非特権階級2010年12月06日

 私が占いというものを勉強しはじめてからかなりの時間が経つけれど、最初に師匠から叩き込まれたことは、実は、タロットの解釈でも惑星や感受点の意味でもなかった。

 最初に叩き込まれたこと、それは、
「"占いをする人間"は世間から見たら決して信用がある訳ではないのだから、普通の人の何倍も何十倍も、まっとうな社会人としての信頼を勝ち得る努力をしなければならない」
という教えだった。

 私が占いをする者としてどんなに未熟であろうと、占いを学ぶのであれば、社会は私を占い師として扱う。そして私が、社会の中で少しでもおかしなことをすれば、後ろ指をさされることがあれば、それは全ての占い師、あるいは「占いというもの」に対する評価になってしまう。私ひとりがいくら言い訳をしようと、それは覆すことができない。
 占いをする人間は、普通の人よりもはるかに誤解を招きやすい立ち位置にいる者であり、普通の人ならば許されるかも知れない些細な言動が、許されないことが大いにある。ほんのわずかなミスが、
「だから占い師は信用できない」「だから占い師は社会人としておかしい」
という嘲笑と切り捨てを招く。
 占いを学ぶこと、は、社会不適応への免罪符や言い訳には全くならない。勘違いする人間は多いのだが。
 占いをするのであれば、普通の人よりもはるかに厳しく、法を守り、常識を知り、礼儀をわきまえ、全ての人をうやまい、敬語を完璧にあやつらなくてはならない。完璧な「正常な社会人」で在り続けることが、本当の占いを守っていくことになる。

 その厳しい教えは、「社会の中でまっとうでなくても、特別な能力によって許される私」という特権を得たいという甘えを木っ端微塵にするのに十分だった。


 恐らくそれは、占いに限らず、多くの、創造性によって「許されている」と思われている存在に共通することなのではないかと思う。そう、作家であれ、漫画家であれ、画家であれ、音楽家であれ、その他のアーティストであれ。
 クリエイターは、社会に適応できないことを、しばしば誇りにさえする。
 時には社会の方が、その不適応を許容し、助長して利用していくかも知れない。だがいい気になってそれに甘え、特権意識に溺れれば、ある時味方がどこにもいないことに気付いて転落するだろう。
 創造性やクリエイターは、確かに時として、宿命的に社会と相容れないことがある。だがそれをむき出しのまま、「創造性とはそういうものだから」と無邪気に振り回し、必要もない時に自分の「特別さ」をひけらかし、常識や主流の思想を嘲笑うのは、拳銃をやたらと振り回すチンピラのようなものだ。


 もちろん、社会の大半を味方に一気につけてしまえるような、偉大な成果を一息にあげてしまえれば、そういう面倒事から解放される。少なくとも、ある一時期は、ある範囲内なら。
 だがそれができないのなら、地道に信用を積み重ね、敵を作らず、人と社会に奉仕し、「私は信頼できる、まっとうな社会の中で共存できる存在ですよ」という評価を勝ち得るしかない。
 私が、自分の言動を、自分に対して最も敵対的な視線で振り返るようになったのは、そのことを噛みしめるようになってからだと思う。そして中井久夫氏のいう、「敵があっても相手にしないで、いつも味方を増やすことを考える」という言葉を思い起こすようになったのも。


 どうすれば味方は増えるだろう。それは、社会の中に、よりよい何かを提供し続ける、しかあるまい。正論ではなく、論争ではなく。
 ではお前はそれに足る何かを書くことができるのか? そう冷やかで厳しい、優しさのかけらもない声で問う声が聞こえる。私は答えることができない。だがその声に答えられるよう、少なくとも努力はしなければ、私は「社会の中で」書くことを許されないだろう。

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