相談相手2006年08月01日

普通、「相談相手」というのはどれくらいいるものなのだろうか。

唐突に気づいたのだけど、私には「相談相手」があまりいない。
好きな人はたくさんいる。愛する人も、尊敬する人も、大切な人も、からかう相手も、会話を楽しむ相手も、たくさんたくさん、いる。
だが相談相手はあまりいない。
数少ないその人々は、皆大抵心配になるほど忙しく無休状態で動き回っているので、相談をしたいなという時にとてもじゃないけど声をかけられない(また実際時間がとれないことが大半)ので、事実上、私には相談相手は皆無とも言える。

相談しない(できない)理由は色々だ。
忙しい、というのもそうだし、
なんだか気後れするとか、
こんなことを言ったら笑われそうとか、
あんまりこういう考えや悩みに対して理解がないとか(悪い意味ではなく、その手の思考回路がないということ。男の人に月経痛改善のノウハウを尋ねるみたいなものだ)、
善意のかたまりだけどあまり人の話を聴くタイプではないとか(一生懸命自分の経験に基づいた参考話をしてくれるのだけど、てんで的外れになってたりして、しかも気づいていない)、
みんなの相談相手を務めていて申し訳なくて、せめて私といる時くらいは屈託のない話をしたいなと思ってしまうとか、
まぁ、本当に色々。
そして私自身、あまり相談相手に向いていない人間かも知れない。
そう考えると、結構気が滅入ってくる。

様々な事故や事件に、「相談相手がいない」ということがまつわりついてくるようだけれど、だとしたらみんなも、相談相手がいない辛さを耐えながら、日々生き延びているのかも知れない。

今も、私は結構深刻でしんどい悩み事を抱えているけれど、相談できずにいる。みな忙しく自分の仕事で大変そうだ。
大人ってのはそういうもんだよ。甘えないでしっかりしてればいいんだよ。そんな風に言い切ってしまえば、深く考えずに済んで楽なのかも知れないけれど。

夕陽2006年08月02日

私の住んでいる住宅街は高速道路に程近いところにあるので、10分も歩いていると、たちまち埃っぽいビル風が吹き荒れる車通りの多い道路に入りこんでしまいます。
けれど、それを避けて歩いていれば、緑のおすそわけに預かれます。東京二十三区で一番緑の多いところ、だそうで、確かにあちこちに畑があり、緑地があり、植物があります。明らかに昔ながらの地主さんであろうと思われる屋敷があちらこちらにあり、垣根から覗ける庭には、妖精のひとりやふたり住んでいても全く驚かない高い樹が空を見上げていることもしばしばです。
高い樹というのは、今の東京の住宅街ではなかなか見られないもので、おかしなデザインの公共建築物なんぞは到底かなわない、荘厳な霊気をまとっています。
歩いていくと、ぽっかりと市民農園に出て、とうもろこしやにんじんや玉ねぎやなすが礼儀正しく整列している上に、うっすらと雲をかぶって夕陽が懸かっているのが見えます。
晩夏の夕陽は、よく熟れた木の実のように大きく丸く赤く、その代わりちょっと物静かに黙っています。手をのばしたらもぎとれそうな気になります。もう秋が来るのだとわかる瞬間です。
夕方の散歩の空気を吸いこむと、小さい頃に戻ったような感覚が戻ります。家族と歩いたり、ひとりで空を見上げていたり、していたあの頃。世界が広くて、自分の人生が可能性に満ちている、なんて愚かな感慨などひとかけらもなかった頃の自分を。けれど、あれから時間が経って私はずいぶん変わったように思っていたのですが、本当は同じなのでしょう。空を見上げる顔は、自分で見ることはできないけれど、何にも変わっていないと確信してしまうのです。

