かぼちゃとマリボーチーズと胡桃のケーク・サレ ― 2010年12月01日
砂糖を使わないとか卵を使わないとか米粉で作るとか、そんなレシピで作るケーキのレシピばかり最近使っていて、気がつくと、多数派であるはずの卵・砂糖・バター・小麦粉で作るケーキのレシピが全然手元に残っていませんでした。部屋の片付けで、ずいぶん使わないレシピも処分したので、当たり前といえば当たり前なんですが。
たまには、たっぷりのバターと砂糖でマデイラケーキでも焼こうかと思うのですが、それなら信頼のおけるところで買ってきた方がおいしいし……自宅で作るなら買えないようなものがいいし……などと考えて、結局このままになりそうです。
今日は思い立ってケーク・サレを作りました。卵を使うレシピなのでちょっと私にしては珍しいです。チーズの量が少なめで、だいぶ溶けてしまっていたので、かぼちゃを減らしてチーズをもっとたくさん入れた方がよかったかなと思いましたが、軽鴨の君はこれくらいでいいとのことだったので、まぁ結果オーライです。
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たまには、たっぷりのバターと砂糖でマデイラケーキでも焼こうかと思うのですが、それなら信頼のおけるところで買ってきた方がおいしいし……自宅で作るなら買えないようなものがいいし……などと考えて、結局このままになりそうです。
今日は思い立ってケーク・サレを作りました。卵を使うレシピなのでちょっと私にしては珍しいです。チーズの量が少なめで、だいぶ溶けてしまっていたので、かぼちゃを減らしてチーズをもっとたくさん入れた方がよかったかなと思いましたが、軽鴨の君はこれくらいでいいとのことだったので、まぁ結果オーライです。
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わたしを離さないで ― 2010年12月03日
カズオ・イシグロの作品は、ある種の扱いにくさ、捉えどころのなさ、表現のしにくさ……があると思う。
「日の名残り」が単なる執事の目から見た歴史小説ではなく、「私たちが孤児だったころ」がスパイ的ミステリ小説ではないように。けれど紹介される時は、執事の小説やミステリととりあえずはくくっておかないと理解しがたい、と感じさせるように。
そして「わたしを離さないで」は、「スタンド・バイ・ミー」のような青春小説か、それともSF小説か。そうとりあえずはくくって何とか理解しようとすると、あてが外れる。事実、これをSF小説として読もうとして、かなり期待が外れて憤懣やる方ない人も、レビューを見ているといる……ようだ。
逆に言えば、そのどちらでもない、そういう分類の約束を基底に読む物語ではない、とも言える。
物語全体を貫く謎や秘密、結末がかなりの重みを持ち、感想を書くとそこには触れずにはいられない構造の物語なので、「なるべく事前情報は排して読みましょう」と言われているのはもっともだ。けれど、あえてここではもう、それは隠さないでいく。まだ未読で、結末を知りたくない方はどうぞ他のところへ。
この物語を「SF」たらしめている要素は実はひとつしかなく、それは、主人公達「施設の生徒」と呼ばれる存在が、実は他人の不治の病を治すための臓器提供ドナー専用人間として、クローンで作られて育てられている存在である、ということだ。
この物語の年代設定は曖昧だが、どうも現代ということになっているらしい。なので、「臓器提供ドナー人間を養殖するのが社会の当然の一部となっているパラレルワールド」を描く、デストピアSFとしてジャンリングされるのだろう。
だが物語は、デストピア小説のお約束たる、社会と人間の強欲さ残酷さ利己主義を真正面から深く描こうとはしない。もっと言えば、問題提起さえ、特にはしない。その辺りの突っ込んだ描写を求めて読むと、肩透かしどころではなく、「何を言いたいんだこの小説は」ということになってしまう。
かといって、物語全体を貫く「子供時代から続く仲良し三人組の関係性と心理のたゆたい」の描写に着目して、そういう心理小説だとしてしまうには、もうひとつのテーマである「誰かのエゴのために作られ、将来を強制される人間の持つ物語性」を無視することになってしまう。
あり得るかも知れないけれど非現実的な設定の上に展開される心理と関係性を描いた小説に、果たしてどんな意味があるのか、という問いが提出されるかも知れない。
だがこの物語は、そういう極端な設定を比喩に使って教訓を引き出すことを目的にはしていない。
この小説の表現するものは、臓器移植にまつわる医療倫理、人間や社会が自分の幸福のために犠牲になる存在を踏みつける残酷さの告発、そういった単純な代物ではない。
むしろここにあるのは、わかりやすく単純な主張、画一的な「意味」を越えた、ひとのこころ、そのものである。
カズオ・イシグロが描くのは常に、そういうものであったように思う。彼の代表作品が一人称で語られ続けていることは、偶然や単なるスタイルではないだろう。ひとのこころ、世界を映し表現し、そして世界自身をはらみ世界を変容させる、自他が分かちがたく入り混じった、この不可思議なものそのものこそが、ここに描かれているのである。
だから、教訓や意味、社会への洞察、お約束やテーマを求めると、裏切られることになるだろう。
