評価要素2006年08月09日

近頃は「名探偵コナン」のDVDを片端からレンタルして観るということにはまっている。今どき高校生でもあり得ないような、純粋な少年少女の「恋心」に触れると、ひどく微笑ましい気持ちになるのだ。
私が「コナン」を愛する理由は徹頭徹尾そこにあって、かの作品の中で触れられている殺人者に対する糾弾や善悪に対する意識、あるいは人間たちの心理描写、といったものにはまるで共感しない。そもそも、テレビ版の決め台詞「真実はいつもひとつ!」という言葉そのものを、私は全然肯定しないのだ。時々いらいらするほどに。
それでも、私はコナンが好きだ。読んだり観たりしていると、先述したようにとても微笑ましい、温かい気持ちになる。そこに存在する、世界で一番大切な女の子のために全身全霊を尽くす、純粋な少年の想いが好きなので。
そんな風に、たったひとつでも微笑みを創り出す要素があるなら、私はその作品を認める。どんなに低俗で軽薄であろうとも。
減点主義で接するなら、私はこの世のどんな物語も好きにはなれないかも知れない。
私の想い、私の心、私の思考、私の世界観、私の倫理、そういったものを全て満たし、しかも優れた技によって整えられた作品、というものは、ないことはないだろうけれど、とても少ない。

面白いけれど感動はしない。
大好きだけど優れた作品という訳ではない。
よくできているけれどつまらない。
完成度は低いけれど魅力的。
高尚で優れているけれど二度は読まない。
突っこみ所は数え切れないけれど手放せない。

私がレビューを書いたら、そんな矛盾した言葉がちりばめられるに違いない。

本当は、接する全ての作品から、喜びと感動と癒しを引き出すことができれば、いちばんいいのだろう。その作品の完成度とは別に。
完成度の高い作品にしか感動しない、ということにある種の優越感を覚え、完成度の低い作品から喜びを引き出す者を貶める人は多いけれど、そして完成度の高い作品を誉め称える自分に酔う人もいるけれど、それは人間の価値とはあまり関係のない話だ。
ましてや、完成度の低い作品を罵ることで自分を高めようというのは、なんとも虚しい心の動きだ。

「つまらない」作品に出逢った時に、私は自分が歯噛みしていることに気付く。
心の中を覗けば、それは、
私だったらこんなものは創らないのに、という己の勇気のなさを棚上げした放言だったり、
この作品の欠点がわかるから私は優れているのだ、という何の根拠もない高慢だったり、
低俗な作品から本当に優れた作品を守らなくては、という迷惑な使命感に満ちた大きなお世話だったり、
といった代物に過ぎない。
そして、そのもっともっと奥を覗きこめば、そこには、
どうして私が望むような物語がないのだろう?
と泣きわめく子供のような自分がいる。
(ある訳ないのだ。それは、私が自分で書くよりほかにないのだろうから)

人がひとりひとり、長所と短所をあわせもつように(いやむしろ、無限の色合いの中からたまたま光の加減で美しい色と濁った色が見えるように)、物語もひとつひとつ異なり長所と短所をあわせもつ。
それならば、出逢った物語の短所をあげつらって心を痩せさせるよりも、出逢った物語の長所を味わって心を豊かにする方がずっといい、と思う。

もっとも、時に我を忘れて人に呪詛の言葉を吐くように、私はしばしば、物語に怒りの言葉を吐いてしまうのだけれど。修養が足りないとしか、いいようがない話である。

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