奇跡2006年08月03日

二通りの人間に分けるのなら、「この世には奇跡なんて絶対起こらない」という人と、「この世は奇跡に満ちあふれている」という人に分けられると思います。私は、後者。でも別に、これは世界の捉え方の問題であって、人間の価値に直結するとは限りません。そのひとの価値が、結果的にそこに多少左右される人もいると思いますが。
たぶん、私が奇跡に満ちあふれているのは、善き結果が起こる可能性を広く広くとっているからで、要するに窓を少し大きめに開けているだけのことです。
奇跡というと、神様とか宇宙の意志とか何かそういう超越的なものが、人間が必死で施錠してタンスで塞いでいるドアを、力任せにこじあけて押し入ってくるようなイメージが、世間一般にはあります。要するに、常識とか科学とか理屈とかを完膚無きまでに否定するような「信じられない出来事」ってやつが、突然人間の意志と全く関係なく起こること。
処女が出産するとか、死んだ人が生き返るとか、傷が一瞬にして治癒するとか、ガンがみるみる消滅するとか、何一つ勉強も準備もしていない受験生があっさり東大に合格するとか。
どうしてもこういうことが必要になったら、まぁ神様や宇宙の意志さんも、仕方ないから大盤振る舞いをするような気もしますが、実際にはそういう奇跡ってそれほど必要ないように思えます。
神様だって、強盗みたいに人の心になだれこんでくるよりは、親しい大切なお客様みたいにやってくるほうが楽しいんじゃないでしょうか。
何か、大切な人を助けたいとか、導きたいとか、したいことやらねばならないことがある時に、強制的に介入するのではなくふわりと自然にそれが成るようにし向けること。最近の神様は、そっちの方がお好きなのではなかろうかと。

昔、ライアル・ワトソンが生命の誕生を、ゴルフに例えていたのが面白かったです。
ひとつのボールがコースのどの地点に落ちるかは、理論的には無限の可能性があるはずです。まぁコースによって多少の「落ちやすいところ」「落ちにくいところ」はあるでしょうが、理屈ではどこに落ちたっておかしくない。
でも、ゴルフのボールが落ちたところには、確実に一定の傾向があります。そして、時間さえかければ、コースのある一点(カップが置いてあるところ)には、絶対にボールは落ちるのです。
それと同じように、生命の誕生というものは確率的にはありえない偶然の連続だけれど、もしかしたら同じような何かが働いているのではないか。生命の誕生は、カップの置いてあるあの一点のように、色々なものがそれめがけて押し寄せるところだったんじゃないか、という話です。
(「ネオフィリア」という本に書いてあったと思います。「シークレット・ライフ」だったかも知れませんが)

このたとえを借りるなら、奇跡というのをホールイン・ワンしか認めないか、それとも何ストロークかかろうともカップに落ちることが奇跡であると認めるか、が考え方の違いなのでしょう。
別にどっちをとろうと、その人がより幸福により善く生きられるのなら、そして他人に強制しないのなら、構わない訳ですが。
私が、奇跡がたくさん起こるように窓を大きく開けているのは、その方が私にとっては楽しく生きられるからです。
開けていると、色々な素敵なことが入ってきます。よからぬものも入ってくるのでしょうけど、結構、見分けはつくものです。

猩々蝿2006年08月04日

夏だから、小さな蠅が色んなところからやってきて、色んなところに隠れて、色んなところで増えていく。色んなところで死んでゆくのだろうけど、奥ゆかしい彼らはそこは見せない。
小さい蠅、の正式な名前は知らないけど、たぶんショウジョウバエ辺りなんだろう。彼らを見ると、高校の頃の生物の授業を思い出す。
遺伝の勉強で、彼らを少しだけ扱ったことがある。女子校だったので、クラスメート達は一様に嫌がって金切り声をあげていたけれど、私は全然そんな気分にならなかった。だって、細菌など全くないのがわかりきっている彼らを嫌う理由がどこにある? 姿形だって、どうということはない。よく見れば可愛いものだ。
学校の生物の先生は、授業の前にいきなりこう釘を刺した。
「このハエ達は、無菌状態で生きていますから、実験の前には必ず、必ず手を消毒するように。滅菌していない状態で触ったら、あっという間に全滅します」
そう言われて、私は、自分がいかに細菌を無造作に抱えこんでいるか実感したものだ。そして、瓶の中で飛び回る、透き通った赤みがかった小さな彼らの、はかないという言葉でさえ掬いとれない生命に、胸が痛んだのを覚えている。
だから、生活のために彼らを追い払い殺すのは、今でも気が滅入る仕事のひとつだ。
彼らがうちで生きていかなくて済むように、もっと私がまめまめしく立ち働けばいいのだけれど。そうして私は、色々なものに自分の悪いところを訴えられているような気がして、今日もため息をつくのである。