単純明快に、約束の連続として、物語を受け入れ消化していく人にとって、この作品は全く意味不明な不条理の連続、焦点をどこにも合わせられないものである。
けれど、「(約束の連続としての)物語」ではなくて、「ひとのこころ」を目の当たりにしたい、と思うのなら、この作品は確実な見返りを与えてくれるはずだ。
ひとのこころを目の当たりにしたい、というのは、感情や恋愛を疑似体験するのとは違う。それならば、むしろ物語文法に忠実にのっとった作品の方が向いている。物語文法は、そういった感動を純粋に咀嚼しやすいように抽出できる道具として洗練され尽くしている。
そして私たちは、毎日の現実の生活でも実は、それほど「ひとのこころ」を深く観察などしていない。単純なレッテルの分類で、毎日を乗り切っているし、またそうすることで立ちすくまずに済んでいるとも言える。
だがそれでは済まされない、と感じる人、あるいは感じる時は確かにある。そういう時にこの物語を手に取った時、わかりやすいお約束に邪魔されない、なまの、「ひとのこころ」を見据えることができるだろう。
そして何よりもこの作品が凄まじいのは、何一つ声高に叫ばない、単純な約束事にのっとらない表現に貫かれているにも関わらず、それでもやはり、医療倫理の業の深さや社会の残酷さ、友情の苦しさと美しさ、愛情の難しさと優しさ、死を迎える生の孤独と愛しさ、全てが在り全てが心に迫ってくるということなのだろう。
作家の佐藤亜紀は「あまりにエモーショナルな情動を追いすぎている」とこの作品を真っ向から否定したそうだが(その批判の原文を読んでいないので前後の文脈はわからないけれど)、そう感じる人がいるだろうな、というのは非常によくわかる。
だが、主人公たるキャシー、トミー、ルースの心のみをひたすらに追い続け、それ以外の要素を一見背景に見えるほどに後ろに押しとどめることで、実際にはこの作品には情動以上の世界が浮かび上がっている。
問題提起をテーマにした作品は、そのテーマ性ゆえに、物語として死ぬことがあるが、この作品は問題提起を目的にしないことで物語として完成し、同時に問題提起をも可能にしているのだ。
そして実際には、カズオ・イシグロは、問題提起などどうでもよかったのでは?と思う。
彼は「この物語を書く」ことが目的であったのではないかと感じる。読んだ人間の分析や批評など、全て後手に回った遠吠えのようなものではなかろうか。
そういう意味では、この物語は、心そのものであると同時に、現実そのものでもあるのかも、知れない。
「日の名残り」が単なる執事の目から見た歴史小説ではなく、「私たちが孤児だったころ」がスパイ的ミステリ小説ではないように。けれど紹介される時は、執事の小説やミステリととりあえずはくくっておかないと理解しがたい、と感じさせるように。
そして「わたしを離さないで」は、「スタンド・バイ・ミー」のような青春小説か、それともSF小説か。そうとりあえずはくくって何とか理解しようとすると、あてが外れる。事実、これをSF小説として読もうとして、かなり期待が外れて憤懣やる方ない人も、レビューを見ているといる……ようだ。
逆に言えば、そのどちらでもない、そういう分類の約束を基底に読む物語ではない、とも言える。
物語全体を貫く謎や秘密、結末がかなりの重みを持ち、感想を書くとそこには触れずにはいられない構造の物語なので、「なるべく事前情報は排して読みましょう」と言われているのはもっともだ。けれど、あえてここではもう、それは隠さないでいく。まだ未読で、結末を知りたくない方はどうぞ他のところへ。
この物語を「SF」たらしめている要素は実はひとつしかなく、それは、主人公達「施設の生徒」と呼ばれる存在が、実は他人の不治の病を治すための臓器提供ドナー専用人間として、クローンで作られて育てられている存在である、ということだ。
この物語の年代設定は曖昧だが、どうも現代ということになっているらしい。なので、「臓器提供ドナー人間を養殖するのが社会の当然の一部となっているパラレルワールド」を描く、デストピアSFとしてジャンリングされるのだろう。
だが物語は、デストピア小説のお約束たる、社会と人間の強欲さ残酷さ利己主義を真正面から深く描こうとはしない。もっと言えば、問題提起さえ、特にはしない。その辺りの突っ込んだ描写を求めて読むと、肩透かしどころではなく、「何を言いたいんだこの小説は」ということになってしまう。
かといって、物語全体を貫く「子供時代から続く仲良し三人組の関係性と心理のたゆたい」の描写に着目して、そういう心理小説だとしてしまうには、もうひとつのテーマである「誰かのエゴのために作られ、将来を強制される人間の持つ物語性」を無視することになってしまう。
あり得るかも知れないけれど非現実的な設定の上に展開される心理と関係性を描いた小説に、果たしてどんな意味があるのか、という問いが提出されるかも知れない。
だがこの物語は、そういう極端な設定を比喩に使って教訓を引き出すことを目的にはしていない。
この小説の表現するものは、臓器移植にまつわる医療倫理、人間や社会が自分の幸福のために犠牲になる存在を踏みつける残酷さの告発、そういった単純な代物ではない。
むしろここにあるのは、わかりやすく単純な主張、画一的な「意味」を越えた、ひとのこころ、そのものである。
