使用言語2006年12月14日

認知心理学の分野では、「用いる言語によって人間の思考が規定される」という考え方は主流ではなくなっているらしい。言語が思考を規定するとしても、それはごく表層の一部にとどまる。少なくとも認知心理学の実験では、用いる言語によって思考に有意な差は生じないようだ。放送大学でやってたのを見ただけなんで、具体的な根拠が示せないのだけど。
それでも、「英語を使うと論理的な思考ができるようになる」的な考えは根強く支持されている。英語で話してる時はアグレッシブになって日本語で話してる時と性格が変わる、なんてよく言われているし、それに違和感も覚えない。
実際には、言語によって違いが出るというよりも、意識して言語を選択することによって意識が変わるとか、ある言語に対して感じるイメージを利用して自分の思考や姿勢を変えているというのが正しいところで、要するに「勝負服を着て自分のイメージを変えるわ!」みたいなものなんだと思う。

英語が日本人にとって論理的な言葉に見えるのは、恐らく母語でないために入口が常に論理しかあり得ないことによるもので、日本語以外の言語はほとんど常に論理的に見えるだろう。そこでついつい自分の中にある「曖昧な日本の私」のイメージが思い出されて、日本人は論理ではなくて曖昧な心で動いているのよねぇ……なんて気分になってしまいがちだけど、英語でも曖昧な表現はいくらでもある。
(あのwhatやらitやらの大盤振る舞いのどこに論理だの明朗性だのがあるというのだ!)
ある言語について学んでいくと、次第に当初のイメージとはかけ離れていって、自分の母語と同じような普遍に突き当たる。もし完全なバイリンガル(それは思考実験にしか存在しない理想状態らしいけれど)がいたら、きっと「どの言葉でも関係ないよ」と言うのではなかろうか。

それでも言語が思考を規定するように感じられるのは、それは思考というとらえどころのない代物の関係物の中で、最も身近で最も「とらえやすい」ものだからなのだろう。言語が思考を規定するという命題は、トートロジーというか、定義の遊びに近い。言語によって規定されるものを思考として捉える、という発想だろう。
それは人格や人間性や存在価値というとらえどころのないものを、「外見」という極めて開けっぴろげでわかりやすい属性によって判断するのに似ている。斉藤美奈子か誰かが、「言葉は服みたいなもんだから、その場で着替えればいい」と言っていたのは、その意味ではなかなか的を射た意見ではないかと思うのだ。

コメント

_ enu2 ― 2006年12月14日 20時20分10秒

思考に差異が生じる……かどうかは判らないけど、話す言葉によって気分が変わることはあるかも、とは思います。それは、日本語:英語に限らず、標準語:お国言葉の組み合わせでも、だけど。英語は論理的な言語というよりは、主語をぼかして話しにくい、というイメージのほうが強いなぁ。つらつらと。

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