野鴨2006年12月15日

野鴨,イプセン著,原千代海訳,1996.5.16.赤750-3

幸福の在り方は人それぞれで、関係者がその幸福の価値を心から感じることができれば、どんなに異常でも些細でも愚劣でも崇高でも、幸福としてゆるぎなく存在する。だが幸福を押しつけずにはいられない人間や制度や社会というものも存在し、世間の不幸の半分くらいをそれで引き起こす。

「野鴨」もまぁ、その類の話だ。豪商の息子グレーゲルスは、親友ヤルマールが自分の父に利用され騙されながら、一見平穏に見える生活を送っているのを知り、虚偽をあばくことで彼らが真実の幸福を送ることができると考え、実行する。
まさにお節介としか言い様のないこの幸福の押しつけによって、結局ヤルマールの一家は崩壊し、幼い娘が自殺することになる。で、「平均的な人間は、真実や理想を押しつけられることに耐えられない。欺瞞や嘘であっても、その上に幸福を築くことはできる」となる訳だ。
イプセンは「『解放』は外部から押しつけられるのではなく、内部からやってこなくてはならない」と別のノートに書いていたらしいが、まさにそれはその通りであろう。だが、この作品がそういった人間性を見事に描いた傑作であっても、やはり何とも言えない、気の滅入る読後感がある。

その読後感をもたらすのは何なのか、考えてみると、一種の狂言回し的人物である医師レリングという存在に思い当たる。
レリングは、「平凡な人物から嘘をとりあげるのは、幸福をとりあげることになる」と言い、ヤルマールの家庭が平穏であるように、ヤルマールが騙され続けるよう取りはからっていた人物である。だが彼の信念の是非はさておき、私がこの人物に感じる嫌悪感は、何と言ってもその、己を一歩高みにおいて「私は平凡な人物に幸福を与えてやっているんだ」と思う優越感に満ちた姿勢なのだ。

ヤルマールのような夢見る力はあっても生活力のない人間は、確かに偉大というよりは平凡な人間だ。そして彼のような人間の中では、虚偽が土台にあっても、真の幸福は存在しうる。
だが仮にそれが虚偽だと知っていたとしても、他人が軽蔑混じりに見てよいというものではなかろう。イプセンがレリング医師をどのような存在として考えていたのかはわからないが、レリングは恐らくヤルマールの幸福の価値を心の底から信じていた訳ではあるまい。彼の言動の端々には、「平凡な人間」に対する凄まじい軽蔑と優越感が感じられる。
(もっとも、その「平凡な人間」にレリング自身も含まれている、というところが、彼の屈折した人間性を表現してもいるのだが)
この戯曲の狂言回しとして、このような性格の人間を置いたのは何故なのか。何とも奇妙である。

嘘にも力がある。嘘であることを忘れずにいるか、そうでなければ嘘を全身全霊で真実と思うことによって、だ。
だがレリングはそのどちらでもない。真実のふりをした嘘を言いながら、それを信じる訳でもない。グレーゲルスのお節介は、確かに鬱陶しい上に迷惑この上ないものだが、少なくとも本人は真剣である。だからこそ滑稽なのだという見方もあるだろうが、レリングの人生に対するある種の手抜きというか、蔑視に比べれば、はるかに気持ちがよい。
ヤルマールの一家は、グレーゲルスのお節介によって崩壊した訳だが、しかしその前後にヤルマールがレリングと関わっていなかったら、話は全く違っていたかも知れない。幸福になったとは言わないが、ヤルマールは誰の責任でもなく己の責任によって、不幸になることもできたかも知れないのだ。
実のところ、レリングすらも一種の「お節介野郎」としてこの物語の中に存在しているのであり、それをイプセンが意図していたのかどうか、私としては非常に気になるのである。

聖アウグスティヌス 告白2006年12月18日

聖アウグスティヌス 告白(上),服部英次郎訳,1976.6.16(2003.7.15.第30刷),青805-1
聖アウグスティヌス 告白(下),服部英次郎訳,1976.12.16(2003.7.15.第27刷),青805-2

ローマ時代末期のキリスト神学者・思想家アウグスティヌスの思想から、非キリスト教者(のみならず堂々と異教徒を称してはばからない私)が学べるものは、もちろんキリスト教の思想や信仰ではない。マニ教を邪教呼ばわりする無礼な態度を今さら責める気もない。そんなものは、キリスト教にはありがちな過ちだ。
だがこの本には、ある人物がひとつの信仰に帰依する、そのまさに瞬間を描いている点で興味深い。もちろん、それは信仰に帰依した後に振り返っている記述だから、完全に鵜呑みにはできないが、それでも人間が信仰を持つということは、やはり「納得」や「理論的帰結」とは全く異なる行為なのだと思わされる。