カズオ・イシグロが描くのは常に、そういうものであったように思う。彼の代表作品が一人称で語られ続けていることは、偶然や単なるスタイルではないだろう。ひとのこころ、世界を映し表現し、そして世界自身をはらみ世界を変容させる、自他が分かちがたく入り混じった、この不可思議なものそのものこそが、ここに描かれているのである。
だから、教訓や意味、社会への洞察、お約束やテーマを求めると、裏切られることになるだろう。
単純明快に、約束の連続として、物語を受け入れ消化していく人にとって、この作品は全く意味不明な不条理の連続、焦点をどこにも合わせられないものである。
けれど、「(約束の連続としての)物語」ではなくて、「ひとのこころ」を目の当たりにしたい、と思うのなら、この作品は確実な見返りを与えてくれるはずだ。
ひとのこころを目の当たりにしたい、というのは、感情や恋愛を疑似体験するのとは違う。それならば、むしろ物語文法に忠実にのっとった作品の方が向いている。物語文法は、そういった感動を純粋に咀嚼しやすいように抽出できる道具として洗練され尽くしている。
そして私たちは、毎日の現実の生活でも実は、それほど「ひとのこころ」を深く観察などしていない。単純なレッテルの分類で、毎日を乗り切っているし、またそうすることで立ちすくまずに済んでいるとも言える。
だがそれでは済まされない、と感じる人、あるいは感じる時は確かにある。そういう時にこの物語を手に取った時、わかりやすいお約束に邪魔されない、なまの、「ひとのこころ」を見据えることができるだろう。
そして何よりもこの作品が凄まじいのは、何一つ声高に叫ばない、単純な約束事にのっとらない表現に貫かれているにも関わらず、それでもやはり、医療倫理の業の深さや社会の残酷さ、友情の苦しさと美しさ、愛情の難しさと優しさ、死を迎える生の孤独と愛しさ、全てが在り全てが心に迫ってくるということなのだろう。
作家の佐藤亜紀は「あまりにエモーショナルな情動を追いすぎている」とこの作品を真っ向から否定したそうだが(その批判の原文を読んでいないので前後の文脈はわからないけれど)、そう感じる人がいるだろうな、というのは非常によくわかる。
だが、主人公たるキャシー、トミー、ルースの心のみをひたすらに追い続け、それ以外の要素を一見背景に見えるほどに後ろに押しとどめることで、実際にはこの作品には情動以上の世界が浮かび上がっている。
問題提起をテーマにした作品は、そのテーマ性ゆえに、物語として死ぬことがあるが、この作品は問題提起を目的にしないことで物語として完成し、同時に問題提起をも可能にしているのだ。
そして実際には、カズオ・イシグロは、問題提起などどうでもよかったのでは?と思う。
彼は「この物語を書く」ことが目的であったのではないかと感じる。読んだ人間の分析や批評など、全て後手に回った遠吠えのようなものではなかろうか。
そういう意味では、この物語は、心そのものであると同時に、現実そのものでもあるのかも、知れない。
練習 ― 2010年12月04日
今日は特別な外出ではなかったのですが、化粧を軽くして出かけてみました。
えらい人に会う訳でもないのにさとみんが化粧するとは何事か、すわ明日は天変地異かと言われそうですが、まぁ理由は単純で、さすがに私も化粧の練習をしておかないと、社会の中であまりいい顔をされない立場になったのだろうなぁという自覚をしたというくらいの話です。
化粧をしないとまずい状況になってから慌てて始めれば、絶対に面倒なことになる訳で、練習は事前にしておくにこしたことはありません。今日の外出を、予行演習に選んだという話です。
じゃあ近いうちに、そういう事態が訪れる心当たりがあるのかと問われれば、全くないのですけどね。
元来、化粧が嫌いで、してると顔が強張る人間、近しい人たちも幸いにしてというべきか、化粧をしてない私の方を気に入っているので、練習はどちらかというと苦行なのですが。
でも最近は気分がすぐれないことが多いので、こういう時期に面倒なことを練習しておくのは、かえってふさわしいような気もします。
で、夜に鏡を確認してみたら、途中でちゃんと化粧直しをしなかったので、何と言うか、まぁ、そんな状態になっていた訳ですが。でも私の顔など誰も気にしないから、大丈夫でしょう!
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えらい人に会う訳でもないのにさとみんが化粧するとは何事か、すわ明日は天変地異かと言われそうですが、まぁ理由は単純で、さすがに私も化粧の練習をしておかないと、社会の中であまりいい顔をされない立場になったのだろうなぁという自覚をしたというくらいの話です。
化粧をしないとまずい状況になってから慌てて始めれば、絶対に面倒なことになる訳で、練習は事前にしておくにこしたことはありません。今日の外出を、予行演習に選んだという話です。
じゃあ近いうちに、そういう事態が訪れる心当たりがあるのかと問われれば、全くないのですけどね。
元来、化粧が嫌いで、してると顔が強張る人間、近しい人たちも幸いにしてというべきか、化粧をしてない私の方を気に入っているので、練習はどちらかというと苦行なのですが。
でも最近は気分がすぐれないことが多いので、こういう時期に面倒なことを練習しておくのは、かえってふさわしいような気もします。
で、夜に鏡を確認してみたら、途中でちゃんと化粧直しをしなかったので、何と言うか、まぁ、そんな状態になっていた訳ですが。でも私の顔など誰も気にしないから、大丈夫でしょう!