図書室2006年08月07日

図書館も好きだけど、図書室が好きだ。だから、私は今でも「ライブラリー」をイメージすると、学校の図書室が浮かんでくる。
一番身近なライブラリーが学校の図書室だったからだろう。公立の図書館は私の実家の近くにはなくて、電車に乗って五駅くらいのところにあったから、全然身近ではなかった。
でもそれだけじゃなくて、当時、学校の図書室というのは人が少なかったのだ。特に私の通っていた小学校では閑古鳥が鳴いていた。中学高校は一貫校だったけど、図書室は教室とは違う、えらく古い棟にあって、しかも座って勉強できるようなテーブルのある広い部屋とは別に書庫室があった。書庫室の方は、本当に人の気配がなくて、私は壁際に設置されたヒーターに勝手に腰かけて、よくぼんやりしたものだった。その図書室のあった棟は、取り壊されて新しくなり、今はもうない。
たくさんの本と、私しかいないような空間が好きだった。だから、公立の賑わっている図書館は、何となく「自分の図書館」という感じがしない。
この間、夢の中にふと、古い中学時代の図書室が出てきた。どこに何の本があったか、今でも思い出せる。コンクリートの薄汚れた階段を上ってたどりつく、小さな屋根裏のような物置スペースも。
私の魂の一部は、あそこにあるのだなと思った。

立秋2006年08月08日

朝は、効果音のように整った、美しくも恐ろしい落雷の音で目が覚めました。朝の雷なんて初めてです。私は大きな音が突然するものが怖いので、雷も大変苦手。朝から怯えておりました。
昨日は人間の丸焼きができそうな暑さでしたが、今日は朝の雷雨のせいか、空気がしっとり冷ややかです。台風の三連コンボが心配ですけれど。大きな被害がないとよいのですが。
秋になったその日に雨というのも、何だか律儀な感じがいたしますが、暑さはまだまだ続くのでしょうね。満月の前夜なので今日は夜のお散歩でもしたかったのですけど、この雨ではお月見はお預けになりそうです。
外の道路は、トラックや乗用車がひっきりなしに通り過ぎていきます。今日から秋だよ、と声をかけたくなるけれど、そんなことは彼らにはきっと関係ないのだろうなぁと当たり前のことを思います。

評価要素2006年08月09日

近頃は「名探偵コナン」のDVDを片端からレンタルして観るということにはまっている。今どき高校生でもあり得ないような、純粋な少年少女の「恋心」に触れると、ひどく微笑ましい気持ちになるのだ。
私が「コナン」を愛する理由は徹頭徹尾そこにあって、かの作品の中で触れられている殺人者に対する糾弾や善悪に対する意識、あるいは人間たちの心理描写、といったものにはまるで共感しない。そもそも、テレビ版の決め台詞「真実はいつもひとつ!」という言葉そのものを、私は全然肯定しないのだ。時々いらいらするほどに。
それでも、私はコナンが好きだ。読んだり観たりしていると、先述したようにとても微笑ましい、温かい気持ちになる。そこに存在する、世界で一番大切な女の子のために全身全霊を尽くす、純粋な少年の想いが好きなので。
そんな風に、たったひとつでも微笑みを創り出す要素があるなら、私はその作品を認める。どんなに低俗で軽薄であろうとも。
減点主義で接するなら、私はこの世のどんな物語も好きにはなれないかも知れない。
私の想い、私の心、私の思考、私の世界観、私の倫理、そういったものを全て満たし、しかも優れた技によって整えられた作品、というものは、ないことはないだろうけれど、とても少ない。

