表敬2006年10月04日

私は、日の丸、というものにそれほど特別な感情を持っていない。日の丸に限らず、たぶん国旗というもの全てに。
たとえばニュースで、日の丸を焼き捨てる人々の行為などが報道されても、そこにこめられた「ステロタイプとしての日本人」に対する悪意や憎悪に悲しみを感じることはあっても、自分の心にざっくりと斬りつけられるような痛みは、あまり感じない。
だから、日本の国旗が掲揚されるような場面にも、それ自体には、正直に言って何の感慨も感動もない。それが強要されたり、「ほおらこれを崇めるのが国民の義務ですよ」とうっとり言われたりするのには、鬱陶しさしか覚えない。
じゃ、日の丸を私が嫌悪したり、ぞんざいに扱ったりするのか、と言われれば、別にそういう訳でもない。
私にとって大切なものではないけれど、私ではない誰かにとってそれは特別な意味を持つ大切な象徴である、ということは理解しているつもりだし、それに対して一定の尊重と敬意を払うのはかまわない。
式典で国旗が掲揚されたら、立ち上がって敬意を表するくらいのことはするだろう。愛国心の発露では全くなく、ある人々の大切な宝物に対する表敬として。それを他人に強制しようとは思わないが。また、立ち上がらないことが不敬かと言えば、そうでもないだろうとも思う。単に、私の中にあるひとつの「敬意(愛情では全くない)」の表現としてあるだけで。

私は異国の国旗に対しても同じような態度をとるだろうし、あるいはキリスト教の象徴である十字架や、仏教の象徴である様々な像、神道の象徴である鳥居、イスラム教のモスク、その他メジャーマイナー関わらずあらゆる「ある人々に対して大切な意味を持つ象徴」に対して、全く同じように表敬するだろう。気付かずにそれを侮辱するような態度をとってしまったとしたら、静かに謝罪して、次からはそうしないよう心がけるだろう。
それは私が異国に愛国心を持っているとか、それらの宗教の信仰を持っているとか、そういったことを意味する訳ではない。単純に、自分以外の人が大切にしているものをそれなりに大切にする、つまり価値観の尊重に他ならない。その価値を認めるかどうかは、また別の問題だ。

私個人は「日の丸に象徴される日本」というものに対して、ほとんど価値を感じていない(違うもので象徴される「日本」なら、価値を感じるかもしれないが、それはまだ私の中ではっきりとはしない)。他の人にとってある種の価値がある大切なものであろうから、一定の敬意を払う。そういうことである。その代わり、「日の丸に象徴される日本」を至上に思う人も、私の価値観に一定の敬意を払ってくれれば幸いだと思う。

そういう私の思考の中では、「愛国心を育てるために国旗掲揚を義務づける」だの「起立しない教員を処罰する」だのといったお題目は、何の共感も発生させないし効果があるとも思えない。強制した時点でその価値観は死ぬのだ。つまり、強制しなければ認められないと自ら宣言しているのと同じなのである。
だから、私がそういった場面に遭遇する羽目になったとしたら、普段行っている「国旗という他人の価値への表敬」をあえて放棄して、無視という態度をとるかも知れない(侮辱という積極的攻撃をする気はないが)。価値観に対する表敬では、強制というものに対する嫌悪感を打ち消すことはできないのである。

「いや、それでも集団の中ではまとまりを作るために一定の強制は必要なのだ」という意見はわからないでもないが、正直言ってあまりかっこいい発言ではないなと思う。それは「お願いします」という態度で頼むのならともかく、高圧的に言うことではあるまい。
この手の開き直った態度はあくまで最後の手段で、これをとらねばならないということは過去に何か大きなミスを犯しているのだ、という自覚がないのは、何ともみっともない……と、私には見えるのだけど。まあ私の目にどう映るかということは、世間の人にとっては別にどうでもいいことだろうから、かまいはしないのだが。

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