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香草 ― 2010年12月05日
吉祥寺コピス地下のフォー屋さんで、とりゆずフォーと、ごまのフォーを食べてきました。さっぱりとこってりのコントラストでおいしい。サラダリーフや、柚子で和えたもやしを好きな量トッピングできるのがうれしかったです。
フォーにはパクチー(コリアンダーの葉)が欠かせませんが、パクチーの本場に思えるタイの人は、実は結構パクチーが嫌いという話を聞いて仰天したことがあります。ほんとなのかしらあの話……。
私はパクチー、大好きなのですけど、いつごろから好きになったのか、記憶がないのです。
すごく昔の記憶をたどると、ものすごく小さい子供の頃、珍しもの好きの家族がパクチーの入った何かを家族に買ってきたような覚えがあるのですが、その記憶は何だか夢のようで、夢だったと言われてもあんまり違和感がありません。
その時は「カメムシみたいな匂いの野菜」という恐るべき紹介をされたために、保守的な子供の味覚ではおいしいまずい以前によくわからない、に分類されたような気がします。何だったんだろう、あれ。
その後の長いパクチー空白時代の後、たぶんどこかでパクチーと再会し、おいしくいただいた体験があるはずなのですが、何故かその記憶がありません。気がつくと、私は、生まれた時からそうだったかのような顔をして、パクチーをもりもり食べている人になっていました。
軽鴨の君がパクチー大好きな人ですので、もしかしたら交際し始めた頃にパクチーとの再会があったのかも知れませんが、その瞬間を覚えてないのですよね。変な話です。
来年の春には、パクチー栽培でも始めてみようかなぁ。シソも満足に育てられない私が育てられるのか、危ぶまれるところですけれど。
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フォーにはパクチー(コリアンダーの葉)が欠かせませんが、パクチーの本場に思えるタイの人は、実は結構パクチーが嫌いという話を聞いて仰天したことがあります。ほんとなのかしらあの話……。
私はパクチー、大好きなのですけど、いつごろから好きになったのか、記憶がないのです。
すごく昔の記憶をたどると、ものすごく小さい子供の頃、珍しもの好きの家族がパクチーの入った何かを家族に買ってきたような覚えがあるのですが、その記憶は何だか夢のようで、夢だったと言われてもあんまり違和感がありません。
その時は「カメムシみたいな匂いの野菜」という恐るべき紹介をされたために、保守的な子供の味覚ではおいしいまずい以前によくわからない、に分類されたような気がします。何だったんだろう、あれ。
その後の長いパクチー空白時代の後、たぶんどこかでパクチーと再会し、おいしくいただいた体験があるはずなのですが、何故かその記憶がありません。気がつくと、私は、生まれた時からそうだったかのような顔をして、パクチーをもりもり食べている人になっていました。
軽鴨の君がパクチー大好きな人ですので、もしかしたら交際し始めた頃にパクチーとの再会があったのかも知れませんが、その瞬間を覚えてないのですよね。変な話です。
来年の春には、パクチー栽培でも始めてみようかなぁ。シソも満足に育てられない私が育てられるのか、危ぶまれるところですけれど。
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非特権階級 ― 2010年12月06日
私が占いというものを勉強しはじめてからかなりの時間が経つけれど、最初に師匠から叩き込まれたことは、実は、タロットの解釈でも惑星や感受点の意味でもなかった。
最初に叩き込まれたこと、それは、
「"占いをする人間"は世間から見たら決して信用がある訳ではないのだから、普通の人の何倍も何十倍も、まっとうな社会人としての信頼を勝ち得る努力をしなければならない」
という教えだった。
私が占いをする者としてどんなに未熟であろうと、占いを学ぶのであれば、社会は私を占い師として扱う。そして私が、社会の中で少しでもおかしなことをすれば、後ろ指をさされることがあれば、それは全ての占い師、あるいは「占いというもの」に対する評価になってしまう。私ひとりがいくら言い訳をしようと、それは覆すことができない。
占いをする人間は、普通の人よりもはるかに誤解を招きやすい立ち位置にいる者であり、普通の人ならば許されるかも知れない些細な言動が、許されないことが大いにある。ほんのわずかなミスが、
「だから占い師は信用できない」「だから占い師は社会人としておかしい」
という嘲笑と切り捨てを招く。
占いを学ぶこと、は、社会不適応への免罪符や言い訳には全くならない。勘違いする人間は多いのだが。
占いをするのであれば、普通の人よりもはるかに厳しく、法を守り、常識を知り、礼儀をわきまえ、全ての人をうやまい、敬語を完璧にあやつらなくてはならない。完璧な「正常な社会人」で在り続けることが、本当の占いを守っていくことになる。
その厳しい教えは、「社会の中でまっとうでなくても、特別な能力によって許される私」という特権を得たいという甘えを木っ端微塵にするのに十分だった。
恐らくそれは、占いに限らず、多くの、創造性によって「許されている」と思われている存在に共通することなのではないかと思う。そう、作家であれ、漫画家であれ、画家であれ、音楽家であれ、その他のアーティストであれ。
クリエイターは、社会に適応できないことを、しばしば誇りにさえする。
時には社会の方が、その不適応を許容し、助長して利用していくかも知れない。だがいい気になってそれに甘え、特権意識に溺れれば、ある時味方がどこにもいないことに気付いて転落するだろう。
