探偵小説 ― 2013年02月01日
先日テレビでアガサ・クリスティの人生を取り上げた短い番組を観たせいか、何となくポワロづきまして、DVDを引っ張り出したり、まだ未読の作品を手配したりしています。
日本ではミス・マープルの方が人気があるという話を聞いたことがありますが、私はどちらかというとポワロの方が好きです。ミス・マープルも素敵な老婦人で、ああいう年の重ね方ができたらいいだろうなぁとは思うのですが、どうも「超人的」と言いますか、あの人間心理を何もかもお見通しですよという雰囲気がバリアのようになってしまって、入り込めません。
ポワロが苦手という人がよく取り上げるのが、あの強烈なキャラクター性、作り物めいた個性に対する感情だそうですが、そっちの方が逆に嘘をついていないというか、かえって安心感がするのは私だけでしょうか。むしろ一見人好きのするミス・マープルの方が底意地が悪いような気がしてしまって(すごくいい人なのはわかってますけど)、駄目なのですよね。
もともと、私は人間の弱さというか弱点というか葛藤に惹かれるので、ミス・マープルのような弱さのない人よりも、ポワロのようにデコボコしていてあからさまに弱点があるような人の方が好きみたいです。
あとはやっぱり、ポワロにはヘイスティングスのような、心許す友達がいるというのもあるのかも。この辺りはドラマ版の印象の影響してるのでしょうけどね。
(一応断っておきますが、腐った傾向のアレではなく。男同士が嫌ということでは全然なく、色々なニュアンスがあるはずの人間同士の心の関係を、全部恋愛という箱に突っ込むような扱い方が嫌なんです。同性同士でも恋愛というものは大切なものだと思うんですが、重要な心の交流がある=恋愛みたいな発想は、いかにも幼稚だしうんざりします。人生で恋愛が主要なファクターじゃない人なんてたくさんいるのに……)
とはいえ、ポワロは何というか、「キャラクターっぽい人」だなぁと思います。
ポワロだけじゃなくて、クリスティの描く人間というもの全体がそういう感じがします。ある役割や象徴を担ってこの世に生まれてきて、それを果たしていくというような。複雑な心理やドロドロの人間模様が交錯するのがクリスティの作品の常ですが、複雑と言ってもどこか「物語的」というか、陰影や模様がはっきりした紋様のような感じです。
そういう舞台のように配された登場人物達、といった趣が、推理小説というジャンルにとてもよくフィットしたのでしょうし、また本格ミステリファンにも未だに熱烈に支持される理由じゃないでしょうか。
クリスティと引き合いに出される、同時代の女流推理作家セイヤーズのピーター卿は、やはり超人的な能力を持っていたり複雑な個性を持っていたりしますが、彼を始めとするセイヤーズの作品世界は、特徴こそわかりやすい「キャラクター」なのですが(貴族探偵とか、堅実頑固な真面目刑事とか、ありえないほど有能な従僕とか)実際の人間は全然「キャラクター」っぽくありません。
さっきの比喩にたとえて言うなら、単純な模様のはずなのにその糸や織りが玉虫色だったりグラデーションだったりで、わかりやすい理解や解釈を拒んでいるような感じでしょうか。
私はポワロやヘイスティングスやミス・マープルに共感することはないのですが、ピーター卿やパーカー警部やハリエットには、読者とキャラクターという関係性を越えて「共感」を抱くことがあります。「学寮祭の夜」なんかのシビアなやり取りは、ざっくり斬られたような感じを受けますね。
逆に、ミステリとしての意外性とか「やられたー」みたいな感覚はクリスティの方がやっぱり上で、「ジャンルとしてミステリが読みたい」時にはセイヤーズよりもクリスティを手に取ることの方が多いです。
あと、ピーター卿はすごく映像化しにくいと思うな。ホームズやポワロのドラマは面白いけれど、ピーター卿のドラマは、作られたとしても絶対見たくない……(笑)。
まあ、私はもともとミステリというジャンル自体に思い入れがあるファンではなく、綾辻行人氏のように「(クリスティは僕にとって)神々のひとり」というような感じもないので、こういう気楽な放言が出来るのだと思います。
そんな訳で、特に結論もないのですが、ちょっと頭の中が騒がしい今みたいな時は、クリスティの「あっと驚くミステリ」が欲しくなるというそういうお話でした。