面白いけれど感動はしない。
大好きだけど優れた作品という訳ではない。
よくできているけれどつまらない。
完成度は低いけれど魅力的。
高尚で優れているけれど二度は読まない。
突っこみ所は数え切れないけれど手放せない。

私がレビューを書いたら、そんな矛盾した言葉がちりばめられるに違いない。

本当は、接する全ての作品から、喜びと感動と癒しを引き出すことができれば、いちばんいいのだろう。その作品の完成度とは別に。
完成度の高い作品にしか感動しない、ということにある種の優越感を覚え、完成度の低い作品から喜びを引き出す者を貶める人は多いけれど、そして完成度の高い作品を誉め称える自分に酔う人もいるけれど、それは人間の価値とはあまり関係のない話だ。
ましてや、完成度の低い作品を罵ることで自分を高めようというのは、なんとも虚しい心の動きだ。

「つまらない」作品に出逢った時に、私は自分が歯噛みしていることに気付く。
心の中を覗けば、それは、
私だったらこんなものは創らないのに、という己の勇気のなさを棚上げした放言だったり、
この作品の欠点がわかるから私は優れているのだ、という何の根拠もない高慢だったり、
低俗な作品から本当に優れた作品を守らなくては、という迷惑な使命感に満ちた大きなお世話だったり、
といった代物に過ぎない。
そして、そのもっともっと奥を覗きこめば、そこには、
どうして私が望むような物語がないのだろう?
と泣きわめく子供のような自分がいる。
(ある訳ないのだ。それは、私が自分で書くよりほかにないのだろうから)

人がひとりひとり、長所と短所をあわせもつように(いやむしろ、無限の色合いの中からたまたま光の加減で美しい色と濁った色が見えるように)、物語もひとつひとつ異なり長所と短所をあわせもつ。
それならば、出逢った物語の短所をあげつらって心を痩せさせるよりも、出逢った物語の長所を味わって心を豊かにする方がずっといい、と思う。

もっとも、時に我を忘れて人に呪詛の言葉を吐くように、私はしばしば、物語に怒りの言葉を吐いてしまうのだけれど。修養が足りないとしか、いいようがない話である。

一掃2006年08月10日

ちょっと思うところがあって、各方面の知識人が自分の書斎について書いた文章をまとめた本をぱらぱら読んでみたのだけど、これが意外と参考にならなかった。
見事な書斎を持っている人はいなかったし、理想を抱いている人さえあまりいなかった。みんな本と資料の山の中で押し合いへし合いしつつ、何とか毎日やり過ごしています、といったことを書いて苦笑いしている感じだったのだ。
もしも書斎(に限らず部屋の状態)がその人の心を写す鏡だとするなら、現代日本は知識人でさえ、色々な要素の中押し合いへし合いしつつやり過ごしているということになる。哀しいかなこの説は、真偽はともかく妙に説得力があって、そんなものかなとうそぶきたくなってしまう。
そういう私は、今自分に与えられているスペースさえろくに管理できない愚か者だから、言うまでもない。
家の中の余計なものを全部捨てて、きれいさっぱりした空間にお気に入りのものだけ配置すれば、理想の世界が作れる訳だ。「それだけ」なんだけど……ね。