創造性やクリエイターは、確かに時として、宿命的に社会と相容れないことがある。だがそれをむき出しのまま、「創造性とはそういうものだから」と無邪気に振り回し、必要もない時に自分の「特別さ」をひけらかし、常識や主流の思想を嘲笑うのは、拳銃をやたらと振り回すチンピラのようなものだ。
もちろん、社会の大半を味方に一気につけてしまえるような、偉大な成果を一息にあげてしまえれば、そういう面倒事から解放される。少なくとも、ある一時期は、ある範囲内なら。
だがそれができないのなら、地道に信用を積み重ね、敵を作らず、人と社会に奉仕し、「私は信頼できる、まっとうな社会の中で共存できる存在ですよ」という評価を勝ち得るしかない。
私が、自分の言動を、自分に対して最も敵対的な視線で振り返るようになったのは、そのことを噛みしめるようになってからだと思う。そして中井久夫氏のいう、「敵があっても相手にしないで、いつも味方を増やすことを考える」という言葉を思い起こすようになったのも。
どうすれば味方は増えるだろう。それは、社会の中に、よりよい何かを提供し続ける、しかあるまい。正論ではなく、論争ではなく。
ではお前はそれに足る何かを書くことができるのか? そう冷やかで厳しい、優しさのかけらもない声で問う声が聞こえる。私は答えることができない。だがその声に答えられるよう、少なくとも努力はしなければ、私は「社会の中で」書くことを許されないだろう。
最初に叩き込まれたこと、それは、
「"占いをする人間"は世間から見たら決して信用がある訳ではないのだから、普通の人の何倍も何十倍も、まっとうな社会人としての信頼を勝ち得る努力をしなければならない」
という教えだった。
私が占いをする者としてどんなに未熟であろうと、占いを学ぶのであれば、社会は私を占い師として扱う。そして私が、社会の中で少しでもおかしなことをすれば、後ろ指をさされることがあれば、それは全ての占い師、あるいは「占いというもの」に対する評価になってしまう。私ひとりがいくら言い訳をしようと、それは覆すことができない。
占いをする人間は、普通の人よりもはるかに誤解を招きやすい立ち位置にいる者であり、普通の人ならば許されるかも知れない些細な言動が、許されないことが大いにある。ほんのわずかなミスが、
「だから占い師は信用できない」「だから占い師は社会人としておかしい」
という嘲笑と切り捨てを招く。
占いを学ぶこと、は、社会不適応への免罪符や言い訳には全くならない。勘違いする人間は多いのだが。
占いをするのであれば、普通の人よりもはるかに厳しく、法を守り、常識を知り、礼儀をわきまえ、全ての人をうやまい、敬語を完璧にあやつらなくてはならない。完璧な「正常な社会人」で在り続けることが、本当の占いを守っていくことになる。
その厳しい教えは、「社会の中でまっとうでなくても、特別な能力によって許される私」という特権を得たいという甘えを木っ端微塵にするのに十分だった。
恐らくそれは、占いに限らず、多くの、創造性によって「許されている」と思われている存在に共通することなのではないかと思う。そう、作家であれ、漫画家であれ、画家であれ、音楽家であれ、その他のアーティストであれ。
クリエイターは、社会に適応できないことを、しばしば誇りにさえする。
時には社会の方が、その不適応を許容し、助長して利用していくかも知れない。だがいい気になってそれに甘え、特権意識に溺れれば、ある時味方がどこにもいないことに気付いて転落するだろう。
創造性やクリエイターは、確かに時として、宿命的に社会と相容れないことがある。だがそれをむき出しのまま、「創造性とはそういうものだから」と無邪気に振り回し、必要もない時に自分の「特別さ」をひけらかし、常識や主流の思想を嘲笑うのは、拳銃をやたらと振り回すチンピラのようなものだ。
もちろん、社会の大半を味方に一気につけてしまえるような、偉大な成果を一息にあげてしまえれば、そういう面倒事から解放される。少なくとも、ある一時期は、ある範囲内なら。
だがそれができないのなら、地道に信用を積み重ね、敵を作らず、人と社会に奉仕し、「私は信頼できる、まっとうな社会の中で共存できる存在ですよ」という評価を勝ち得るしかない。
私が、自分の言動を、自分に対して最も敵対的な視線で振り返るようになったのは、そのことを噛みしめるようになってからだと思う。そして中井久夫氏のいう、「敵があっても相手にしないで、いつも味方を増やすことを考える」という言葉を思い起こすようになったのも。
どうすれば味方は増えるだろう。それは、社会の中に、よりよい何かを提供し続ける、しかあるまい。正論ではなく、論争ではなく。
ではお前はそれに足る何かを書くことができるのか? そう冷やかで厳しい、優しさのかけらもない声で問う声が聞こえる。私は答えることができない。だがその声に答えられるよう、少なくとも努力はしなければ、私は「社会の中で」書くことを許されないだろう。
東京観光 ― 2010年12月08日
金沢・京都・大阪から来た友人3人を連れて、東京観光な一日でした。品川アクアスタジアム、東京スカイツリー、浅草雷門というベタなコースです。
私が案内するというだけで、波乱というか危ないというか、ひどいことになりそうですが、幸い少々道に迷う程度で、大きなトラブルなく過ごせました。よかったよかった。
品川アクアスタジアムは、イルカやアシカの迫力に改めて圧倒されました。あとサンタさんの格好のままイルカと一緒に泳ぐトレーナーさんがすごい。
イルカショーの前には、ありとあらゆる注意書きとナレーションで「前列にいると想像以上にずぶ濡れになるから覚悟しておくように」とおふれが出されていましたが、実際にショーが始まってみると、そのおふれの勢いをさらに上回る凄まじい波が前列を襲っていてすごかったです。ウォータースライダーどころではない。あれはもはや泳ぎに行ったレベル。
あとイワトビペンギンの傍若無人ぶりが可愛い。
東京スカイツリーは、押上駅の出口から出たらもうその目の前にそびえ立っていて、一瞬でミッションが達成されてしまったために、一同唖然呆然でした。