かつてマニ教信者だったアウグスティヌスは、マニ教幹部が世界の成り立ちについて完全な理論を持っていないことに失望し、幼い頃から縁があったキリスト教に帰依するか、それともあらゆる信仰に背を向けるか、不信心なマニ教徒でありつづけるか、長らく迷い続ける。
そして別荘で悩みながら泣いている間、外で通りすがりの子供が「取って読め、取って読め」と歌っているのを聞いて啓示を感じ、聖書を開いて読む。そこにあった「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい」という一節を見た時、ついに回心する。

本の中では感動的に描かれるこのシーンだが、こうやって抜粋するとよくわかるように、冷静に見ると「なんで?」としか言い様のない唐突さである。そんな言葉で回心するのだったら、とっくの昔に回心できたんじゃ? と突っこまれて終わりになりそうだ。
だが、信仰に帰依する瞬間とは、こういうものであろう。言葉自体が重要なのでも、また信仰の内容さえも重要なのではない。ある取り替えのきかない一瞬があり、その一瞬を境に、世界の全てが意味を帯びてくる。あるいは意味が変わってしまう。ヘレン・ケラーがなぜ突然ウォーターの意味を悟ったのかを語り得ないように、この霊的な一瞬は、恐らく論理によっては語り得ない。
それを学ぶことができれば、恐らく、理論や科学的論証によって、霊的宗教的感覚を裁断しようという試みの限界を、悟ることができるはずだ。

分搗き米2006年12月19日

マクロビオティックをやっている……という訳ではないのだけど、玄米ごはんを食べることが多い。その最たる理由は実は、米研ぎがものすごく楽だから、というとんでもない理由なのだが。
玄米に慣れると、普通の白米はまるでお菓子のように感じる。甘く、柔らかく、ふわふわしていて、それは本当にスポンジケーキのようだ。さしずめ玄米は、かっちりした黒パンといったところだろうか。
とはいえ、私は元来胃腸があまり丈夫ではないので、特に弱っている今は玄米の消化が身体に負担をかけてるのではないかと心配になってきた。
幸い、わが家は家庭用の精米器なんて代物を導入しているので、玄米を分搗き米にして食べることにしたのだが……一番精米度が低い「三分搗き」にしても、炊きあがると白くて柔らかな米飯になる。炊飯時間も激減するのだ。敏感な人ならぬかの匂いを感じるのかも知れないけれど、玄米に慣れている身にはこれは完全に「白米」。もっとみんな分搗き米を食べるとよいのに。

観客2006年12月20日

FF6GBA版をようやくクリアしました。クリア後の色々なお楽しみはまだです。

名作傑作の誉れ高きこのゲームを、私は今さらになって初体験した訳なのですが、なるほどこれは非常にとんがった、面白いゲームだと感嘆しました。割とさっくりとクリアできる代わりに、難しい条件を自分で考えればいくらでもやることができたり、キャラクターのゲーム面での個性もばらばらで色々と試してみたくなります。

長いエンディングで、キャラクターひとりひとりの思いが語られます。それらはほとんど全て、個人的な思いで、世界全体に関わるものではありません。世界が存在する意味は巨大な力や偉大な思想によるものではなく、ひとりひとりの人間が持つ小さな想いの中にあるのだ、というFFシリーズのその後にも伝わるテーマはすでにこの時生まれていたのだと感じます。

けれど私が一番面白かったのは、最後の最後、エンドロールで全てのキャラクターの名前が挙げられた後に「AND YOU」という文字が出たことでした。
それは恐らくもともとの意味合いとしては「あなたが主人公」ということなのだと思うのですが、
「ティナやロックやセリスやセッツァーになりかわった私」
ではなく、
「ティナやロックやセリスやセッツァーとともに、目に見えないけれどその場に実は存在していた私」
としてこのゲームに参加していたのだというメッセージのような気がしたのです。
つまり私はキャラクターの誰かになっていたのではなく、
キャラクターを背後から見守りつつ世界の全てを見通していた観客だった訳です。
FF6は「群像劇」とよく言われているけれど、むしろ群像の「中」にフォーカスするのではなく「外」にフォーカスしているところこそが、特徴ではないかと思うのです。
もしも群像劇の「中」にフォーカスすれば、FF6はマルチシナリオとなりそれはそれでなかなか面白かったかも知れませんが、今とは全く別のものになったことでしょう。
主人公として物語に関与するか、観客として関与するかは、あまり意識はされないところですが、実は(ゲームというメディアの登場とともに)とても面白い要素ですね。

