借用者 ― 2006年08月14日
イギリスの児童文学の名作に、「小人たちシリーズ」というのがある。「床下の小人たち」といった方が通じやすいかも知れない。
この物語は、人間の古い家(特にお屋敷)の床下や壁の中に、身長数センチの小さな小さな人々が暮らしているという設定だ。
彼らは自分たちのことを「借り暮らし(borrower)」と呼ぶ。古い古いお屋敷、どこに何があるか全部決まっているけれど誰もそれを覚えきれないような家の床下に住み、人間が寝静まった夜などにこっそり出てきて、人間が落とした些細な小物や、置きっぱなしで忘れた代物を「借りて」くる。時には食べ物も。それらを工夫して加工して、住まいを作り家具を作り食事を作る。彼らの生活はそうやって賄われているのだ。物語の言葉を引用すれば、「名まえだってそうさ。もってるものは、なんでも借りたもので、じぶんたちのものっていうのはないんだね。それでも、この世界はじぶんたちのものだと思っているんだよ。」
彼らが「世界はじぶんたちのもの」という根拠は、大きい人たち、つまり人間は本来借り暮らしの人々がものを借りるためだけに存在しているという思いこみなのだけど、彼らは大きい人たちをとても恐れ、見られないように気をつける。姿を見られたら、自分たちが殺虫剤で追い立てられ皆殺しになることを知っているからだ。
そして、彼ら借り暮らしの人たちは、「借りる」ことはしても「盗む」のは御法度だ。家具を壊して中のものを持ち去ったり、無理矢理奪い取ったりは決してしない。落ちているもの、忘れ去れているもの、なくなっても大きい人たちが気付かないようなものだけを「借りて」ゆく。
小さい頃は、この物語は、安全ピンや歯車やカーペットの毛や切手といった小物が、思いも寄らない使われ方をして、借り暮らしの人々の家を豊かに彩るその様子に、心奪われたものだ。
けれど、たぶん「大きい人たち」も本当は「借り暮らしの人々」なのだろう。
人間の「持っているもの」とて、全て自然からの「借り物」だ。そして人間も、何故か「世界はじぶんたちのもの」とうぬぼれていて、自然は人間がものを借りるためだけに存在していると思いこんでいる。
ただ、借り暮らしの人々は「盗み」はしないし、大きい人たちを恐れているけれど、人間はそんな謙虚な気持ちはとっくの昔に忘れてしまったのだろう。自然の居間のマントルピースからこぼれ落ちたもの、忘れ去られているもの、なくなっても気付かないような小さなものを借りるのではなく、観音扉を破壊して中のものを何でもかんでも運び出すような暮らし方だ。
借り暮らしの人々、という呼び名が、私は結構気に入っている。今度からそう自称しようかな。願わくは、本当に、借り暮らしでいられるように。借り暮らしから盗人に転落することの、ないように。
この物語は、人間の古い家(特にお屋敷)の床下や壁の中に、身長数センチの小さな小さな人々が暮らしているという設定だ。
彼らは自分たちのことを「借り暮らし(borrower)」と呼ぶ。古い古いお屋敷、どこに何があるか全部決まっているけれど誰もそれを覚えきれないような家の床下に住み、人間が寝静まった夜などにこっそり出てきて、人間が落とした些細な小物や、置きっぱなしで忘れた代物を「借りて」くる。時には食べ物も。それらを工夫して加工して、住まいを作り家具を作り食事を作る。彼らの生活はそうやって賄われているのだ。物語の言葉を引用すれば、「名まえだってそうさ。もってるものは、なんでも借りたもので、じぶんたちのものっていうのはないんだね。それでも、この世界はじぶんたちのものだと思っているんだよ。」
彼らが「世界はじぶんたちのもの」という根拠は、大きい人たち、つまり人間は本来借り暮らしの人々がものを借りるためだけに存在しているという思いこみなのだけど、彼らは大きい人たちをとても恐れ、見られないように気をつける。姿を見られたら、自分たちが殺虫剤で追い立てられ皆殺しになることを知っているからだ。
そして、彼ら借り暮らしの人たちは、「借りる」ことはしても「盗む」のは御法度だ。家具を壊して中のものを持ち去ったり、無理矢理奪い取ったりは決してしない。落ちているもの、忘れ去れているもの、なくなっても大きい人たちが気付かないようなものだけを「借りて」ゆく。
小さい頃は、この物語は、安全ピンや歯車やカーペットの毛や切手といった小物が、思いも寄らない使われ方をして、借り暮らしの人々の家を豊かに彩るその様子に、心奪われたものだ。
けれど、たぶん「大きい人たち」も本当は「借り暮らしの人々」なのだろう。
人間の「持っているもの」とて、全て自然からの「借り物」だ。そして人間も、何故か「世界はじぶんたちのもの」とうぬぼれていて、自然は人間がものを借りるためだけに存在していると思いこんでいる。
ただ、借り暮らしの人々は「盗み」はしないし、大きい人たちを恐れているけれど、人間はそんな謙虚な気持ちはとっくの昔に忘れてしまったのだろう。自然の居間のマントルピースからこぼれ落ちたもの、忘れ去られているもの、なくなっても気付かないような小さなものを借りるのではなく、観音扉を破壊して中のものを何でもかんでも運び出すような暮らし方だ。
借り暮らしの人々、という呼び名が、私は結構気に入っている。今度からそう自称しようかな。願わくは、本当に、借り暮らしでいられるように。借り暮らしから盗人に転落することの、ないように。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://satominn.asablo.jp/blog/2006/08/14/483002/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。