前に見た時はまだ300メートル台だったので、500メートルを越えた今見ると、やっぱり高いなぁという印象。高すぎて意味がわからない。いやもちろんわかってますけど。何というか、実感がわかないというか。
雷門の辺りは、いつも大混雑で、浅草に行っても案外スルーしてしまうので、かえって新鮮でした。
手焼きせんべいのお店の人が親切。あと忍者装束いっぱい売ってました。買ってどうするんだろう。謎。
京都出身の友人が、浅草を見て「東京っぽいね!」と言っていたのですが、一体彼女の脳内にある東京イメージとはどんなものなのでしょうか。今度時間があれば人力車にでも乗りましょう。
そんなにぎやかな一日でした。みんなが楽しんでくれたのならいいのですが。
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言葉戦争 ― 2010年12月09日
ここのところ、ネットサーフィンをするとただただ気が滅入るので、mixiでのコミュニティの管理くらいしかしていません。
特に、私の交友関係の性質上、あの青少年健全育成条例改正からみの騒ぎを避けられないので、どうにもこうにも、気が滅入ります。
恐らく私は、あの問題が、対立構造になってしまったことに、すでに絶望しているのだと思います。条例が変わるにせよ、変わらないにせよ、拭いがたい禍根が生まれてしまったような気がします。どちらが「対立」という構図を作り、またどちらがその構図に乗ってしまったのか、恐らく互いにそれは向こうだと言うでしょうし、それを追及したところで今は栓無きことです。
しかし、「健全対不健全」「子供の保護対表現の自由」「賛成対反対」といった対立構造になり、互いにそれを受け入れて対立陣営を罵ることを始め、さらにはそれを認めるようになってしまった時に、すでに敗北は決定したのではないかと思うのです。誰の敗北か? 関わる人全ての。いえ、単純に私ひとりの敗北かも。
価値観の多様性を認めるということは、実は「相手を否定しない」ことで達成されるのではなく、「自分を否定する相手と手を繋いで共存する」ことによって試され、達成されるのではないかと思います。「私の知らない遠いところで勝手にやれ」というのは、価値観の多様性を認めることではなく、単に自分勝手なだけです。許せる程度の罪を許すというのは、そもそもそこに罪がないと思っているからで、それは許しでも共存でも価値観を認めることでも何でもありません。
そしてあのうねりは、子供の健やかな成長を願おうが、芸術に関わろうが、社会的地位があろうが、自分が弱者で抑圧された苦い過去があろうが、どんな人であろうが、
「ひとは価値観の多様性を認めることなどできやしない、自分を否定する相手を罵り返すのみなのだ」
という事実を作ってしまったのではないのかと、私は恐れるのです。
もっとも、人間が、価値観の多様性を認められたことなど、実は歴史に一度もないのかも知れないのですけれど。あったのはただ、主流を勝ち取る血みどろの宗教戦争のみだったのかも。
表現の自由を、健全な心を、多様な価値観を守ろうと訴えるのだから、自分と対立する価値観をただ否定するのではない、「言葉の戦争を起こさない努力」が初めはあったのだと私は思っていたのですが。
けれど起こったことは、結局のところ、「言葉の戦争」に過ぎませんでした。
「同性愛者はどこか足りない感じがする」という暴言があれば、「規制賛成派は愚かで子供を抑圧する」という暴言が出てくる。暴言と人格否定の応酬。合わせ鏡のごとく、世の中が悪くなるのはお前のせいだと罵りあうのがひたすらに続く光景。
この問題に関わる人の発言には「戦友が増えて心強い」とか「この戦いのために……」といった表現が、まるで普通の言葉のように出てきます。どうやら、戦いではなく平和を望んでいた人は、結局ごくごく少数でしかなかったようです。こんなことを言うと、表現と現実を混同するなと怒られるでしょうか。
言葉の戦争であろうと、武器をとる現実の戦争と同じく、始まれば自分の力では終わることができません。恐らく、戦っている人々は、この戦争をどう終結させるべきか、もはや見えていないのではないかと思います。
尋ねれば、「法案が改正されるまで」あるいは「完全に廃案になるまで」と答えるでしょうけれど、過去の戦争が「○○が達成されれば終わりにする」という約束を守った例など、私は知りません。十中八九、「○○が達成された」後も、渦中にいる限り「いやまだだ、まだ戦わなくてはならない」という叫びがやむことはないでしょう。
私の周囲には、規制に賛成しそうな人も、反対する人も、両方います。
彼ら彼女らは、私にとってみな、かけがえのない人々です。それぞれに欠点や問題はあるけれど、それは人間だから仕方がない。
でも、あの暴言の応酬を見ていると。自分のよく知っている人でさえ、「反対陣営の人」に対して、異常だとか無責任だとか、論理の矛盾ではなく、人格や存在に対して罵っているのを見ると、私は、私の愛する人々が罵られているのだということを感じて、痛みを覚えます。そして私自身の中にも、無数の立場を持つ心があって、どの言葉を聞こうと私のどこかが傷つき血を流します。
言っている時には、恐らくみんな、そこに「生きている人」がいることなど、すでに想像すらできていないのではないかと思います。あるいは、自分の中の「異質なもの」を完全に排除しきってしまっているのか。「異質なものを排除するのをやめろ」と叫ぶことで、”異質なものを排除する誰かを排除することを肯定する”矛盾。
私はもはや、どちらの陣営にも立ちたくないのです。どんな正義のためであれ、人を殺したくないのと同じように、人の心を言葉の槍で刺したくない。
私にはあの言葉の戦争がどんな形で終わるのかわかりません。
