言葉戦争2010年12月09日

 ここのところ、ネットサーフィンをするとただただ気が滅入るので、mixiでのコミュニティの管理くらいしかしていません。
 特に、私の交友関係の性質上、あの青少年健全育成条例改正からみの騒ぎを避けられないので、どうにもこうにも、気が滅入ります。

 恐らく私は、あの問題が、対立構造になってしまったことに、すでに絶望しているのだと思います。条例が変わるにせよ、変わらないにせよ、拭いがたい禍根が生まれてしまったような気がします。どちらが「対立」という構図を作り、またどちらがその構図に乗ってしまったのか、恐らく互いにそれは向こうだと言うでしょうし、それを追及したところで今は栓無きことです。
 しかし、「健全対不健全」「子供の保護対表現の自由」「賛成対反対」といった対立構造になり、互いにそれを受け入れて対立陣営を罵ることを始め、さらにはそれを認めるようになってしまった時に、すでに敗北は決定したのではないかと思うのです。誰の敗北か? 関わる人全ての。いえ、単純に私ひとりの敗北かも。

 価値観の多様性を認めるということは、実は「相手を否定しない」ことで達成されるのではなく、「自分を否定する相手と手を繋いで共存する」ことによって試され、達成されるのではないかと思います。「私の知らない遠いところで勝手にやれ」というのは、価値観の多様性を認めることではなく、単に自分勝手なだけです。許せる程度の罪を許すというのは、そもそもそこに罪がないと思っているからで、それは許しでも共存でも価値観を認めることでも何でもありません。
 そしてあのうねりは、子供の健やかな成長を願おうが、芸術に関わろうが、社会的地位があろうが、自分が弱者で抑圧された苦い過去があろうが、どんな人であろうが、
「ひとは価値観の多様性を認めることなどできやしない、自分を否定する相手を罵り返すのみなのだ」
という事実を作ってしまったのではないのかと、私は恐れるのです。
 もっとも、人間が、価値観の多様性を認められたことなど、実は歴史に一度もないのかも知れないのですけれど。あったのはただ、主流を勝ち取る血みどろの宗教戦争のみだったのかも。

 表現の自由を、健全な心を、多様な価値観を守ろうと訴えるのだから、自分と対立する価値観をただ否定するのではない、「言葉の戦争を起こさない努力」が初めはあったのだと私は思っていたのですが。
 けれど起こったことは、結局のところ、「言葉の戦争」に過ぎませんでした。
「同性愛者はどこか足りない感じがする」という暴言があれば、「規制賛成派は愚かで子供を抑圧する」という暴言が出てくる。暴言と人格否定の応酬。合わせ鏡のごとく、世の中が悪くなるのはお前のせいだと罵りあうのがひたすらに続く光景。
 この問題に関わる人の発言には「戦友が増えて心強い」とか「この戦いのために……」といった表現が、まるで普通の言葉のように出てきます。どうやら、戦いではなく平和を望んでいた人は、結局ごくごく少数でしかなかったようです。こんなことを言うと、表現と現実を混同するなと怒られるでしょうか。

 言葉の戦争であろうと、武器をとる現実の戦争と同じく、始まれば自分の力では終わることができません。恐らく、戦っている人々は、この戦争をどう終結させるべきか、もはや見えていないのではないかと思います。
 尋ねれば、「法案が改正されるまで」あるいは「完全に廃案になるまで」と答えるでしょうけれど、過去の戦争が「○○が達成されれば終わりにする」という約束を守った例など、私は知りません。十中八九、「○○が達成された」後も、渦中にいる限り「いやまだだ、まだ戦わなくてはならない」という叫びがやむことはないでしょう。


 私の周囲には、規制に賛成しそうな人も、反対する人も、両方います。
 彼ら彼女らは、私にとってみな、かけがえのない人々です。それぞれに欠点や問題はあるけれど、それは人間だから仕方がない。
 でも、あの暴言の応酬を見ていると。自分のよく知っている人でさえ、「反対陣営の人」に対して、異常だとか無責任だとか、論理の矛盾ではなく、人格や存在に対して罵っているのを見ると、私は、私の愛する人々が罵られているのだということを感じて、痛みを覚えます。そして私自身の中にも、無数の立場を持つ心があって、どの言葉を聞こうと私のどこかが傷つき血を流します。
 言っている時には、恐らくみんな、そこに「生きている人」がいることなど、すでに想像すらできていないのではないかと思います。あるいは、自分の中の「異質なもの」を完全に排除しきってしまっているのか。「異質なものを排除するのをやめろ」と叫ぶことで、”異質なものを排除する誰かを排除することを肯定する”矛盾。

 私はもはや、どちらの陣営にも立ちたくないのです。どんな正義のためであれ、人を殺したくないのと同じように、人の心を言葉の槍で刺したくない。
 私にはあの言葉の戦争がどんな形で終わるのかわかりません。
 双方が考えているような形ではない、「戦争ではない力」によって終わり、気がつくとお互いが銃を向けていた相手が、鬼畜ではなく、普通に理解も友愛も結べる、社会の中で一緒に暮らしていける「当たり前の人間」だった——ということを発見して呆然となる、のかも知れません。
 せめてそうであってほしいと思います。それとも、戦争が終わっても、何も変わらないのかも。



 そして、妄想的で、論理的に破綻していると重々承知の上で、私は、今私がこの戦争を目の当たりにして立ちすくんでいるのは、過去に自分が、無数の人を排除し、無数の人を言葉の槍で突き殺して来た報いなのではないかと思うのです。
「自分が受け入れたくない人は遠くで幸せになればいい」とうそぶき、人の心を傷つけて見えない返り血を浴びて高笑いする過去を積み重ねてきたのは、ほかならぬ私なのだと。
「言葉の戦争」を作り上げたのは、私自身なのだと。
 少なくともそう考える方が、自分以外の誰かのせいだと叫ぶよりも、害は少ないような気がします。

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