自分のために作る人2012年10月18日

 世の中には二種類の人間に分類される。料理をするのが好きな人と、そうでない人。
 そして、料理をするのが好きな人は二種類に分類される。他人のために作るのが好きな人と、自分のために作るのが好きな人。

 私は昔から料理をするのは嫌いではなくて、今でもそこそこには作る。私が料理を作り始めたのは大学生になってからなので、人生としては歴史は浅い方なのだが、それでも?年のキャリアにはなっている訳だ。
 昔の私は、割と典型的な、他人のために作るのが好きな人だった。人が集まるところではよく料理を作ったり、お菓子を持っていったりした。他人が食べるのを見て自分は食べないこともあったくらいだ。私の実家は、色々な事情で大人たちがとても多忙な家で、台所は母が一手に切り盛りし、私はあまり手伝いというものをしなかった。(単にさぼっていたとも言えるが) なので料理を作るというのは、私にとっては家を離れる象徴であり、また同時に憧れでもあった。その憧れは「ホームを作り出す主婦」で、いわば竃の女神ヘスティアのようなイメージだった。私にとって料理が、他人のために作るものだったのは、そういう経過をたどったせいだろう。
 やはり大学時代に、森鴎外の娘にして恐るべき女性、森茉莉のエッセイを読んだら、「私は他人のために料理はしない。自分が楽しむために料理をする。病人のお見舞いなどで料理を持っていく時も、自分の分と二人分作って一緒に食べる」といったくだりがあって(記憶で書いているので多少違ってるかも知れないが)、なんというかすごいなぁ、よくわからないけど、という感想を抱いたものである。

 ところが、不思議なもので、今の私はもっぱら、自分のために作る人である。
 他人が集まるところでも、あまり自分の料理を持っていったりしなくなった。買ったものを持っていく。自分で焼いたお菓子などを手土産にすることもほとんどない。
 それは森茉莉のような強く誇り高い自意識のなせるところでは全然なくて、単純に、自分の料理やお菓子というものが、特に他人様に喜んでもらえる種類の、質や方向性を持ったものではないということに気づいたせいだと思う。
 ただでさえ、お菓子を作ると砂糖も卵もバターも使わないレシピだったり、肉を自宅では調理しなかったりと、少々変わった調理生活を送っていることに加え、別にそんなに特別料理も製菓も上手ではなく、せいぜい人並み、あるいはそれ以下なことを、さすがにこの歳になると思い知ってくる。
 外食中食産業の発展と、食べ道楽な軽鴨の君の情報網のおかげで、持っていけば間違いなく他人様が大感激するお菓子も惣菜も手に入る。であるなら、何も私がわざわざ包丁を握る必要はない訳だ。
 なので今は、他人様に持っていくものは買ったものである。

 それでも自宅で料理をしたり、お菓子を焼いたりするのは、もっぱら自分のためだ。私は単純に、料理をするのが好きである。あれこれ試し、できあがったものがひどい有り様でも、自分一人が食べるのならそれはそれで楽しい。失敗しても笑って済ませられる。そこには成果を挙げるという言葉が存在しない。ただ、過程を楽しむ時間があるだけである。食べることは、作ることの過程の最後のしめくくりに過ぎない。
 そんな流れで作ったものを他人様に出す訳にはいかないから、私は自分のために作る。他人のために作ることは、嫌いなのではなく、できないというのが近いのだろう。私が最近、人の集まりに自分の料理やお菓子を持っていくのは、かなり変わったレシピや食材を紹介するためであることが多い。

 ただ、軽鴨の君だけは、私のこの流れにつきあわざるを得ない訳で、時々彼は珍妙な料理を食べさせられて複雑な顔をするはめになるのである。気の毒な話である。
 もし私がお金持ちだったら、軽鴨の君の理想とする料理を毎日作るお手伝いさんをびしっと雇って、そんな気の毒な状況にならないようにするのだけれど。