双方が考えているような形ではない、「戦争ではない力」によって終わり、気がつくとお互いが銃を向けていた相手が、鬼畜ではなく、普通に理解も友愛も結べる、社会の中で一緒に暮らしていける「当たり前の人間」だった——ということを発見して呆然となる、のかも知れません。
せめてそうであってほしいと思います。それとも、戦争が終わっても、何も変わらないのかも。
そして、妄想的で、論理的に破綻していると重々承知の上で、私は、今私がこの戦争を目の当たりにして立ちすくんでいるのは、過去に自分が、無数の人を排除し、無数の人を言葉の槍で突き殺して来た報いなのではないかと思うのです。
「自分が受け入れたくない人は遠くで幸せになればいい」とうそぶき、人の心を傷つけて見えない返り血を浴びて高笑いする過去を積み重ねてきたのは、ほかならぬ私なのだと。
「言葉の戦争」を作り上げたのは、私自身なのだと。
少なくともそう考える方が、自分以外の誰かのせいだと叫ぶよりも、害は少ないような気がします。
特に、私の交友関係の性質上、あの青少年健全育成条例改正からみの騒ぎを避けられないので、どうにもこうにも、気が滅入ります。
恐らく私は、あの問題が、対立構造になってしまったことに、すでに絶望しているのだと思います。条例が変わるにせよ、変わらないにせよ、拭いがたい禍根が生まれてしまったような気がします。どちらが「対立」という構図を作り、またどちらがその構図に乗ってしまったのか、恐らく互いにそれは向こうだと言うでしょうし、それを追及したところで今は栓無きことです。
しかし、「健全対不健全」「子供の保護対表現の自由」「賛成対反対」といった対立構造になり、互いにそれを受け入れて対立陣営を罵ることを始め、さらにはそれを認めるようになってしまった時に、すでに敗北は決定したのではないかと思うのです。誰の敗北か? 関わる人全ての。いえ、単純に私ひとりの敗北かも。
価値観の多様性を認めるということは、実は「相手を否定しない」ことで達成されるのではなく、「自分を否定する相手と手を繋いで共存する」ことによって試され、達成されるのではないかと思います。「私の知らない遠いところで勝手にやれ」というのは、価値観の多様性を認めることではなく、単に自分勝手なだけです。許せる程度の罪を許すというのは、そもそもそこに罪がないと思っているからで、それは許しでも共存でも価値観を認めることでも何でもありません。
そしてあのうねりは、子供の健やかな成長を願おうが、芸術に関わろうが、社会的地位があろうが、自分が弱者で抑圧された苦い過去があろうが、どんな人であろうが、
「ひとは価値観の多様性を認めることなどできやしない、自分を否定する相手を罵り返すのみなのだ」
という事実を作ってしまったのではないのかと、私は恐れるのです。
もっとも、人間が、価値観の多様性を認められたことなど、実は歴史に一度もないのかも知れないのですけれど。あったのはただ、主流を勝ち取る血みどろの宗教戦争のみだったのかも。
表現の自由を、健全な心を、多様な価値観を守ろうと訴えるのだから、自分と対立する価値観をただ否定するのではない、「言葉の戦争を起こさない努力」が初めはあったのだと私は思っていたのですが。
けれど起こったことは、結局のところ、「言葉の戦争」に過ぎませんでした。
「同性愛者はどこか足りない感じがする」という暴言があれば、「規制賛成派は愚かで子供を抑圧する」という暴言が出てくる。暴言と人格否定の応酬。合わせ鏡のごとく、世の中が悪くなるのはお前のせいだと罵りあうのがひたすらに続く光景。
この問題に関わる人の発言には「戦友が増えて心強い」とか「この戦いのために……」といった表現が、まるで普通の言葉のように出てきます。どうやら、戦いではなく平和を望んでいた人は、結局ごくごく少数でしかなかったようです。こんなことを言うと、表現と現実を混同するなと怒られるでしょうか。
言葉の戦争であろうと、武器をとる現実の戦争と同じく、始まれば自分の力では終わることができません。恐らく、戦っている人々は、この戦争をどう終結させるべきか、もはや見えていないのではないかと思います。
尋ねれば、「法案が改正されるまで」あるいは「完全に廃案になるまで」と答えるでしょうけれど、過去の戦争が「○○が達成されれば終わりにする」という約束を守った例など、私は知りません。十中八九、「○○が達成された」後も、渦中にいる限り「いやまだだ、まだ戦わなくてはならない」という叫びがやむことはないでしょう。
私の周囲には、規制に賛成しそうな人も、反対する人も、両方います。
彼ら彼女らは、私にとってみな、かけがえのない人々です。それぞれに欠点や問題はあるけれど、それは人間だから仕方がない。
でも、あの暴言の応酬を見ていると。自分のよく知っている人でさえ、「反対陣営の人」に対して、異常だとか無責任だとか、論理の矛盾ではなく、人格や存在に対して罵っているのを見ると、私は、私の愛する人々が罵られているのだということを感じて、痛みを覚えます。そして私自身の中にも、無数の立場を持つ心があって、どの言葉を聞こうと私のどこかが傷つき血を流します。
言っている時には、恐らくみんな、そこに「生きている人」がいることなど、すでに想像すらできていないのではないかと思います。あるいは、自分の中の「異質なもの」を完全に排除しきってしまっているのか。「異質なものを排除するのをやめろ」と叫ぶことで、”異質なものを排除する誰かを排除することを肯定する”矛盾。
私はもはや、どちらの陣営にも立ちたくないのです。どんな正義のためであれ、人を殺したくないのと同じように、人の心を言葉の槍で刺したくない。
私にはあの言葉の戦争がどんな形で終わるのかわかりません。
双方が考えているような形ではない、「戦争ではない力」によって終わり、気がつくとお互いが銃を向けていた相手が、鬼畜ではなく、普通に理解も友愛も結べる、社会の中で一緒に暮らしていける「当たり前の人間」だった——ということを発見して呆然となる、のかも知れません。