ロビンソン・クルーソー2006年12月21日

ロビンソン・クルーソー(上),デフォー作,平井正穂訳,1967.10.16.(2003.4.4.第49刷),赤208-1
ロビンソン・クルーソー(下),デフォー作,平井正穂訳,1971.9.16.(2003.5.15.第40刷),赤208-2


かつて、魅力あふれる素敵な人と憧れていた人に再会したら、相手の嫌な面ばかりが目についてしまって、がっかり。
簡単に言えば、そういう感想になる。

子供の頃、少年少女向けに書かれた「ロビンソン・クルーソー」はとにかく魅力的だった。
不屈な精神や敬虔な心、創意工夫の頭脳はもちろんだけれど、それ以上に私は、ひとつの生活が作り上げられていくという過程が描かれていることに感動したのだと思う。
子供の私にとって、生きるということは当然のものとして与えられたものであって、食べるものや着るものや道具がどのように作られているのかということは想像の外だった。その身近なセンス・オブ・ワンダーを、自分の手でひとつずつ再構築していくのは、ほとんどファンタジーに近い感動だったのだ。

ところが、読み直してみた原作では、そういった生活の感動はぐっと後方へひいてしまい、むしろなぜこのような生活になってしまったのかという反省や、どんなところにも存在している神の恩寵といった要素にぐっとズームインしている。そして生きるということ自体の感動は二次的なものになっていく。

後半ではそれはさらにエスカレートしていく。孤島を脱したクルーソーは、老年に達して再びその孤島を訪れ、そこからアジアをめぐる大航海を行うのだが、その中で彼は繰り返しキリスト教の優位性をしきりに綴る。島に残してきた男達が、先住民の女性を捕虜にしたあげく、くじをひいてどの女を妻にするかということを、さも公平で賢明な方法であるかのように書き連ねる。そしてそれが正式なキリスト教の婚姻でないことばかりを恥じるのだ。
「私の島ではみなが違う宗教を信じており、信教の自由があった」と誇らしげに書く割に、別の地では土着の民が「邪悪で野蛮な、迷信深い化け物を崇めている」ので、夜中にその宗教施設を破壊した様子を得意になって語る。クルーソーの「信教の自由」は、せいぜいプロテスタントかカトリックかという話らしい。

もっとも、これは時代と土地の制約というべきものなのかも知れず、デフォーにそこまでの普遍性を求める方がお門違いなのだろう。どこまでもこの物語は「19世紀ヨーロッパ」の真空パックなのだ。
そして残念ながら、というべきなのか、子供向けに書き直された、「生きることこそ最高の冒険」というテーマの方がむしろ普遍的な魅力をもって迫ってくるのである。

冬練三九2006年12月22日

今日は冬至。
寒さに弱い身としては、何とも辛い日だ。ユールの儀式をしようかとか、キャンドルナイトに参加しようかとか、色々考えていたのだけれど、結局静かに過ごして終わってしまいそうである。
薬膳の先生が教えてくれたのだが、中国では冬至から二十七日間の過ごし方が次の一年の健康を左右すると考えていて、この季節に高麗人参などを贈りあう習慣があるんだそうな。日本人は四季がこんなにはっきりした土地に住んでいるというのに、どうしてこういう習慣が廃れているのだろう。陰陽思想や五行とともに、入ってきているはずの知識なのに。
寒くてくたっとしているけれど、せめて柚子湯には入って、しみじみと冬に向かい合うとしよう。

これはFF11の話です2006年12月23日

フルタイムで働いてる会社員とか学生さんなら、ウィークデーはせっせとソロでレベル上げの準備をし、週末にどっかーんとレベル上げとかイベントとかにいそしむのだろうけど、私のような生き物は土日はむしろ長時間ログインしにくい。
という訳で、久しぶりにヴァナ・ディールに降り立った私がしたのは、町の人の話を聞いて、頼み事を引き受けるようなこと。
とりあえず念願のチョコボの卵はもらえたので、ウィンダスの厩舎に預けておいた。緑色のチョコボが生まれるといいんだけどな。最初からそううまくはいかないか。
ウィンダスへ行く飛空艇を待っている間、ジュノ港でイワシダンゴにて釣りをしていたら、釣りスキルが0,4上がってうれしい。こういう思わぬ贈り物みたいな時によく上がる……というのは、単に気のせいなんだろうけど。
料理スキルは、変わらずステーキをこつこつ焼いて(なんかステーキと「こつこつ」って全然似合わないな)進行中。
後は「やさしいカカシ」クエストを進行。カップ10のカードは手に入るかしら。アトルガン皇国へ行くためのアイテムは、下級でないと到底調達できそうにない。やれやれ。


