだ。
最近のコメント