日本ではミス・マープルの方が人気があるという話を聞いたことがありますが、私はどちらかというとポワロの方が好きです。ミス・マープルも素敵な老婦人で、ああいう年の重ね方ができたらいいだろうなぁとは思うのですが、どうも「超人的」と言いますか、あの人間心理を何もかもお見通しですよという雰囲気がバリアのようになってしまって、入り込めません。
ポワロが苦手という人がよく取り上げるのが、あの強烈なキャラクター性、作り物めいた個性に対する感情だそうですが、そっちの方が逆に嘘をついていないというか、かえって安心感がするのは私だけでしょうか。むしろ一見人好きのするミス・マープルの方が底意地が悪いような気がしてしまって(すごくいい人なのはわかってますけど)、駄目なのですよね。
もともと、私は人間の弱さというか弱点というか葛藤に惹かれるので、ミス・マープルのような弱さのない人よりも、ポワロのようにデコボコしていてあからさまに弱点があるような人の方が好きみたいです。
あとはやっぱり、ポワロにはヘイスティングスのような、心許す友達がいるというのもあるのかも。この辺りはドラマ版の印象の影響してるのでしょうけどね。
(一応断っておきますが、腐った傾向のアレではなく。男同士が嫌ということでは全然なく、色々なニュアンスがあるはずの人間同士の心の関係を、全部恋愛という箱に突っ込むような扱い方が嫌なんです。同性同士でも恋愛というものは大切なものだと思うんですが、重要な心の交流がある=恋愛みたいな発想は、いかにも幼稚だしうんざりします。人生で恋愛が主要なファクターじゃない人なんてたくさんいるのに……)
とはいえ、ポワロは何というか、「キャラクターっぽい人」だなぁと思います。
ポワロだけじゃなくて、クリスティの描く人間というもの全体がそういう感じがします。ある役割や象徴を担ってこの世に生まれてきて、それを果たしていくというような。複雑な心理やドロドロの人間模様が交錯するのがクリスティの作品の常ですが、複雑と言ってもどこか「物語的」というか、陰影や模様がはっきりした紋様のような感じです。
そういう舞台のように配された登場人物達、といった趣が、推理小説というジャンルにとてもよくフィットしたのでしょうし、また本格ミステリファンにも未だに熱烈に支持される理由じゃないでしょうか。
クリスティと引き合いに出される、同時代の女流推理作家セイヤーズのピーター卿は、やはり超人的な能力を持っていたり複雑な個性を持っていたりしますが、彼を始めとするセイヤーズの作品世界は、特徴こそわかりやすい「キャラクター」なのですが(貴族探偵とか、堅実頑固な真面目刑事とか、ありえないほど有能な従僕とか)実際の人間は全然「キャラクター」っぽくありません。
さっきの比喩にたとえて言うなら、単純な模様のはずなのにその糸や織りが玉虫色だったりグラデーションだったりで、わかりやすい理解や解釈を拒んでいるような感じでしょうか。
私はポワロやヘイスティングスやミス・マープルに共感することはないのですが、ピーター卿やパーカー警部やハリエットには、読者とキャラクターという関係性を越えて「共感」を抱くことがあります。「学寮祭の夜」なんかのシビアなやり取りは、ざっくり斬られたような感じを受けますね。
逆に、ミステリとしての意外性とか「やられたー」みたいな感覚はクリスティの方がやっぱり上で、「ジャンルとしてミステリが読みたい」時にはセイヤーズよりもクリスティを手に取ることの方が多いです。
あと、ピーター卿はすごく映像化しにくいと思うな。ホームズやポワロのドラマは面白いけれど、ピーター卿のドラマは、作られたとしても絶対見たくない……(笑)。
まあ、私はもともとミステリというジャンル自体に思い入れがあるファンではなく、綾辻行人氏のように「(クリスティは僕にとって)神々のひとり」というような感じもないので、こういう気楽な放言が出来るのだと思います。
そんな訳で、特に結論もないのですが、ちょっと頭の中が騒がしい今みたいな時は、クリスティの「あっと驚くミステリ」が欲しくなるというそういうお話でした。
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