次のToDo
・チョコボと香草の種の様子をチェックする
・カップ10のカードを探しておく
・料理スキルを上げる
・渡航状用アイテムを入手
・黒魔道士レベル上げの準備(おやつとジュースも忘れずに)

応援する人たち2006年12月24日

とりあえず昨日のToDoを順番に処理していく。
香草の種については問題なし。チョコボの卵はまだ孵っていないので見守る。
ウィンダスの競売にカップ10のカードが出ていたので、2万ギルで購入してApururuさんに渡してくる。これであとはジュノに戻ってあの子に話しかければクエストクリア……のはず。
ウィンダス森の区を歩いていたら、巨大なツリートレントとノマドモーグリがのっしのっしと走っていくのが見える。あーこれが今年の星芒祭だ。なんかみんなが応援しているらしく「○○はTrentを応援した!!」というログがえらい勢いで流れていく。一体何が何なのかよくわからない。とりあえずその辺のタルタルに話しかけたら、子供に渡すプレゼントとやらを渡された。スマイルブリンガーの帽子かぶって渡してあげてねと言われる。
何が何やらのまま水の区をうろうろしていたら、モーグリ売り子がいたので、せっかくだから帽子を購入。記念品なのでまあこういうのを持っておくのも悪くない。
後にネットで調べたところ、星芒祭は色々と大変みたいなので、今年はパスすることになりそうだ。
ジュノに戻って、競売にバイソンステーキを出したり、色々細かい作業をしておく。飛空艇の待ち時間に釣りをしたら、コバルトジェリーが釣れたので、錬金術をやっている人に送っておこう。

anon外し忘れ2006年12月25日

黒魔道士のレベル上げをしなくちゃ、と意を決して久しぶりにパーティ参加希望を出したけれど……なんと、anon表示を切り忘れて、外から見たら何レベルの何ジョブなのかわからないタルタルになっているというアホをしました(笑)。
他にも、黒用の装備品があんまりないことに気付いて、直前になってあわあわとブラックチュニックを買いそろえたり、やれやれ「ステータス異常:浦島」とかつけたいくらいです。
まあ待ち時間の間にたっぷり釣りをして、スキルが38になったのでよしとします。昇級試験を受けなくちゃ。やることいっぱいだ……。
チョコボは明日か明後日孵ることでしょう。「見守る」を選択したら、こつこつと卵を中からつつく音がして、リアルでうれしかったなぁ。鳥好きにはたまらない音なのです。こつこつ。ああ可愛い。

ジュノ下層の「やさしいカカシ」クエスト終了。ベタなネタだと言われそうだけれど、テレビの前でひっそり泣いていた私です。機械の無垢な心というテーマには、何か心を震わすものがあります。
(でもマルチには心動かされないのは何故だろう(笑))
心と心はしばしばすれ違い、そして全てのものには命の限りがあるから、些細なことからすれ違ったまま、そのまま命の終わりを迎えてしまうことはあるけれど、心は不滅のものだから、あきらめない限りいつかきっと通じ合うのだと。
その真理を素直に体現する存在は、人ではないのかも知れません。


次のToDo
・黒レベル上げ(魔法買っておく)
・ググリュートゥーナを入手する

結婚記念日2006年12月25日

七年前のこの日に、私は軽鴨の君と入籍した。
七年経って、部屋がそのぶんとっちらかり、モノが増え、けれど心の上ではあまり変わっていないような……気もする。
この日に入籍をしたのは、何だか世界全部が自分たちのために祝っているみたいで楽しいからだ。クリスチャンではないけれど、気兼ねなくお祝いムードを楽しむことができる。

何か特別なご馳走を食べに行くこともあるけれど、今年は特に何もしないことにした。
それよりも部屋を片づけてくれ!という気の毒な軽鴨の君のために、冷蔵庫を大掃除し、床を一通り掃除する。文章にすれば一行しかないこの作業が、しかし結構な大事業だ。
部屋や機器が綺麗になれば、それなりに気分も爽快になって楽しい……はずなのに、私は未だに掃除が好きにならない。何か、掃除が好きになるおまじないでも探した方がいいんだろうか。