せめてそうであってほしいと思います。それとも、戦争が終わっても、何も変わらないのかも。
そして、妄想的で、論理的に破綻していると重々承知の上で、私は、今私がこの戦争を目の当たりにして立ちすくんでいるのは、過去に自分が、無数の人を排除し、無数の人を言葉の槍で突き殺して来た報いなのではないかと思うのです。
「自分が受け入れたくない人は遠くで幸せになればいい」とうそぶき、人の心を傷つけて見えない返り血を浴びて高笑いする過去を積み重ねてきたのは、ほかならぬ私なのだと。
「言葉の戦争」を作り上げたのは、私自身なのだと。
少なくともそう考える方が、自分以外の誰かのせいだと叫ぶよりも、害は少ないような気がします。
スパムフィルタ機能追加のお知らせ ― 2010年12月15日
ちょっとしたお知らせです。
アサブロのコメント機能に、スパムフィルタのため、クイズ機能というのがつきました。
コメント記入の際に、クイズが出ますので、それに対する答えをご入力ください。
完全一致、大文字小文字も区別されるということで、とりあえず簡単めなクイズにしてありますが、今後の様子によってはクイズの内容を変えるかも知れません。
取り急ぎお知らせでした。
これだけではなんですので、多少近況報告をしますと、元気がないのはあまり変わっていません。
ただまぁ、それはそういうものというか、もともと私は低空飛行の人間なので、実はそんなにいつもと変わっていないような気もします。
アサブロのコメント機能に、スパムフィルタのため、クイズ機能というのがつきました。
コメント記入の際に、クイズが出ますので、それに対する答えをご入力ください。
完全一致、大文字小文字も区別されるということで、とりあえず簡単めなクイズにしてありますが、今後の様子によってはクイズの内容を変えるかも知れません。
取り急ぎお知らせでした。
これだけではなんですので、多少近況報告をしますと、元気がないのはあまり変わっていません。
ただまぁ、それはそういうものというか、もともと私は低空飛行の人間なので、実はそんなにいつもと変わっていないような気もします。
塩卵、茶卵 ― 2010年12月16日
具合が悪くて、長々と横になってしまっていましたが、夕方からはがんばって起き出して、こまこまと活動していました。眠っていられるだけ、私はずいぶん恵まれている方です。
今日は卵の漬けものを作りました。
生卵の状態でスパイスを混ぜた塩水で漬ける塩卵と、茹でた状態で普洱茶と醤油ベースの漬け汁に漬けた茶卵と。
途中、漬け汁が足りなくなって作り足したりと、まぁどたばたはありましたが。何とか上手にできていることを祈るのみです。
茶卵の方は明日にでも食べられるはず。塩卵の方は、レシピにあったスパイスがたまたま家になくて、別のスパイスでアレンジをしてあるので、どんな状態になっているのか楽しみです。以前作ってみた時は、あまり塩味も香りも感じなかったので、今度はほどよく漬かっているといいのですが。
今日は卵の漬けものを作りました。
生卵の状態でスパイスを混ぜた塩水で漬ける塩卵と、茹でた状態で普洱茶と醤油ベースの漬け汁に漬けた茶卵と。
途中、漬け汁が足りなくなって作り足したりと、まぁどたばたはありましたが。何とか上手にできていることを祈るのみです。
茶卵の方は明日にでも食べられるはず。塩卵の方は、レシピにあったスパイスがたまたま家になくて、別のスパイスでアレンジをしてあるので、どんな状態になっているのか楽しみです。以前作ってみた時は、あまり塩味も香りも感じなかったので、今度はほどよく漬かっているといいのですが。
背景音楽 ― 2010年12月28日
さすがにクイズ認証機能はハードルが高いのか、スパムコメントはなりをひそめています。これが長く続いてくれればいいのですけれど。
昨日は全然寝つけなくて、朝までベッドの中で寝返りを打っていました。3時間くらいは寝たと思うのですが、頭は相変わらずぼーっとしています。
眠れないのでiPhoneで音楽を聴いてみたら、ますます眠れなくなってしまい、ずいぶん長いこと音楽を聴いてしまったような気がします。どうも私は、音楽を聴きながらだと眠れない人のようです。
そういえば、ゲームをしながら、音を消してBGMに違う音楽を流す人というのが一定数いるそうなのですが、私はそれができないタイプで、そのゲームの音楽が好きだろうとそうでなかろうと、違う音楽を背景に流すことができません。違和感に耐えられないようです。
中学校時代からの親友のひとりに、ピアニストがいるのですが、彼女は「音楽を聴きながら何かをする」という行為ができない人で、音楽に接する時は他のことを何もすることができませんでした。
何故かこの年齢になって、私も、彼女の状態が少しだけわかるようになったような気がします。
昨日は全然寝つけなくて、朝までベッドの中で寝返りを打っていました。3時間くらいは寝たと思うのですが、頭は相変わらずぼーっとしています。
眠れないのでiPhoneで音楽を聴いてみたら、ますます眠れなくなってしまい、ずいぶん長いこと音楽を聴いてしまったような気がします。どうも私は、音楽を聴きながらだと眠れない人のようです。
そういえば、ゲームをしながら、音を消してBGMに違う音楽を流す人というのが一定数いるそうなのですが、私はそれができないタイプで、そのゲームの音楽が好きだろうとそうでなかろうと、違う音楽を背景に流すことができません。違和感に耐えられないようです。
中学校時代からの親友のひとりに、ピアニストがいるのですが、彼女は「音楽を聴きながら何かをする」という行為ができない人で、音楽に接する時は他のことを何もすることができませんでした。
何故かこの年齢になって、私も、彼女の状態が少しだけわかるようになったような気がします。
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