氷菓子2006年08月11日

かき氷は、昔、実家にあった「ぺんぎんさんの氷かき」で作ったものが最初の体験だった。あの氷かき、さすがに捨てただろうけど、うちにもあったのだ。テレビCMもあって、まさに一世を風靡したものだと思うのだけど。
「夏」はどう考えても、感傷を差し引いても、小さい頃の方が数段楽しくて心地よくて、今でもあの頃の夏を再現するようなものに心惹かれる。そう、かき氷とか。
本当は自分の家にかき氷器を買いたいくらいなのだけど、場所のこともあって何となく二の足を踏んでしまう。
それにしても、外でかき氷を食べようと思うと、何と不自由なことだろう。のぼりにふらふら吸い寄せられてみると、寒いほど冷房が効いた屋内に閉じこめられて、注文したかき氷が届く頃には体が痛くなっていたりする。
はるか昔、貴族や王族しか口にできなかった「夏のお氷さま」を、今ではどの家庭でも簡単に食べられるという贅沢が、時々信じられなくなる。
暑い暑い外を歩いてきて、家に帰ってきてまっさきに冷たい飲み物を口にする、それは本当は気の遠くなるような贅沢——のはずだけれど、今の私たちはそんなことを当たり前、いや些細なつまらないことにすら思って、歯牙にもかけない。
贅沢を贅沢として享受することは、意外と難しい。結局贅沢というのは、心の問題であって物質の問題ではない、という教訓に行き着いてしまうのだろうか。

借用者2006年08月14日

イギリスの児童文学の名作に、「小人たちシリーズ」というのがある。「床下の小人たち」といった方が通じやすいかも知れない。
この物語は、人間の古い家(特にお屋敷)の床下や壁の中に、身長数センチの小さな小さな人々が暮らしているという設定だ。
彼らは自分たちのことを「借り暮らし(borrower)」と呼ぶ。古い古いお屋敷、どこに何があるか全部決まっているけれど誰もそれを覚えきれないような家の床下に住み、人間が寝静まった夜などにこっそり出てきて、人間が落とした些細な小物や、置きっぱなしで忘れた代物を「借りて」くる。時には食べ物も。それらを工夫して加工して、住まいを作り家具を作り食事を作る。彼らの生活はそうやって賄われているのだ。物語の言葉を引用すれば、「名まえだってそうさ。もってるものは、なんでも借りたもので、じぶんたちのものっていうのはないんだね。それでも、この世界はじぶんたちのものだと思っているんだよ。」
彼らが「世界はじぶんたちのもの」という根拠は、大きい人たち、つまり人間は本来借り暮らしの人々がものを借りるためだけに存在しているという思いこみなのだけど、彼らは大きい人たちをとても恐れ、見られないように気をつける。姿を見られたら、自分たちが殺虫剤で追い立てられ皆殺しになることを知っているからだ。
そして、彼ら借り暮らしの人たちは、「借りる」ことはしても「盗む」のは御法度だ。家具を壊して中のものを持ち去ったり、無理矢理奪い取ったりは決してしない。落ちているもの、忘れ去れているもの、なくなっても大きい人たちが気付かないようなものだけを「借りて」ゆく。
小さい頃は、この物語は、安全ピンや歯車やカーペットの毛や切手といった小物が、思いも寄らない使われ方をして、借り暮らしの人々の家を豊かに彩るその様子に、心奪われたものだ。
けれど、たぶん「大きい人たち」も本当は「借り暮らしの人々」なのだろう。
人間の「持っているもの」とて、全て自然からの「借り物」だ。そして人間も、何故か「世界はじぶんたちのもの」とうぬぼれていて、自然は人間がものを借りるためだけに存在していると思いこんでいる。
ただ、借り暮らしの人々は「盗み」はしないし、大きい人たちを恐れているけれど、人間はそんな謙虚な気持ちはとっくの昔に忘れてしまったのだろう。自然の居間のマントルピースからこぼれ落ちたもの、忘れ去られているもの、なくなっても気付かないような小さなものを借りるのではなく、観音扉を破壊して中のものを何でもかんでも運び出すような暮らし方だ。

借り暮らしの人々、という呼び名が、私は結構気に入っている。今度からそう自称しようかな。願わくは、本当に、借り暮らしでいられるように。借り暮らしから盗人に転落することの、ないように。